彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:島田左近暗殺(7月20日)

2012年07月20日 | 何の日?
文久2年(1862)7月20日、島田左近が暗殺されました。
前関白九条尚忠の家来だった島田左近は、井伊直弼政権の時には直弼の懐刀だった長野主膳に近い人物だったのです。

主膳の意思を九条家に持ち込み、攘夷派だった尚忠を佐幕派に変えさせるくらいの活躍をしたのです。そして安政の大獄の時には、主膳の命を受けて多くの尊王攘夷派の志士を捕まえるにいたりました。

直弼が桜田門外で倒れると、尊王攘夷派志士の恨みの的となり、ついには木屋町の愛妾宅で田中新兵衛らに殺害されてしまうのでした。
そして7月23日に首が四条河原に晒されたのです。

これがこの後京都を血の海に変える天誅の始まりとなるのです。

『なぜ幕府は滅び、朝廷は生き残ったのか』講義受講報告

2012年07月12日 | 講演
ひこね歴史手習塾セミナー12『小和田&本郷 謎解き戦国塾』
2回目は『なぜ幕府は滅び、朝廷は生き残ったのか』というお話でした。
講師は、東京大学史料編纂所教授の本郷和人さん。
大河ドラマ『平清盛』の時代考証をされている先生です。


まずは、大河ドラマ『平清盛』でのお話などをされていて、天皇論についてもまず答えありきではなく、自らがどういう想いかを相手に伝え、相手の話を聞く議論が必要とのお話でした。


そして天皇家がなぜ残ったかというお話。
天皇家は万世一系とされていますが、これは明治時代に明治の元勲たちが列強と戦う時、日本を纏めるアイデンティティとして利用したとのことでした。
継体天皇以降の天皇家は確かに繋がっているとも話されていました。

ここから時代を追いかけつつ見て行かれたのですが、面白いです。
まず承久の乱の時、関西の御家人は後鳥羽上皇に味方して関東の御家人は北条義時に付くという形で、朝廷も武力を行使できたのですが、この乱に負けた時に、朝廷は二度と武力を持たないという武力放棄の院宣がでて、これ以降は朝廷が武力を持つことが無かったそうです。

南北朝時代には、後醍醐天皇の忠臣である吉田定房が「中国では皇帝の姓が変わるから中興があるけど、日本ではずっと同じ系統が続くので中興が無い」と言っていて、万世一系は素晴らしいことではないと思っていたのです。
その南北朝時代に活躍した高師直は、「天皇の権威は必要だけど、それは木像か金像でも作って置いておいて、生身の天皇は流してしまえ」と言っています。生身の天皇はいらないけど、天皇の権威は必要と言っているのです。

戦国時代前期に室町幕府の管領だった細川政元は、「儀式とか行わなくていいから、俺が認めたらお前は天皇なんだ」という考え方で天皇は権力も権威もなくしていたのです。

そして信長は天皇なんていらないという考え方で、この時が天皇家最大の危機だったのではないかとの考え方でした。
本能寺の変の後に豊臣秀吉は天皇に仕える世襲の関白豊臣家という権威を付けて天皇家を中興したとのことでした。


天皇家の扱いがだんだん悪くなり、豊臣秀吉によって残されるという考え方は新鮮でした。


最後に少し質疑応答の時間があり、堅い質問は次回と言うことだったので、『平清盛』に関連するしつもんをしてみました。
それは、今までの歴史では悪役だった信西を、阿部サダヲさんが演じられる今までと違う人物像で描かれたのは、どこからのイメージなのか?ということです。
本郷先生は、自分の頭を触って「ここです」と話され、本郷先生が信西が大好きで日本を代表する天才で、日本の歴史上に10人の天才を挙げろと言われたら必ず入る人物だとのことでした。

7月11日、保元の乱

2012年07月11日 | 何の日?
保元元年(1156)7月11日、平清盛らが白河北殿に夜襲をかけ、保元の乱が決着しました。

この乱のそもそもの始まりは天皇家の家督争いにありました。白河上皇の孫である鳥羽天皇に待賢門院(藤原璋子)という女性が入内したのですが、待賢門院は白河上皇に育てられた娘で、孫に嫁がせながらも不義の関係を結び、その結果白河上皇の子どもが生まれたのです。
白河上皇の子どもでありながら。鳥羽天皇の子として育てられた皇子に、白河上皇はすぐに天皇の位を譲るように命じました。これが崇徳天皇です。

やがて白河上皇が没すると、鳥羽上皇は崇徳天皇を退位させて実子である近衛天皇を即位させたのです。
そんな近衛天皇が年若く崩御すると、今度は鳥羽上皇と待賢門院の間の子どもである後白河天皇が立太子されないまま(天皇に即位する可能性がまったくないまま)天皇へと即位しました。
そしてすぐに鳥羽上皇が崩御したのでした。

