彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

二条城ライトアップ2013

2013年03月31日 | 日本100名城と続100名城
『二条城ライトアップ2013』の招待券が届きました。一口城主には届けてくださるみたいですが、これだけでも結構な出費ではないかと気になってしまうのは僕だけでしょうか?
逆に言えば、そこまでして招待してくださったなら、行って状況を伝えて、みなさんの興味を二条城に向けてもらうのも僕の仕事の一つと考えて、時間を探すと3月29日に仕事が終わってすぐに向かえば行けることに気が付いて、二条城を訪問したのです。

京都で働いていたころから何度か見た隅櫓のライトアップ

大手門もライトで照らされています。

大手門を入ると、足元が桜模様で照らされていました。

通る人の足で影ができるのも幻想医的になります。

まずは光のオブジェが迎えてくれました。

隅櫓を城内から眺める光景も美しい。

ここから、竹をモチーフ?にした光の展示

ネコの足跡♪

風神

雷神

そしていよいよ桜へ…
 

 
途中でお抹茶をいただくため少し休憩。
 


ここから、優しい光の道が順路にいざないます。

池に映ることでますます異世界を示す桜たち


 
木に近付いてみると…
 

 

 
遠くの桜もいい

特にお客さんの足を止めたのは壮大なしだれ桜


 

 

 
そして、桜のトンネル(すこし高め)

桜はまだまだ続きます
 
意外に少ないのは建物と桜のコラボ

それを差し引いてもあまりある桜の演出
 

 

 

 


まだ、五分咲きくらいでしたが、それでも目を楽しませてくれました。
またこんな感じのものもあり、演奏も行われていたのです。

映画『だいじょうぶ3組』&ロケ地巡り

2013年03月27日 | ロケ地
「彦根を映画で盛り上げる会」が、彦根と映画を今まで以上に強く結びつけようと様々な活動をしています。
そんな盛り上げる会がはじめて映画の中で明記される作品となるのが『だいじょうぶ3組』です。

原作は『五体不満足』という作品で注目を浴びることになった乙武洋匡さん。そして原作者でありながらそのまま出演された作品でもあります。


どこにでもある普通のクラスである松浦西小学校5年3組。せいと28人のクラスに赴任してきた担任の先生は手も足もない赤尾先生でした。
そして教師という職業に失敗した経験がある白石先生も赤尾先生の補助としてこのクラスを受け持つことになったのです。
自分たちとは明らかに違う先生の登場に戸惑いを見せる子どもたちに「自分にはできないこともあるから、手伝ってほしい」と話す赤尾…
こうして、5年3組の1年間が始まったのです。

手のない先生がどうやって給食を食べるのか? そんなことも興味津々の生徒たち。
何もかもが常識にとらわれず、満開の桜の下でお花見授業を行う赤尾先生に、他の先生から批判的な言葉も出て白石先生はそんな対応に追われながらも、赤尾・白石コンビと生徒たちの距離はだんだん近くなっていくのです。
しかし、生徒2人の上靴が無くなる事件が起こり、クラスの中が揉め、赤尾が男子生徒から避けられた地もします。
そんなかで始まる運動会。100m14レース全部で3組が1等になったら坊主になると約束。これにも)反発して練習に参加しなかった生徒が白石先生の言葉で一緒に頑張るようになったのです。
そして運動会当日、3組は13レースまで1等をとり、最後のレースに挑むのでした…

夏休みの後に不登校になる生徒のこと、秋の山登り遠足に赤尾先生が行けないと聞いた生徒たちがどうすれば赤尾先生と一緒に遠足に行けるのかを考える話など、1年間のクラスの成長を描いています。



学校と言うのは本当に難しい現場だと思います。
とくに、教師と言う仕事に失敗し、一度は教育委員会に行ってしまった白石がもう一度教職に就くという覚悟。そして他とは違うということを教育に組み込んでいく赤尾のある意味で独特な授業のやりかた。
みんなそれぞれに個性があり、同じなんてことはない。みんなちがって、だからいいんだと教えてくれます。「だいじょうぶ だいじょうぶ」が口だけではなく、本当に大丈夫になりそうな響きがありました。
ある意味で、怒ることがない金八先生みたいでした。



さて、この映画の撮影は滋賀県湖東地域で多く行われていて、そのロケ地を巡るスタンプラリーも映画公開と同時に5月6日まで行われています。
まずは、メインとなる旧豊郷小学校を訪問

東洋一の学び舎と称された美しい建築です。

アニメ『けいおん!』の聖地としても有名ですね。





教室は5年3組

この廊下も映画で何度も登場しました。

彦根城内の金亀公園も撮影に使われています

ここで白石先生が生徒と話をします。

そんな彦根城は、二季咲桜と

梅がきれいでした

梅と桜のコラボ

そして、管理人も時々行くお好み焼屋の将月さんでも撮影が行われたのです。

映画を観て、ロケ地に訪れて空気を感じてみてください。

150年前:殿内義雄暗殺(3月25日)

