彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

10月29日、井伊直弼誕生

2007年10月29日 | 何の日?
文化12(1815)年10月29日、井伊直弼が彦根藩の槻御殿で誕生します。
直弼の人生は色んな場面で書いていますので、今回は直弼が誕生した頃のお話。


直弼は、彦根藩11代藩主・井伊直中の14男。幼名は鉄之介・鉄三郎
この頃は既に三番目の兄・直亮が12代藩主に就任していましたので父・直中も直弼が彦根藩主になる可能性を全く予測していませんでしたから、年老いた時の子どもに甘い親そのものを示すような育て方だったようです。


直弼の母である彦根御前は美女としても名高い女性で、藩主の側室としては珍しく直中の子どもを3人(直元・政優・直弼)も産むほどに寵愛されていたのです。
この彦根御前は直弼が5歳の時に亡くなってしまいますが、そんな美しい母親の面影を持った直弼が直中に大切に育てられたのも改めて理解できますよね。


この年、世界では大きな動きもありました。
フランスでは3月20日~6月28日までナポレオンが百日天下を取っていてワーテルローの戦いが行われたのもこの時期です。

ヨーロッパが動き出すのに合わせる様に文化年間は、レザノフ・フェートン号・ゴローニン事件などが起こるのもこの時期でした。


そして、文化とその次の文政年間は、江戸時代最後の華やかさを示す文化が発達した時で、後に“化政文化”と呼ばれる時期でもあったのです。


江戸時代最後の輝きの中で誕生した直弼は、父・直中、母・彦根御前はもちろんの事、長兄・直清にも大切にされ本当に倖せな前半生を生きますが、5歳で母が亡くなり、10歳で長兄、17歳で父が亡くなった為に彦根城外とも言える尾末町屋敷に移されて15年の貧しく苦しい生活を歩む事になるのです。

10月27日、宇津木六之丞斬首

2007年10月27日 | 何の日?
長野主膳と宇津木六之丞を慰霊する義言地蔵


文久2年(1862)10月27日、彦根藩の牢屋敷で宇津木六之丞景福が斬首となりました。享年54歳。


宇津木家は戦国時代に小田原の後北条氏に仕えていて、北条氏滅亡後に井伊直政に従い藩政時代は重臣の家となっていたのです。

景福は元々は古澤氏の生まれでしたが、母の実家である宇津木六之丞家に後継ぎが生まれなかったために宇津木六之丞家の九代目を継いだのです。
若い頃は十二代藩主・直亮の下で彦根藩の相模湾警備に参加し鉄砲頭として大砲も作っています。


直弼が藩主となると江戸家老として江戸上屋敷に詰め、常に直弼の側に従っていたのでした。この時の記録が『公用方秘録』として今に伝わり直弼研究の第一級資料となっています。


六之丞は、江戸で直弼の側に居ましたが、京を中心に活動したのが長野主膳でしたので六之丞が二人の間の連絡係りとなっていたのです。
そして桜田門外の変の時は、上屋敷で直弼が襲われた報告を受け、慌てて現場に飛び出していったのが六之丞だったと言われていてドラマなどでもそのように描かれています。

桜田門外の変の後の彦根藩に関する始末で活躍し、直弼没後も主膳と共に幕閣に影響を与え公武合体を成功させたのです。
しかし、直弼の後を継いだ老中・安藤信正が坂下門外で襲われ、そのまま逃げ出してしまったので武士の恥を晒してしまい失脚したのです。
こうして主膳や六之丞も幕府から遠のく事になったのです。


同じ頃、尊皇攘夷の志士たちが安政の大獄の恨みを晴らす為に主膳・六之丞らの命を狙った為に彦根藩での反長野派の家老・岡本半介は自藩の重臣が暗殺されると言う事件に発展する事を恐れて長野主膳を捕らえて取り調べもしないままに3日後に斬首としたのです。
文久2年8月27日の事でした。

そして江戸に居た宇津木六之丞も彦根に招聘されて首を斬られたのでした。
主膳も六之丞も武士でありながら切腹も許されなかったのです。


“月影の 更行ままに身にしみて
   氷ると見ゆる 芹の河水”

