彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

関東大震災から百年(後編)

2023年09月24日 | ふることふみ(DADAjournal)
 大正12年(1923)9月1日午前11時58分32秒、小田原沖を震源とする大地震によって関東各地で街が次々と瓦礫と化してゆく。

 当時の庶民の財産は少ない。行李に入るくらいか風呂敷で包める量、多くても大八車一台で足りるため人々は荷物を持ったまま安全な場所に避難したが、瓦礫のあちらこちらで火事が起こり台風接近によってもたらされた強風によって大火となった。「火事と喧嘩は江戸の華」との言葉があるように江戸を発展させた東京は私たちの想像以上に火事対策に優れた町であり、火事のときに避難所となる広大な火除け地も点在していた。庶民はこの火除け地に集まり油断したところに大火の火の粉が降り注ぎ持ち込んだ荷物が燃える、そこに風が吹き竜巻を発生、人々はなす術なく犠牲となった。関東大震災の死傷者は火災によって拡大したのだ。
 このような大災害ののちに起った二次被害や流言による悲劇などを調べて行くと目を覆いたくなる記述も数多く残されている。同時に短い時間ではあるがこの国の首都である東京が無政府状態であったことも無視できない。

 歴史と災害を見るとき災害発生時の政治的な背景を知る必要もある。関東大震災が起ったとき、日本の政治も大きな転換期だった。約2年前(大正10年11月4日)平民宰相と称された原敬が東京駅で刺殺される。後任に経済に強い高橋是清が首相となるが内閣をまとめきれず半年で総辞職、次に首相となるのが海軍大将の加藤友三郎だった。この段階で日本は大きな変化がある、政党政治から軍部主体の政治への移行だったが、運命はまだ世の中を狂わせる。震災発生の8日前(大正12年8月24日)加藤友三郎在職中に病死。4日後、山本権兵衛元首相が後任として選ばれた。

 そして震災発生。

 翌9月2日、第二次山本権兵衛内閣が発足する。つまり関東大震災が発生した瞬間は日本には政治の最高責任者が存在せず、しかもたった2年で3度も内閣が変わった異常ともいえる時期だったのだ。未曽有の事態から慌てて組閣された山本内閣ではあったが後藤新平が内務大臣兼帝都復興院総裁として復興計画を立案したことは現在の東京に大きな利益となる。しかし第二次山本内閣も4か月で総辞職、次の清浦圭吾内閣も5か月で総辞職となり政治的混乱が復興に多少なりの影響を与えたことは否めない。それでも町は復興する。いざというときに政治が無力であることを民衆が一番知っているのかもしれない。

 さて、前稿で麹町の井伊家邸が大きな損害を受けて貴重な文化財が失われたことを記したが、同じ麹町でも与謝野晶子が住んでいた家は無事であったとの記述もあり自然災害の被害に明確な法則はない。敢えて言うならばすべての者が行政支援の遅れも含めた最悪の事態を想定した準備が必要であることを、関東大震災100年を振り返ることによって心に刻まなければならないのである。


原首相遭難現場、東京駅丸の内南口(2012年撮影)
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