彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『戦国怪談話』その8 消えた商人

2011年08月31日 | 『戦国怪談話』
戦国時代の怪談話を、信長に関わった人物を中心にお話しました。
戦いの時代が終わり、平和な時代になると人々は刺激を求めて怖いお話や血生臭いお話を好んでするようになります。
そうすると、それらのお話をまとめようとする人物も現れ、そんな中にも近江に関わる不思議なお話が出てくるのです。

江戸時代後期、根岸鎮衛という、ちょっと奇妙な幕臣がいました。最終的には1000石の録を受ける者で、勘定奉行や江戸南町奉行も務めた有能な人物だったのです。そんな根岸の何が奇妙かと言いますと、珍しい話や奇妙な話が大好きで、30年間という長い時間をかけてこれらの話をさまざまな人々から聞き集め、随筆としてまとめたのです。この随筆集『耳袋』の中に、近江で起こった奇妙な話が紹介されています。


近江八幡で反物屋をしている松前屋の主であった市兵衛は、ある夜、急に尿意をもよおして下働きの若い女性を呼んで、手燭を持たせ厠へと向かったのです。そんな市兵衛の様子を隣で寝ていたおかみさんも黙って見送りました。
しかし、四半刻(30分)が過ぎても半刻(1時間)が過ぎても市兵衛が戻ってきません。主人といってもまだまだ若かった市兵衛でしたから、一緒に連れて行った下働きの女と浮気をしているのだろうと疑ったおかみさんは、怒りに身を震わしながら厠へと向かったのです。

厠の前には、先ほどの女が手燭を持ったまま立っていました。おかみさんは抑えきれない怒りを何とか沈めながら「旦那様はどこに行ったんだい?」と訊ねました。すると「まだ出てきておられません」との返事があったのです。
「まだと言っても、もうあれから半刻も過ぎているじゃないか」と、女を脇にどかせておかみさんが厠の扉を開けると、そこに市兵衛の姿はなかったのです。小さな厠ですので、おかみさんが開けている扉以外に出入口はありません。市兵衛をどこに隠したのか女を責めても知らないと言うばかり。こうして市兵衛は忽然と姿を消してしまったのでした。おかみさんは、市兵衛を探しましたが見つからず、仕方なく市兵衛が消えた日を命日にしたのです。そして女手では店を守れないので、親類の中から新しい夫を探して結婚し、店を守って行きました。

市兵衛が消えてからちょうど20年が過ぎた同じ日の夜、厠からドンドンと扉を叩く音が聞こえます。驚いたおかみさんは厠の前に行くと使用人たちも集まってきました。そして全員が揃っていたのです。
しかし扉は内側からドンドンと叩かれ、やがて「おーい、おーい、開けてくれ」との声が聞こえます。恐る恐る扉を開けると中から市兵衛が出てきました。
「やっと開いた、それにしても腹が減った何か食いたい」と言いますので、おかみさんは食事を準備させ、市兵衛に与えました。市兵衛が食事を終えると着ていた着物は急にボロボロになって崩れてしまったのです。

おかみさんが市兵衛に20年間どこに行ったのか訊ねても、20年間のことどころか、その前のことも覚えていません。20年前の姿のまま現れた市兵衛におかみさんも、後から入った夫もどうすることもできませんでした。こうして市兵衛はまじないを生業として松前屋に住んだそうです。


根岸はこの話を、直接市兵衛に会った人物から聞いたとして『耳袋』に残しています。そして「急に前夫が現れたら、おかみさんも後夫も困っただろう」としていますが、この先どうなったのかは記していないのです。

『戦国怪談話』その7 北ノ庄城 死者の行列

2011年08月30日 | 『戦国怪談話』
本能寺の変の翌年、羽柴秀吉は、織田家の実権を奪うために最大の敵である柴田勝家を、賤ヶ岳の戦いで破り、そのまま勝家の居城である北ノ庄城を攻め落としました。

天正11年(1583)4月24日、勝家は信長の妹お市の方と共に自害して果て、多くの家臣たちが無念のうちに亡くなり、城には火が放たれて焼け落ちたとされています。
勝家が亡くなった日は「柴田忌」とも勝家とお市の辞世の句から「ほととぎす忌」とも呼ばれるようになり、この日の丑三つ刻には勝家たちの霊が出るとの噂が広がって、町の人々は外に出ることはありませんでした。

