彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

夏越払

2008年06月30日 | 何の日?
今回も、彦根とは直接関わりがありませんが昔ながらのイベントをご紹介して、ここの話に登場するような古い時代の彦根の人と同じ感覚に浸ってみましょう。


6月30日は水無月を食べる日。これは、「夏越祓(なごしのはらえ)」という行事に関係があります。「夏越祓」は「水無月の祓い」とも呼ばれ、1年のちょうど折り返しにあたる6月30日にこの半年の罪や穢れを祓い、残り半年の無病息災を祈願する神事です。
「夏越祓」は古くから寺社で行われており、この日、神社の鳥居の下や境内にはチガヤで作られた大きな輪が用意されます。参拝者が「水無月の夏越の祓いをする人は、千歳の命のぶというなり」などと唱えながらくぐると、夏の疫病や災厄から免れるといわれています。 
また、神社から配られた紙の人形(ひとがた)に姓名・年齢を書き、それで身体を撫でてから神社に納めると、罪・穢れが祓われるとも伝えられています。
この「夏越祓」に用いられるのが、6月の和菓子の代表ともいうべき「水無月」です。

また、旧暦6月1日は「氷の節句」または「氷の朔日」といわれ、室町時代には幕府や宮中で年中行事とされていました。この日になると、御所では「氷室」の氷を取り寄せ、氷を口にして暑気を払いました。
「氷室」とは冬の氷を夏まで保存しておく所のことで、地下など涼しいところを利用して作られた、昔の冷蔵庫のような場所です。京都の北山には「氷室」という名の場所があり、今でもその氷室の跡が残っています。昔はこの北山の氷室から宮中に氷が献上されたと『延喜式』に記され、宮中では氷室の氷の解け具合によってその年の豊凶を占ったといいます。
当時は氷室の氷を口にすると夏痩せしないと信じられ、臣下にも氷片が振舞われたようです。しかし、庶民にとっては夏の水はとても貴重で、ましてや氷など簡単に食べられるものではありません。そこで、宮中の貴族にならって氷をかたどった菓子が作られるようになりました。これが水無月です。水無月の三角形は氷室の氷片を表したもので、上の小豆は邪気払いの意味を表しています。

総合的に考えて、「氷の節句」の行事が「夏越祓」へと移行したと考えると筋が通ります。
水無月晦日は暦の上では一年の半分が終わる夏の最終日ですので、半年分の穢れや禍を祓う意味が強かったようです。

『直弼考 リレー講座』第一回講演

2008年06月29日 | 講演
2008年6月28日『直弼考リレー講座』の第一回目として、『逆説の日本史』他の著者として活躍されて居られる井沢元彦先生の講演が行われました。
管理人は『どんつき瓦版』編集部として講演の後に取材をさせていただけるチャンスもありました。

講演の報告をアップしますね。
できるだけ聞き逃さないようにペンをノートに走らせましたが、聞き逃しや言い回しの差異などはどうしても出てしまったと思います。
同じ講演を聴かれた方や、先生のファンの方にとっては「ん?おかしくない・・・」と思われる箇所があると思いますが、お許し下さい。


・・・ではここより本文です。

グレート直弼『井伊直弼 開国決断の周辺』

井伊直弼という人の開国の決断をどう評価するか?
頭に解決を持ってくるようですが実は簡単な事なのです。

150年前、種痘(天然痘の予防接種)が日本に来た時に反対者も居ました。あれは今風に言えばワクチンを牛を使って作るので、それを植え付ける(予防接種をする)と牛になると言って反対したり、あるいは利害関係、西洋医の行う事なので漢方医が「どうなるか解らない」と反対しました。
 でもそんな反対を押し切って種痘が日本に導入され日本では天然痘は撲滅されました。つまり日本でも種痘を実行しようとした事は正しいのです。
(開国の決断も)同じ事で、今の私たちは開国された日本に生きている訳で、それはまるで空気のように当たり前になっています。でも昔は全部ダメでした。幕府限定で言えばオランダとの交流もありましたが留学・旅行はもちろんの事、外国語の本を読む事も許されない通称「鎖国の時代」があった訳です。
では、今「鎖国の時代」に戻りたいと思っている人はどれくらいいるか? 少なくとも99.99%くらいの日本人は開国で良いと思っているでしょう。
という事は、鎖国を止めて開国を決断したのは正しい事だったのです。それを決断した人間は「歴史上、正しい事をした」それ以外の結論はないのです。

