彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『吉祥のデザイン―鶴と亀―』 能装束

2009年01月24日 | 博物館展示
今回も細かい部分が出てきますので大きい画像でアップさせていただきます。

『吉祥のデザイン―鶴と亀―』では、能装束も4領展示されています。
写真の物は「紅白段向鶴菱花菱亀甲文様」という大正から昭和時代に作られた物です。

能は江戸時代の武士にとって嗜みとなっていましたので各藩で多くの能役者が召抱えられ、能装束も収集されました。
彦根藩でも四代藩主直興や十二代藩主直亮は文化に対して深い造詣がありましたのでこれらの時代を中心に能装束が収集されたのです。

しかし、今の彦根城博物館に残っているのは藩政時代の物は少ないです。


井伊家では十五代当主の井伊直忠が能好きで知られた人物で、後に彼がモデルになった人物を登場させた『迷路』という小説を野上弥生子が『迷路』が描いていますし、井伊直弼の『茶湯一会集』が世に知られるようになったのも明治45年に直忠が井伊邸で催した演能会に高橋箒庵(数寄者・三井の大番頭と呼ばれた実業家)が招かれて、屋敷内の茶道具コレクションの中に直弼の著書を見つけた事がきっかけでした。

そんな当代きっての文化人であった井伊直忠は住まいであった東京に大好きな能装束を集めていたのです、そして関東大震災によって灰となったのでした。


ですから、博物館の能装束はこの後に直忠が再び収集した物です。

そんな中でこの「紅白段向鶴菱花菱亀甲文様」をじっくり見ていただくと、紅白の色分けだけではなく、紅の色の中には向かい合っているつがいの鶴が菱形に白の色の中には亀甲文様と細かい細工がなされています。
しかもこの上にまだ着物を重ねるので、この模様は能を演じる時にほとんど目にすることは無いのです。
ちらっと見えた時に、本当に気が付く数寄者だけが満足する仕事。
能装束にはそんな奥深い、そして贅沢な細工が施されてるんですね。

『吉祥のデザイン―鶴と亀―』 張子和図

2009年01月18日 | 博物館展示
今回の展示で管理人が個人的に一番うれしかったのは、この絵に出会えた事かも知れません。

「張子和図」
張志和という仙人を描いた絵です。
仙人は不老長寿の象徴としてよく描かれるお目出度い図柄の一つですが、この張志和という仙人は水の上に敷き物を敷いて座し、その上を鶴が旋回してやがて天に昇る図柄です。
鶴は、亀と違い飛べることから好まれて描かれていたようですね。

さて管理人は別に張志和に信仰がある訳ではありません、問題はこれを描いた人物です。
絵の右上に“直恒 筆”と書かれています。

直恒とは、彦根藩六代藩主・井伊直恒です。
何者?と思われる方の為に少し説明するなら…


“井伊直恒”
井伊直興の十男

兄で五代藩主でもある井伊直通は自分が病弱だった事を憂いて、自分に何かあった時は弟の主計頭(直恒)を次の藩主に据えるように言っていました。
しかし、そんな事は杞憂に過ぎないと家臣は当然の事、直恒もそう信じていたに違いありません。
ましてや、江戸生まれで江戸で育った直恒に彦根の責任を負う事は夢にも思わなかった事でしょう。


しかし、直通の不吉な憂いから4ヵ月後の宝永7年7月25日に直通は22歳で亡くなったのです。

こうして同年閏8月12日に直恒の藩主相続が幕府から許されたのです。
しかし10月5日、直恒は彦根藩主でありながら一度も彦根城を見る事もなく18歳で亡くなります。

直恒の藩主在任期間は約50日、 後継ぎを弟の直惟に定めますが幼少であったために父の直興が再び藩主に就任するという異例の処置がとられたのです。

こうして直恒の人生は、突然の藩主就任から突然の死と何もかもがあっと言う間に過ぎてしまい、その人柄も知られないままに彦根藩の中で最も期間が短かった藩主としてのみ歴史に名が残ったのです。