とは六之丞の句

10月22日、平安京遷都

2007年10月22日 | 何の日?
延暦13(794)年10月22日、平安京遷都。
京都ではこの日に時代祭が行われます。

ではなぜ都は平安京に移ったのでしょうか?
通説では仏教勢力の拡大の影響を逃れるためだと言われているが、そんな事は絶対にありえません。
平安京(京都)の寺の多さは今も昔も日本一ですし、比叡山延暦寺や東寺・西寺(現存していない)等は最初から桓武天皇の保護を受けていたのです。
では、本当の理由は何か?といえば王朝交代と怨霊なのです。


672年の壬申の乱以降には皇室には2つの系統がありました。
兄・天智天皇の系統と弟・天武天皇の系統で、壬申の乱は天武天皇が兄の子の大友皇子(弘文天皇)を討ち滅ぼして皇位に就いた事件でした。

天武天皇は元々皇位に就く資格のない人だったのでその即位式には草薙剣が祟ったという記録も残っています。
この為に壬申の乱の後も多くの血を流す事になり、770年に称徳天皇の死によってその系統は滅んでしまうのです。

そして、正統な天智天皇の末裔に皇位が戻ったのでした。
正統な皇位継承者で無い者の一族が作り上げた都から離れ本当の天皇家の都を作る事こそが桓武天皇の狙いだったのです。


桓武天皇の御世に初めて公式記録に残されるようになった日本人特有の感情が怨霊でした。
桓武天皇には安殿親王(後の平城天皇)という息子がいたのですが、父・光仁天皇の強い希望で弟の早良親王を後継ぎとしていました。
しかし、桓武天皇にすれば弟よりも息子に後を継がせたくなるのが人情と言うモノ…
でも父親の意見なので我慢していたのです。

やがて、父・光仁天皇が病没すると天武系からの完全な独立(光仁は皇后が天武系だった…)を目指して今の京都の南西・長岡で建都を始めます。
しかし長岡京着工の翌年に工事責任者・藤原種継が何者かに暗殺されてしまうのです。
これは遷都反対派の大伴継人の犯行と断定され継人は斬られ、20日ほど前に亡くなっていた継人の父・家持は官位を剥奪されました。
そして黒幕が皇太子・早良親王だと決め付けられて廃太子された上に淡路に流されたのです。
早良親王は無実を訴えて絶食し護送中に衰弱死してしまったのでした。しかし遺体は都に戻される事無く淡路島に送られた…
後年の事になるが大伴一族と早良親王の無実は証明されています。
そして、早良親王は怨霊になったのです。


早良親王の没後に桓武天皇の周りでは不幸な事が続きました。
夫人(側室)・藤原旅子から始まり母・皇后を失う。
また息子・安殿親王も病気がちになってきたのです。長岡京も二度の洪水に悩まさせられました。


ここにいたり桓武天皇は早良親王を怨霊と認めその調伏と回避に力を入れ始めたのです。
調伏の方は怨霊発覚から桓武天皇崩御までの14年間に何度も早良親王の墓に使者を送る徹底振りをしめし、回避として平安京が建都される。


平安京が風水の理論に忠実に作られていると言う説がある。
東に青竜(川)・西に白虎(街道)・南に朱雀(湖・沼)・北に玄武(山)がある地形が都を作る理想とされていて、平安京の場合は東に鴨川・西に西国街道・南に巨椋池(明治に埋め立て)・北に船岡山があり理想の地とされていました。
また、鬼門となる北東方向には比叡山があり、最澄の開いた比叡山寺がここを守る形のなったのです。
最澄はこの偶然から桓武天皇の覚えが良くなり、その子・嵯峨天皇に“延暦寺”の寺号を許される、元号がそのまま寺の名前になるのはこの時が最初であり、以後天皇の許可無しには元号を寺号にするのは禁止されているのです。


平安京の風水は幾重にも完備されている。
細かい説明は避けますが、風水でいう所の龍穴と呼ばれる気の集まる所に太極殿(天皇の住まいと政庁)は建てられていたし、そこから冬至の日の出の見える方向には都を守る将軍塚・日の入りの方向には松尾大社があり、夏至の日の出の見える方向には下賀茂神社・日の入りの方向には天皇家の血統を守った和気清麻呂の墓がある護王寺があります。

これほどまでに気を使った都はこれまで登場していません。
そして、これだけの装備をしたからこそ平安京は千年王都になったのです。

ちなみに江戸の町も同じ原理で出来ています。
東に隅田川・西に東海道・北に上野山・南に江戸湾があり鬼門に東叡山寛永寺。
平安京建都の時の方針が江戸時代まで使われていたのです。


