彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

牧野富太郎の妻(後編)

2023年07月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 彦根にとって牧野富太郎の名前を見る機会は、彦根城天秤櫓近くにあるオオトックリイチゴの案内板ではないだろうか? 彦根の冊子などでは「牧野富太郎の妻・寿衛は彦根藩士小沢一政の娘であり」との文章で強い繋がりを強調しており、富太郎が彦根城で新種を発見することは妻の縁だったような印象があったが、小沢一政について指摘されてこなかった。

 そもそも、富太郎と寿衛は東京飯田橋で出会うため彦根は関わっていない。富太郎の自叙伝などで「寿衛子の父は彦根藩主井伊家の臣で小沢一政といい陸軍の営繕部に勤務していた」と書いていることを鵜呑みにしているだけなのである。この文章を本人が記しているために何の疑問も持たずにいたが、一政が陸軍に籍を置いていたと考えられる明治前期に陸軍には営繕部がない。また京都の芸者を身請けして広大な屋敷が構えられる身分の者に小沢一政という名前の者は出てこないのである。しかし富太郎自身は寿衛の墓に「牧野富太郎妻小澤一政ニ女」とも刻んでいる。つまり富太郎は小沢一政と言う人物の存在を確信しているが実は誤認識だった可能性が高いのかもしれない。
 この誤認識や他の情報を組合せて、一政を掘り下げてみた。まず関東大震災のあと、寿衛は富太郎の研究資料を守るために自宅を持つことを目標として待合を始める。店名は「いまむら」とした。由来は寿衛の実家の別姓であったとの記録がある。「いまむら」と言えば彦根藩士の重臣に今村姓が存在する。では明治前期の陸軍に今村という人物が居るのか? と調べると滋賀縣に関わりがある陸軍大尉「今村一政」という人物が実在した。明治8年1月に権大尉から陸軍大尉に任官された一政は半年後に罪を受け謹慎三日の処分を受けることはあったものの確実に足跡を残している。明治12年7月には陸軍会計軍に名を連ねていることから営繕部をイメージさせる部署にも籍を置いたこともわかる。明治13年3月からは宮内省判任官を兼任していた。しかし、明治13年10月25日で依願免出仕が陸軍・宮内省共に認められている。このときの今村一政の肩書は「陸軍歩兵大尉兼宮内省十一等出仕」であった。
 今村一政の記録を読む限りでは、牧野富太郎が記す小沢一政に近い人物ではないだろうか? 私は未確認で申し訳ないが、小沢姓については寿衛の母あいの再嫁先とも寿衛が養女になった為とも言われているらしい。

 富太郎と寿衛が戸籍上の夫婦関係になる前に二人の間に生まれた子どもは、彦根に住んでいた寿衛の従兄の戸籍に付籍されていたそうだが個人情報に絡むため調査には行き詰まっている。

 現状で、寿衛の父は彦根藩士今村氏の一族であろう陸軍大尉今村一政ではないか?と推測しているが確信が持てる資料は見ていない。寿衛の情報をお持ちの読者がいらっしゃいましたらぜひご連絡をいただきたいと願っている。


牧野寿衛の墓(東京都台東区 天王寺墓地)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする