彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

井伊直虎命日法要

2022年08月26日 | 井伊家関連

今年も8月26日に井伊直虎命日法要が井伊谷龍潭寺で行われました。




直虎が亡くなった天正10年(1582)8月26日から数えると今年で440年になります。


政府からの宣言はなくてもコロナ禍ですので縮小された法要が続いていて、昨年と同じく御霊屋での法要となりました。



ご住職のお経に合わせて参列者が順番にご焼香させていただきました。



墓所に移動して再びご焼香させていただきました。



暑いなかでしたが、今年も大切な気持ちを示せたと思っています。

個人的なことですが今年も直虎命日法要に合わせて小野但馬守供養塔にも手を合わせました。





そして六年半ぶりに井伊谷城にも登ってきましたが、標高は低いけど坂道が急なので大変です。









井伊谷宮で厄割をするのも恒例になってきましたが、今回は割れるまでに三度も投げました…


もちろん、初代共保公出生の井戸も言ってますよ。





掃部山公園

2022年04月25日 | 井伊家関連

4月1日に、掃部山公園に建つ井伊直弼公の銅像を見てきました。





明治時代に彦根藩士が山を購入し井伊家所有となり明治42年(1909)、横浜開港50年の記念に直弼像が建立されました。

この縁でここは直弼公の官職である「掃部守」に由来する「掃部山」と呼ばれるようになりましたが、訪問時に道に迷って交番で聞いたときは「紅葉山」とおっしゃっておられました。


井伊直弼像に関しては、直弼公が違勅調印を行った(後に氷解)ことや安政の大獄で尊王の志士を罰したことから朝敵とされるイメージを払拭するため武家でありながら公家の衣装である束帯姿で造られる不文律があると言われています。


それでも、昭和18年には金属回収指示により解体され政府に回収されます。


昭和29年(1954)に、開国100年を記念して再建されて現代に至っているのです。







直弼公像は、海を向いていますが、現在は海との間に高いビルが建っています。

これが、直弼公の開国による発展の結果だと考えるならば、直弼公に開国後の報告を行い見守って貰っていると考えても良いかもしれません。




井伊直孝産湯の井

2021年08月27日 | 井伊家関連

焼津市中里には、彦根藩二代藩主井伊直孝の産湯の井があります。






伝承として井伊直政が東海道岡部宿の本陣で宿泊したときに、中里の女性が夜の相手を務めてその女性が故郷で産んだ男子が直孝であり、その産湯に使われたのがこの井戸の水とのことです。


直孝の出生でよく知られている話は、直政の正室唐梅院(花)の侍女だった印具徳右衛門の娘養賢院(阿古)に直政が手を付けてしまい、阿古は怒った花に追い出されて在野で直孝を産んだというものです。

もちろん、花が実家を頼ったと考えるのが普通ですが、印具氏は相模国内に地縁があるため、焼津市のある駿河国との縁が濃いとは思えず実際にはどうだったのかはまだわかりません。


ただし中里が井伊直孝と無縁だった訳ではなく、寛永6年(1529)に産湯の西にある若宮八幡宮を直孝が再建していることからも直孝と中里に深い繋がりがあったことは注目すべき点だと感じています。









ちなみに、若宮八幡宮と直孝の繋がりは棟札に書かれています。その内容は境内の案内板で読めます。

また、若宮八幡宮の石橋も価値がある文化財とのことでした。




井伊谷で行ったところ

2020年09月07日 | 井伊家関連
浜松の史跡をいつくか訪問した報告を書いていますが、8月26日に直虎さんの命日法要で井伊谷に向かった時、一緒に周囲の史跡も観て回ります。
毎年のことなので同じような場所を訪れていますが、その時の余裕がある時間や、バスで行ったか?レンタカーを借りて行ったか?などで寄る場所が微妙に変わります。
今年は、時間があまりなかったので龍潭寺の近場だけを訪れました。