しかし、ここまでしながらも京都はこれから先現在に到るまで数多くの怨霊・悪霊に悩む事になります。そして明治に入り都が東京に移された時に京都の南の巨椋池の干拓を許可する事で京都の風水をわざと壊し東京まで怨霊の恐怖が及ばないようにしてしまったのでした。


歴史を知る上で一番大切な事は、自分の常識を当てはめない事。
自分が怨霊を信じていなくても、たとえ科学でその存在が否定されても、それを歴史上の人物の思考に当てはめると理解が出来なくなってしまいます。
風水は平安京建都当時は最新の科学であり、怨霊も常識でした。
江戸の町も同じでしかも鬼門警護はもっと気を使ったのです。

江戸の鬼門の延長線の水戸には御三家の一家を置き、京の鬼門の延長線の彦根には譜代大名筆頭の井伊家を置いて目を光らせています。
この配置を指示した江戸幕府政治顧問の天海は「水戸から将軍が出た時に幕府は終わる」と言い残したそうですが、最後の将軍・慶喜は実際に水戸藩の出身でした。
それぞれの鬼門に位置する水戸藩と彦根藩の争いがそのまま幕府と朝廷の対立になり、鬼門出身の将軍が幕府を終焉させた事を偶然とは言い難いかも知れませんね。
風水は今でも受け継がれていて、それを扱える人(陰陽師)に脚光が浴びるのもこの歴史があってこそなのだと思いますよ。



ちなみに、こんな平安京遷都を記念して行われるようになった時代祭を提案したのは元彦根藩士・西村捨三でした。
西村は沖縄県令・大坂府知事も勤めあげた人物ですので後日その人生を紹介していきたいと思っています。

10月15日、彦根城城郭保存決定

2007年10月15日 | 何の日?
高宮宿 円照寺の止鑾松(しらんのまつ)


明治11(1878)年10月15日、彦根城保存の内達書を滋賀県令宛に送られ彦根城保存が決定しました。

同年10月10日、明治天皇は北陸巡幸を終えた帰途に福田寺に一泊しました。
この時に福田寺の正室で明治天皇の皇后の従姉妹でもあった福田寺かね子が彦根城保存の嘆願を行ったのです。

かね子の婚礼の時に仲人を行ったのが井伊直弼だった事を含め、井伊家と福田寺が密な関係にあった事がこの嘆願の始まりだったようです。


翌日、高宮宿円照寺に泊まった明治天皇は12日に平田の県営製糸工場を見学しさらに彦根城にも立ち寄ったのです。
彦根城は明治9年の彦根城博覧会の後に取壊しが決定していて、この時には既に天守が800円で売却される事が決まっていて解体用の足場も組まれていたのです。

明治天皇に随行していた大隈重信は、この彦根城を見て無くなるのを惜しみ天皇に彦根城保存を奏上しました。
これを認めた明治天皇が内大臣・岩倉具視に城郭保存を伝えたのです。


15日、宮内卿から滋賀県令・籠手田安定へ内達書が送られ彦根城は解体の途中で急遽保存となったのです。


明治天皇の北陸巡幸に随行した高崎正風は

“いでまして
   めぐみの露の かからずは
  ひこねのふる城
     くちやはてまし”

と詠み、巡幸がもたらした彦根城の幸運を後世に伝えています。



ちなみに写真の止鑾松は明治天皇が泊まった円照寺に残っています。
明治天皇が円照寺に宿泊することとなったので、玄関に天皇の乗り物をつけるのに「松の木が邪魔であるので切れ」と役人が命じたのです。
でも、円照寺の住職はこれに抵抗を示します。
役人が明治天皇にご意向を伺うと、天皇は「歩くことなど言うまでもない」と松の木の前に乗り物を止めて御座所まで歩かれました。
その後、住職はこの松が天皇の乗り物の鈴“鑾(らん)”を止めたので“止鑾松(しらんのまつ)”と名付けて明治天皇の慈悲と共に後世に伝えているのです。

10月14日、大政奉還

2007年10月14日 | 何の日?
慶応3(1867)年10月14日、二条城で大政奉還が宣言されました。
こうして、264年8ヶ月2日の江戸幕府が終焉を迎えたのです。
ペリー来航から14年半、桜田門外の変から考えるならたった7年半で幕府は崩壊に向かったのでした。
同日、薩長に対し『倒幕の密勅』が出されますが、大政奉還により事実上無効となりました。


