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彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『べらぼう』の話(37)相良城破城

2025年09月07日 | その他

天明7年(1787)10月、田沼意次が老中職を辞しながらもまだ権力を握っていた田沼派の幕閣たちも次々と失脚し、松平定信政権は田沼意次個人に対して苛烈な処分を行います。

・意次の蟄居

・家督は孫意明が相続

・相良藩の旧領没収のうえ、奥州下村藩一万石立藩

でした。

目立った罪がない元老中に対して最大で五万七千石(実益はもっと多い)から一万石(実益は半分くらい)に減封というだけでも相当の怨みを感じます。


10月12日、幕府は相良に40名強の役人を派遣

16日、収城使を命じられた岸和田藩主岡部長備が藩士ら2600名を率いて江戸より相良にはいり、平田寺に本陣を置く。

11月25日夜明けとともに、岡部長備が相良城に入城。

相良藩士たちの抵抗に備えて、佐賀藩鍋島治茂、丹波篠山藩青山忠講の家臣が掛川宿にはいります。

また、城の四方を、横須賀藩西尾忠移、田中藩本多正徳、三河吉田藩松平信明、掛川藩太田資愛、浜松藩井上正甫が固めていました。

『忠臣蔵』の赤穂城明け渡しでも、収城使が緊張している場面がありますが、相良城でも多くの大名や幕臣を備えたのでした。


これに対し、相良城には城代倉見金太夫、家老各務久左衛門、中老潮田由膳らが岡部長備を作法通りに迎えたのです。

田沼家家臣たちのほとんどは浪人することになるのです。


本来ならば、収城使が無事に入城した段階で相良城は幕府の公的資産になるのですが、松平定信は相良城の破城を命じます。

現代で言うならば、個人的感情で公費を使って省庁の建物を勝手に壊す愚行です(定信に関して、個人的に悪い感情を持ってますが、これは事実なので…)


相良城接収から年を越して、天明8年1月16日、相良城破城が始まります。

相良城は、天守は築かれませんでしたが天守に替わる三重櫓が建っていました。この櫓はとても堅固で解体に苦労したようです。

同月25日本丸御殿破却、29日城内の建物は撤去、2月5日には全ての作業が終わったのです。

そして、2月22日に資材などが競売にかけられました。

これらの資材は今も見ることができます。

◯牧之原市内

・大澤寺

本堂が転用資材




礎石


本堂内の間仕切り竹も相良城の資材

刻太鼓


・大鐘家住宅

田沼街道沿いの石垣が転用資材



・般若寺

杉戸


陣太鼓

また、藤枝市の大慶寺には、御殿の一部を移築した建物も残っています。



他にも相良城の資材は転用されているとも聞いています。


相良城だった場所は田畑として開墾されることになりましたが、破城の4年後に城址を訪れた小林一茶が


 石運び なげき照りつむ しめし野の

 人のあぶらに 光る城かな


と詠んでいるため、この段階でまだ石垣の石が運ばれていることもわかるのですが、小林一茶が俳句ではなく和歌なの?と少し気にはなっている逸話でもあります。

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『べらぼう』の話(36)『画本虫撰』

2025年08月31日 | その他

江戸幕府の政権が田沼意次から松平定信に変わった直後の天明8年(1788)正月、『文武二道万石通』などの黄表紙と同時に耕書堂から発刊されたのが喜多川歌麿の『画本虫撰』でした。


これは、恋心を虫に託して歌われた狂歌とその絵を組み合わせた一冊で、四方赤良や朱楽菅江、唐衣橘洲などの当時一流の狂歌師の歌だけでも話題になりそうですが、本物よりも本物らしい一瞬を捉えた喜多川歌麿の絵の凄さは圧巻でした。

(画像は、芸艸堂から出版されている豆本より)





序文をのちに蔦屋重三郎の墓碑文を書く宿屋飯盛が書き、歌麿の師と言われている鳥山石燕も賛文を寄せています。


実際にこの本を捲るだけでもその世界観に魅了されます、大人だけではなく子どもにも好まれたのではないでしょうか?

巻末では、こののちに鳥、獣、魚の企画があったようですが、(たぶん蔦屋重三郎の都合で)鳥の『百舌鳥狂歌合』しか刊行されなかったのは残念にも感じてしまいます。


こののち、喜多川歌麿は美人画を多く描くことになるのです。

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『べらぼう』の話(35)天明の打毀し

2025年08月24日 | その他

天明7年(1787)5月20日、江戸の米問屋街が庶民に襲われます。 

5月12日に大坂で始まった打ち毀し。庶民はそこまで怒って居たのです。 

時代は田沼意次が失脚し、松平定信が老中へ就任する直前でした(定信は幕府の殆どの人物から老中就任を反対されていて手詰まりの時期)。それまで田沼意次の悪政で庶民が苦しい想いをしていたという感覚があり、田沼失脚後に暮らしは良くなると誰もが期待していました。 
天明の大飢饉直後と言う現状もその想いに拍車をかけていたのです。 
しかし、定信は田沼派を追い落とす事ばかりを重点に置き、飢饉や前年に江戸を襲った大洪水に対する救民政策を怠ってしまったのです。 
田沼時代には人々の目に届かなかっただけで、こういう救民政策は充実していたのでした。 

田沼失脚後にますます生活が苦しくなるなんて考えもしなかった庶民に追い討ちをかけるように4月15日には11代将軍・徳川家斉の将軍就任に伴って、豪華絢爛な就任式典が行われたのです。 

民衆は怒りました! 

5月20日、青山など4ヶ所で米問屋が襲われます。建物は壊され、商品の米は地面に撒き散らされたのです。 
翌21日、日本橋・浅草など22ヶ所 
22日には江戸全域にその被害は拡大します。 
この頃になると、米屋だけではなく質屋・油屋など庶民の貧困を無視して儲けに走った商家が次々と襲われたのでした。 

今でもそうですが、役人はこういう事体に対して動きが遅く、打ち壊された現場を視察するば事後的な方法になってしまいます、そして偶然現場に駆けつけてもそのまま庶民に追い返されてしまったのです。 
これは、徳川幕府の力が民衆には通用しない事を証明した結果となりました。 
後の史家達は、この天明に打ち毀しこそが幕府の屋台骨を揺るがしたと見ています。 

ただし、民衆はただの暴徒ではありません。 
打ち壊しの最中も見事なまでにルールが守られていました。 
・盗みはしない 
・人に危害は与えない 
・女子供は巻き込まない 
・目標の店以外には隣近所に迷惑をかけない 
などなど… 
打ち壊す前に火の用心をして火事も出しませんでした。 
現場を目撃した役人が「まことに丁寧礼儀正しく狼藉仕り候」と矛盾するような記録を残すくらいだったのです。 
その結果、1万件近い商家が襲われるクーデターでありながら1件の火事も1人の死者も出る事はありませんでした。 
騒動解決に乗り出した幕府でしたが、捕縛した者はたった37名。 
しかも先導した首謀者が居るわけでもなく(あえて言うなら松平定信自身でしょうね)、結局大きな罪に問われる人は居なかったのです。 
ましてやこの騒動、定信自身が鎮圧に出向くと民衆はその姿を観ただけで去っていったといいますので、何か仕組まれたモノを感じざるを得ません。 
とにかく、これがきっかけで定信は老中に就任できたのです。 

ちなみに2年後にはフランスで全く同じ条件のクーデターが発生し、これはフランス革命へと広がっていくのです、もしかしたらこの時幕府が倒れていた可能性もあるんですね。

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『べらぼう』の話(33)水野忠友

2025年08月10日 | その他

田沼時代に老中のひとりである水野忠友は興味深い人生を送った人物ですが、あまり注目されていないのも寂しいので当時が増えてきたタイミングで紹介したいと思います。


水野氏はもともと尾張国緒川城を中心とした地域を治めていた国衆で、徳川家康の生母である於大の方の兄弟を祖として何家かの譜代大名や旗本の家が繋がっています。



そのなかで、於大の方の弟である水野忠重から勝成に繋がる福山藩(維新時は結城藩)が本家となります。

水野忠友は、勝成の四弟・忠清が上野国小幡藩一万石で立藩したことに始まります。その後、信州松本藩七万石となり、六代忠恒まで松本藩を治めたのですが、忠恒は兄が若くして亡くなったために急に藩主に選ばれた人物であり、酒色や狩を好む難ある人物だったのです。