ある年のこと、一人の老婆が知り合いの家で話し込み、遅くに帰宅することになりました。その日が4月24日だったことを忘れていて、北ノ庄城に架かっていた九十九橋に差し掛かった時に向こうから物音がしたのです。
多くの馬の蹄の音、嘶き、人々の歩く音、そして鎧の音。
今のイメージでは、鎧の音はガチャガチャと金属の当る音のように思いますが、あれは映像用の演出であり、本当にそんな音がしたら奇襲や夜襲は成功するはずがありません、本当の音は皮がこすれる程度の静かな音です。それでも多くの人が一緒に動けばそれなりに大きな音になりました。つまりはそこには大勢の鎧武者がいたことになります。
老婆は、これが噂に聞く勝家の霊だと思い、後ろを向いて目を閉じて音が消えるまでじっとしていました。そうするとやがて九十九橋に多くの人や馬の足音が通り、静かになりました。
老婆は安心し帰宅しましたが、このことを周囲にしゃべってしまい、翌年の同じ日にやはり帰宅が遅くなり、そして九十九橋が架かる川の中に頭を突っ込んで両足を上に向けた状態で亡くなっていました。そのイメージは犬神家の一族のような状態だと思われます。

享保17年(1733)といいますから、八代将軍吉宗の頃、表具師の佐兵衛という人物が、興味に勝てずにあえて4月24日に出掛ける決意をしました。自分は死んでもかまわないが、しかし家族にまで祟りが及んでは困ると思い離縁して妻を実家に帰したのです。
佐兵衛は九十九橋に身を隠すと、やはり馬の蹄の音がします。そして首の無い傷口から血が滴り落ちる馬や同じく首の無い鎧武者たちが大勢橋を渡りはじめたのです。首が無いのに馬の嘶きや人々の息使いが佐兵衛の耳には聞こえてきました。
行列が過ぎて行ったあと、佐兵衛は急いで家に帰って見てきたものを絵に描いて、表具の注文があった武士の置いて行った桐の箱の中に絵を隠したのです。
翌朝、佐兵衛は血を吐いて死んでいました。

桐の箱は武士の元に戻ります。そして武士は箱の中から絵を見つけました。佐兵衛の噂を知っていた武士はその絵を庭で燃やそうとしたのです。
武士の屋敷の庭は広く、その中で絵に火を放つと、絵は勝手に宙を舞い、屋敷の屋根に乗って屋敷を火で包み近所にまで類焼したのです。その炎の中に首の無い鎧武者の姿を見たとの話もあるのです。

『戦国怪談話』その6 安土城 信長の財宝を狙え

2011年08月29日 | 『戦国怪談話』
天正10年6月2日、織田信長は本能寺の変で亡くなりました。

この時安土城を守っていたのは日野城主蒲生賢秀。息子の賦秀(後の氏郷)は信長の次女冬姫の婿という立場の武将だったのです。信長の女婿とは言いながらも近江南部の国人でしかない蒲生氏では安土城を守りきれないため、信長の家族を連れて守り易い日野城へと避難しました。安土城に残された信長の財宝は、小さい物は日野に運び、一部は家臣たちに分け与え、城の中にも残しましたが、その多くは織田家再興のために安土山中に埋められたとされているのです。

6月5日、明智光秀が安土城に入りますが思ったよりも財宝が少ないことを訝ります。そして甥で娘婿の明智秀満(遠山景行の子との説あり)に安土城の守備と財宝の捜索を命じて坂本城に帰るのですが、そのまま山崎の戦いで戦死してしまうのです。秀満は坂本城へ戻ることとなり、秀満が安土城から出たあとすぐに天主は火に包まれて焼け落ちたのです。安土城は信長の孫の秀信が所有しますが、居城を岐阜に置いたために廃城となり、城下町も八幡山城築城にともなって近江八幡へと移され、安土の城と町は一時の栄華を失ってしまったのです。しかしその山中に埋蔵金が残るという噂だけが残りました。