江戸幕府15代将軍・徳川慶喜は幕府に不利になりつつある政局を打開する策として政権を朝廷に返上すると言う起死回生の手を打ちます。
約265年、鎌倉時代から考えるなら建武の親政と呼ばれる5年ほどの期間を除いても670年近くは自ら政治を行う事が無かった朝廷が急に権力を渡されても困って政権を返してくるだろうと慶喜は考えていたのです。

これに対し薩長は“王政復古の大号令”をする事で幕府の時代が終わった事を強調したのでした。


ちなみに、薩長は武力倒幕を目標としていたので大政奉還が煙たいものでしたので、江戸薩摩藩邸で盗賊を雇い江戸市中で放火・窃盗を行います(御用盗)、これに反発した庄内藩が薩摩屋敷を焼き討ちしたために戊辰戦争の悲劇が起こりました。

そんな武力衝突を避けたかったのが坂本龍馬で、大政奉還は龍馬の案を後藤象二郎が山内容堂に進言し容堂から慶喜に薦められたのです。
こんな龍馬の話を明治になってから新聞小説で読んだ慶喜は「龍馬が生きている間に会いたかった」と言ったといわれています。


大政奉還に彦根藩が大きく関わった事がありませんが、彦根藩は江戸幕府があるからこその藩ですので大政奉還も大きな衝撃だったのではないでしょうか?


余談
慶喜の名前ですが、普段は「よしのぶ」と呼びますね。
でも将軍時代は「よしひさ」と呼ぶようにとの幕命がありましたし、明治以降は「けいき」と呼ばれていました。
慶喜自身は「けいき」と呼ばれる事を好み、旧幕臣は「けいきさん」と呼んでいたそうですよ。

アイメイト・デー

2007年10月10日 | 何の日?
10月10日は“アイメイト・デー”と言う事で、ここで彦根と盲導犬についてのお話。
盲導犬は目の不自由な方にとってはかけがえのない存在であり、パートナーと言う表現だけではなく家族としても扱われます。

そんな盲導犬第一号が活躍した土地が、ここ彦根でした。
 
昭和32(1957)年9月6日、 ドイツ産シェパード犬の愛称チャンピィが彦根盲学校の教官・河相溂 氏に返される、これが日本の盲導犬第一号誕生の瞬間でした。
チャンピィを訓練のは塩屋賢一 氏、その物語はNHKの『プロジェクトX』や少年マガジンの読みきりマンガにもなった事があるのでご存知の方も多いかもしれませんね。

「一人で自由にどこでも歩いて行きたい」、河相さんは、戦争中に工場での重労働が祟って目の光を失い、その後は母親の助け無しでは一歩も出歩く事ができなくなりました。
一方、塩屋さんは勤めていた会社が倒産し、当時は死病とされていた結核を患ったために再就職もままならず、自宅で金持ちの犬を教育する仕事で何とか生活をしていた人でした。
こんな絶望的な生活をしていた二人が出会ったのは昭和31年、河相さんが生後半年のチャンピィを貰った事が切っ掛けでした。
「この犬を盲導犬に…」
二人の前には多くの問題・誤解があり、先進国・欧米と日本の生活様式の違いなどの根本的な壁もありました。
しかし、チャンピィは見事に盲導犬として成長します。
その頃、彦根の滋賀県立盲学校で教官となっていた河相さんの元に戻ります、河相さんは今の図書館の所にあった盲学校に中央町から通えたそうです。
そして塩屋さんも度々彦根を訪れて、チャンピィの訓練を続けました。

塩屋さんは、その後も900頭以上の盲導犬を育て上げます。

今、全国には約950頭の盲導犬が活躍しているそうですが、今すぐ盲導犬を必要としている方はその10倍になると言われています。

朝鮮通信使行列

2007年10月09日 | イベント
2007年10月6日~8日に行われた『日韓交流フェスタin彦根』のイベントの一つとして“朝鮮通信使行列”が行われました。

朝から雨が降る彦根市内でギリギリまで開催が危ぶまれたと思うのですが、多少規模を縮小して行われます。
当時の行列の再現のほかに、警察隊のパレードや吸打隊の演奏もあり賑やかに沿道を進み久座の辻から宗安寺に入ります。


