彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

彦根城、秋の月二夜

2015年09月28日 | イベント
9月27日、仲秋の名月を玄宮園で虫の音と共に楽しみました。














28日、スーパームーンと彦根城天守を楽しみました。











お城のある風景を月と共に堪能しました。
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江戸後期のスイーツ

2015年09月13日 | ふることふみ(DADAjournal)
 『井伊直弼公生誕200年祭』が行われている。その中の企画として『ひこね菓子』という井伊直弼や茶の湯に合った菓子を創作するイベントの選考会が九月二日に行われた。今稿では井伊直弼が誕生した頃に食べられていたと考えられる一つのスイーツを紹介したい。
 『豆腐百珍』という本がある。天明2年(1782)刊行。10代将軍徳川家治の下で老中田沼意次が政治を行った田沼時代の真っ最中であり、天明の大飢饉が始まろうとしていた時期。そして、彦根藩主は10代藩主井伊直幸(直弼の祖父)だった。田沼時代は比較的自由な時代であり、民衆はさまざまな文化を広げようとし、文化を追いかけるようにグルメにも大きな関心が寄せられたのだ。この集大成として多種多様の豆腐料理が一冊の本にまとめられたのだった。
 そんな『豆腐百珍』に「奇品」として紹介されている料理の一品が 冷瓏豆腐(こおりとうふ) という甘味だった。
 紹介されたレシピは「かんてんを煮ぬき其の湯にて豆腐を烹しめさましつかふ調味このミ随ひ」のみ、もう少しわかり易く直すと「寒天を煮詰めて、その湯に豆腐を入れてから冷まし、好みの味付けで食べるべし」としか記されていない。これだけの内容では甘味と断定する材料は少ないが、寒天と甘い蜜を合わせた甘味として心太が思い出されるように、この冷瓏豆腐にも蜜がかけられて甘味として食べられていた可能性は高いのだ。
 『豆腐百珍』は江戸で大流行したレシピ本だが、冷瓏豆腐は大坂が発祥との説がある。当時の豆腐は江戸が木綿豆腐、上方が絹豆腐だったので、上方では弾力がある寒天部分と柔らかい豆腐の噛み応えの差も楽しんだと考えられ、江戸の木綿豆腐ではその楽しみが上方ほどではなかったかもしれない。それでも『豆腐百珍』を参考にしながら江戸時代後期から幕末の人々が口にした料理の一つだったことは間違いない。

 現在『豆腐百珍』のレシピは料理研究家によって再現されている。冷瓏豆腐もその例に漏れず再現が試みられ数々の現代風アレンジが加わった料理となっている。私も再現を試みた一人である。敢えて上方風の絹豆腐を使い、「冷瓏」を「氷」と解釈して水無月の菓子のように三角形に拘った。水から煮立てた寒天を豆腐の周囲に型を作り流し込み、冷やすことによって白い豆腐の周りに透明の枠ができる見た目に涼しげな料理が完成した。ここに黒蜜を添えると見事なスイーツとなった。
 『豆腐百珍』が刊行され40年近く過ぎた頃に直弼が誕生している。江戸の町の食通たちは奇品と紹介されたレシピに興味を示して作らせたのではないだろうか? 井伊直弼が生きた時代のスイーツは、現代人が食しても懐かしさと奇抜さが味わえる面白い物だった。

筆者が再現した冷瓏豆腐
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水口岡山城 第4次発掘調査説明会

2015年09月06日 | 史跡
4年にかけて毎年さまざまな成果が発表されてきた水口岡山城の発掘調査も今回でいったん区切りとなり、これからは史跡としての登録を行うかどうか?どのように整備して行くのかの方向性を問われる事になるそうです。

今回、一番話題になったのはきれいな形で報道された揚羽蝶の瓦です。
そんな水口岡山城の発掘調査説明会が雨の中で行われました(説明会の最中は小振りでした)

〇伝本丸
まずは、第一次調査で見つかった大手の虎口から天守に到る途中の発掘。
第二次調査で大石垣の可能性があった場所に繋がる石垣の発掘でしたが、栗石が出てきたのみで大石垣の可能性を行程も否定もできないとのことでした。
 

〇東端推定天守石垣遺構
第三次調査で、伝本丸の東端が大溝城から移築された武士様式の資材を利用した天守、西橋が本来この山に建っていた大岡寺の物を利用した寺院資材を利用した天守の二棟の天守と推定される建物があったことがわかりましたが、今回は東側の推定天守の石垣をもう少し調査したそうです。
その結果、前回の調査で確認した石垣の底部と石列の外側にもう一段の石垣があったことがわかりました。
これにより、二段の低い石垣を重ねた遺構であることがわかりました。
・第三次調査で見つかった石垣と石列