たったこれだけです。
あとは精々どんな官位を与えられたかの記録くらいしかないと思っていました。

それがこの絵に直恒の名が記されているのです。
これ以外にも数点はあるようですが、絵を見る限りではプロとまではいかなくてもセミプロに近い腕はあった様に思えるとの事でした。

また署名の字を簡単な筆跡診断で見てみると…
「精神的にはとても安定していて論理性が高く生真面目だった」と思えます。

藩主就任の話も無い頃に狩野派で学んだ絵だと思うのですが、管理人としてはメール友に初めて対面した時と同じような感激がありました。
本来なら好きな絵を楽しんで、文化人として名を残したかもしれないのに、藩主の重責からか?(管理人は別の説を主張しますが…)たった18年の人生を終えた青年の数少ない生きた証をご覧になってはいかがですか?


(今回は署名を見てほしいので大きいサイズで写真を掲載しました)

『花の生涯』大河ドラマ誘致市民会議(仮)設立準備中

2009年01月13日 | 大河ドラマ誘致活動
2011年大河ドラマ50作目
2012年大河ドラマ51作目
2013年大河ドラマ50周年
2014年大河ドラマ51年目
2015年井伊直弼生誕200年
2017年彦根城築城410年

1963年に初めて放送された大河ドラマは『花の生涯』でした。
しかし、今は第一話と桜田門外の変の時の映像を残すのみです。

また井伊直弼が大河ドラマの主人公になったのはこの時だけでした。


黎明期の大河ドラマ(モノクロ放送)の中で実在の人物を扱った作品を見て行くと。

第1作目、井伊直弼『花の生涯』
第2作目、忠臣蔵『赤穂浪士』
第3作目、豊臣秀吉『太閤記』
第4作目、源義経『源義経』
第5作目、架空の人物『三姉妹』
第6作目、坂本龍馬『竜馬がゆく』

となります、
この内で架空の人物が主人公となる『三姉妹』を除くと

忠臣蔵は『元禄太平記』『峠の群像』『元禄繚乱』
豊臣秀吉は『おんな太閤記』『秀吉』
源義経は『義経』
坂本龍馬は2010年の『龍馬伝』

で、新たな形での映像化がされているのです。
この内で架空の人物が主人公となる『三姉妹』を除くと、モノクロで放送された作品のうち、新たな物語ができていないのは井伊直弼のみとなりました。

そこで、大河ドラマ50周年記念作品として『花の生涯』リメイク活動を市民ボランティア『どんつき瓦版』編集部が発起人となって行います。
ある程度の形が出来上がりましたら、発起人より独立した組織として活動を広げていきます(発起人は常に参加いたしますが…)。

目標は50周年ですが、50が一区切りとして、新たなスタートであるである51と言う数字も魅力がありますし、2015年には井伊直弼生誕200年を迎えます。
できれば生誕200年では「大河で放送された井伊直弼を育てた彦根」でありたいとは思う気持ちでいっぱいです。


戦後すぐに発表された作品ですので、様々な資料の発掘から当時よりも多くの新事実が発見されています。
ですから、その部分は新たな解釈を加える必要があるでしょうが、故舟橋聖一氏が描いた幕末黎明期に浸ってみませんか?


こんな時代だからこそ、今にまで影響を及ぼすような足跡を残し、命を賭けて国を守った政治家の人生を知るべきなのです!!



