今年も彦根市の地域通貨『彦』が貰える時期になりました

今年で配布が終わりになりました
急になんなん⁉︎
という感じ
最後のひこにゃんエコバッグとの交換もしてきました

予定外の「日本刀展」を楽しんだので、大屋根リング沿にガンダム像に向かって歩きました。
途中で西ゲートすぐにあったものとは違うミャクミャク像を見つけたり

噂の人間洗濯機を見学したり(この時は人が入っていない運転でした)


地面に鳥獣戯画っぽいイラストを見つけたり


と、なんだかんだで楽しんでいます。
ガンダム像の前に到着し、時間まで待てばこの日唯一予約したパビリオンに入場です。
確かに、長い時間並ばなくても入れる予約制は利点がありますが、事前スケジュールをしっかり組まないとダメであるのは悩ましいこともこの一回で理解しました。
パビリオン内では、近未来設定の地球から宇宙へのある意味での社会科見学中にMS戦を目撃するような物語が展開されていました。
撮影OKでしたが、撮影に気を取られると楽しめないくらいに全方向で体感する内容でした。


事前にガンプラで発売されていた万博ガンダムの活躍が後半のメインです


そして等身大ガンダムの足の裏はこのパビリオンに入らなければ見れません。

夜になり、ライトアップされたガンダムを見て帰路に着きました。
夜も楽しめる仕掛けはあるようですが、帰る時間を気にしないといけないのが日帰りの悲しさかもしれません。




帰りのシャトルバスや電車も空いていましたので、平日の午後は狙い目かもしれませんね。
さて、半日ですが万博を見てきた感想は、どうしても見たいパビリオンがあるならば事前に予約した方が良いですが、無計画に行っても楽しめる仕掛けはいくつもあります。
ネガティブなネタも探せばたくさんありますし、その反対に不意に出会う面白そうなネタもあります。
個人的には、3から5くらいのパビリオンを時間を開けて予約して、その空き時間に探索気分でウロウロするのをおすすめします。
流れてくる音楽や、外観が面白いパビリオン
万博の本来の楽しみ方ではないかもしれませんが、夢洲には世界が凝縮されていました。
ガンダムパビリオン予約の時間まであっちこっちをウロウロ
ポケモンを見つけたり(ポケモンGOも何かしてるみたい)


いろんなオブジェがあったりもします

食事ができないとの話もありましたが、それはメディアで過剰に注目されているところだけで、普通に食べることはできました(ただし、値段は割高なものは多いです)
一番の目的は5月27日にイベント関連で使うポップアップステージ南の確認で、これは問題なくできました。

大屋根リングにも海にも近い場所でした。
ステージの隣、ギャラリーEAST『日本刀展』(4月21日〜25日)をやっていて予約不要だったので覗いてみると
大久保家伝来の真長

同家伝来の短刀千鳥村正

立花家伝来の正宗

肥後松井家伝来の三池


一竿子忠綱


和泉守兼定

そして、万博の為に打たれた新刀(鞘にミャクミャクのあれが🤣)



などが展示されていました
撮影OKでしたし、これだけでも行って良かった!と思えた瞬間です。
続く
4月22日、始まって10日目の関西万博に行ってきました。
5月27日のイベントに関わるため、会場の下見をしたかったとの思いもあり急に思い立ったためにパビリオン予約などは行っていませんでしたが、イベント関連で万博アプリだけは先にダウンロードしていたこともあり、アプリ内でチケットを購入。
アプリを見ると当日予約で入れるパビリオンもあるみたいでしたが、それは会場に入ってから10分後から使えるみたいで、このあたりがややこしい…
何にしても、アプリ内でチケット購入
訪問日と時間を登録
夜勤明けでしたから12時以降の入場にしました。
まずは大阪駅まで出て環状線の西九条で乗り換え、JRゆめ咲線でユニバよりも一駅進んだ桜島駅で降りるとそれなりに歩いた先に会場行きのバスが待っています。
平日火曜日の13時だった為か、バスに乗っていたのは14人でその内11人が警備か何かで行かれる関係者でした。
バスが西ゲート近くに到着して、ゲートに向かいましたが行列などはなくすんなり入口へ
荷物検査があり、アプリからQRコードを示して入場します。
会場内にはそれなりに人の行き来はありましたが、売店などもすんなり入れました。
キャッシュレスでの支払いしかできませんが、会場のあれこれがQRコードメインのためスマホがないといろいろ困るため、交通系ICカード(関西人だからICOCAです)に事前チャージをして利用しました。
支払いがキャッシュレスなのは、レジの円滑化はあったように思います、でも残高が気になるのは慣れていないからでしょうね😅
なんとなく気になって、ミャクミャクになろうとしているイコカぬいぐるみを購入しました。

ちなみに、売店も扱う商品によって店が変わります。ミャクミャクとイコカがメインの店もあれば、ガンダム関連が置いている店もありました。
そこから、大屋根リングの方に向かうとミャクミャク像を発見!