南北朝時代に井伊家が匿った宗良親王(後醍醐天皇の皇子)を祀った井伊谷宮











井伊家初代井伊共保が化現した井伊家発祥の井戸



井伊直虎さんが妙齢の時期を過ごした妙雲院など



を改めて回りました。
そして新たに新野左馬助(直虎の伯父)屋敷跡の看板を発見し、ドラマの後も井伊谷は井伊家を検証しているのを知らされました。




余談ですが、井伊谷宮の写真を撮った時、門の間に掃除をされている巫女さんが偶然写りましたが、そのことで神社らしさが増したような気がしてちょっと気に入っている一枚です。

頭陀寺城訪問

2020年09月06日 | 井伊家関連
前回、曳馬城跡には徳川家康と豊臣秀吉の像が建立されたことを書きました。
家康が浜松城の改築を行い城主になっていたことから家康との所縁はわかりますが、秀吉は?と言いますと…

『太閤記』などに描かれた話として、秀吉が織田信長に仕える前に一度遠江で仕官をしたことがあるとされています。仕官先は頭陀寺城主松下嘉兵衛という人物で、秀吉は嘉兵衛に大切にされたのですが松下家家臣にいじめられて松下家を飛び出しましたが、天下統一を果たしたあとで嘉兵衛を召し上げて俸禄を加増し恩を返したとされています。

その松下嘉兵衛の妻(松下一族の身内)には松下清景と常慶という弟が居ました。
常慶は早くから徳川家康に仕えていて、清景は井伊直政の母と再婚した人物です。

この縁から井伊直政は一時期松下姓を名乗っていますし、清景の子孫は彦根藩から独立した与板藩の家老を務める家になります。

そんな頭陀寺城跡は今は何もない公園となっています。



その近くには地名の由来となった頭陀寺があり、





境内にも大河ドラマをきっかけに建てられた秀吉・家康・直政の像がありました。

秀吉

家康

直政




井伊直興公のお墓参り

2018年11月05日 | 井伊家関連
井伊直滋さんの甲冑を永源寺に観に行きましたが、永源寺は直滋の甥で彦根藩四代藩主井伊直興公の墓所でもあります。

ですので、東近江市にある直興の二か所の墓所を参りました。
直興は、永源寺86世住持南嶺慧詢(なんれいえじゅん)に帰依していて生前から寿塔として永源寺に直興の墓が作られていました。
その南嶺慧詢が建立したのが永源寺から愛知川を下った場所にある松雲寺で、ここにも直興の墓が建立されたのです。

と、いう訳で松雲寺のお墓から

八人の側室も一緒にお墓があらります。

続いて永源寺。
中には入れないので少し離れたところからお参り。


八人の側室も同じようにお墓があります。

不思議なのは、八人のうち松源院だけは別に石塔が建っています(つまり同じ敷地に二基の墓があるのです)

永源寺は紅葉の季節にも入っていて、綺麗な景色の中で直興公たちが眠っていることを実感しました。




御朱印も受けてきました。


関連地:東近江市 永源寺

井伊直滋さんの甲冑とお墓参り

2018年11月04日 | 井伊家関連
先月末に突然飛び込んできたニュース。
「永源寺で井伊直滋の甲冑見つかる」

それだけなら、実は「ふーん」程度のニュースなのです(永源寺でも直滋の供養を行なっている)。問題はその甲冑の形でした。
金の脇天衝です。
これは彦根藩主のみに許された形でした。直滋さんは井伊直孝公の嫡男に生まれ、長く世子をしていて正室も彦根城を築城した井伊直勝公(直継、直孝の兄)の娘でしたから、正式に彦根藩主を約束された人物でした。
剣が強く、文化人でもあったのですが徳川家光に気に入られすぎて直孝が危機感を感じて藩主の座を譲らないまま直滋は百済寺で出家したのです。

つまり、藩主に極めて近い人物でありながら藩主にならなかった人物なのに藩主仕様の甲冑を作っていたことになります。
これは、彦根藩の定説が覆る発見です。

そんな直滋さんの甲冑が永源寺で公開されていました。
写真許可を声掛けしていただいて撮影。
脇天衝は立派で藩主仕様と遜色ありません。

兜も赤備えのそのままです。

位牌に手を合わせ…

この甲冑が元禄年間に江戸藩邸から見つかった経緯を書いた犬塚家の手紙も見れます。

直孝公が元老として江戸詰めであったため、彦根に居ることがあった直滋さんなのですが、甲冑は江戸にあり、わざわざ永源寺に運んでいるのも不思議です。
直滋さんが何歳くらいの頃に作られたのか?
同じく藩主になれなかった十代藩主直幸公の世子直富さんの脇天衝甲冑も存在するのか?
ますます興味湧きます。