大河ドラマ誘致市民会議のちらし(写真)はまだ予定が白紙になっていますが、これは「予定が無い」のではなく「みんなで作る為に決まった物を挙げていない」だけなのだそうです。
「こんな風にしたら面白いのに」「こんな資料があります」「何かできるかも知れないから協力します」
そんな方々の参加も待っていますし、このブログでも活動状況を報告していきますね。

『稲枝の麻と麻織物』

2009年01月11日 | 講演
2009年1月11日、彦根市南部の稲枝地区で昔から織られてきた麻織物の職人である大西實さんが『稲枝の麻と麻織物』というテーマで講演を行われました。
この講演会は“寺子屋 いなえ楽座”という稲枝青楽団が企画した150年祭の支援事業の二回目の講演です。

今回はこの内容から一部省略しお伝えします。


『稲枝の麻と麻織物』
近江上布伝統工芸士:大西實さん

今回は麻の仕事をさせていただいている現場の立場からのお話をさせていただきます。

『稲枝と麻』と言う題目ですが、私も戦後の生まれですので稲枝に麻が栽培されていたという麻畑の現状はわかりませんが子どもの頃に2mくらいの麻を船の底に沈めたという記憶が少しあるくらいです。そこから糸を取り出したという事もほとんど記憶にありません。
しかし田附・本庄辺りでは私の父親がお世話になってご家庭で近江上布を織っていただいていました。
子どもの頃にかすり糸をご家庭に運び行ったことは覚えています。
織って頂いている方も昭和30年代頃にはほとんど居られなくなりました。

取材でよく「近江上布とは何ですか?」「これぞ近江上布というのはどういう物ですか?」と訊かれますが、そうすると「う~ん?」と答えるしかありません。
“これぞ近江上布!”という物が無いのが近江上布の特徴と言う風に私は解釈しています。
『服飾事典』などによりますと近江上布は“湖東地域で織られた麻の布の総称”となっていてこの認識は特許庁も同じです。

(ここからは余談と大西さんの私見になるそうです)

近江上布と言うのはたぶん近江商人によって全国に広まっていったので、近江商人が各地方にばらまき帰りに様々な情報を持って帰って来てそれが物作りに生かされる。と言う事は近江上布は常に時代と共に変化していくので「これぞ近江上布」という物が残っていないのだと思います。
麻の産地の中でこれほど時代と共に変わっていた所は無いのではないか?と思います。
時代と共にいろんな形態に変わって行った為に、他の上布(越後、宮古、能登、富山)はすべて国か県の文化財の指定を受けたしますが、麻織物で唯一近江上布だけは文化財の指定を受けていません。それはたぶん「こいつらは放っておいても、うまい事生きていきよるやろう。うまい事物を作っていきよるな」と言うので認定の必要が無かったのではないか?
そしてもう一つ、大坂京都の商市と名古屋の商市のちょうど中間点にあり集散地が両方にあるから苦労せずに売れていった。それで常に消費者のニーズを商品に反映できるような立地条件にあった。
それが為に、近江上布の代表と言える物が無かったのではないかと思います。
間違っていたらごめんなさい。

物が流通に乗って行く勢いで、畑で麻を栽培し、手もみして、織るという作業が全部できなくなるので「紡績でやろう」ということになります。
紡績も麻紡は明治の頃に大津で初めて行ったという文献があります。たぶん稲枝地区も昔は麻の畑が多くあり、(推測ですが)苧麻ではなく大麻であったのかな。と思います。
今は日本ではほとんど大麻は栽培が禁止されています。
繊維型は都道府県知事の許可があれば栽培できますが、薬用・医療等々での栽培は禁止されています。
大麻は一部、群馬県では皇室の使用される物や神社に使用される物の為に栽培されていますが、それ以外には無い筈です。
今は問題になっていますので、無いとは言い切れませんが…