2013年03月25日 | 何の日?
文久3年(1863)3月25日、壬生浪士組の殿内義雄が暗殺されました。

新選組の前身である壬生浪士組は、芹沢鴨と近藤勇のグループに分かれていたようなイメージがありますが、結成時にはもうひとつのグループとして殿内義雄が率いるグループもあったのです。
しかし、壬生浪士組の内部のごたごたで暗殺されてしまうのです。

この日、殿内は天気が晴天だったにも関わらず、刀に柄袋を付けて紋付の羽織袴で紺の旅を履いていました。夜、茶屋の提灯を持って四条大橋を進んでいると、突然斬りつけられたのです。
刀を抜くにも柄袋で抜けず、頭を斬られ、袈裟斬りにされ、左の手首から指にかけて斬られたのでした。

翌朝、この事件を聞いた殿内一派の根岸友山ら5名が恐れて逃亡し江戸に帰って、清川八郎が連れ帰った浪士が結成した新徵組に入るのですが、殿内と共に活動していた家里次郎はそのまま残り、4月24日に切腹させられています。

旧井伊神社見学会

2013年03月24日 | イベント
井伊家の祖である井伊共保の750回忌に合わせて建立された井伊神社が、彦根市文化財課の調査と修繕が行われることになり、見学会が催されました。

文化財課の調査ができるようになった理由は、霊廟を新しく建立してそちらに移したために、建物が宗教施設ではなくなり政教分離の原則がクリアできたからなのだそうです。

この井伊神社は、井伊直弼の兄直亮によって天保13年(1842)に建立された権現造の建物で、当時の井伊家の力に合わせた贅沢な建物です。

昭和になって佐和山神社と祖霊社が合祀され、全部で5つの霊廟があるのだとか。
ちなみに、彦根のお城祭りの行列はもともと佐和山神社への奉納のイベントだったそうです。

 

 


権現造りの特徴ともいえる拝殿と本殿の間の相の間、井伊神社はここが漆塗りであることも珍しいそうです。


そして本殿。

相の間や本殿は神職しか入れず、井伊さんでも今までは入れなかっただろうとのことでした。
 

 

 
本殿から拝殿を見る

本殿の天井の素晴らしさ
 

 

 
本殿の霊廟には、井伊共保の像があったそうですが、祖霊を抜いてから彦根城博物館に所蔵されたとのことでした。
 

外観も補修が必要ですが、修繕されたらすごい文化財になりますね。
 

150年前:浪士組、会津藩お預かりとなる(3月13日)

2013年03月13日 | 何の日?
文久3年(1863)3月13日、壬生浪士隊が会津藩お預かりとなりました。

将軍の上洛警護という名目で京に上ったことが、のちに新選組となる集団の最初となりますが、これは上洛直後に京での仕事が将軍警護ではないことがわかり、近藤勇・芹沢鴨らが脱退して新しい集団を作り京の壬生に腰を落ち着けました。

そして京都守護職の松平容保に売り込みをかけて、認められて13人の隊士からなる会津藩預かりの浪人組織が確立したのです。
ちなみに「新選組」と名乗るのは禁門の変辺りからだそうです。

会津藩預かりとなった壬生浪士隊は、それでも金に困っていまました。この為に芹沢鴨は山南敬助や永倉新八を連れて大坂の鴻池から二百両を脅し取りました。会津藩がこれに驚いて鴻池に金を返済しています。
その金でユニホームと“誠”の大旗を作ったのです。

旗が完成し、頓所に届いたとき、隊士は大いに喜んで代わる代わる旗を振ったり回したりしたそうです。
その旗の下で、ほとんどの隊士が数年以内に命を落とすとは思いもよらなかったことでしょうね。

150年前:賀茂行幸(3月11日)

2013年03月11日 | 何の日?
文久3年(1863)3月11日、孝明天皇が徳川家茂を伴って賀茂神社に行幸しました。

3月4日に上洛した将軍徳川家茂は、7日に孝明天皇に拝謁するために参内しました。ここで孝明天皇は家茂に対して攘夷の決行と、朝廷に親兵を置くことを認めさせたのです。

攘夷に関しては、幕府としても考えがあったことですが、親兵に関しては無理やり押し切られた形になってしまいます。


勢いに乗った朝廷は、11日に将軍や一橋慶喜そして京都にいる各藩の藩主11名を従えて賀茂社(上賀茂神社)へ行幸し、ここで攘夷実行を祈願したのです。
この行幸には多くの見物人が訪れますが、その中に高杉晋作が含まれていて、晋作は家茂が目の前を通った時に下げていた頭をさっと上げて「いよっ! 征夷大将軍」と声を張り上げて野次を飛ばしたのです。

『彦根サムライシネマシンポジウム』 1回目

2013年03月05日 | イベント
今月、彦根で行われるイベント。『彦根サムライシネマシンポジウム』
その1回目が3月5日に行われました。


映画『利休にたずねよ』のプロデューサーが語る、『利休にたずねよ』の魅力です。
出演は、森田大児プロデューサー、滋賀ロケーションオフィスの片山昇さん、MCはYO!YO!YOSUKEさん。
なんだ、この完璧な布陣は…
これで面白くなかったら嘘じゃないですか!