享保10年(1725)7月28日、7日前に大垣藩主・戸田氏長の養女と婚儀を行った忠恒は将軍徳川吉宗に祝いの御礼言上のために江戸城に登城し、吉宗への拝礼を終えた直後、松之廊下において長府藩世子・毛利師就に斬りかかったのです。

師就は鞘ごと脇差を抜き応戦、右手、左耳、のどに傷を負うものの深傷にはならず、戸田氏長の弟・氏房が忠恒を押さえて事件は終わったのです。


浅野内匠頭の刃傷から約四半世紀後の刃傷事件は世間の注目を集めますが、水野家の家柄から忠恒は乱心とされ蟄居。水野家は七千石の旗本として叔父水野忠穀が後を継いだのです。


この忠穀の嫡男が忠友です。

九代将軍となる徳川家重の小姓を務めこの時に一回り年上の田沼意次と同役であったことから繋がりができたと考えられます。

田沼意次は、家重と次代・家治の信頼が高く小姓番頭から側役となり側用人そして老中へと出世する当時としては変則的な方法で幕政に参政します。

これに対し水野忠友は、小姓番頭から若年寄となり三河大浜藩一万三千石として譜代大名に返り咲きやがて沼津藩三万石で勝手掛老中となるのです。

この出世には、田沼意次の四男意正を娘婿として水野忠徳と名乗らせ養子に迎えたことが大きいと言われています。

しかし、田沼意次失脚後に意正は水野忠友の娘との間にできた息子と共に田沼家に戻されます。

それでも、水野忠友と田沼意次の繋がりは問題視されて老中を罷免されるのですが、田沼意次を失脚に追いやった松平定信が老中の座を去ると忠友は西の丸老中に返り咲いたのです。

老中在任期間は累計34年となり、従兄弟の水野忠恒が落とした家格を戻すことに成功したのです。


そんな忠友の後を継いだのは、田沼意正と離縁した娘に新たに迎えた婿である忠成でした。

旗本岡野家から養子に入った忠成は、寺社奉行、若年寄を歴任し、側用人から勝手掛老中となり、徳川家治の後を継いだ徳川家斉(十一代将軍)の信任を受けて田沼意次の再来と呼ばれるようになるのです。

そして、この時に水野忠成を助けた若年寄が、田沼意次の死後、田沼家当主四代が次々と亡くなったために田沼家を継いでいた田沼意正だったのでした。

水野忠友の娘の前夫と継夫が若年寄と老中という形で幕政を担うようになるのです。


余談ですが、田沼意次と水野忠友の血を受けた田沼家当主は幕末に天狗党討伐を指揮した若年寄・田沼意尊に続くことになります。

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『べらぼう』の話(32)江戸生艶気樺焼

2025年08月03日 | その他
天明5年(1785)正月、耕書堂から発刊された『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』は黄表紙として空前の大ヒットを記録しました。初版発刊後に三度も再版されていて著者である山東京伝も人気作家としての名声を得ることとなるのです。

『江戸生艶気樺焼』は本文を山東京伝、挿絵を北尾政演が担当したと記されていますがどちらも山東京伝の名前ですので、京伝が絵も文章も書いた作品となるのです。同じようなことは恋川春町や十返舎一九も行っていますが多彩な才能であったことは間違いありません。