私は何も偉い仕事をしているわけではなく、する人が居なくなってしまったのです。着物を主力としてやっていますので着物が売れない時に後継者が居ないのです。
皆さんも色んなところで体験などをされると思いますが、1寸2寸ならば体験でも織れますが、着物一反は3丈6尺になります。メートルにすると約14mです、この長さを傷もなくきちっと織ろうとすると、肉体的にも精神的にもかなり追い詰められます。毎日毎日同じ柄を織る訳ですが14mで大体5日~1週間、柄が変われば気持の変化もあるのですが精神的にも疲労が続きます。
その疲れに耐えられないと続かないのです。余計な事を考えないで14m織り続ける、余計な事を考えると柄を間違えたり傷を作ったりします。
もし半分くらいのところで傷ができても残りを織るまで終わらないのです。途中で傷を分かって残りを織るのはとてもキツイです。
麻は糸が硬いのに布は向こうが透けるくらい薄い物なので物凄く難しいです。ですから傷ができるのですがそれを承知で織るのは面白くないのです、切って捨てたいくらい。
ですからそれに耐えられるくらいの脳の構造でないと難しいです、ですから皆さん辞めて行かれるのかも知れません。
また仕事があればいいですが、あるのか無いのか分からないのもこの仕事です。注文される方はほとんど居ませんので自分が勝手に作り、偶々気に入ったお客さんが居られたら買って下さいますがそうでなければ売れない、でも作っておかないと余計に売れないのです。こうなると一か八かで自分の好きなものを作る事になります。
今は問屋さんがリスクを背負わないで問屋さんの機能を果たさずに、借りて行って売れたら代金を支払う形になっています。ですから売れる売れないに関わらず物作りをしないといけないのです、作った物がお金に変わる確率は絶望的に低いのです。
そんな事が出来る人間が居なくなった、居なくなったからここでお話させていただけるのですが、いつまで続けるか保証はないですが続けられるうちは続けていこうと思います。
誰か、やってみようかな?と言う方が居られたらお教えは致します。でも全部ができるようになっていただくには10年は掛ると思います。
やってみようという方が居られたら後継者育成をいたします。

どれだけ立派な物があっても潰れたら終わりです、続いていく事が大切なのです。
ですから「手仕事だけが立派ではない」と私は思います。手仕事だけにこだわるとおそらく反物一反が10万20万の値ではなく何百万になります、ですから手仕事だけでは無理ですから機械で使える物はどんどん使って安く提供できるようにしないとますます着物離れが起こります。
やはり色にしても値段にしても若い方に着ていただける物も作っていかないと思います。
そこはやり方と言うか、着物と言えばお年寄りと言う考え方が間違っていたのではないか。ですからこれからの方にはそういう方向でおやりいただければ道は開けるのではないか?と思っています。

麻というのは水には強いですが乾燥に弱いのです。
ですから北風が吹いていたりすれば殆ど織れません、嫌になるくらい切れます。逆に雪がドンと降ってしまうとまた変わります。
ですから麻の製品をお持ちの方はできるだけ高温のアイロンはお避け頂いた方がいいと思います。
麻は全然伸縮がなく引っ張ったらすぐ切れます、綿やシルクはまだ柔軟なのです。ですから麻は凄く神経を使います。そんな物だと思い文句を言いながらでも仕事をしていますが…

昨年、ある事情で「原材料も国産にした方がいいのかな」と思う事がありました。たまたま新海(彦根市最南の町)で自生している苧麻がありそれをいろんな方に教えていただいて刈り取って使います。乾燥させて手がらを巻き、それを手で裂くのですこれがいわゆる手麻績み(ておうみ)です。昔は暇があれば裂いていたと思います。そうれなければあれだけの反物はできない筈なのです。
でも世の中にはたくさんの反物が出回っています、それは中国なのです。ですから正直に言えば近江上布の技術も中国にお願いして残してもらわないと残らないかもしれません。それはそれで構わないので「どこどこで作った」とはっきり明記すればいいのです。

ですから私がやっているのも現送は海外です、これはお客さんにはっきり言います。
そして紡績は広島、染め・織りは滋賀県内で行います。現送まで自分の所でやるのは不可能に近い話ですから。


最初に申しましたように近江上布の解釈の仕方は人まちまちです。ある先生によると「近江上布は消滅した」とおっしゃいます。それはその先生が縦横大麻の物を近江上布とおっしゃるのであればはっきり消滅しています(現代では大麻と苧麻を使う)。
ですから近江上布が麻100%という方もいれば、「何が入っててもええやん」と言う方もおられます、ですから「これが近江上布」というのはありません。
ただ、私が近江上布を名乗る時は麻100%を指しています。
また近江上布=伝統工芸品でもありません。
ただ歴史的にいえば一般の方の近江上布といえば「手織りの着物のかすり」と思われているお客さんが多いのは事実です。それは自分がどう解釈するかだけの問題です。