・上記写真左側に降る部分に見つかった石垣

・石垣下より、手前と奥にそれぞれ石垣
  
そしてこの部分には瓦や石が廃棄されていたのです。



〇揚羽蝶の瓦
今回一番注目されたのは揚羽蝶の瓦です。
三種類の鬼瓦として出土した揚羽蝶の瓦は、実は第三次発掘調査の時に見つかっていたそうですが、組み合わせるまで分からなかったそうです。
揚羽蝶ということから、これを家紋として、関ヶ原の合戦の直後に水口岡山城を攻め、その後長くても2年くらい(もっと短い可能性もある)この城に居た池田長吉の物ではないかと推測されています。
しかし、城を預かっている程度でわざわざ鬼瓦を焼いて据えるのか?との謎が残ります。
ですので、
1.池田長吉の瓦
2.歴代城主(中村一氏・増田長盛・長束正家)に揚羽蝶紋を使った人物がいた
3.吉兆の証として使った
という説も考えられるそうですが、1は上記説明通り、2はその人物が見つからない、3は他に例がないとのことで決定打に欠けています。
管理人としては、破城の時に池田家が慰霊や怨念封じで置いたのではないか?と考え質問しましたが、裏向きであったことや、バラバラになって出土していて儀礼的な意味合いは感じられないとのことでした。
・見つかった揚羽蝶の鬼瓦





・他の瓦

・出土場所
 


今回の発掘により、東端天守の石垣の構造が判明しましたが、新たに瓦の謎が広がりました。
長い発掘で土の城と思われていた水口岡山城が石垣を備えた城であることがわかるという大きな成果とたくさんの新たな謎解きゲームを示してくれたことになります。
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150年前:壬生心中(9月2日)

2015年09月02日 | 何の日?
慶応元年(1865)9月2日、新選組四番隊組長松原忠司が亡くなりました。享年31歳。
松原は「新選組の親切者は山南と松原」といわれるくらいに温厚な人物でしたが、その死には悲しい逸話が残っています。


新選組の中で、涙をさそう物語として語られる『壬生心中』。
この物語の主人公は新選組の中でも古参に位置する松原忠司でした。


慶応元年、松原は新選組四番隊組長で柔術師範という重職を勤めていたのです。

ある日、四条大橋を歩いていた松原は前からくる浪人に不審を感じ、一騒動の末に斬り捨ててしまったのでした。
斬られたのは紀州藩浪人安西某、安西の今際の頼みで、妻おせんに遺体を届けるために安西の家を探し、そしておせんに遺体を渡したのです。
おせんは凄い取り乱しようで、松原は自分が斬ったとも言えず、慰めるしかできなかったのです。
少しずつ落ち着いたおせんに対し松原は、
「こうなったのも不思議な縁、及ばずながら力になります」
と言って、多少の金を置いて一先ず屯所に帰ったのでした。
おせんはこの時25歳くらい、安西との間に一人の子どもがいたのですが、とても美しくて近所の評判も良かったたともいわれています。
ともかく、こうして松原は自分が斬った男の妻をその責任感から面倒を見るようになり、隊務の空き時間におせんを訊ねるようになったのです。
やがて、子どもが病に倒れ、松原忠司の必死の介護の甲斐もなく、ついには帰らぬ人となってしまったのです。
こうして、家族を続けて失い女一人になったおせんが松原をますます頼るようになり、松原の方もしげしげとおせんの家に通い隊務が疎かになったのでした。

このような出来事は面白おかしく噂され、近藤勇や土方歳三の耳に入ってしまいます。
土方は松原を呼び出し、「君は妻女に横恋慕してその主人を騙し討ちにしたうえに、巧に誤魔化して親切面で妻女を自分のものにしたのではないのかね?」と厳しく問いただすのです。
松原は、「そんな疑いをかけられては武士として不名誉」と言って、安西を斬った事を報告した上でおせんは関係無い事を言い切り、別室で切腹を試みたのでした。
別室に籠った松原忠司は腹に刀を突き立てたのですが、同じ柔術師範の篠原泰之進に止められて死に至らなかったのです。
生き残った松原は平隊士に降格されます。

腹の傷の事と土方の疑いで隊務を疎かにし始めた松原が、ある日屯所に帰って来なかったのです。
事情をある程度知る林信太郎が気になって、篠原と共に安西の長屋を訪ねて行ったのです。
戸を何度叩いても返事が無いので裏口から侵入すると、きちんと敷かれた布団の上に女が仰向けに寝ていて、松原はうつ伏せていました。
林と篠原が声をかけても返事が無いので掛布団を捲ってみると、中は血の海。
松原がおせんの首を自らの手で締め殺してから、切腹していたのです。
おせんの荷物は綺麗に整理されていて、着物に乱れもなく、その枕もとには線香が立っていたのです。
松原の方は刀の先が背中から突き出ていて、勢いよく突き刺したと推測されています。
『壬生心中』は新選組の中のこの悲しい物語を伝えているのです。

でも、ここまで書いてきた壬生心中ですが、実はこの物語は子母澤寛の創作だと言われています。
この話は、八木為三郎が五稜郭での箱館戦争から帰ってきた林信太郎に聴いた話を、後年子母澤に伝え、それを子母澤が本にして出版した事になっているのですが、林は箱館に行かなかったばかりか八木に会う事も無く戦死しています。
また、当時は心中した男女は晒し者になり遺体もちゃんと葬ってもらえないのですが、松原の遺体が晒された記録も無いし、忠司は以前に出てきた光縁寺に墓が残っているのです。
子母澤寛は小説家な訳ですから多少の演出があって当然なんですがね。


松原の死を元治2年9月2日にしていることに不思議さを感じるかもしれませんが、元治2年は4月7日に慶応に改元しています。
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