財宝の噂を聞いた浪人の一団が、二の丸跡に小屋を作って探すと、小さな黄金などが見つかったそうです。この日から何日も財宝を探すつもりで二の丸跡に居座った浪人たちは、一日目の夜に遠くでざわざわとした音を聞きました。二日目の夜となるとその音が近付いたように感じられたのです。
三日目の夜。近くの森林まで音が近付いてきました。不審に思った一人の浪人が小屋から出ると、森の間から一本の矢が飛んできて浪人を貫いたのです。浪人には激痛が走りましたが傷はありませんでした。この気配に気が付いた浪人の仲間たちが外に出ると、森の中から槍や弓矢を持った兵たちが飛び出して浪人たちを襲ったのです。先ほどと同じように痛みは感じても怪我をしない攻撃に浪人たちは大混乱に陥り、やがて同志討ちが始まり、一人またひとりと倒れて行きました。

この中を命からがら逃げ伸びて、麓の村人の家に逃げ込んだ浪人の一人が、息を切らせながら城跡での出来事を語り、その中に立派な夜具を着た男がいたとの証言を残して息絶えたのです。人々はこれを信長の霊だと恐れましたが、同時に財宝に目がくらむ者の多く現れ、豊臣秀吉が二の丸跡に信長廟を建立して入山禁止にすることで霊がでなくなったといわれています。

『戦国怪談話』その5 岩村城お艶の方の祟り

2011年08月28日 | 『戦国怪談話』
織田信長には、お艶というとても美しい叔母がいました。
信長は、甲斐の武田信玄との戦いに備えて、美濃東部の国人たちを味方に引き入れるため、お艶を岩村城主遠山景任に嫁がせます。遠山一族は岩村城以外にも苗木城や明智城などの城主を務めた家で、一族の子孫が江戸後期に活躍した遠山の金さんこと遠山景元です。そしてこの時には一族の中に遠山景行という頼もしい武将もいました。

元亀3年(1572)に景任が武田家との戦の傷が元で病死します。この戦では景行も戦死したともいわれています。信長は五男坊丸(織田勝長)を養子として送り、岩村城はお艶が女城主として守りながら坊丸の成長を待ったのです。その後、武田信玄の上洛に伴って岩村城は秋山信友に攻められ落城します。お艶は信友の妻に迎えられ、坊丸は人質として武田勝頼に保護されたのです。

天正3年(1575)5月21日、織田信長は長篠の戦に勝ち、11月に息子信忠に岩村城を攻めさせます。このときに信友とお艶は城兵の助命を条件に、信忠軍先鋒の河尻秀隆に捕えられて岐阜に送られました。秀隆には、岩村5万石を与えられ、11月21日に信友とお艶は処刑されたのです。
信友とお艶の処刑のされ方は、逆さ磔でした。これは磔柱に逆さまに縛られる方法で、やがて血が頭に上り、目・耳・鼻・口などの穴から血が噴き出して激しい痛みと、なかなか死ねない苦しみを味わうものだったのです。信友は武士として潔く死に、お艶は信長や岩村城を落した者を恨みました。それは助命を約束しながら岩村城の城兵を殺したことにも向けられたのです。

7年後の天正10年(1582)3月23日、森蘭丸が信長から岩村城を与えられ、河尻秀隆は甲斐へと国替えになります。
この2ヵ月半後本能寺の変が起こります。本能寺の変で不慮の死を迎えたのは、織田信長・信忠と一緒に二条城にいた坊丸こと織田勝長そして森蘭丸。甲斐では本能寺の知らせを聞いた人々によって河尻秀隆も殺されて、岩村城に関わった人物がこの瞬間に死んだのです。

志茂田景樹先生講演会と映画『学校をつくろう』上映会

2011年08月27日 | イベント
前にお報せしました通り、ひこね文化プラザで映画『学校をつくろう』の上映会が行われました。
原作者の志茂田景樹さん、神山監督、鍋島プロデューサーがお越しになり御講演をされ、映画の上映も行われたのです。