私は伝統工芸士ですが、伝統工芸士は車の免許と一緒なんです。5年に一度切り替えがあってお金を払って講習を受ける。ですから伝統工芸士が国の援助を受けて楽々に暮らしているというわけでもありません。
運転免許と全く同じなんです。

近江上布は後継者がゼロに近いですが、麻だけでは生活ができず、それだけに「誰かやってくれ」とはなかなか言えません。でもやはり何百年の伝統がある訳なので残さないといけないのも事実です。
そうでなければ消滅してしまいます。伝統的工芸品に指定されてるのは“生平(きびら・麻布で、さらしてないもの、夏の季語)”と“かすり”ですが、生平はほぼ全滅ですね。
かすり織りについては私が“型紙捺染(型紙での染色法)”、もう一か所で“櫛押捺染(櫛の背に似た木片での染色法)”が採用されていますが型紙捺染は危ないです。
型紙捺染は自由にできて絵のようなものは作りやすいのですが、小さな文様ができないのです。ですから一長一短があります。
これらの技法も機械化できればすればいいのですが、それでも誰かが受け継いでくれるかどうか?
心ある方にぜひ挑戦していただきたいです。
近江上布はどういう形で次の世に残していけるのか?
滋賀県の財産として行政も含め考えていただければありがたいです。ゼロにしてからもう一度復活させるにはできないです。
続けられている間に続けていかないと、行政もそういう方向で考えていただかないと消滅します、カルチャー的に体験するのも知ってもらう上で大事ですがきちっとした物が世に出せて皆さんに見ていただける。これが作れていかないと独りよがりで終わってしまいます。
どれだけ手が掛かっていても買う側には関係ありません。出来栄えと価格との値打ちがどれだけ訴えられるかなのです。商売にするためにはお金を貰わないといけない、その兼ね合いをどうするかです。
現送から作れればいいのですが、それは難しいので紡績でいいと思います。
原料が国内で紡績も国内なら全て国内ですから。

大麻はおそらく稲枝近辺で栽培されていたと思います。
特に戦中はパラシュートや戦闘機の翼に水に強い麻が使われていた事がありますので、そういう事からすれば麻畑があったのではないか?と推測することはできます。
この辺りは、詳しい方に聞いていただきたいと思います。



質疑応答
(質問者)
麻と縮みの違いはなんですか?
(大西さん)
縮みは麻を織った物を手で束にして、昔の洗濯板で揉んで仕上げに応じた縮みの高さを揃えて一晩干して甘より程度のよりをかけるていく物。
今は機械でやります、手ではやりません。

(質問者)
彦根藩の名産として近江上布があり、服部は機織り部だったと聞いていますが、織るだけではなく染めの人も居たのでしょうか?
(大西さん)
染めの職人さんは稲枝では聞いた事がありません。能登川では今もありますが稲枝では、私の生きていた間ではわかりません。
上布は献上するからという説と、細い糸で織るからという説がありどっちが正しいかはわかりませんが、「みんなが“上布”と言うなら、うちは“下布”でいこか」なんて考えてもみます。そういう訳のわからない事でもやらないと面白くないですよ。
面白い発想はありませんか?