物語の内容としては…
金に困ることがない家に生まれたが見栄えが良くない仇気屋の「艶二郎」は19歳か20歳くらいの青年。
日がな一日浄瑠璃や物語などを見ては女性との色恋沙汰で世間の噂になることに憧れていたのですが、近所の悪友二人と一緒にこの憧れを果たそうと悪戦苦闘。
女性と愛を誓うと腕にその名前を彫り、別の女性ができるとお灸で焼いて新しい女性の名前を彫るのが粋と聞くと、20も30もの名前を入れて灸で焼いたり。
世間で若い女性が役者の家に押し掛けた事件があったと聞くと、芸者を50両で雇って家に駆けこませたり。その話を瓦版(読売)を雇って記事に書かせたりするが世間の目は「作り話に違いない」と冷たい反応。
そして吉原に行って浮名屋の浮名という遊女との仲を広めようとする。
その反面、せっかく吉原に行ったのだから帰宅したときにやきもちを焼く女性がいないと面白くないと200両で40歳くらいの女性を妾にして、やきもちを焼かせる芝居をさせてみる。
そして悪友の一人に金を与えて連日浮名のもとに通わせて、自分は浮名の妹分のところに通って浮名と密会するという場面を演出。

などなど金に物を言わせて滑稽なことばかりしているのですが…

それでも懲りずに人を雇って自分に殴り掛からせたり、自分が金持ちであることに嫌気がさして父親に勘当してもらうように頼んだり(母親からの仕送りで金には困らない)そんなことをしていると多少はうつけ者として評判になることもあるのですが、艶二郎の望むような大きな噂にはならないので、とうとう浮名と心中することを決意します。
とは言っても浮名にはそのつもりもないため、浮名を身請けして心中のお芝居をしてから浮名はどこに行っても自由という条件で認めさせるのです。
こうして、浮名を1500両で身請けして、それでも心中の為に足抜けするような演出で見世の二階まで梯子を掛けて駆け落ちのようにする(でもみんなに見送られている)。
心中する場所まで行ったところで追剥に遭い「もうこりごりだ」と思いながら艶二郎と浮名はほぼ裸の格好で仇気屋に戻ると、盗られたはずの着物が置いていて、父親から追剥は自分が番頭にやらせたことだと明かして心を入れ替えた艶二郎はその後に浮名を妻に迎えて悪友二人と縁を切って真面目に働いたのです。
そして自分のダメな行いを黄表紙にして世間に知ってもらうため山東京伝に語って聞かせたのでした。

という物。
艶二郎は、鼻が上向いたブ男に書かれていて、一説では山東京伝自身を描いたともされていますが、この愛嬌がある姿と縁二郎の滑稽さからしばらくは「艶二郎」は流行語となります。
黄表紙も文学であるため、のちの世にまで影響を与える言葉も生まれていて恋川春町の『金々先生栄花夢』では「類は友を呼ぶ」という言葉も生まれていますし、山東京伝がのちにヒットさせる『心学早染草』とそれに続くシリーズでは「善玉」「悪玉」という現在まで日常的に使われる言葉と、今のゆるキャラに繋がるような「善玉」「悪玉」のキャラクターも誕生しているのです。

黄表紙など当時の物語は正月に発刊されるため、物語の落ちはハッピーエンドで終わることが常識でありこの物語をはじめとして安心して読めることも大きな特徴です。
また、これらのいつの時代に読んでも滑稽な物語と、世の中を風刺した物語が混在しているのも面白い形だと思っていましたが、『べらぼう』28話では『江戸生艶気樺焼』の中に政治的な風刺が含まれているという視点が描かれていたのでその観点で改めて見ると面白いのかもしれませんね。
ちなみにタイトルは「ウナギのかば焼き」をもじったものなので、劇中に鰻屋が出てきたのかな?

余談ですが、『江戸生艶気樺焼』を読むのに簡単なのは、『サライ』2025年2月号のとじ込み付録です(今回の写真もそこから使用しました)

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『べらぼう』の話(26)浅間山噴火

2025年06月29日 | その他

天明3年(1783)7月8日、浅間山が噴火しました。


この年は、年明けの頃は南風が吹いて東北でも雪が降らない暖冬になり、津軽で鯨が迷い込んできました。

春になると一転して雨が続く寒い日々が続いたのです。


そして4月9日から、目に見える形で活動を始めていた浅間山は、6月27日からほぼ毎日のように噴火を繰り返すようになりますが、ここまでの間は民衆も降灰による作物の不作が懸念される程度であり、浅間山麓の村でも避難という行動はありませんでした。

