彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

奇妙な石垣

2006年11月30日 | 彦根城
太鼓門櫓の前には写真のように、奇妙な形の大きな石が石垣の一部として使われています。
大坂城や安土城などを築城する時、巨石を運んできたという物語がありますが、この石もそう言った巨石なのでしょうか?

実はこれは、どこかから運んできたという物ではなく、元々この山にあった石なのです。

本丸になる辺りは岩盤があったらしく、この岩盤を削ってそのまま石垣に組み込むというアイデアが採用されたのでした。
こうして、山肌の岩盤を削る事で元々の岩盤を動かす手間をかけずに利用までしてしまうなんて、凄い工夫だと思いませんか?

太鼓門櫓

2006年11月26日 | 彦根城
表門から彦根山を登ると、彦根城本丸に入る直前に建っている門が太鼓門櫓です。

この櫓は、建物の一部の壁が取り払われて、そこから一間が廊下になっているという全国でも稀な構造となっているのです。
そう言った不思議な構造から、建物の名前にもなっている太鼓が設置されていて、その太鼓が遠くまで響く為だったとも思われています。
城という物は、軍事的な意味合いが多かった為にこう言った工夫はあっちこっちで独自の方法をとられていた事が窺える一つの例なのかもしれませんね。
ただし、これは伝説で、本当にそうだったかどうかは分かりません。

さて、彦根城は詳しい方に言わせると「リサイクル城」と呼ばれるくらいに、使用されている建物や資材の殆んどが近江国内の城から移築された物が多かったのです。
例えば、天守は大津城天守閣・天秤櫓は長浜城大手門から移築されたという説があります。また石垣も、佐和山城・安土城など方々から運んできたとも伝わっています。

そして、太鼓門櫓も移築されてきた建物なのです。

以前は、彦根城築城前に彦根山に建っていた「彦根寺」の山門ではないかという説が濃厚でした。
・・・と言いますのも、彦根寺は観音信仰の寺だったのですが、古い時代の観音信仰の寺では納める札を柱に釘で打ちつける風習があり、太鼓門櫓にはそんな釘の跡が沢山残っていたからです。また、「ちょうなめ」という跡が残っている事もこの建物が古い事を表す証拠となっていました。
「ちょうなめ」は、平安時代まで遡る事が出来るといわれている建築儀式の一つで、鋸・手斧・鉋などを使って原料を製材にするまでの様子を表現して工事の安全を祈願する儀式での事を“ちょうなめ始め”とも呼んでいるくらいです、現在でも一部の神社や企業が行なっていますが、それほどによく用いられる儀式でもなかったのです。
そんな「ちょうなめ」の跡があるという事は寺社の建物ではなかったのか? と思われても当然かも知れませんね。

しかし、昭和31年から行われた解体修理工事に伴う調査で、彦根寺山門説は否定され、どこかの城の門を縮小して移してきた事が解かったのです。

ただし、どこの城門であったかは謎が残っているんですよ。

彦根城周辺史跡スポット:「無賃橋」

2006年11月20日 | 史跡
高宮布、または高宮上布と呼ばれた物、彦根藩の藩領だった神崎郡で産出される麻布がありました。
当時、高宮宿にはその布を取り扱う布座と呼ばれる今の形で表現するなら布の同業者組合の様なものがあったのです。こうして高宮宿に集められた事から高宮上布と呼ばれ、その質の良さから毎年彦根藩から将軍家に献上されていたくらいだったのです。

そして、幕末にこの高宮上布を持って九州や中国地方に売り歩いていた人物が伊藤忠兵衛でした。忠兵衛はこの時に作った地盤を元に明治時代に呉服店を開業します、これが『丸紅』の基礎となります。また貿易会社として開業した店が今の『伊藤忠商事』となるのです。