その奥には万博ガンダムも見えました。

まずは、ガンダムを見に行きスタッフさんがパビリオン予約の方法を教えてくれました
で、15時に予約をしようとしたら、ドンドン埋まって18時前にやっと取れたのでそれまでは散策です。


大屋根リングの大きさは圧巻でした。
上に登って、海に向かって歩いて行き、途中で休憩、上に登る前に購入したバーガーを食べながら一休みしてまた歩きました。




行列が出来ているところばかりで、予約も面倒なのでパビリオンにはほとんど入りませんでしたが、建物を見るだけでも面白いですし、予約不要でサッと入れる場所もあり、そちらも工夫されていました。




のんびりリングの上を歩いたあと、歴史好きの間で問題になっていた残念石(石垣に使うつもりで切り出したのに使われず放置された巨石)を使ったトイレに行って見ました。


使い方が意味不明で、残念の上塗りになっていたのは悲しかったです。
400年前に残念な想いをして、令和でも残念石のままなのは寂しいですね。
トイレといえば、丸見えが問題になっていたトイレも使用できない状態でした。


この話、続きます…
徳川将軍のなかで名前に「家」が付いていない人物が四人います。
・二代将軍秀忠は、豊臣秀吉に「秀」の字を与えられたことと、父家康がギリギリまで家督を譲るかを悩んでいたともされている
・五代将軍綱吉は、兄家綱の死によって館林藩主であった立場から宗家を継いだため
・八代将軍吉宗は、七代将軍家継が夭折したために紀州藩主から宗家を継いだため
・十五代将軍慶喜は、十四代将軍家茂の急死で一橋家当主から宗家を継いだため
と、元服時に徳川宗家を継ぐことが決まっていなかったからと考えられているためです。
逆説的に、無理にでも宗家を継がせたかった十四代将軍家茂は、紀州藩から宗家の養子に入った時に慶福から家茂に改名することで、権威付けを測ったとも考えられるのです。
徳川宗家にとって元服時に名前に「家」という字を付けることは将軍になる人物であることも示していたのですが、そんななかで江戸時代の徳川家で名前に「家」が付きながら将軍になれなかった唯一の人物が徳川家基でした。
徳川家基は十代将軍徳川家治の嫡男、母親は側室お知保の方。
家治は正室である五十宮倫子との仲が良く、側室を持つつもりがなかったのですが、後継ぎが生まれなかったために周囲から側室を持つことを勧められていました。
幕閣や大奥の意見を受けて田沼意次が家治に進言した時、家治は「意次が側室を持つならば自分も側室を持つ」と言ったとの逸話があります
意次は、楊弓場(射的を使った風俗)の女性を蘭方医千賀道隆の養女として妾にします。この道隆の息子が『べらぼう』で時々名前が出てくる(平賀源内がエレキテルを披露する時に屋敷を貸していた)千賀道有です。
話を戻して…
お知保の方は期待に応えて男子を生み、徳川宗家の幼名である竹千代と名付けられました。
幼い頃の竹千代は、病弱であったとの説がありこれが元服した後のイメージに重ねようとする動きもあるが、十歳をすぎた辺りから鷹狩を楽しむようになり、体が鍛えられていくのです。
元服してからも家基は何度も鷹狩に出掛け特に弓術に秀でた青年として成長しました。
安永6年(1777)、16歳になった家基は年に10回以上の鷹狩を行う。それは翌年にもある変わることはなかったのですが、安永8年、18歳の家基は3回の鷹狩を楽しみ、4度目の2月21日に急死するのです。
この日、早朝と言える時間に江戸城を出た家基一行は御殿山近くの東海寺を休憩地点にするための準備の使者を派遣して、鷹狩のために新井宿に向かいました。
新井宿は、歴代将軍が利用した狩場のひとつですが、家基は浅草や千住を好んで利用していて新井宿は2年ぶり2回目でした。
しかし、東海寺の記録によると寺に入った家基は御殿山の桜がキレイだったことから新井宿に向かわずに御殿山に出掛け、昼餉に東海寺に戻ったあと再び御殿山に向かったのです。
つまり、花見をして鷹狩はしていない…
しかし、他の記録では新井宿、御殿山、目黒など個々に違う場所を記して鷹狩を行ったことになっています(公式記録の『徳川実記』は新井宿)。
そして『徳川実記』などでは東海寺で食事中に急に倒れたとされ、別の記録では鷹狩中に具合が悪くなり東海寺に運ばれたとあります。