この流れが面白くないのは崇徳上皇です。世間的には同じ両親のもとに生まれながら、崇徳上皇は鳥羽上皇に嫌われ、後白河という天皇候補にも無い弟が天皇に即位したのですから。そしてそれは貴族の権力争いも巻き込む武士の代理戦争となったのでした。

崇徳上皇方には
藤原頼長・源為義・源為朝・平忠正ら

後白河天皇方には
藤原忠通・源義朝・平清盛ら

と、源氏では親子兄弟で、平家では叔父甥で分れて戦うことになったのです。
7月10日、源為朝は崇徳上皇に夜襲を献策しますが、藤原頼長はそれを卑怯として認めませんでした。これに対し後白河天皇は夜襲を認めたのです。
こうして11日未明に、平清盛や源義朝らは崇徳上皇の北白川殿を攻めます。
ここで源為朝は大いに弓で活躍したと伝わっています。
やがて、北白川殿の隣りの藤原家成の屋敷に義朝が火をかけて北白川殿の人々が退却して戦いは終わったのです。

戦後、敗走途中で藤原頼長は重傷を負い死去。源為義・為朝は源義朝によって処刑、平忠正も平清盛によって処刑されるのです。これは平安時代初期に蝦夷征伐でアテルイらが処刑されて以来の死刑執行でした。


ちなみに、この戦いには井八郎という人物が参加していて、この人物は井伊家の祖先だとされています。

150年前:『不思議の国のアリス』の話(7月4日)

2012年07月04日 | 何の日?
1865年7月4日、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンという数学者が、ルイス・キャロルというペンネームで『不思議の国のアリス』を出版しました。

映像化は何度もされて、誰もが知っているように扱われる世界的な児童文学であるこの物語は、出版のちょうど3年前に出来上がった物です。今回はその日のお話。


1862年7月4日、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは友人のロビンソン・ダックワース、そしてリデル家の三姉妹ロリーナ(13歳)・アリス(10歳)・イーディス(8歳)と共に、テムズ川をオックスフォードのフォーリー橋からゴッドストウ村までの5マイル(約8キロ)をボートで登っていた時、チャールズは即興で三姉妹の次女アリスを主人公にした冒険物語を話しました。

少女たちは、この物語をとても気に入って、特に主人公になったアリスは物語を文章にしてほしいとチャールズにせがんだのです。

↑アリス・リデル(他所のHPからいただきました)

チャールズは、文章に挿絵も加えて1864年に本を完成させ『地底の国のアリスの冒険』と題して、クリスマスプレゼントとしてアリスに贈りました。

この物語を倍ほどの長さにして、お茶会などのシーンを加え『不思議の国のアリス』は完成しチャールズが三姉妹に話したちょうど3年後に出版されたのです。

旧二条城内堀 現地説明会

2012年07月01日 | 史跡
織田信長が足利義昭のために築城した二条城の内堀の遺構が発見され、現地説明会が行われました。
場所は、下立売通室町西入。簡単に言えば京都府庁の正門の前の道を少し御所側に行ったところです。
この辺りが旧二条城の城郭内であることは、地下鉄烏丸線の工事の時に内堀・外堀共に堀の遺構が出ていて、ある程度の規模は分っていました。しかし烏丸線の工事で出てきた物は、それぞれの堀の北限と南限を推し量るものでしかなかったのです、それが今回は内堀の西限がわかる発見になったのです。

しかし元々は平安期には宮城を修理する修理職の役所があった場所であり、さまざまな時代の遺構が出てきていたようです。
発掘場所の西側は、平安期や江戸期の井戸や柱の跡がたくさん紹介されていました。





遺物にも平安期の物が出てきているそうです。

面白かったのは、幕末(禁門の変か?)に焼けた瓦もたくさん埋まっていました。



そして本命の旧二条城の内堀。

堀の最大幅が6.5m
犬走りが1.0~1.5m
堀の部分が4.5~5.0m
深さが2.2~2.4mで、犬走りの手前まで水が張ってあったようです。

過去の文献から、信長は西側に武家屋敷を配置していたと記されているそうで、そんな屋敷があるから石垣で敢て防御しなくてもいいような信長らしい合理性があったのではないか?とのことでした。
これより西側に武家屋敷の遺構があるのか聴いてみましたが、現在のところはそれに繋がるような発見は無いそうです。



堀を掘って犬走りを固めて、それよりも内側に土塁を積んだが、足利義昭が追放されて廃城になり、その土塁で堀を埋めたのではないかとのことでした。
永禄12年(1569)~天正4年(1576)のたった7年間しか実在しなかった城なのに、ルイス・フロイスの記録にも登場する城が、このような形で姿を現すのも歴史のロマンですね。