さて、そんな大物商人が生まれるきっかけにもなった高宮宿から京に向かう時に最初の難所となるのが犬上川でした。江戸時代は戦国時代とはうって変わって平和な時代になっていましたが、それでも武士たちが支配している世界であるために、常に有事に備えていたのです。このため国防の理由から大きな河川に橋を架ける事はありませんでした。
しかし天保3(1832)年、彦根藩は藤野四郎兵衛(『江州音頭』を始めた『又十』ニ代目)や小林吟右衛門・馬場利左衛門らの近隣の豪商に命じて一般から寄付を募って犬上川に橋を架けさせたのでした。
当時の橋は、通行料が徴収されていたのですが、この時に完成した橋は誰もが無料で渡れた事から『無賃橋』という名前で人々に親しまれたのです。

昭和52(1977)年、改修工事が行われた無賃橋の脚下から2体の地蔵尊が発掘されました。
昔は、大きな土木工事の時や災害の時には人柱を埋める習慣があり、犬上川でも戦国時代の元亀年間に堤防の決壊を防ぐ為にお丸という庄屋の娘が人柱となった話が残っていて、お丸が沈んだ辺りの場所をお丸坂とも呼ばれていますが、この地蔵尊がそんな人柱の代わりに橋を守る為に埋められた守り神だったに違いありません。
そう感じた近隣の人々によって無賃橋の側に地蔵尊を祀るお堂が建立されました。それが、“むちん橋地蔵尊”です。

11月15日、『近江屋事件』

2006年11月15日 | 何の日?
慶応3(1867)年11月15日、一ヶ月前に大政奉還が行われ世情が混乱していた京の町で一つの事件が起きました。
坂本竜馬・中岡慎太郎暗殺事件…後に“近江屋事件”と呼ばれ、今なお多くの歴史愛好家の興味を引いているこの事件。
未だに謎が多い事件ですので、多くの歴史家が研究していますね。

まず、経緯からご紹介しましょう。

近江屋に入る前、坂本竜馬は海援隊の京都の拠点としていた材木商・酢屋で寝泊りしていたが、土佐藩が竜馬の身を案じて藩邸前の近江屋への移動を薦め、近江屋の土蔵に隠れたと言われています。その土蔵からは裏の誓願寺境内へ抜けられるようになっていたそうです。
11月13日、元新撰組参謀で新撰組から独立していた伊東甲子太郎が新撰組に狙われている事を忠告している・・・
14日に風邪をひいた竜馬は母屋の二階に移ります。この時近江屋で竜馬の近くにいたのは近江屋主人・井口新介とその家族、竜馬の世話をしていた元力士・山田藤吉でした。普段の竜馬なら同志を一人は連れているものなのに、この時は誰も居なかったのは不思議ですね。
15日、午後3時と5時に近江屋の隣り大和屋で下宿している土佐藩重臣・福岡孝悌を訪ねるが不在だったそうです、そこで孝悌の愛人に手紙を預けました、孝悌は帰ってそれを読み近江屋に行こうとしますがその愛人に止められて難を逃れる。
6時頃に陸援隊隊長で土佐藩士・中岡慎太郎が近江屋にやって来て竜馬と相談を始めたのでした。
この時点ではまだ、事件の気配は無い・・・

7時頃、中岡慎太郎に伝言があるとして近所の書店『菊屋』の小僧・峯吉がやって来て、そのまま藤吉と遊び始めます。
少し後に土佐藩横目付・岡本健三郎がやって来て竜馬達の相談に加わりました。
8時過ぎに竜馬が「腹が減ったから軍鶏が食べたい」と言い、慎太郎が賛成したので健三郎を誘ったが、恋人に会いに行くために帰る事になり健三郎も命拾いをします。
藤吉が健三郎と一緒に出て軍鶏を買いに行こうとしますが、峯吉の方が足が速いので峯吉が健三郎と共に近江屋を出ます。
こうして竜馬の周りには中岡慎太郎と山田藤吉だけが残ったのです。
峯吉が軍鶏を買い出てすぐの事、近江屋に松代(十津川)郷士と名乗る人物が竜馬に面会を求めて一階で取り次いだ藤吉に名札を渡すと、藤吉は階段を上り始めました。
その様子から竜馬が二階にいると判断した刺客は藤吉を後ろから斬捨て、外にいた複数の仲間と一緒に階段を駆け上がったのです。
この時刺客の一人が食事中だった主人・井口新介の家族に刀を向け大人しくさせたそうです。
この刺客の駆け上がる音を聞いた竜馬は藤吉が暴れてると思い「ほたえな(騒ぐな)」と叫ぶ、その直後に部屋の襖が開いた。