それなのに、井伊直弼という人は彦根では有名ですが(全国的には)あまり有名でもありませんし、功績が正当な評価を受けているとは言い難いのです。むしろ「悪人」のイメージです。どうしてそうなったのでしょうか?


歴史の専門家はその時代しか見れていません、本当の歴史上の問題点を探るには300年くらいを全部見て検証すべきです。
 
まずは「鎖国」をどう考えるか?
当時の攘夷と今の護憲、時代の空気を解るいい例なのです。
我々は今開国しているので、みんな「開国は当たり前」と思っています、でも昔は「開国を唱える奴は極悪人」であると思っている人は、日本のインテリでは遥かに多かったのです。
例えば、坂本龍馬は開国論を唱える勝海舟を斬りに行ったのです。でも龍馬は偉い人物で海舟の話を聞いて宗旨替えをして海舟の一番弟子となったのです。
 龍馬のような説得が効く人物はいいのですが、江戸時代の日本には「開国が悪」という人が居ました。
 今ではあまりピンときませんので最近の例で挙げたのが「護憲論」なのです。

護憲論と攘夷論はよく似ています。
「平和憲法」
『日本国憲法』第九条に「日本は軍隊を持ってはいけない」と書かれているので守りましょうという意見があります。
実は私(井沢先生)は改憲論者で、今はこの意見も受け入れられますが20年前は極悪人でした。護憲論者の人たちは『非武装中立論』を唱えていました。
『非武装中立論』とは、世界の国はみんな良い国ばかりなのに何で武装する必要があるのだ?だから日本は憲法九条の通りに自衛隊を廃止して丸腰がいい。という考え方。
この思想と事実は違うのです、この時、北朝鮮は拉致を行っていて日本には「北朝鮮は拉致をやっているのではないか?」と言う人もいました、でも「そんな事を言うのは怪しからん」という言葉で封じられたのです。『非武装中立論』では「世界は良い国だから北朝鮮は拉致なんかしている筈が無い、だから拉致を言う奴は極悪人だ」となります。

私(井沢先生)の改憲は、日本は法治国家なのに憲法では「日本は軍隊を持ってはいけない」事になっている。「軍隊」と言わずに「自衛隊」と言って誤魔化していてもあれは軍隊です。ならば憲法を改正して自衛隊を認めるか?あるいは憲法通りに自衛隊を廃止するか?のどちらかしろという事なのです。
国が憲法違反をしてる事がおかしいと昔から言っているのです。軍隊を無くすのは非現実的なので最低限の軍備は必要で、だから憲法は改正した方が良いと言っているのです。
それを言うと昔は「極悪人」と言われました。最も不愉快なのはその時に「井沢元彦は戦争主義者だ」と言っていた人間は今は全員口を拭っています。彼らは思想が優先で、それに現実を合わせています。自分の思想が大切なあまりに現実を見ておらず、こういう人はいくら証拠を集めても絶対見ないのです。
坂本龍馬が偉いのは、龍馬も当時はガチガチの攘夷論者でしたが相手の言う事に耳を傾けて変えたと言う事が偉いのです。

幕末、長州藩や薩摩藩はガチガチの攘夷論でしたが戦争に負けて開国路線になったのです。
 薩摩藩は、篤姫の義父・島津斉彬は開明派の人物で西郷隆盛を育てますが、斉彬が謎の死を遂げて(井沢先生は暗殺だと思って居られるとの事)、弟の島津久光は攘夷論者で何を言っても受け付けなかったので西郷隆盛も島流しになったのです。
 開明派だった薩摩藩はここで攘夷になったのです。この後、イギリスとの戦争に負けて薩摩藩は開国へと進んだのです。