志茂田景樹さんといえば、直木賞作家でもありファッションリーダーとしてTVの世界でのご活躍も記憶に残っておられる方も多いでしょう。
今は、執筆活動をされると同時に、絵本の読み聞かせをされ全国を回られています。
そんななか、 3年前に刊行されたのが『蒼翼の獅子たち』という小説でした。これは今の専修大学創立に関わった4人の男の青春を描いた作品で、若者の秘めている可能性や力強さが書かれています。
講演で志茂田さんは、5歳で観た終戦直後焼け野原の東京の風景や、東日本大震災の後に読み聞かせに行った大船渡市での惨状を話されて、何にもないからこれから作らなければならないとのお話をされました。

主人公の相馬永胤を始めとする4人の若者は、何もない所に新しい物を築く種を撒いた人々であり、彼らより10年前に生まれた坂本龍馬や大久保利通らは古いものを壊した人々なのだとのこでした。
どうなるかわからないから、新しいものを築こうと考えればいいのではないか? 平成の若者に期待しているとのことでした。

また絵本の読み聞かせは、強い力を持っていて、読んでいる自分自身が清々しい気持ちになるのだそうです。読むことに特別なスキルがいるのではなく、感性を分かち合えたら絵本が持っているメッセージが伝わるとのことでした。


こののち、『学校をつくろう』の上映会となり、管理人は志茂田さんの横で一緒に観賞いたしました。
この作品、2011年10月にJALの国際便で上映されますし、2012年の2月からDVDレンタルも始まりますから観て下さい。
若者が持つ可能性、夢、そして力強さに胸が込み上げました。
作品を鑑賞した後で、原作を読みたいと思われた方多かったようです。僕も上映が終わった直後に「先生、桜田門外の変の後の彦根を描いてくださりありがとうございます。それがあのように力強い青年が彦根にいたのだという、彦根人が特に学ばなければならない作品でもあると思います」と言いました。

中学生や高校生や大学生の諸君は、今や未来の生き方の指針として。
そして、青年時代を何らかの形で終えたみなさんは、昔持っていた夢とそれに向かってたぎった熱い想いをもう一度蘇らせる想いで。

お薦めします。


ちなみに9月3日13時から、豊郷町の岡村本家 蔵しっく館ホールでも上映されます。
この日は、13時から井伊家の18代当主井伊直岳さんのご講演があり、14時15分からの上映予定です。井伊さんが明治時代を語られる機会はなかなかないと思いますので、こちらも注目のイベントですよ。

『戦国怪談話』その4 小少将の呪い

2011年08月26日 | 『戦国怪談話』
安土城を築いたのは織田信長公ですが、この信長が亡くなった本能寺の変に関して、信長が呪われていたというお話が幾つかあります。


その一つが8月20日(『戦国怪談話』当日)に呪いをかけられたというお話です。
元亀4年といいますから1573年(天正元年)越前朝倉氏が8月20日に滅びます 。最後の当主朝倉義景という人物は身内の裏切りにあって亡くなるのですが、このとき義景の正室だった人に小少将という女性がいます。

小少将のお父さんは斎藤義龍という人物でした。義龍は、美濃の国主でしが信長に攻められて国から追われ、朝倉義景に仕えた人物だったのです。

小少将にすれば、父親が国を奪われ(そして6日前に討たれている)、夫も自害に追い込まれ、そして息子の愛王丸も捕えられて処刑された訳ですから、信長を恨みながら一乗谷の自分の屋敷(諏訪館)で自害しました。

その遺体は野犬に食い荒らされて無残な姿だったそうです。

この時に、斎藤氏の一族だった明智光秀に乗り移って本能寺の変を起したという話が、よく語られます。

『戦国怪談話』その3 果心居士

2011年08月23日 | 『戦国怪談話』
戦国怪談話と言いながらも、厳密には戦国時代に怪談話を探すことは難しいです。それは戦国時代が殺し合いの時代だったからです。
人を殺すのが当り前の時代に、怪談なんて信じていたら敵を討つことはできません。ですから厳密には後で考えられた怨念話や祟りが多くなります。


そんな戦国時代に、大和国(奈良県)に果心居士という仙人がいました。

安土城ができた頃、果心居士は地獄絵図の屏風を持って織田信長に面会します。信長は迫真に迫る屏風を気に入って値を問うと、居士は「信長さまの想いのままに」と答えるので、信長は金100両を用意しました。
信長が家臣らを呼んで屏風を見せるのですが、絵の質が悪くなっています。信長が果心居士に問うと「100両の価値に相応しい絵にいたしました」と言ってその場から消えたのです。


そんな果心居士は、大和の領主であった松永久秀とも親しくしていました。
この久秀、織田信長が「主殺し、将軍殺し、奈良の大仏を焼くという普通の人間なら生涯に一度も行わない大罪を三つも行った人物」との評価を下すほどの人物でした。
久秀は、親しい果心居士に対して「自分は恐怖を感じたことが無い、怖がらせてくれ」というので、真っ暗な中に久秀を置いたのです。
そして久秀の前にやせ細った女性が立ち恨みを言いました。それは亡くなった久秀の正室で、女好きの久秀を嗜め、恐ろしい姿で久秀を空ろに見る姿に久秀は悲鳴を上げたのです。


最後に、豊臣秀吉が天下を統一してから、果心居士が秀吉に呼ばれました。秀吉も怖い想いがしたいと言うので、真っ暗な中に若い女が秀吉を睨んだそうです。その女は秀吉が織田家に仕えた頃に出た合戦で、秀吉が犯して殺した女でした。
この秘密は誰も知らなかったはずが、果心居士によって暴かれたので、秀吉は女の姿に怯えるとともに果心居士の存在に恐怖を感じて殺そうとしました。しかし豊臣家臣に囲まれた居士は、鼠の化けて去って行ったといわれています。

『戦国怪談話』その2 安義橋の鬼

2011年08月23日 | 『戦国怪談話』
まずは戦国時代よりも前、たぶん平安時代の後期が舞台と考えられるお話を『今昔物語集』から話してみましょう。


『安義橋の鬼』
現在の近江八幡市と竜王町の境を流れる日野川には、古くから安義橋が架かっていました。  
しかしこの橋には夜になると女性の姿をした鬼が現れるため、日野川を渡るための大切な橋でありながら誰もが敬遠する橋となったのです。

ある晩のこと、近江守の屋敷では何人もの男たちが、安義橋の鬼の噂を肴に酒を飲み交わしていました。そこに一人の武士が名乗り出て、今から橋を訪れて鬼が居るのかどうかを確かめることとなったのです。周囲の男たちや近江守は面白がって、男を橋まで行かせることにしました。男は、近江守から足の速い馬を譲り受け、馬の尻に油をたっぷりと塗って颯爽と馬に跨って闇の中を出掛けて行ったのです。

安義橋に辿り着くと、橋の上にはとても美しい若い女性が立っていました。女性は男に気が付くと「私を送って下さい」といいます。男は「これこそが噂の鬼であろう」と思い、一目散に馬を走らせてその場を駆け抜けると、後ろから鬼が追ってきたのです。鬼の姿は身が九尺(3m)、指は三本で爪の長さは五寸(15cm )ほどだったそうです・
鬼は、追いついて馬の尻を掴もうとしたのですが、尻には油が塗ってあったためにつるっと滑って男は無事に逃げ果せたのです。

しかし、この日から男の家では不幸なことが続きます。男が陰陽師に占ってもらうと、陰陽師は「あなたは鬼に祟られていて今夜命を失うでしょう」と言われました。そして「命を奪われないためには屋敷を封印して何があっても屋敷を開けずに夜明けまですごすように」との指示を受けたのです。
男は、妻と共に屋敷を封印しました。その夜、男の弟が屋敷の門を叩きますが男は追い返します。そして弟は家来を連れてまたやってきましたが、これも追い返します。三度目になって「母上が明日をも知れぬ病であるのに、兄上はなぜ私の話を聞いてくれない」と言い、これに驚いた男は弟とその家臣たちを屋敷に招き入れまた屋敷を閉ざしたのです。
今夜は屋敷から出られないとのことで、男と弟は酒を酌みまわして夜を明かすことにしました。妻が眠ったあとしばらくして、男の部屋から争った音が聞こえます。妻が慌てて部屋に行くと、男が弟の上に乗って妻に「刀をよこせ」と言ったのです。刀を手にした妻が躊躇っていると、今度は弟が上になったかと思うと、その姿が鬼に変化して男の首に喰らい付き、その首をちぎって「あぁ嬉しい」と言って去って行ったのでした。弟が連れてきた家臣たちは、動物の骨に変わっていたのです。