刺客は藤吉を斬った刀を鞘に収めていて、火鉢を囲んでいる二人のどちらが竜馬か分からなかったので、「坂本先生お久しぶりです」と頭を下げた。
すると一人(つまり竜馬)が振り向き「はて?どなたでしたかな」と首を傾げたのです。
振り返った竜馬を見て確信した刺客は「こなくそ!」と叫び刀を抜きざまに竜馬の前頭部を払った竜馬の額が割れ脳漿が飛び散った。
竜馬は慌てて刀を持とうとしたが身から離してた為にすぐに取れず背中を向けた所を斬られ、振り向きざまに上からの攻撃を鞘ごと受けて防いだがそのまま振り下ろされて頭に致命傷を受けて倒れた。
その間、中岡慎太郎はやはり刀を取ろうとして背中を斬られ、結局刀は取れず脇差を抜こうとして抜けず、鞘ごと抜いて防いだが腿を始め12ヶ所を斬られた。
二人が倒れ斬られるままになると刺客の一人が「もういい、もういい」と言って全員が去って行ったと伝わっています。
刺客が去った後、竜馬は立ち上がり慎太郎を見て自分よりも深手と感じて下の階に声を掛けて医者を呼ばせようとしたが大声が出なかった。
やがて壁にもたれて座り込み刀に自分を映して見ると脳が出てる事が分かり「俺は脳をやられてる、もうダメだ」と言うと倒れこんでそのまま死亡しました、享年33歳この日は竜馬の誕生日だったのです。
ちなみに諸資料では竜馬の死は16日になっているのが多いがその理由は未だに分かっていません。

竜馬が倒れた後、慎太郎は助けを求めようとして刺客が来た階段と逆の物干し台に出てそれを越え、屋根伝いに隣家の屋根まで体を引き摺っていきそこで意識を失った。
刺客達は引き際に薩摩弁を話た者が居たと土佐海縁隊士・中島信行が近江屋の者から事件直後に聞いています。

さて、全てが終わり静まり返った近江屋二階に最初に入ったのは軍鶏を買いに行っていた峯吉でした。
峯吉は軍鶏を買いに行った鳥新という店で軍鶏を潰すのに20分程待たされたそうで、この時間がそのまま犯行時間と考えられています。
峯吉が近江屋に戻ると、戸口が開いていて見慣れない下駄が置いてあり、一人の侍が刀を抜いて立っていた。
その侍は土佐藩足軽・島田庄作で、彼は峯吉に「竜馬が斬られた、賊はまだ二階に居るので下りて来たら斬る」と言ったそうですが、峯吉は信じられなかった。しかし、二階に行く階段の途中で藤吉の唸り声が聞こえ、恐る恐る血だらけの階段を上がり藤吉を発見し、二階まで上がった奥の間で竜馬が、隣家の屋根で慎太郎が倒れていたそうです。
峯吉はこの時に竜馬の近くで刀の鞘を発見している。

竜馬達を発見した峯吉は一階の島田庄作と近江屋主人の家族を呼び、慎太郎を奥の間まで運んで寝かせました。
慎太郎は焼飯を所望して食べたそうです。
すぐに向かいの土佐藩から二人の藩士がやって来て慎太郎の手当てを始め、直後にまた土佐藩邸から谷干城と毛利恭助がやって来て慎太郎に事件の様子を聞いている。
その間に峯吉は慎太郎が隊長を勤める陸援隊詰所に馬で行き田中顕助(後の光顕)に知らせ顕助は薩摩藩士一人を連れて近江屋へ急行してやはり慎太郎から事件経過を聞いたのだった。
慎太郎の記憶では奥の間に来た刺客は二人だったらしいです。
16日、山田藤吉死亡
17日、中岡慎太郎死亡
以上の経過は干城と顕助が慎太郎より聞いた話を元に纏められた報告です。