その後、百済寺の直滋さんのお墓に参りました。
いつもながら、空気がピンッと張り詰めながらも決して冷たい感じはしない聖地です。

そのまま、百済寺を見学。

素晴らしい庭園


ここは遠望がきれい。

そして、信長以前の石垣も観れます。

この時期限定の湖東三山の御朱印もありました。


関連地:東近江市 永源寺 百済寺

井伊直亮死去

2018年10月01日 | 井伊家関連
嘉永3年(1850)10月1日、彦根藩12代藩主井伊直亮が亡くなりました。

直亮は井伊直中の三男で母は正室南部氏。
筋目正しい嫡男となります。

今まで井伊家の数多くの藩主やその世子たちを見てきて感じる事は、「なんていい人たちばかりなんだろう」という事。
じゃあ、井伊家には暴君は居なかったの?という質問になると思います。

そんな方に「お待たせしました」と言いたいのがこの直亮です。
直亮は彦根藩主の中で唯一の暴君(暗君)とされている人物です。


直亮には直清という兄が居たのですが、直清が側室腹であったために世子の座を追われ正室腹の直亮が世子となり父直中の存命中に彦根藩主の座を継いだので大きな苦労をせずに藩主の生活を送りました。

やがて、外国船が日本近郊に多く来航すると言う時代の流れから大老に就任した直亮は、フェートン号事件やモリソン号事件の対応に追われます。
そしてモリソン号事件の対応(日本人漂流者を連れてきてくれたのに砲撃した)が国内の知識人の批判を受け大老辞任に追い込まれるのです。
ちょうどこの頃、水野忠邦が前幕閣を追い落とす画策をしていてその前幕閣のトップとなる直亮が追い落とされたのではないかとも考えられます。

こうして大老から彦根藩主としての政事が中心となった直亮は、西洋の文化を取り入れるために多くの資料を取り寄せますがこれが高価だったために藩費の使いすぎとなりました。

また文化人としても大きな意欲を示します。
少し前に湖東焼を興した絹屋半兵衛をしばらく援助した後で、藩窯として半兵衛から取り上げます。
また、時報鐘の鐘の鋳造でより良い音を出す為に多くの黄金を混ぜ込んだのです。
こうして藩費を使いすぎる事は、民衆の反発を生みました。
ただし、ただの文化狂いではなく、のちに『彦根屏風と呼ばれる国宝級の作品を手に入れる時はそれに相応しい値を提示するなど、独自の着眼点を持つ一流の文化人でもありました。

また、西洋船の来航による脅威から相模国の沿岸警備を幕府から命じられますが、これは井伊家の家格ではやる事ではなく(もっと身分が下の大名がする事だった)、尚且つ警備の兵たちは上役が見ていないところではだらけていて他藩の失笑を買ったのです。

直亮はこうして井伊家の中で暗君として名を残す事になります。
そして後継ぎに恵まれず、弟直元を養子としますが直元が若くして亡くなってしまったので仕方なく残っていた弟直弼を養子に指名しました。

しかし、直亮は直弼が嫌いだったらしく、陰険なイジメをしています。
まずは、養子として江戸に入った直弼が「男だけでは不心得もあるので妾を彦根から呼びたい」と申ししれます。
これに対して直亮の返事がなかなか来ず、しばらくして直弼が欲しても与えられなかった“笙(雅楽で使用する楽器)”が送られました。
これは“妾(しょう)”と“笙(しょう)”をかけた直亮の皮肉だったと言われています。

また、直弼が養子として最初に仕事となったのは弘化4(1847)年1月26日の徳川家斉七回忌法要でした。
井伊家世子としての初仕事であると同時に初めての大舞台となったのです。
直弼は前年から官服の準備を彦根に依頼しますが新調が許されませんでした。
仕方なく亡くなった直元の衣装を取り寄せ、直亮はこの服の使用を許可したのです。
しかし、法要の数日前、もうどう頑張っても服の新調ができない時期になって「直元の衣装を使うのは外聞が良くないので使用を認めない」との報せがきたのです。
困った直弼は、病と称して法要出席を断念し江戸城に登城もできなかったのです・・・