YOSUKEさんの軽快なトークと質問で飛び出す面白いお話の数々…
書きたい、言いたい、でもここには書けないことばかり!
聴きに来られた方のみが知ることができた裏話の数々。

そして熱いです森田プロデューサー

上映は12月ですが、今から楽しみです。
一つだけちらっと書くなら、映画の終わりに登場するお茶のシーンは絶対見逃すな!!



次回は3月31日の15時から戦国丸で廣木隆一監督のトークイベントです。
『雷桜』『きいろいゾウ』『余命1か月の花嫁』などの監督のお話も要チェック。

150年前:徳川家茂上洛(3月4日)

2013年03月04日 | 何の日?
文久3年(1863)3月4日、徳川家茂が上洛しました。

これは、三代将軍家光以来200年ぶりのことで、徳川幕府にとっては天皇にお伺いをたてに行くという意味でも大切な行事だったのですが、形の上では攘夷について何も動きがない幕府に対して天皇が将軍を呼び出し、将軍がこれに応えたものでした。同時に日本の主権が天皇にあることを示してしまった瞬間でもあったのです。
家茂は二条城に入り、京都で攘夷について迫られることになります。

ちなみに、家茂上洛の警護のために京都まで来ていた芹沢鴨や近藤勇ら浪士組は、この前日に会津藩お預かりとなったばかりで、まだ何かができる立場にはなかったのです。

水口岡山城 第1次発掘調査説明会

2013年03月03日 | 史跡
水口岡山城で破城の跡が出たとニュースになりました。
その現地説明会を聞きに行ってきました。

水口岡山城は、東海道の抑えのために天正13年(1585)に中村一氏によって築城されました。天正18年に豊臣秀吉が天下を統一すると増田長盛が5年、長束正家が5年の計10年間豊臣家五奉行に名を連ねることになる二人が城主をします。
伝承では石田三成が4万石で入り、ここの城主時代に1万5千石で島左近を召し抱えたという話がありますが、水口岡山城を三成が治めていた可能性はほぼないです。
そんな水口岡山城は、もともとここに大岡寺があった(今は山の麓に建っている)事から、水口の岡山の城という意味で今はこう呼ばれていますが、昔の正式な呼び名はわからず、「水口の城」や「甲賀の城」と呼ばれていたそうです。

遺物の中には築城前の瓦もありました。

写真の左が室町時代前期、真ん中と右は室町後期の物らしいですが、大岡寺との関わりはまだわからないそうです。
そして水口岡山城の瓦も出てきました。
 
金瓦は出てこなかったそうですが、本丸はこれからなので、もしかしたらとの期待もありますね…

今回の大きなメインは大手枡形虎口が石垣造りであった痕跡と、そこが破城されていた実態です。
破城とは、城が廃城になったあとで利用されないように軍事施設を壊す方法です。大坂冬の陣の後で大坂城が丸裸にされたのもその一つです。
そんな大手枡形虎口の石垣
 
一段の下辺の石垣と、そこから広がる敷石があり、奥には石垣の基礎になる栗石が残り、手前には石垣に使っていた大きめの石が無理やり崩されています。
石垣の間に詰めたのか? 建物の名残か? 瓦も挟まっていました。

敷石は石畳のように敷かれていたようで、階段状ではなくバリアフリーだったのではないかとのことでした。

ちなみに、想定される石垣の高さより石が少ないため、どこかに持って行って利用した可能性はあるとのことでした。
また、石の質がまだ未調査なのでどこの石かは確定できないそうですが、この山では栗石は採れても、石垣に使える物は採れないそうです。

道の反対側の発掘

ここにはあからさまに人口の地層も見えました。


もう一か所の発掘地点は伝西の丸の曲輪
 
もともと岩石が見えたので、石垣があるのではないかと掘ってみたら岩しかなく、切岸にしていたことが分かったそうです。
しかもこの岩は崩れやすく発掘で少し触っただけでも崩れるものだったそうです。
逆に言えば崩れやすいから守りに適しているのではないかとも考えてしまいました。

今回の発掘で、水口岡山城が石垣を使っていたこと、そして東海道や城下とは反対側の石垣はそのまま残っているのに対して、城下側(人の目に触れる部分)は徹底的に壊していることから、悪用されないためであると同時に、権力者が変わったことの象徴ではないかとのことでした。