さて、この経緯に中には色々な暗示が入っていて、従来良く語られている新撰組実行犯説・京都見廻組実行犯説以外にも、土佐藩が黒幕だったと言う説・薩摩藩が黒幕だった説や、伊東甲子太郎が怪しいと言う説、『壬生義士伝』で浅田次郎さんが展開した斎藤一単独犯説などが語られています。
管理人自身は、周防のテロリストで大村益次郎を襲撃した神代直人だと思っているのですが、この辺りは彦根と全く関係が無いですよね。

では、なぜ今回、近江屋事件を紹介したのかと言うと、平成15年に『龍馬暗殺に彦根藩が関与?』という記事が話題になった事があったからです。
京都市内で会津藩士・手代木直右衛門が彦根藩金奉行・石黒伝右衛門に宛てて送った密書が見つかり、内容は実行犯とされている京都見廻組の佐々木只三郎の兄が事件直後、彦根藩の重臣と会談しようとしたことが書かれているそうで、その中の日付が11月16日(ただし年の記入が無い)だったと言うことです。
桜田門外の変より前は、彦根藩が京都守護職を務めていました。新撰組の管理をした事で有名な会津藩は、桜田門で井伊直弼が暗殺された為に彦根藩が京都守護の役職を降ろされた為に後を引き継いだ形となっていたのです。
ですから、会津藩が彦根藩に密書を送る事に不思議さは無いのですが、それがそのまま彦根藩が龍馬暗殺に関わっていたと考えるのは的外れなのかもしれませんね。

真相は歴史の闇の中ですが・・・


ふ~今回は長文でした。

大東義徹

2006年11月12日 | 井伊家以外の人物伝
他所で拝借した大東義徹の写真(汗)

明治4(1871)年11月12日、岩倉使節団が出航しました。
今日は、その岩倉使節団に同行した彦根の偉人を紹介しましょう。

その人物の名は大東義徹(おおひがし・よしてつ)


天保12(1841)年、彦根藩主が井伊直弼の兄・直亮だった時、大東義徹は、彦根藩の足軽・小西貞徹の次男として生まれました。
早くに母を亡くし、厳しい父親が男手一つで育てたと言われています。特に武芸に秀でていて、河西忠左衛門の教えを受けています。
大望を抱く身として小西という姓はふさわしくないと思い、大東に改名するほどに自分の人生に大きな希望を抱いていましたが、安政7(1860)年3月3日、桜田門外の変が起こり師と仰いでいた河西忠左衛門が闘死してしまいます。

余談ですが、この河西忠左衛門の強さは、桜田門外の変を扱ったドラマなどの映像で今でも見る事ができます。
井伊直弼の乗る駕篭を守るように戦っているのが忠左衛門で、より忠実に映像を作っていると、2振りの刀を持って何度も襲撃者達を押し返して獅子奮迅の働きをしている姿が再現されていますよね。

そんな忠左衛門ですら直弼を守れなかった事実にショックを受けた義徹は、剣術から砲術へと進む道を変更していまうのです。

またまた余談ですが、直弼の仇を討つために同じ年の8月15日に水戸に潜入し、月見をしていた水戸藩前藩主・徳川斉昭を暗殺した彦根藩士が居るのではないかという噂があります。その犯人の候補の一人が大東義徹で、このエピソードを元に『修羅の武士道』(延原潤一郎・著)という小説が書かれていますので、興味がある方は読んでみて下さい。

さて、砲術を志した義徹が次に歴史の舞台に登場するのが、慶応4(1868)年1月3日の事でした。
前年に大政奉還で政権を朝廷に返上した徳川慶喜を討つ為に薩摩藩や長州藩を中心とした官軍は旧幕府軍との戦いにのぞみました。歴史上、“鳥羽伏見の戦い”と呼ばれる戦争は、終始、官軍有利に進んでいたイメージがありますが、実は開戦からしばらくは旧幕府軍が有利だったのです。
官軍を指揮していた西郷隆盛が撤退も仕方ないと考えていた時、彦根藩の大砲が旧幕府軍に打ち込まれ、その一撃で形勢が逆転したのです。その砲撃を指揮したのが義徹でした。
この時の活躍で西郷隆盛との縁ができた義徹は明治維新後に中央政界に進む足掛かりを得ることになるのです。
明治4(1871)年、明治政府は岩倉具視(全権大使・副使が大久保利通、木戸孝允、伊藤博文)を欧米視察に派遣しますが、その時にこれから時代を背負う人材育成も兼ねて、多くの人間が派遣されます。
そんな人物の中には6歳の津田梅子も含まれていました。
この岩倉使節団に彦根藩代表として義徹も参加し、欧米の政治・文化を目の当たりにしました。
帰国後は、特に法律に深い興味を持ち、そこで得た知識を生かして司法省に出仕し、後に大阪、山梨の裁判所長を歴任します。