こうした陰険なイジメも日常茶飯事だったらしく、周囲から「200年来ない、人情なし」と陰口を叩かれる事となったのです。
そして、藩主在任のまま57歳で亡くなります。
黒船来航の3年前の事でした。

『鶴のうた』

2017年09月11日 | 井伊家関連
『おんな城主 直虎』第33話で衝撃的な最後を迎えた小野但馬守政次。

政次ロスはある程度予測できたことであり、今までのロス現象を冷めた目で見ていたのですが、恥ずかしいなか政次ロスにどっぷり浸かっています(笑)
終焉の地もお詣りの方が多いようです。





自分自身の著書の中でも小野親子が守りたかったのは直平、直盛、直虎の血筋であり小野一族が井伊家にとっての悪臣ではないことを少し書きましたが、大河でここまでになるとは…


そして、政次が亡くなった放送の直後にネット上で広がった追悼の企画CD発売。
最初はよくできたネタだと思ったら本気だったようですね。
大河ドラマは、『花の生涯』の井伊直弼以来、平将門、平清盛、原田甲斐、足利尊氏、最近でも『天地人』や『真田丸』での石田三成など歴史的には悪役となる人物の評価を見直す試みはよく行われましたが、その評価を超えて主役でもない人物の企画CDが発売されるなんて初めてだったそうですね。
しかも、既に出ているドラマサントラの『イチトラ』『ニィトラ』と音源は被りません(天虎などのアレンジはありますが…)。
どこまでも小野政次の為の音源でした。

まずは、政次による辞世の句の朗読から始まり、サントラが続きながらも柴咲コウさんのみの読経(ニィトラには新井美羽ちゃんから柴咲コウさんに移るモノはあった)があったり、30話にて語られた政次の「百尺竿頭に一歩を進む」の禅語の朗読もありました。

政次の一生を俯瞰するようなフォトブックも入ってましたし、どこまで政次ロスを広げるねん!って内容でした。


今までほとんどの人が知らなかった一人の武将が亡くなってから450年の時を経てこれほど愛されるとは、当人も驚いているでしょうね。

6月28日、井伊直孝死去

2016年06月28日 | 井伊家関連
万治2年(1659)6月28日、井伊直孝が亡くなりました。


井伊直政が上野国(群馬県)箕輪城12万石の城主だった時、同じ年に2人の男児が誕生しました。
長男が、万千代(直継)
次男が、弁之助(直孝)と命名されました。

同じ年に生まれたこの兄弟の母親は別の人物で、万千代の母は正室・松平氏でしたが、弁之助の母・印具氏は、万千代の母の侍女だったのです。
怒った松平氏は印具氏と弁之助を城から追い出してしまったのです。
ちなみに直孝の産湯を汲んだ井戸が静岡県焼津市中里の若宮八幡宮に残っていますので、もしかしたら印具氏が追い出されたのは弁之助が生まれる前だったのかも知れません。
そんな風に、城から追い出された弁之助でしたが、6歳の時に母・印具氏に連れられて直政と親子の対面を果たし、その保護を受けるようになりましたがまだ城に入る事ができなかったのです。

11歳の時に弁之助の有能さを惜しみ手元で育てたいと望んだ直政は、迎え入れるのを拒む松平氏に対して「弁之助に母が居なくなれば我が手で育てねばなるまい」と言い、印具氏に刺客を向けて殺してしまったのです。
こうして母を失った弁之助は父・井伊直政の息子として迎えられたのでした。
この時、直政は近江国佐和山18万石の城主となっていましたが、翌年に亡くなってしまうのです。