今の我々は開国論に浸かって居ますが、開国と言っただけで「極悪人」と言われた時代が幕末だったのです。ですから井伊直弼は悪役なのです。

井伊直弼が「悪役」な理由は3つ挙げられます。
1.開国を決断した事よりも、勅許を得なかったのが一番悪い。
 老中は話し合いで物事を決めますが、大老は重要な決断をする時に置かれ、大老が徳川幕府を代表して決断した事。
 江戸時代中期なら日本の外交権は、幕府にあって朝廷に無かったので直弼の決断に誰も文句は言いませんでした。ところが幕末になると幕府を倒す為に日本の元首は天皇であるという「尊王論」が非常に盛んになり、その結果、井伊直弼は「勝手な独断専行」が問題になったのです。
 また、日本にとって不平等条約だった事も付随として問題になりました。
 当時は幕府の批判が公にはできませんでした、ですから「幕府は朝廷の許可を得ていないから、やっている事はおかしい」という事は言い易かったのです。
2.歴史的に間の悪い人
 井伊直弼は将軍継嗣問題で、紀州藩の慶福(後の家茂)を押しましたが、英明な一橋慶喜を押す人も居ました。
 井伊直弼はこの問題で一橋派の人々を粛清しましたが、後に一橋慶喜が15代将軍になりました。だから後に将軍になった慶喜が直弼の事を良く言う筈が無く、本来なら身内である筈の幕府からも悪く言われる事になったのです。
3.安政の大獄
 今までの話は全面的に井伊直弼が悪いとは言えない部分もありますが、こればかりは良くなかったといえます。
 反対者を捕まえて殺した人が多く居て、その中に生きていれば日本の将来を担ったであろう吉田松陰や橋本左内が居たのです。
 特に吉田松陰は松下村塾で多くの後身を育成した人でした。後に「維新の三傑」と呼ばれる桂小五郎(木戸孝允)、明治時代までは生きられませんでしたが高杉晋作、総理大臣にもなった伊藤博文、明治陸軍の大立者となった山県有朋。そんな松陰の弟子たちが築いた明治政府では「師匠の首を斬らせた井伊直弼は悪人に違いない」と言われるようになったのです。

本来、開国を決断した事は褒められるべきなのに悪口を言われ、功績を無視されたのです。
もしタイムマシンがここにあって直弼に「吉田松陰を殺したのはやり過ぎで話ですか」と言えばたぶん「松陰は老中暗殺を企んだのは大罪でこれは死刑に値する、法律を守ったのは当たり前だ」と言うかもしれない。
 もしかしたら松陰を遠島くらいしにていれば評価は変わったかもしれません。
 この反対の例は、島津久光で、彼は西郷隆盛を殺すつもりで環境の悪い牢に閉じ込めて自然死を待ったが、西郷は死なず、西郷を殺さなかったからそれ程評価が悪くないのです。


井伊直弼を知るためにはまずは鎖国を知らなければなりません。
 有名な話ですが「鎖国」と名付けたのは日本人ではなくオランダ人が日本の外交状態を書いた本を、日本人が訳した時に『鎖国論』としたのです。
 ですから「鎖国」は外国人のイメージで、日本の当時の幕府の担当者は鎖国していたという認識は無かったかも知れません。
 長崎の出島限定ですがオランダと貿易をしていて、中国とも正式な国交は無くとも貿易をしていて、他にも朝鮮半島から将軍が代替わりするごとにお祝いの使者の朝鮮通信使が来て朝鮮とも国交があり、薩摩藩を通じて(薩摩藩が裏で支配をしていた)琉球王国からも時々使節が江戸に来ていて、4ヶ国との交流があったのです。
 ですから、限定的に外国と付き合っていたのです。