服部は分かりませんが、薩摩・柳川辺りはかなり織物をする家があったようですね。
でも江戸時代は彦根藩が奨励していますから結構あったのではないでしょうかね。

余談ですが、街道が通っている場所で麻の産地が残っているのは近江上布だけなのです。他の場所は雪深かったり島であったりなので、彦根でよく残ったと不思議に思います。
他の場所では問屋があり、そこに持って行けばどんどん買ってもらえる仕組みがあったのですが、滋賀県は産地問屋の仕組みが維持できませんでした。産元の個人零細企業を管理できる問屋があればもっと技術が残ったのでしょうが、大坂・名古屋のど真ん中にあったのでみんなが自分で売りに行けるんです。
同じ組合員でありながら価格での大喧嘩もありました。今生産地が残っているのは決まった所から出てくる物です。
ですから近江上布も産地問屋があれば良いのですが、そんな方もいません。でも他にどこからも出ないから儲かるかもしれませんね。



『吉祥のデザイン―鶴と亀―』

2009年01月10日 | 博物館展示
2009年1月1日より2月3日まで彦根城博物館では『吉祥のデザイン―鶴と亀―』というテーマ展が行われています。
今回は1月10日に行われたギャラリートークで聞いてきた概要の簡単な紹介と展示物を一つ紹介します。
この展示でも前回同様注目している物が数点ありますので、何回かに分けてご紹介します。


まずは概要…
鶴と亀は、「鶴は千年亀は万年(最初は1200年くらいだった)」と言われるように長寿の証ですが、これは古代中国の鶴や亀を神格化した思想だったそうです。
それを日本風にアレンジされているのです。

中国では長生きすることが基本でこれは中国が現世を大切にする為だったようです。
鶴と亀はその代表でした。
特に鶴は鳥の中では長生きで、しかもつがいの仲が良く、片方を喪うともう片方はその後もずっと一人で過ごすことからつがいで描かれることが多いのです。
日本では現世よりも来世を大切にしていました。
また中国では仙人も長生きの象徴とされ多く描かれ、これも日本に入ってきたのです。

中国と日本では感覚の違いもあります。
たとえば牡丹の花
中国では富貴でおめでたい象徴ですが、日本では鑑賞の対象であり現実の美しさが愛でられるのです。

鶴も『万葉集』では、鳴き声が物悲しい感情に訴える生き物として歌が作られていました。


そんな鶴と亀を使った物は圧倒的に鶴が多く、亀の場合は鶴と一緒に描かれることが多いのです。
また松竹梅などの縁起物と一緒に描かれることもあります。


「中啓金地浜松白鶴図」
展示を見に行きますと、確かに鶴が多く、鶴は現実の物であるのに対し亀は四神思想に出てくる玄武のようなイメージが付いたデザインの方が多いのが特徴です。
亀に関しては尾の辺りに毛が付いている物が描かれますが、これは「蓑亀」といって、あまり動かない亀の背中に苔が付いてしっぽのように見える現象で非常に縁起がいい物がったそうです。

中啓とは能などで使う扇の事ですが、これは消耗品の為に残る事はほとんどありません。そしてこの展示物のデザインは亀が岩を背負っていてその上に松竹梅が生えている、亀自体がお目出度い島になっている物なのです。
これは『翁』専用で使われたものでした。
能は戦国期末期辺りの豊臣秀吉や徳川家康といった武将に愛され、江戸時代に入ってから徳川秀忠も能を好んだために幕府の式楽となり諸大名もこぞって学び能役者を抱えたり能道具を揃え、その頃のストーリー性がある能がイメージとして浮かびますが、元々は神に捧げる神事であった為にストーリー性はありませんでした。
『翁』はそんな古い形を残した能なのです。

彦根城周辺史跡スポット:「高取山城(男鬼城)跡」

2009年01月08日 | 史跡
『歴史群像』2009年2月号に近江高取山城が紹介されていました。

その存在は江戸時代の記録にも書かれながら、滋賀県の調査ですらその存在が発見できず近年になってやっと発見された山城。


2007年6月に管理人も『どんつき瓦版』の調査取材を行い記事を書いていますので、その記事に多少の追加を加えてご紹介します。

日本がまだ神話の時代で語られる頃、日本列島を産んだ神様である伊邪那美命が自らの入山地(入山とは亡くなる事だそうです)として選んだ山が“比婆之山”と呼ばれ、その山頂には比婆神社が建立されています。
比婆神社は、『古事記』の伝承が残る全国各地に残っていますが、近くに多賀大社がある彦根にも比婆神社があるのです。そしてこの山は神話に登場する高天原ではないかとも言われていてその本殿は標高669m地点のすぐ下に位置しています。