何にしても、いったん東海寺にて手当が行われ、その後に急いで駕籠で江戸城に運ばれ西の丸大奥に入ったのでした。
そして、3日後の2月24日に家基は18歳で亡くなったのです。
不思議なのは、家基が倒れた翌日に東海寺住職が家基を見舞いに行くと元気な姿を見せてくれたとの記録を残していて、裏工作の匂いもします。
鷹狩好きの健康な青年が、自らが企画した大好きなイベントの最中に急死する。
この様な普通では想像できない出来事のため、当時から毒殺説が囁かれていました、そして黒幕として挙げられたのが田沼意次であり、意次が犯人であるかのような噂が作られた流布してゆきます。
しかし、徳川家重・家治からの信任によって幕閣に食い込んでいた意次が家治を暗殺しても利益はなく、意次黒幕説は考え難いのです。そして家基鷹狩の日は田沼意次は非番、何かが起こっても簡単に動ける日ではなかったので逆にこの日が狙われたようにも感じられるのです。
徳川家基急死については、現代においても真相は判明していません。
そもそも、鷹狩が行われたのか花見であったのか?
本来ならば一番近い現場である東海寺の記録に沿うべきですが、他の記録との違いもあり改竄された可能性も否めないのです。
ただ、この事件により田沼政権の土台が崩れ始めるのです。
鱗形屋は、田沼時代には三代目を数える江戸の地本問屋でした。
もともとは京都の八文字屋の江戸店を引き継いで開いた店であるために上方の版元との繋がりが強く、出版後進地域であった江戸において出版を牽引した版元でもあったのです。
また、地本問屋であり書物問屋でもある大店でした。
しかし、安永4年(1775) 、『新増説用集』という本が『早引説用集』(上方の柏原屋与左衛門・村上伊兵衛が版権を持っている)を盗作したものであるとの訴えがあり、鱗形屋の板木などは没収されました。
そして同年末には『新増説用集』の責任を追っていた手代である徳兵衛が家財欠所及び江戸から十里四方追放、主人の孫兵衛が急度叱及び過料鳥目廿貫文などの処罰が下されたのです。
ちなみに『説用集』とは、単語の最初の読み方で「いろは」順に分類し、それを部門毎に分けて漢字や読み方を紹介した今の国語辞典の元祖になるような物です。
また上方では半世紀以上前から盗作については問題視されていて、書物問屋たちが京都や大坂の町奉行に禁令を依頼して何度も禁令が発布されていますが、守られていないのが実情でした。
このことからも、わざわざ江戸の鱗形屋を上方の版元が訴えることについての疑問も感じざるを得ません。
しかし、同年に鱗形屋から恋川春町の『金々先生栄華夢』も刊行され、黄表紙という新ジャンルの開拓(ただし当時の人々は黄表紙との認識はなく青本の一種としている)した鱗形屋は家業を保たせていました。
そんな中、旗本某家の用人が遊ぶ金欲しさに主の物を盗んで売るという事件が起こり、この用人と盗品購入業者の仲介を行った罪で孫兵衛は江戸所払いの罰を受けました。
安永10年には江戸に戻り、寛政年間まで家業は続けたようですが、再び登り目になることはなく廃業し、その後の記録は残っていません。
ただ、孫兵衛の次男は西村屋与八の養子となり、二代目西村屋与八として活躍、戯作者としての名も残していますし、二代目の跡を継いだ三代目西村屋与八は葛飾北斎『富嶽三十六景』の版元にもなっています。
安永4年(1775)吉原では8月に九郎助稲荷の俄(にわか)が行われるようになりました。
俄は正式には「俄狂言」と呼ばれるイベント
路上や宴席で素人が急に歌舞伎や狂言を始める即興芝居を言います。
ですので「茶番」とも呼ばれたりして、予定なしににわかに始まることから「にわか」と呼ばれるようになったとの説があります。
吉原や京都の島原などの遊郭では遊女や芸者もしくは客や幇間(太鼓持ち)などが俄を行っていました、吉原ではそれを大々的なイベントに昇華させ、8月の30日間で晴天の日に芸者などの関係者が役者などに仮装して芸を披露したのです。
この時は吉原が女性や子どもも含めて一般開放され、普段以上の賑わいとなりました。
安永5年に耕書堂から出版された『明月余情』は、朋誠堂喜三二が序文を書いていて、蔦屋重三郎と朋誠堂喜三二が共同で行った最初の出版物として注目されています。
九郎助稲荷の案内板