しばらくして、徳川家康に拝謁、家康の後継・秀忠に仕え井伊家の別家として所領を得ました。
そして15歳で兄・万千代と共に元服し、直孝と名乗ったのです。
慶長19年(1614)に大坂冬の陣で初陣を飾りますが、この時に病弱な兄に代わって井伊家家臣を率いて出陣しました。
この戦いでは真田信繁の真田丸に攻撃を仕掛けて大敗を喫しますが、その勇猛振りを家康に評価されたのでした。
冬の陣和睦後、家康から井伊家宗家の家督を兄・直継から直孝に譲るようにとの命が下ります。
こうして直孝は彦根藩井伊家を相続したのです。
石高は15万石。3万石を直継に譲ったのでした。この時から井伊家は2家に分かれたのでした。

翌年の大坂夏の陣では先鋒を務め活躍し“夜叉掃部”との異名をとるほどになったのです、この戦いで豊臣秀頼の信頼が厚かった木村重成を討ち取って、秀頼や淀の方を追い詰めて自害に追い込んだのも直孝でした。
戦後、戦功を賞されて家康から金と銀を千枚ずつ賜り、5万石の加増も得たのでした。島津家の薩藩旧記に「日本一の大手柄」と称賛されています。
この加増で、彦根城の拡大が必要となり、第二期工事が始まったのでした。
後年に近江国内で5万石、世田谷と下野国佐野で計5万石(後に3万石が近江に移される)の加増があり30万石の所領を得たのです。
ここに彦根藩主には京都守護を兼任する事が決まっていて、その役料として5万石の米が幕府より預けられていたので合計35万石の大大名となったのでした。

さて、井伊直孝には一つ大きな疑問が残されています。
大老になったのかなっていないのか?
徳川秀忠が亡くなる時に「彦根には戻らず、江戸詰めとなり“元老”に就任して三代将軍・家光を補佐するように」との遺命が残されます。
この元老という職は、そのまま後の大老となるのですが、大老という呼び名では無い以上は、大老として扱わないのか?それともいい直孝が初代大老となるのかは今でも議論が分かれる所です。
彦根藩から出た大老の数は5人か7人と言われていますが、5人の時は“直澄・直興・直幸・直亮・直弼”の事を指し、7人になるとこれに“直孝・直該(直興の再任)”が加わるのです。
どの様な呼び名にしろ、直孝は三代将軍・家光を元老として支え、家光が亡くなった後は四代将軍・家綱の後見を勤めたのです。


何度も書きますが、井伊直孝と言えばひこにゃんです。
彦根は招き猫がシンボルとなっていますが、その伝承は直孝から始まっています。

1615年と言いますから、ちょうど大坂夏の陣の年のこと、貧しいお寺だった弘徳庵の和尚は、とても大切にしている猫(名前・タマ)がいたそうです。
和尚は自分の食事を削ってまで猫に与えていましたが、ある日その猫に「タマ、恩を感じているなら何か福を招いてくれないか?」と言って聞かせました。
多分、貧しさによる冗談だった筈です、しかし夏の日のこと、急に門前が騒がしくなり和尚が不審に思って表に出ると狩の中途と思える立派な武士が居ました。
その武士は「何やらこの猫がしきりに手招きするので尋ねてみた、休憩させてもらう」と言いました。
和尚が武士を茶でもてなしていると突然雷が鳴り響き、辺りは豪雨となったのです、和尚はその中でも整然と仏の教えについて説きました、これを見た武士は「我は、近江彦根城主・井伊直孝だ、猫に招かれ雷雨を逃れ、その上、ありがたい話まで聞けた、これからもよろしく頼む」と言ったそうです。
井伊直孝は、この後、四代将軍・家綱の頃まで幕府の重鎮として活躍し、江戸前期の幕府を築き上げた「寛永の遺臣」の一人にも挙げられていますし、井伊家は江戸時代を通して七人の大老を輩出するほどの名門でしたから弘徳庵は、江戸における井伊家の菩提所として多くの田畑を寄進され、大きなお寺へとなったのでした。
そして、後に直孝の戒名を取って『豪徳寺』と改名したのです。
和尚は、猫の恩返しに感謝し、その後も大切にし、亡くなった後は墓を作って「まねきねこ」と称して家内安全、営業繁盛、心願成就のご利益があると公伝しました。
こうして招き猫が誕生し、彦根も招き猫をシンボルにするようになったのです。

この縁のあり、直孝の墓は豪徳寺に建立されています。