明治10(1877)年、鳥羽伏見の戦い以来深い交流を続けてきた西郷隆盛が明治政府に対しての反乱である“西南戦争”を起こすと、これに参戦。この時、西郷の為に大坂城乗っ取りを企てたという説話も残っているんですよ。
終戦後は不穏分子として暫らく獄に繋がれますが、やがて許されます。

義徹は地元・彦根では豪胆な性格と深い知識、人当たりの良さから義徹の事を「近江西郷」と呼んで慕っていました。
その為、人気も高く、明治23(1890)年第一回帝国議会創設に伴う衆議院選挙では、武力を排した「與論政治」の実現と民選議員の設立を訴え続けた功績が支持されて当選し、以後7回連続当選を果たします。
明治31(1898)年には、最初の政党内閣である第1次大隈重信内閣で司法大臣に任命されます、これは県内初・戦前唯一の滋賀県出身大臣となるのです。

またまたまた3度目の余談ですが、この時の他の大臣には
内務大臣・板垣退助
陸軍大臣・桂太郎
海軍大臣・西郷従道
文部大臣・尾崎行雄、犬養毅
など、歴史の教科書で何度も登場する人物が並んでいます。

この第一次大隈重信内閣は尾崎行雄の共和演説事件によって4ヶ月余りで総辞職に追い込まれますが、義徹は法典調査会副総裁として後の条約改正にもつながる事業を進めてゆきます。

中央政界でその痕跡を確実に残した義徹ですが、それと同時に地元・彦根でも数多くの足跡を残しました。
司法省を退官してから、西南戦争に参戦するまでの期間に地元氏族と集議社を設立。法律・司法制度の研究・教育、新聞の閲覧、訴訟の代言代書、演説会を行いました。
この集議社設立メンバーは、彦根中学の前身となる彦根学校の設立と運営に力を注ぎ、町立彦根中学の開設を実現しました。
また、衆議院議員を務めていた明治29(1896)年、彦根の氏族達と有力な近江商人達が連携して近江鉄道を開設し、初代社長に就任しています。

明治の偉人・勝海舟は、西郷隆盛を認めていた人物で、隆盛の死後に「○○西郷」と称される人物に批判的な言葉を浴びせました。
今回紹介しました大東義徹もそんな海舟の批判を受けた一人ですが、義徹が自ら「近江西郷」を称したのではなく、周りからそう呼ばれ、それに応えた所に、周囲の義徹に対する人柄が窺えるのでないでしょうか?


さて、近代の政治家である義徹の息吹をそのまま感じる事は難しいです。しかし、彦根市里根町の天寧寺には、彦根出身で明治三筆の一人に数えられている書道家・日下部鳴鶴による『大東義徹顕彰碑』が残っています。
また、義徹が初代社長を務めた近江鉄道も今でも滋賀県民の大切な交通手段になっているんです。そんな近江鉄道に乗って近江平野をのんびり旅をすると、先人の趣に出会えるかもしれませんね。

なお、今回は名前を“よしてつ”と紹介しましたが、これは彦根市の図書『彦根の先覚』より引用致しました。
“よしてつ”の他に“ぎてつ”“よしあきら”という呼び方もされている事もお伝えしておきます。