俄は吉原だけではなく全国的に盛り上がったイベントでしたが、吉原俄は関東大震災によって資料が失われてしまいます。
しかし、大阪俄の系譜は今の吉本新喜劇になどに引き継がれるのです。
身請けとは、遊女の借金やその後に受けるであろう収入プラスご祝儀を客が見世に支払って遊女を自由にする(ほとんどは、自らの妾にする)ことです。
吉原の松葉屋においての「瀬川」の名前は、享保年間(1716〜36)から天保年間(1781〜89)までの長くても73年の間に9人が名乗っていて、ドラマでも触れられている四代目は宝暦年間(1751〜64)に美貌と教養の高さで知名度を一気に上げたと言われています。
ドラマでは、四代目が自害したために遠慮される名前とされていますが、歴史的には御用商人江市屋宗助に身請けされたとも、江市屋を表に立ててある藩の家老が身請けしたとも伝わっていてその死が28歳であったこと以外は死因ははっきりしていません。
その後、五代目瀬川まで約20年の空白があったことは史実でした。
そんな五代目を見染めたのが、盲人である島山検校でした。
江戸幕府は、目が見えない人に対する優遇措置のひとつとして高利貸しを認めていて、盲人は按摩などの仕事で得たお金を高利で貸付けて身分を金で買っていたのです。「検校」は盲人の最高位で約千両で買えたとも言われています。
盲人の取り立ては激しく、しかも借り手が取り立てのキツさなどを幕府に訴え出てもほぼ盲人勝利の判決が下されたのです。
鳥山検校は、盲人たちのトップにいた人物ですのでお金には有り余っていたと考えられます。
安永4年(1775)、鳥山検校が五代目瀬川を身請けした時の金額は1400両とされています。現在の価値で1億から1億5千万円くらいでしょうか。
しかし、瀬川が身請けされてから3年後にある旗本が厳しい取立てに負けて出奔する事件が起こり、幕府により盲人一斉摘発が行われ鳥山検校も罪に問われ遠島となります。
瀬川は、飯沼という武家の妻になったあと夫の仕事大工の妻となり、尼になって生涯を終えたとの話もありますが、真相は不明です。
鳥居清長筆《雛形若菜の初模様・松葉屋瀬川 さゝの 竹の》
国立文化財機構所蔵品統合検索システムhttps://colbase.nich.go.jp/


井伊直幸を大老に迎えた田沼意次だったが、御三家や御三卿などをはじめとする親藩や譜代大名らからの反発を受け、後ろ盾であった十代将軍徳川家治が急死したことから急激に権力を失ってゆく。また各地で起きた天変地異や打ち毀しの責任も意次が負わされた。こうして田沼時代は終わり、徳川吉宗の孫である松平定信が老中首座に就き「寛政の改革」が始まる。
田沼意次失脚後の天明8年(1788)蔦屋重三郎の耕書堂から発刊された黄表紙である朋誠堂喜三二の『文武二道万石通』では、定信が推奨する文武のどちらにもかからない「ぬらくら武士」のひとりとして井伊直幸と思われる人物も描かれていて(画像左上「伊」の紋を付けた人物、向かい合って七曜紋を付けているのが田沼意次)、重三郎らも直幸と意次の深い繋がりを理解しながら田沼時代の終焉を歓迎していた風潮も見受けられる。それと同時に定信の政治に対しても皮肉を込めた物語であった。この作品は江戸での評判が高くベストセラーとなる。翌年には喜三二の友でありライバルでもある恋川春町が『鸚鵡返文武二道』を発表。これにより定信の怒りが爆発した。秋田藩留守居役であった朋誠堂喜三二は断筆、駿河小島藩年寄本役であった恋川春町は幕府からの呼出に応じないまま急死(自害との説が有力)する。耕書堂の二枚看板であった二人を失った蔦屋の巻き返しは黄表紙ではなく浮世絵を中心に行われることとなり、ここから喜多川歌麿や東洲斎写楽を世に送り出すこととなるが、同時に幕府によって規制され罰も受けることとなる。
このように、江戸幕府が庶民に考え方を押し付けて活気がなくなりつつある空気を明確に示した狂歌がある。
「白河の清きに魚も住みかねて 元の濁りの田沼恋しき」
(白河藩主である松平定信の清い政治は暮らしにくい、黒い噂があったとしても田沼時代の濁りが懐かしい)
「世の中は蚊ほど煩きものはなし ぶんぶぶんぶというて夜も眠れず」
(世の中にこれほど煩いものがあるだろうか? 文武文武と言ってこられては安心して眠ることもできない)
田沼意次を汚れた賄賂政治家と決めつけて天変地異すらも意次の責任とし、意次の息子・意知を暗殺した佐野善左衛門を世直し大明神とまで崇めた江戸市民たちであったが、失ってから初めて田沼時代は自由な風が流れていて庶民の権利すらも認められていたことに気付いたのだった。意次は蝦夷地開拓からのロシアとの貿易、その航路として必要になる運河の役割も果たす印旛沼の開拓、金・銀・銭の三つの貨幣が入り乱れていた経済を統一した通貨を流通させて明朗化しようとした経済改革など日本が開国し近代化する礎を築く政策を行っていた、しかし現代にいたるまで田沼時代は賄賂に汚れた汚職政治の時代としか見られないのである。
『文武二道万石通』国立国会図書館デジタルコレクション