7月6日から8日にかけて、ついに大規模な噴火となります。これは京大坂でも噴火の音が聞こえたとも言われています。最初の大噴火で火砕流が発生して北側に流れ出すのですが、火口から北12キロにある鎌原村よりも手前で止まります。それよりも北にある草津温泉では火山見物で湯治客が増えるくらいにのんびりしていました。

鎌原村でも、火砕流が来なかった上に風は西に吹くために火山灰も少なかったために危機感はありませんでした。

しかし、火砕流が止まった次の日の午前10時頃、新しい火砕流が発生し村を飲み込んだのです。

村人597人のうち466人が亡くなる大惨事でした。

生き残った人は村から外出していた人か、50段ほどの石段を登る観音堂の上まで逃げ切れた人でした。

後年の発掘調査によって、この石段の下で重なり合っている女性の遺骨が見つかりました。若い女性が老女を背負い逃げてきたのですがここで飲み込まれたと考えてられているのです。

やがて、これらの火砕流や降灰が周辺の河川を堰き止めます。逃げ道のない自然のダム湖となりますが、水を溜め切れなくなった場所から決壊し、下流では大水害を起こします。この時に水と一緒に被害地域の瓦礫や遺体が川を流れて行き、江戸でもこれらが流れ付きました。

 

噴火は落ち着きましたが、この後も2か月近く続いたために、関東を中心とする多くの地域で被害が発生し、一説では死者2万人ともされているのです。


この時に上空に達した火山灰は成層圏にまで達したと言われていて、この大量の火山灰が世界を覆ったのです。浅間山噴火より半月ほど前アイスランドのラカギガルも大噴火をしていて、両方の火山の火山灰が世界を短期的な小氷河期へといざなったのです。


この影響で、日本では天明の大飢饉が起こり、約10万人が亡くなります。また、ヨーロッパでは小麦の不作からパンの値段が高騰します。

ヨーロッパの民衆は、普段から収入の半分をパン代(野菜や肉は別)に消費していたとされていて、これが高騰することは死活問題となったのです。

同じ頃、ヨーロッパ各地では宗教問題も絡んだ民衆の蜂起も増えてきました。小麦問題については特にフランスの行動が遅くなり、やがてフランスは国外から高い小麦を輸入して販売することになりますますパンは高騰、フランス革命へと突き進んで行くのです。


浅間山噴火

立公文書館デジタルアーカイブ(www.digital.archives.go.jp)より


イザーク・ティチングによる浅間山噴火の挿絵


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『べらぼう』の話(20)恋川春町の前半生

2025年05月18日 | その他
恋川春町は戯作者の時のペンネームで本名は倉橋格。
駿河小島藩で年寄本役を努める武士です。駿河小島藩は石高は1万石でしたが、徳川家康の四代前の松平長親の弟乗清を祖とする滝脇松平家が藩主を努める生粋の譜代大名で、この藩で年寄(家老)だったということは上級武士とも言えるのです。

ちなみにペンネームの由来は小島藩邸が小石川春日町にあったからと言われています。狂歌師としての狂名は「酒上不埒」であり、洒落っ気のある人だったのでしょうが、どちらの名もあまりにもストレートでひねりが甘いので他の戯作者よりも真面目だった雰囲気も伺えます。

そんな恋川春町は朋誠堂喜三二と深く交流があり二人は戯作者としても競い合う関係でもありましたが、春町が書いた『金々先生栄花夢』が大ヒットをし黄表紙という新たなジャンルが開拓されるのです。

まだ蔦屋重三郎が版元ではなかった頃、春町や喜三二は鱗形屋から出版をしていましたが、鱗形屋が没落し蔦屋が春町らを引き受けます。

そんな中、天明元年(1781)蔦屋の耕書堂から発刊された『楠無益委記(くすのきむだいき)』は、百年後の江戸を描いた話として話題になりました。
物語を読んでみると…
・初夏の名物として知られる初鰹が冬至の頃に売り出され、値段は嘘八百の800両、鰹が「500両くらいでは見向きもしない」と言う始末。
・髷は釣り竿のような形になる。
・駕籠ではなく車が流行(ただし人力なので、人力車のことになるか?)
・梅雨明け辺りに大寒のような寒さになって汗がつららになり、にゅうめんが冷たくなる。
・盆と正月が一緒に来る。
・男性が女郎を買うのではなく、女郎が客を選ぶ。
・地震は空で揺れて、雷は地面で鳴る。
・道楽娘が悪原(あしわら、吉原が良原とも呼ばれる逆)通いで母親から勘当される。
・若者が真面目に働き、親やお年寄りが道楽三昧。
などなど…