犬上郡と犬上君

2006年11月08日 | 井伊家以外の人物伝
国宝彦根城築城400年祭の言葉の通り、2007年は彦根城天守が完成して400年を迎えます。

彦根城を中心にした地域は彦根駅や市役所などがあり、今でも彦根市の中心地となっています。
では、その前は? と訊ねられると、石田三成の佐和山城という答えが返って来るのでは無いのでしょうか?
そこまでは、彦根の歴史を簡単に遡れるのですが、その時より過去の事となると案外知られていないものです。

しかし、彦根を含む近江国(滋賀県)は、京の都に近い要所として古くから歴史を育んできた土地だったのです。
701年、大宝律令の成立で、現在の滋賀県と同じ地域が近江国に定められ、近江国は12の郡に分けられたのです。
現在の彦根市とその周辺を含む地域は犬上郡と呼ばれ、犬上君(いぬかみのきみ)という豪族によって治められて居たのでした。
この犬上君をモデルにした話として手塚治虫の『火の鳥・太陽編』が有名ですね。さて、この犬上君一族の中には第1回遣唐使大使となった犬上御田鍬や高句麗に派遣された犬上君白麻呂など、中央の外交や行政に力を尽くした人物を多く排出しています。

そんな犬上君が治めた犬上郡は神戸・田可・沼波・高宮・尼子・甲良・安食・清水・竇田・青根・駅家の11の郷に分かれて居たのでした。
国司がある国府から郡の直接支配を委任される形になるのが郡家ですが、犬上郡家は、この郡の中心地であった河瀬周辺という説や、南彦根駅の西側にある竹ヶ鼻遺跡だったという説、犬上郡豊郷町に残る犬上君屋敷公園がその跡地だとも言われていてハッキリしていません。

ちなみに、犬上という地名の由来は、犬上君が愛犬に命を救われて、その犬を忠犬として祀った事に始まるそうですよ。
犬上君の末裔は、中世末期には大神主河瀬氏として多賀大社の社務の実権を握った事もあり、戦国期には河瀬氏と称して河瀬城を居城とし、河瀬大和守秀宗は甘呂城城主も勤めています。

彦根カルタには「その昔 郡家があった 河瀬の地」と言うモノがありますが、こう言った犬上君の子孫と河瀬地区の経緯を見ると、河瀬の地に郡家があった可能性もあるかも知れませんね。

『小江戸彦根の城まつり』

2006年11月03日 | イベント
彦根にとって一番有名な人物は幕末の藩主・井伊直弼である事は、誰もが認めるところだと思います。
直弼は、“開国の父”とも呼ばれていて、周囲の反対を押し切って強引にでも国の門を開いた為に独立国家としての日本と近代化があった事は間違いありません。
でも、明治維新以降、直弼の評価は悪く、常に日本史の中の悪人として扱われていました。

昭和28年、そんな直弼の遺徳を偲び、新たに評価する開国百年祭が行われました、今の国宝彦根城築城400年祭の様に盛り上がっていたのではないでしょうか。
そして、直弼の誕生日10月29日を中心に城まつりが行われるようになったのです。

昭和38年、第1作目となる大河ドラマで直弼を主人公にした『花の生涯』が放送されると空前の彦根ブームが起こり、直弼に対する見直しも行われるようになりました。そして、この年から城まつりに子どもが参加するようになったのです。

年々盛大になっていく城まつりは、今年(平成16年)で54回目となりました。色々なイベントが行われる「小江戸彦根の城まつり」の中で特にメインとなるモノが、毎年11月3日の文化の日に行われる“小江戸彦根の城まつりパレード”ですね。
江戸時代の雰囲気を思い起こさせるような情緒を持った子供大名行列・風俗行列、そして井伊の赤鬼家臣団列などがお城を中心に練り歩きます。

また、お城の中では鉄砲演舞が行われたりもします。
他にも、交流都市との物産展を楽しみにしておられる方も居られるんですよ。

彦根カルタにも「年一ど 市民がくり出す 城まつり」と詠われていますが、今は城まつり以外にも沢山の市民が参加できるイベントがありますね。

国宝彦根城400年祭のクライマックスの時期と重なる2007年は、今年以上の盛り上がりになる事は間違いありませんので、今から楽しみにしておきたいですね。

えっ、いくら何でも気が早すぎますか(笑)?