彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『大河への道』

2022年05月26日 | その他
『大河への道』を観ました。

舞台は千葉県香取市役所。
観光誘致のために、大河ドラマを誘致しようという公務員が考えそうなノリで始まります。
その主人公が、初めて詳細な日本地図『大日本沿海輿地全図』を作成した伊能忠敬。
千葉県知事がこれに乗り、自らの任期中(残り3年)に指名した脚本家加藤に書いてもらうという条件で活動が始まったのでした。

最初は渋っていた加藤がやる気になり、調べたところ、忠敬は地図が完成する三年前に亡くなっていたことを指摘するのです。

そして、忠敬の死から三年間にどんな物語があったのか天文方高橋景保を軸とした物語が加藤から語られたのでした。


と、そんなストーリー
立川志の輔さんの落語が原作で、現代の役所と忠敬の弟子たちの物語があります。落語ですからテンポ良く笑と涙も含んだ話になっていました。

伊能忠敬を大河ドラマにしたい話なのに、生きている忠敬は出てこないというのも面白いですね。

ちなみに、忠敬が亡くなっているので大河ドラマは無理との話なのですが『炎立つ』や『いだてん』みたいに途中で主人公を変えたり、それこそこの作品の脚本をされた森下佳子さんが『おんな城主直虎』で直虎没後の井伊直政を描いたような方法ならばできるとは思いました。

水無瀬神宮 訪問

2022年05月07日 | 史跡

承久の乱で北条義時追討の院宣を出し敗れて隠岐に流された後鳥羽院が離宮としていたのが、水無瀬でした。


隠岐で生涯を終えることになった後鳥羽院は、崩御の14日前に水無瀬信成と親成親子に自らの手型を押した置文(国宝『後鳥羽天皇宸翰御手印置文』)を書き、水無瀬離宮跡で後生を弔うように願ったのです。

これを受けた水無瀬親子は藤原信実が描いた後鳥羽院の御影を祀った水無瀬御影堂を離宮跡に建立したのが水無瀬神宮の始まりとされています。



本殿は、明正天皇の内侍所を移築した物

客殿は、豊臣秀吉献納、福島正則造営




神門は、安土桃山時代の建築

茶室「燈心席」は、御水尾上皇の遺構


神宮の周囲は土塁や堀



そして、手水舎の水は大阪府下唯一の名水「離宮の水」

という、見所に恵まれた場所です。


御朱印は、自ら装飾を加える事も可能です。



また、最寄り駅であるJR島本駅前の島本町立歴史文化資料館では、後鳥羽天皇宸翰御手印置文の複製が展示されていて、手の大きさを比べることもできました。


これで、大きさを比べられます。



同館に展示されている後鳥羽院御影の複製



時代は少し変わりますが、同館に展示されていた戊辰戦争で樟葉台場から放たれた砲弾は興味深い物でした。





大阪城90年

2022年05月06日 | 史跡

昨年2021年は、大阪城天守閣復興90周年だったそうです。

北川央さん『大坂城』によれば、昭和天皇即位御大典記念事業として昭和6年(1931)11月7日に竣工され、大阪市民の寄付で賄われた建設資金150万円は半年で集まったくらいに大阪市民待望の復興になったようです。


大阪城には、豊臣秀吉の時代や徳川政権初期にも天守が建ちましたが90年も残ったのは現在の天守が初めてなので、大阪城の象徴と言っても過言ではないかもしれないです。




太平洋戦争時の空襲にも耐え抜いた建物として、10年後の百周年も楽しみですね。


90周年のファイルもありました。


中に、昔の入城券や記念の御城印もありました。

90周年とは関係ないですが、城内の豊国神社で受けることができた春限定(4月28日に受けました)の切り絵御朱印もよい記念になりました。

裏の紙の色を替えると雰囲気変わります。



なんじゃもんじゃと甘野老

2022年05月05日 | 史跡

今年も沙沙貴神社になんじゃもんじゃを見に行きました。


昨年の記事

なんじゃもんじゃと杜若 - 彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

なんじゃもんじゃと杜若 - 彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

安土の沙沙貴神社になんじゃもんじゃを観に行きました。GWの頃に盛りを迎える木で、本来は対馬と木曽川沿いでしか見れないそうなのですが、なぜか沙沙貴神社でも楽しめます...

