彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『井伊直弼と開国150年祭』始動

2007年12月30日 | イベント
『国宝・彦根城築城400年祭』が終わり、“ポスト400年祭”として11/26より『(仮称)日米修好通商条約締結150年記念事業』が計画されていました。

12/27、この舌を噛みそうな長い名前が『井伊直弼と開国150年祭』という正式名称が付けられ、情報が出てきましたのでこれをご紹介します。


井伊直弼と開国150年祭事業計画案
■事業の趣旨
井伊直弼は、1815年11月29日(文化12年10月29日)、彦根井伊家の下屋敷槻御殿で、彦根藩11代藩主直中の14男として生まれました。その後、父直中の死により、17歳で慣れ親しんだ槻御殿から、後に自ら「埋木舎」と名づける彦根城内の一隅北のお屋敷に移り、彦根藩の世子、兄直亮の養子となる32歳までの16年間、経済的にも精神的にも不遇な日々を過ごしています。
直亮の死去により1850年12月24日(嘉永3年11月21日)彦根藩主に、1858年6月4日(安政5年4月23日)には大老に就任、そして、1858年7月29日(安政5年6月19日)に日米修好通商条約を締結しています。
2008年(平成20年)は、その条約締結から150年目にあたります。
この記念すべき日米修好通商条約締結150周年を期して、日本を開国に導き、開港により諸外国との交易・交流の門戸を開いた、彦根藩主井伊直弼という人物を再評価し、また、政治の表舞台だけでなく、文化人としての側面や生い立ちを紹介するなど、新たな直弼像を彦根から発信します。

■事業の概要
1、事業の名称
井伊直弼と開国150年祭
2、主催
実行委員会
3、後援
今後、決定する事業内容に応じて、後援を求めていく。
4、開催期間
2008年6月~2010年3月
5、開催場所
彦根城域一帯および市内全域
6、基本理念
新たな「直弼」像の発信

■事業の基本的な考え方
1、槻御殿での誕生から、桜田門外で花と散るまでの直弼の全生涯を振り返りながら「井伊直弼」という人物の素顔に迫り、新たな直弼像を彦根の地から発信する。
2、文化人としての直弼に光を当て、文化的な人間像と直弼に繋る彦根文化を次世代に継承する。
3、国宝・彦根城築城400年祭で培われた、市民の高い参加意識と実行力を糧としながら、引き続き新たな彦根文化・魅力を創造する契機とする。
4、開国、開港を軸にゆかりの地域や人との連携、交流を深めると同時に、開国から今日までの150年を振り返る。

■メインキャクター
国宝・彦根城築城400年祭のキャラクターとして登場し、閉幕後彦根市のキャラクターとなった「ひこにゃん」が記念事業でも活躍します。

■ロゴタイプ
未定


と、言う事です。
なお、管理人が受け取った情報から日付等の誤りは訂正して掲載しましたが、間違いがまだありましたらぜひご指摘ください。

400年祭よりも長い約2年弱のイベントとなりますので、どんなことが行われるのかこの段階である程度決まっているのかもわかりませんが、新しい彦根のイベントをご期待ください。


また、彦根でこれから行えそうなイベントとして

2008年 大河ドラマ『篤姫』で井伊直弼登場
    4/21 井伊弥千代、高松藩世子・松平聰に嫁いで150年
    4/23 井伊直弼、大老就任150年
    6/19 日米修好通商条約調印150年
2009年 大河ドラマ『天地人』で石田三成登場
    (また直江兼続の居城・与板城は江戸時代には井伊家本家の与板藩2万石の陣屋)
    4/3~5/28 肥田城水攻め450年
2010年 元旦 井伊家始祖・共保が井伊谷八幡宮で保護1000年(井伊家誕生千年)
    3/3 桜田門外の変150年
2011年 2/19 井伊直政生誕450年
2012年 中山道410年
2013年 大河ドラマ放送開始50周年
2014年 7/1 彦根城築城着工410年
2015年 夏 井伊直孝が招き猫に出会って400年
    10/29 井伊直弼生誕200年
2016年 彦根りんご200年
2017年 国宝彦根城築城410年
    2/11 彦根市政80年
    6/28 『琵琶湖周航の歌』完成100年
2018年 11/19 井伊直澄大老就任450年(井伊家初の大老就任)
2022年 彦根城郭完成400年
などが考えられますこれ以外にも2010年は野良田表の戦い450年・2022年は壬申の乱1350年など。

彦根に詳しい方は他にどんなイベントが考えられるかご教示下さると幸いです。

絵島生島事件

2007年12月22日 | 何の日?
映画『大奥』が撮影された玄宮園


映画『大奥』のTV放送を受けて、絵島生島事件の概要を書いてみましょう。
大奥最大のスキャンダルと言われている絵島生島事件が起きたのは正徳4(1714)年1月12日の事でした。

では、そもそも絵島生島事件とはどのような事件だったのでしょうか?