なぜオランダと付き合っていたのかと言うと、キリスト教です。
 当時のキリスト教(カトリック)は、国を破壊し政権を倒し、そしてその国を無理矢理カトリックに改宗させる事が神から与えられた使命だと思っていたのです。「野蛮人に俺たちが正しい宗教を教えてやってる」との意識でした。
 戦国時代にこの並が日本にやって来ました。そして鉄砲がやってきたのです。鉄砲は技術を学んで国産化することができましたが、火薬はできなかったのです。
 火薬は原料が、硫黄(日本は火山国なのでそこら辺にある)、木炭、硝石(硝酸カリウム、これは後に日本でも作れるようになりますが、当時は日本に無かったのです)。硝石は輸入に頼るしかなく、火薬を大量に作るためにはスペイン人やポルトガル人と貿易するしかありませんでした。
 彼らと貿易するのに一番いいのはキリスト教を保護する事、例えば織田信長は安土にセミナリオ(神学校)を造ったのです。信長は鉄砲を大量に使用した大名でした。
 日本で最初に鉄砲が伝わったのは種子島です。種子島の宗教は日蓮宗の特別な一派でした、その本山は本能寺、つまり種子島と本能寺は火薬の当別なルートで繋がっていたのです。信長が早くに堺を抑えたのも火薬の為で、堺より東には国際貿易港がありませんでした(西にはありました)。
 戦国時代は相手の勝つ為に硝石が必要で、その為にキリスト教を保護するしかなかった。秀吉の時代になると天下が統一されたので火薬もそれほど必要ではなくなり、キリスト教の危険性も伝わり『キリスト教禁教令』が発布されました。しかし、秀吉は貿易はやりたかったので『キリシタン禁止令』を出しながら貿易船の来航は望んだのです、しかしそれは無理がありました。
 家康の時代になると、キリスト教徒が増えて脅威になり、偶々漂流した人がキリスト教の布教の仕組みを聞かされ家康も禁止令を発布したのでした。そして家康の時代にはプロテスタントのオランダが台頭したのです。
 当時のプロテスタントはそれ程にキリスト教の布教に拘らず、家康は「キリスト教を布教しないなら貿易を認める」としオランダは日本との交易の利益からキリスト教布教をしない事を条件に貿易を行ったのです。

幕府は、日本人の帰国と海外渡航を禁止しました。
 この海外渡航の禁止に付随して、大きな船の建造を禁止したのです。はっきりした形の物は見つかっていませんが幕末になって大船を造ってよいと言うお触れがでたので、逆に禁止令が出ていた事が推測されるのです。
 これは「江戸時代はある意味で、科学技術の進歩を止めた時代」むしろ逆行と言える事すらあったのです。
江戸時代に使われていた船のイメージは、帆柱1本が特徴的ですがこれはとても危険でした、でも戦国時代には日本にも3本マストの船があったのです。だからスペイン人・ポルトガル人は大航海時代を迎えられたのです。ところが日本の船はそれよりも後なのに1本マストの船になり明らかに後退しているのです。

 武器もそうで、武器と言えば火縄銃ですが、火縄銃は先込め式でした。実は200年以上経っている幕末も同じ銃でした。しかし世界では元込め式になっていたのです。火縄銃は雨の中では撃てませんが、元込め銃は雨の日でも撃てたのです。
 もう一つ、ライフルになっていたのです。ライフルとはらせん状の溝が銃身に彫られている銃で、これを使うと真っ直ぐに遠くまで飛ぶのです。こういう事を海の向うではやっていたのですが日本ではやらなかったのです。