宗安寺では、国書交換式も行われました。
400前に通信使たちが彦根を進んだ時はもっと賑やかな歓迎だったのかもしれませんが、賑やかなイベントになりましたよ。

10月4日、六代藩主・井伊直恒死去

2007年10月04日 | 何の日?
宝永7(1710)年10月4日、彦根藩六代藩主・井伊直恒が亡くなりました。享年19歳。
この頃、彦根藩は彦根城第一期工事が完成して100年を越えた盛りの時だったのですが、密かに藩滅亡の危機を迎えようとしていたのです。

今回はそんなお話。


直惟は四代藩主・井伊直興の十男として江戸で誕生し一度も彦根の土を踏まないままに江戸藩邸で育ちました。

兄で五代藩主でもある井伊直通は自分が病弱だった事を憂いて、自分に何かあった時は弟の主計頭(直恒)を次の藩主に据えるように言っていました。
しかし、そんな事は杞憂に過ぎないと家臣は当然の事、直恒もそう信じていたに違いありません。
ましてや、江戸生まれで江戸で育った直恒に彦根の責任を負う事は夢にも思わなかった事でしょう。


しかし、直通の不吉な憂いから4ヵ月後の宝永7年7月25日に直通は22歳で亡くなったのです。

こうして同年8月12日に直恒の藩主相続が幕府から許されたのです。
しかし10月4日、直恒は彦根藩主でありながら一度も彦根城を見る事もなく19歳で亡くなります。

直恒の藩主在任期間は約50日、後継ぎは定められていませんでした。
直恒は彦根藩主の中で一番短い在任期間となります。


本来、後継ぎの決まっていない藩は取り潰しに遭うか、減俸となる筈でした、少し前に米沢上杉家では後継ぎが居ないまま藩主が亡くなって急遽、吉良上野介の息子を養子にしましたが石高が30万石から15万石に減らされるという罰を受けています。
(忠臣蔵で吉良家に上杉家が味方するのはこんな関係があるからなんです・・・)

でも、大老になりうる家柄の井伊家を同じ様に罰する訳にもいかなかった幕府は、窮余の策として直恒の弟が育つまで直通・直恒の父で四代藩主だった直興に藩主を再任させたのです。

こうして井伊家は次の男子・11歳の直惟の成長を待つ事になったのです。

彦根が舞台の小説『つばめ』

2007年10月03日 | 書籍紹介
“日韓交流フェスタin彦根”に先立って、朝鮮と彦根を舞台にした小説をご紹介します。

タイトルは『つばめ』
著者:ジェームス三木


元々は舞台ミュージカルとして演じられていた物を小説として上梓された作品です。


主人公は30歳の彦根藩士・水島善蔵
善蔵は井伊直政に小姓として重用されていたのですが、治水や土木の才を見込まれて作事方に就いている130石の武士です。
直政が亡くなった時に、その側室だったお燕を拝領妻(家臣に下げ渡された妻)としていました。お燕は22歳。
拝領妻という事を鼻にかけず水島家に尽くす何でも率先してする奥さんでした。

善蔵とお燕はとても仲睦まじい夫婦だったのです。


時代は江戸時代初期。
彦根藩では佐和山城を廃城にして彦根城築城が行われ、善蔵も彦根城築城に作事方として参画していましたがそんな忙しい中でも二人の間には息子(一太郎)が生まれたのです。


そんな彦根城築城が落ち着いた慶長11(1606)年末(一太郎が生まれたのは秋)、水島善蔵は翌年に来る朝鮮通信使の接待準備を命じられたのでした。


この朝鮮通信使が彦根に入り藩の接待を受けた時、お燕が朝鮮の踊りを披露したのです。
そんなお燕を見て、堂上訳官・李慶植が「チョビ!」と叫び、お燕は動揺したのです。


実はお燕は豊臣秀吉の唐入りの時に日本兵にさらわれ、伊予大洲で機織の仕事をさせられたのですが、藤堂高虎が伏見の秀吉に献上した女性だったのです。
秀吉は病の為、お気に入りの井伊直政にお燕を与え直政は側室に迎えたのでした。

そして李慶植はお燕の朝鮮での夫だったのです。


朝鮮通信使の来日の目的は「秀吉に連れ去られた朝鮮人の全員の帰国」を幕府に主張する事でした。
この通信使を接待する善蔵と二人の夫の間で揺れるお燕。

そして井伊家が直継派と直孝派に別れ争う中、拝領妻の解釈も重なって間に挟まれてしまう善蔵やお燕の苦しみなど見どころが沢山です。


そして通信使の事もよく解る読み易い小説ですよ。