時は7代将軍・徳川家継の時。
この家継という将軍は2年前に父である6代将軍・家宣の死去によりわずか4歳で将軍となったのです。
5歳の子どもが政治を行なえる筈も無く、政務は家宣の時代からの側近が引き継いで行なう形がとられていました。

その主なメンバーは
側用人・間部詮房
朱子学者・新井白石
老中・土屋政直、阿部正喬らでした(映画に登場した秋元喬知はこの時は老中を退任しています)
など・・・

この中でも、家宣の側近として仕え、常にその信頼を集めていた間部詮房の権力は相当に大きなものだったのです。
なぜ詮房がそれ程に大きな権力を持つ事ができたのかといえば、簡単にいうなら能役者出身のハンサムだったからでした。
当時、幕府の実権は老中や臨時職の大老をはじめとする幕閣が握っていたようなイメージがありますが、老中達も逆らう事ができなかったのが大奥だったのです。
詮房がハンサムだっただけで実権を握れるのはおかしいような気がしますが、大奥で推されたらそれも可能だったのです。

後の時代になりますが、田沼意次はハンサムな顔と細かい配慮も行なった大奥への気配りで老中にまで出世したとも言われています。


さて、家継の時代に大奥で権力を持っていたのは、家宣の正室だった天英院と家継の生母・月光院でした。
両者が激しく対立した事は想像できます、でもココから大奥というシステムの面白い所なんですが、こう言った将軍の正室や生母が直接大奥を仕切る事はできなかったのです。

そこで、大奥を取り仕切っていたのが御年寄でした。
御年寄はTVや映画では大奥取締役と呼ばれる事がありますが、実際にはそのような名称は無く、あくまで御年寄が正式名称となります。そしてその仕事は大奥の老中とも言えるモノで、将軍すら恐れる存在だったのです。
そして、7代将軍・家継の時に御年寄だったのが、月光院の右腕・絵島だったのです。

そして大奥では将軍が幼いために将軍の後継ぎをもうける機関という本来の目的が果たせずに風紀が乱れ始めていました。
そのもっとも顕著な例が、月光院と間部詮房の密通だったとも言われていますが、本当の話かどうかは当人達のみが知ることでしょう。
しかし、月光院の信頼をバックに将軍の代理という形で自由気ままに政務を行なう詮房を煙たく思った老中達は詮房の失脚を画策しました。

その為には月光院の追い落としが必要だったのです。


月光院の権力を落とす為に、その右腕だった絵島が狙われたのでした。
1714年1月12日、月光院の名代として前将軍・家宣の墓参りの為に寛永寺と増上寺に詣でた絵島とその供は、当たり前の習慣として芝居見物に出かけたのです。
この時寄ったのが山村座で、山村座の看板俳優が生島新五郎でした。

そして、芝居に興じた絵島一行はその後に役者を招いて茶席となり、江戸城への帰城が遅れて門限に間に合わなかったのです。

大奥の制度を作り上げたのは3代将軍・家光の乳母・春日局ですが、そんな春日局ですら門限に遅れて門番に入城を拒否され一晩締め出しを食った経験がありました。
当然、絵島も中には入れず、入り口での問答を行なった為に江戸城内にこの件が知れ渡ってしまったのです。


こうして評定所が絵島の遅帰城事件を調べる事となり、生島新五郎と密通を行なっていたと決定付けられたのです。
つまり、実際に密通の事実があったかどうかは分からないにしても(生島は三度の関係があったと自白しています)、絵島の不注意が老中達にチャンスを与えたのでした。

同年3月5日判決が下されました。
絵島は高遠藩にお預け
生島新五郎は三宅島に遠島
山村座座元・山村長太夫は伊豆大島に遠島
絵島の兄で旗本・白井平右衛門は切腹
など、関わった1300余名が罰を受けたのでした。


しかし、この事件では間部詮房の追い落としまでは叶わず、結局絵島関係者が割を食った形になったのです。
ちなみにこの年の

2年度の正徳6(1716)年4月30日、徳川家継風邪をこじらせ8歳で死去。
後を継いで将軍となる人物に、紀州藩主だった吉宗を推したのは天英院でした。
こうして吉宗が8代将軍に就任した事により間部詮房罷免。

しかし、その後は吉宗と月光院が深い仲になっていったのです。
一説には絵島生島事件の黒幕は吉宗とも言われていますので、何ともややこしい関係ですよね。



さて、ではこの事件に井伊家はどの様に関わっていたのでしょうか?