ある記録では、そんな比婆神社から東へ進む年貢道といわれる山道を1㎞ほど進んだ高取山の山頂に山城が築城されていたのだとか・・・それが男鬼城です。


比婆神社から人が殆ど通る事もない山道を方位磁石の針を頼りに東に進み、途中で野生の鹿に出会いながら2つ目の山の頂上直前に小さな堀切が見つかります。その向こうの急斜面を登りきると明らかに人の手の加わった盛土で囲まれた広場に到着します。これこそが男鬼城の入り口となる虎口でした。

その郭と思われる広場を越えるとまた急な2mほどの傾斜がある。これを進むとまた・・・といった感じの尾根を利用した階段状に連郭式となった遺構が残っているのです。
一旦頂上まで到着し安心すると、その向こうに降って、堀切を越えてまた登った先に後世の本丸と呼ばれるに相応しい郭に出会うことができます。もしかしたら西の城と東の城が二つで一つの機能を果たした“別城一郭”の様式を使った戦国初期に湖北地方で見られる様式だったのかもしれません。
本丸には25cm×15㎝くらいの大きさの石を1.5m近い高さに積み上げたと予想される石垣の遺構も見る事ができ驚きますが、その先には10m弱の深さの大堀切と2筋の小さな堀切が並ぶ3列の堀切という珍しい光景にも出会えたのでした。

山城はその立地条件の悪さから遺構が残りやすい傾向にはありますがこれほどまで見事に残ると感動を覚えてしまいます。


しかし、そんなハッキリした城郭に対して、どんな歴史を持っているのかが全然解らないのが高取城です。古い記録の中に『男鬼城主河原豊後守』という名前が登場する事からこの辺りに城があった事が判明しただけなのです。
標高673mの高取城が戦に使われたとは考え難いですが、(たぶん)中世城郭を身近に感じる貴重な歴史史跡には間違いないのではないでしょうか?

麓の男鬼町で聞いた話では、高取城の麓に勘定谷という場所があり、勘定奉行の屋敷(時代は不明)があったとの事ですから、今後の調査が期待されます。



この後に彦根の資料を漁っていると、城主である河原一族は江戸時代に大棟梁として日光東照宮の造営・改築に関わる甲良氏の一族である事がわかり、「甲良庄」のことを「河原庄」とも呼んでいたので“甲良”と“河原”の両方の姓があるようです(と言いますか読みが似ていたから両方ある可能性もあります)。
歴史上に“甲良豊後守宗広”と言う人物が居ます。

甲良宗広こそが、藤堂高虎から徳川家康へと紹介された先に記した大棟梁の始まりとなる人物ですが、その甲良一族は佐々木高氏(京極道誉)の子孫と言われています。

もしこの辺りを合わせて考えるなら、河原豊後守は甲良宗広の祖先か一族であり京極家の一族が男鬼城を築城したとも考えられるのです。この家が代々“豊後守”を称していたのなら戦国期辺りの京極家の没落と共に城主も本貫地の甲良庄に戻り、築城術を磨いたとも考えらえます。
そういえば『歴史群像』でも京極高広・高吉の築城説が挙げられていました。
甲良一族に繋げるなら彼らの3代前に枝分かれした京極高秀の系統になってしまうのですが、この辺りはこれからの調査を望むところです。

井伊直幸

2009年01月02日 | 井伊家関連
2009年の正月に彦根城で飾られた甲冑は井伊直幸の物でした。
直幸のこの甲冑の大きな特徴は、やはり兜にある御幣の前立てです、ぜひご覧ください。
と言うわけでで、今回は直幸のお話をご紹介します。


井伊直幸(なおひで)は、七代藩主・井伊直惟の三男です。

彦根藩では、父の直惟が藩主の座を弟・直定に譲った為にその後の井伊家の当主は直定の子孫に引き継がれる筈でした。
実際、直定の子・直賢が藩主の有力候補になっていたのです。