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『鎌倉殿の13人』で佐々木秀義と四人の息子が登場しましたし、後半の承久の乱では秀義の孫・信綱が宇治川の戦いで活躍するはず(して欲しい)です。

今年は注目したい大河関連地ともいえます。


そんな沙沙貴神社で楽しむなんじゃもんじゃ







そして、今回の季節の御朱印は甘野老(あまどころ)でした。あまり知らない花なので探し回りました。

少し季節が遅かったかもしれません。







あと、知らなかったのが参道にある石の大鳥居の額の字が源頼朝が書いた字を秀義の嫡男定綱が奉納した物だということです。



「佐佐木大明神」の御朱印にも使われています。



本当に歴史深い神社です。


平家終焉の地

2022年05月04日 | 史跡
東山道(中山道)を京都に向かって進み、近江八幡を越えて源義経元服地とも言われている鏡の宿から峠を越えてすぐにあるのが平家終焉の地(平宗盛胴塚)です。
○義経元服遺構








元暦2年(1185)6月21日、壇ノ浦の戦いに敗れ、捕虜となっていた平宗盛が源義経によって処刑されました(38歳) 

宗盛は清盛の三男。 
本当は嫡男の重盛が後を継ぐ筈でしたが、重盛が清盛よりも先に亡くなってしまったために平家を継ぐこととなったのです。 
はっきり言えば愛情深い凡将だった宗盛に源氏の脅威に晒されて滅び行く平家を支えるのは無理でした。 
壇ノ浦の戦いでついに敗北と決まり、平家一門が海に身を投じる中、宗盛は入水してもすぐに浮き上がり沈めないままに源氏に捕獲されてしまったのです。 
この時、息子の清宗も生け捕られたのです。 

義経の看視下に置かれ、鎌倉まで護送される途中、腰越で止められた義経と共に無為の日々を過ごし、義経が京に帰る途中の近江国篠原で斬首されたのです。
義経は、宗盛親子の処刑を哀れに感じていたのですが、このまま京に連れて行くと平家残党に新たな動きを起こさせる可能性もあったためにその命を奪う必要がどうしても生じたのです。

それが、京まで一日で入れてしまうこの地域でした。 
しかし、東山道のこの場所は鏡の宿という義経が元服を行った場所に近かった為、義経は東山道を進み、鏡の宿を超えてからしばらく進んだ場所で宗盛と清宗の首を斬ったのでした。

元服地を血で汚したくないという想いだったのかもしれませんが、僕自身はこの地を義経元服地と考えることに多少の疑問がありますが、それは別のお話です。
斬った首は近くの池で洗われ京で晒されてました。
この池は近年になり一度埋められましたが、大河ドラマ『平清盛』の頃に再現されたみたいです。


○蛙不鳴池


宗盛と清宗親子の胴は一緒に埋められたといわれています。






宗盛は亡くなる直前まで息子や部下の心配をしたそうです。
『平家物語』に代表されるような源平合戦を描いた物語で、後半の平家の件では涙を誘うシーンが多く記されています。これは滅びの悲しさもありますが、清盛全盛の時代に恋の歌を詠み、音楽を奏で、芸術を愛した公家として生きて来た若者たちが、馬に乗り、弓を引き、兵を指揮しながら鍛えられていない白い肌を血で染める姿に憐みを覚え、そして武士の覚悟を持って死んでいく様子に生き様を感じたからでしょう。
平宗盛も、世が世なら平家滅亡の激しい歴史に名前を残す事も無く、静かに人生を終えたんでしょうし、このような死に方は20代の時には想像もしていなかったのでしょうね。

江戸時代の観光ガイドブックである『近江名所図会』にはここの紹介が載っています。