実はこの時の大老は、彦根藩四代藩主・井伊直興が「直該」と名を改めて2度目の藩主と大老に就任していた時でした。
直該は間部詮房を好んでは居なかった様ですが、老中たちのように詮房を追い落とす事までは考えていなかったようで、絵島生島事件には関与する事がありませんでした。

しかし、絵島生島事件が起こり判決が起きる少し前の2月23日に大老の座から辞任しています。
この辞任の理由は病の為となっていますが、絵島生島事件から波及した大奥弾圧を受けて最高責任者としてこう言った風紀の乱れを傍観した責任を負ったのではないかと言われています。

彦根城周辺史跡スポット:「鈴木家長屋門」

2007年12月12日 | 史跡
彦根城の中濠よりも外側には中級武士たちが住む屋敷が多く作られました。

鈴木家もそんな中級武士の一つで、江戸時代を通して300石から350石の石高で江戸中屋敷や大津蔵屋敷の留守居役を歴任する家柄でした。


鈴木家の屋敷は享保元(1716)年からこの長屋門がある場所に建っていたと推測されていていますが現在は長屋門と庭と土蔵のみが残っています。

長屋門は幅約16メートル・奥行き約4メートルで門とその左右両側にそれぞれ1部屋・3部屋が残っています。
長屋門には使用人や女中さんが住んでいたり、馬屋・物置としての利用法もあったそうですよ。


さて、そんな鈴木家の幕末の当主は七代目になる鈴木貫一(重恭)という人物でした。
貫一は幕末に江戸で洋学を学んだ後にアメリカ留学を果たします。

そして、明治維新の時に彦根藩の藩主だった井伊直憲に彦根藩内での洋学校の必要性を説き、直憲の許しを得ますが、直憲が洋学校の候補地を貫一に提示する事が出来なかった為に明治4(1871)年1月に貫一は自らの屋敷に“彦根藩立洋学校”を設立したのです。

彦根藩立洋学校では、外国語や西洋文化を教えていましたが、4月19日にはアメリカ商人ウィルレム・グードメンを講師に招くなど、今の外国人講師の教える英会話塾のような形を準備したのです。

翌年には洋学校を息子の省三に任せて貫一はフランスに渡って公使館の職員になる事を日本政府から任ぜられました。
やがてその仕事振りや人間性からフランス公使館一等書記官になり、当時のフランス公使・鮫島尚信の死によって代理公使の役に就いたのです。

代理公使として大いに働き、フランスからも認められた貫一でしたが、公使館内の財政問題の責任を負うという形で退官したのでした。


この後、彦根に戻った貫一はそれまでの経験を多くの人々に伝えたといわれています。

12月5日、吉田松陰投獄

2007年12月05日 | 何の日?
安政5(1858)年12月5日、長州藩の教育者・吉田松陰が藩命によって投獄されます。


吉田松陰は、13歳の時に藩主の前で軍学の講義を行ないそのまま軍師に任命された程の天才でしたが、その中には常に「私身を捨てて国に尽す」という考えを持っていました。
黒船来航の時は「敵を知り己を知れば百戦危うからず」の考えの元で外国を知る為にペリーの船に乗り込んで密航を依頼します。

やっと繋がった日本との交渉を妨げたくないためにその願いを断ったペリーでしたが、それまで多くの国を見てきたペリーでさえ、密航を企ててまで先進国を知ろうとする若者に会うのは初めてだったらしく「もしこの様な若者がまだ居るのなら、いずれ日本はアメリカの脅威となるだろう」と言ったそうです。

ちなみに、そんな若者は実際に居て、同時期に来日していたロシア船は密航を受け入れてロシアに連れて行っていますし、ナイチンゲールが活躍したクリミア戦争時にはロシア軍の捕虜としてロンドンに幽閉された日本人も居ます。

密航に失敗した松陰はそのまま奉行所に自首しました、当時の密航は死刑だったのですが、自分のような人間がいる事を示す事の為には逃げ隠れできなかったのです。
幸いペリーの口利きで死刑は逃れた松陰でしたが獄に入れられます。

出所後は、故郷で小さな私塾・松下村塾を開きましたが、これがいつの間にか歴史的人物を育てる育成機関となったのでした。


そして、1858年に幕府を倒す計画を立案し、その実行として老中(間部詮勝)の命を狙ったために長州藩の野山獄に投獄されたのが12月5日だったのです。
松陰は元々反幕派では無かったのですが、長州藩領の松本村から出る事が出来ない立場だった為に情報が少なく、その分だけ自分の脳内で過激なストーリーが進んでしまったところがあったのです。
本当なら、冷静になる事で許される事になるであろう罪(流罪程度)でしたが、大老・井伊直弼がこれを認めず、安政の大獄の最中の翌年10月に江戸伝馬町で斬首となりました、享年30歳。


井伊直弼は開国を行なった偉人として歴史に名前を残していますが、本当は先進国のやり方に危機感を持っていました、しかし、実力の差が大きい以上は「先進国から技術を学んで力をつけて国を守るしかない」と考えていたのです。
そういった意味では吉田松陰と井伊直弼は全く同じ志を持った人物でした。

もし、松陰が幕府に近い人間だったら直弼の重要な右腕として活躍していたのでしょうが、幕府の権威を守りたい直弼にとって倒幕を計画した松陰は許せない存在だったのです。

立場の違いは場合によって不幸な結末を迎えるモノなんですね。