このため直幸は早くから出家していたのですが、後に書く様々な家督相続の問題から還俗し控屋敷の尾末町御屋敷に住むようになったのです。
この時に直幸は“直英”という字を使っていました。

直定が病弱を理由に直英の兄である直に家督を譲った事で、直英は兄の補佐としての人生を考えたのかも知れません。
しかし、たった60余日で直が亡くなってしまい、藩主の座は再び直定へと戻ったのでした。

このままなら、今度は直英に藩主の話が来るかも知れない・・・

そう考えていた直英の予想に反して、早期隠居を望んでいた直定が後継ぎに指名したのは宇和島藩主・伊達村候の弟・伊織だったのです。
この報せを聞いた直英は怒ったのですが側近に宥められました。

結局、直定の望みは幕府に却下され直英が世継ぎとなったのです。
25歳の時でした。


世継ぎ決定後、すぐに藩主の座を譲られて十代藩主に就任した直英の目標は直定を超える事だったのかも知れません。

宝暦10年(1760)、将軍の名代で天皇に拝謁した事を無上の喜びと考えて名前を“直幸”に変えますが、その読み方は“なおひで”のままにしました。
藩主就任後は新田開発と領民への慈悲を心がけ、その文書でよく使われた言葉は「仁燐(思いやりの気持ち)」だったそうです。


この頃、幕府は田沼意次が台頭する田沼時代でした。
田沼意次は、十代将軍・徳川家治に重用された人物で、その権力は大きかったのですが有力大名を門閥に組み込んでいたのです。
井伊家でも、直継系の与板井伊家当主・直朗の正室は意次の次女でしたし、直朗の娘を直幸の養女に迎え、直幸の息子・直廣は直朗の養子になっていたのです。
また、直幸の正室・伊予も与板から迎えられていました。
つまり、直幸は間接的に田沼意次の門閥に入っていたのです。
そして、直朗は意次の力で西ノ丸若年寄に就任していました。


安永8年(1779)そんな意次が次の将軍として期待していた家治の嫡男・家基が18歳で急死します。

天明4年(1784)3月24日、田沼意次の嫡男・意知(若年寄)が江戸城内で佐野善左衛門に刃傷され2日後に没
意次と意知の二人三脚で進められていた幕政が多忙となり11月に直幸を大老としたのです。

意次は、開国を目指した人物でしたのでその政治のためにも大老の権力を欲したのかも知れませんね。
この為、後世の史家・小説家の殆どは直幸を「江戸期で唯一大老に相応しくない人物」と評価されてます。


田沼時代と言えばその終焉は天明の大飢饉と浅間山の噴火ですね、東北地方では10万人以上が亡くなったとも言われ、フランス革命の遠因にもなったこの災害は国内でも多くの餓死者を出しましたが、彦根藩では一人の餓死者を出す事も無かったのです。
これには直幸の後継ぎだった直富の活躍が大きかったと言われています。

天明6年8月20日、徳川家治が亡くなりますがその死は隠されて田沼意次は失脚します。
2年後には田沼意次死去、同じ月には井伊直富が25歳で急死してしまうのでした。


松平定信が幕政の中心になった寛政元年
2月8日、田沼時代に老中首座であり続けた松平康福が死去
同月20日、直幸が亡くなったのです59歳でした。


定信の後ろには、十一代将軍・家斉の父・一橋治済の姿が見え隠れします。
この時の遺恨が、直幸の孫・直弼が将軍継嗣問題に関わった時に多少の影響を与えたとも考えられますね。
また開国の精神も意次―直幸のラインから直亮や直弼に引き継がれていったとも考えられますね。

ちなみに直幸は、自分が育った尾末町御屋敷を始めとする控屋敷に住む藩主一門の教育制度を強化します。
直弼の教育もこの直幸の制度の賜物でした。
そして、直幸が育った尾末町御屋敷こそが、後の埋木舎なのです。