この後、安義橋に鬼が出ることはなく、現在も“安吉橋”と名を変えて、人々の重要な生活道路になっています。

何年か前に行った時は石橋だったのですが、いつの間にか通りやすいアスファルトの道に変わっていました。

『戦国怪談話』その1 鉄鼠

2011年08月22日 | 『戦国怪談話』
2011年8月20日に管理人が安土城郭資料館で話した『戦国怪談話』を1話ずつ紹介していきます。

今回のお話は、『戦国怪談話』で配った「安土ふることふみ」の1ページ目に書きましたが話はしなかったものです。近江が昔話の宝庫であるひとつとして文章のみで紹介しました。


『鉄鼠』

「今は昔云々」「むかし昔、あるところに…」などなど、聞き覚えのある口調で過去の世界へといざなってくれる昔話。あるお話では英雄たちが鬼や悪者を退治する姿に胸を躍らせ、あるお話では知恵を使って大きな富を築く様子に感心し、あるお話ではどうしようもないくらいに悲しい結末に胸を詰まらせたものです。
そんな昔話たちは、ただの空想ではなく、ときには現実の話をそのまま描き、時には実在の英雄たちをモデルにしています。怪談話や妖怪はそんな昔話のなかにも多く登場します。そして『平家物語』に登場する頼豪鼠は、近江国を代表する妖怪のひとつともいえます。

頼豪は、三井寺(園城寺)で修行し実相院に住んだ天台宗の僧でした。彼の霊験が高いことを知った白河天皇が、皇子の誕生祈願を依頼し見事に敦文親王が誕生します。喜んだ白河天皇が頼豪の願いを何でも聞くと言ったので、三井寺に戒壇院を建設する許しを請うのですが、延暦寺に反対されて実現することはありませんでした。
これに怒った頼豪は断食して100日後に亡くなり、今度は敦文親王の命を4歳で奪ってしまったのです。それでも怒りが治まらなかった頼豪は大鼠に化けて、戒壇院建立に反対した延暦寺を襲い、大切な経典や仏像を食い散らかしたとされています。

史実に照らし合わせれば、敦文親王が亡くなるのは頼豪よりも7年も前であり頼豪に祟られたとは考えられません。しかし頼豪が三井寺への戒壇院建立に力を尽くしていた事実と、それを延暦寺が反対していたこと、そして敦文親王の幼い死が重なって面白おかしく妖怪化されて語られるようになったのです。
この物語は平安時代後期が舞台になっていますが長い間語られ続け、約700年後の江戸時代に鳥山石燕が描いた『画図百鬼夜行』で“鉄鼠”という名が付けられて現代にまで伝わっているのです。

このような話がたくさん出てくるくらい、近江は伝承や伝説に彩られた土地なのです。

告知『学校をつくろう』上映会

2011年08月21日 | イベント
専修大学を作った若者たちの物語『学校を作ろう』が湖東地域で2回上映されます。
この映画の主人公の一人である相馬永胤が彦根藩士だったことと、目加田氏の子孫である目加田種太郎も主人公の一人であるため、湖東地域での上映となりました。

1度目は8月27日(土)にひこね文化プラザで13時からです。
この日は、13時からこの映画の原作となった『蒼翼の獅子たち』の作者、志茂田景樹さんの講演会があります。
一世を風靡した直木賞作家の志茂田景樹さんのお話が聞ける貴重な経験です。


2度目は9月3日(土)岡村本家蔵しっく館ホールで13時からです。
この日は井伊家現当主の井伊直岳さんが「『学校をつくろう』とその時代」という講演をされます。
井伊家当主が語る、明治の彦根藩士の活躍もなかなか聞けないチャンスですね。

両日とも、チケットは前売り600円(当日800円)です。

管理人は両日ともお手伝いとして現場に居る予定です。