今考えると、現実になっていることもありなかなかの先見の明です。
この題材は大いに受けて、朋誠堂喜三二も『長生見度記(ながいきみたいき)』を記しているのです。

ちなみに、未来の話というのは、『太平記』で楠木正成が聖徳太子の記した予言書『未来記』を読んだ話が元ネタになっているため、楠(正成)無益(ムダ)となるわけです。
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2025/05/01

2025年05月01日 | その他

今年も彦根市の地域通貨『彦』が貰える時期になりました


登録している彦根市内のお店や行政サービスでお金としても使え、400年祭の頃から使われていたのですが…

今年で配布が終わりになりました


急になんなん⁉︎

という感じ

最後のひこにゃんエコバッグとの交換もしてきました




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大阪・関西万博(3)

2025年04月25日 | その他

予定外の「日本刀展」を楽しんだので、大屋根リング沿にガンダム像に向かって歩きました。

途中で西ゲートすぐにあったものとは違うミャクミャク像を見つけたり


噂の人間洗濯機を見学したり(この時は人が入っていない運転でした)



地面に鳥獣戯画っぽいイラストを見つけたり


と、なんだかんだで楽しんでいます。

ガンダム像の前に到着し、時間まで待てばこの日唯一予約したパビリオンに入場です。

確かに、長い時間並ばなくても入れる予約制は利点がありますが、事前スケジュールをしっかり組まないとダメであるのは悩ましいこともこの一回で理解しました。

パビリオン内では、近未来設定の地球から宇宙へのある意味での社会科見学中にMS戦を目撃するような物語が展開されていました。

撮影OKでしたが、撮影に気を取られると楽しめないくらいに全方向で体感する内容でした。



事前にガンプラで発売されていた万博ガンダムの活躍が後半のメインです


そして等身大ガンダムの足の裏はこのパビリオンに入らなければ見れません。

夜になり、ライトアップされたガンダムを見て帰路に着きました。

夜も楽しめる仕掛けはあるようですが、帰る時間を気にしないといけないのが日帰りの悲しさかもしれません。





帰りのシャトルバスや電車も空いていましたので、平日の午後は狙い目かもしれませんね。


さて、半日ですが万博を見てきた感想は、どうしても見たいパビリオンがあるならば事前に予約した方が良いですが、無計画に行っても楽しめる仕掛けはいくつもあります。

ネガティブなネタも探せばたくさんありますし、その反対に不意に出会う面白そうなネタもあります。

個人的には、3から5くらいのパビリオンを時間を開けて予約して、その空き時間に探索気分でウロウロするのをおすすめします。

流れてくる音楽や、外観が面白いパビリオン

万博の本来の楽しみ方ではないかもしれませんが、夢洲には世界が凝縮されていました。

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大阪・関西万博(2)

2025年04月24日 | その他

ガンダムパビリオン予約の時間まであっちこっちをウロウロ

ポケモンを見つけたり(ポケモンGOも何かしてるみたい)



いろんなオブジェがあったりもします


食事ができないとの話もありましたが、それはメディアで過剰に注目されているところだけで、普通に食べることはできました(ただし、値段は割高なものは多いです)


一番の目的は5月27日にイベント関連で使うポップアップステージ南の確認で、これは問題なくできました。


大屋根リングにも海にも近い場所でした。


ステージの隣、ギャラリーEAST『日本刀展』(4月21日〜25日)をやっていて予約不要だったので覗いてみると

大久保家伝来の真長


同家伝来の短刀千鳥村正


立花家伝来の正宗

肥後松井家伝来の三池



一竿子忠綱



和泉守兼定

そして、万博の為に打たれた新刀(鞘にミャクミャクのあれが🤣)



などが展示されていました

撮影OKでしたし、これだけでも行って良かった!と思えた瞬間です。


続く

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