あまり護憲の論者の方を悪く言うのも何ですが、こう言う人が居ます。
「日本は戦争をしないと決意した。だから憲法を守る」でも戦争は喧嘩であり、相手が攻めて来る事もあるのです。そうなったのが江戸時代でした。
戦国時代、日本人は散々戦争をして侵略戦争で失敗もしました。そこで「もう戦争はしたくない」との思いが生まれました。こうして「日本人は戦争をしないと決意したので、武器の改良を一切しない。技術は平和技術のみです。海外とも一切付き合いません」と決めたのです。
 海外と関わらなければ一切戦争は起きない。と江戸時代の人は思い、今でも同じ事を言っている人が居ます。だから江戸時代は武器が使える人が減り、武器は飾り物になったのです。
 ところがこの決意は、海の向うでは産業革命が起こり蒸気機関という人類最大の発明がされました。蒸気機関は大きくて不高率なので蒸気自動車はできませんでしたが、蒸気機関によって世界は変わったのです。
例えば、船は風任せで運行時間が分らなかった物が、蒸気機関ができるようになるとタイムスケジュールができるようになり、それ以来人間は時計を持つようになったのです。陸でも蒸気機関車ができて時刻表ができ、個人で専用の時計を持ったのは鉄道員でした。ここで初めてタイムスケジュール社会ができたのです。
 蒸気機関によって船が大きくなり、重い物(鉄張りの船、大砲、兵士)が積めるようになり、帆船に比べて航海期間が短くなり地球も狭くなったのです。
そこで列強はアジアやアメリカに進出し、植民地を増やしていき、その流れが「戦争はしないと」決意し安心している平和ボケした日本にやってきたのです。日本人は平和が永遠に続くと思っていたところにドーンとやってきたのです。ですからこの長い蓄積が「開国=悪人」となりました。

これに対し、島津斉彬や勝海舟は200年の遅れを取り戻さなければ勝てる訳が無いと考え、斉彬は溶鉱炉(反射炉)を作らせました。当時の日本では鉄をドロドロに熔かせる炉がなく、大砲は融点が低い銅で作られていたのです。日本はそこから始まったのです。
そんな国が黒船を作れる国に勝てる筈が無く、勝てなければ国を開いて学び富国強兵しないとインドや中国のように植民地になってしまう。という今で考えると常識なことが当時は「極悪人だから斬っていい」となり勝海舟の妹婿の佐久間象山は斬り殺されました。
要するに正しい事が通らない時代があり、そういう時代に逆らって物事を決めた人はその時は悪く、普通は後になって評価されるのですが、井伊直弼の場合は吉田松陰を殺した事が災いし、身内(幕府)も一橋派から悪く言われるようになったのです。

そして実はアメリカはペリーが初めてではなく、ペリー以前にアメリカ東インド艦隊司令長官ビドル提督が7年前に来ていて、民間施設ならペリーの16年前(天保年間)にモリソン号が来ている。
何故来たかと言えば、蒸気船は帆船と違って燃料の補給が必要となり、アメリカが日本に求めたのは補給でした。
 ヨーロッパから見れば日本はアジアで最も遠く、イギリスから独立した後進国のアメリカから見れば太平洋を越えた一番近いアジアが日本で、アメリカは日本に補給港を求めていたのでした。
これが分っていたら開港を条件に日本に有利な交渉ができ、アメリカも紳士的な大人しい提督を派遣したのに、日本は開国を否定し、起こったアメリカは国益の為にペリーを派遣し、本来敵対していた筈のイギリス・フランスと手を組んで日本を開国させる形になったのです。だから不平等条約なのです。
そして司馬遼太郎さんも言っておられますが、日本の最大の過ちは「家康の時代も国を開いていた事を当時の人は知らなかった」という事。これを知っていれば日本では多くの血は流れなかったかも知れず、当時、長州藩の長井雅楽が『航海遠略策』でそれを唱えているが早すぎて藩内の攘夷論者に殺されるのです。
この時の多くの知識人が「鎖国は神君家康公が定めた祖法であり、絶対変えてはいけない」と思っていたのです。それは最大の問題で、人間も環境も国際情勢も変化するので変化に対応し理屈で考えれば良いのに、日本人は頑なに思い込んだらそれができず、そんな日本人の思い込みの犠牲者が井伊直弼であったと言えなくもないのです。


《質疑応答》
(質問)
井伊直弼は若い頃から近江商人を通じてロシアの情勢を得ていて、直弼にとっては世界情勢は常識ではなかったでしょうかと思って居ますが、どう思われますか?
(井沢先生)
それで良いと思いますが、我々は現在の常識で見てしまいます。今はネットがあり図書館もありますが、昔は情報がすぐに手に入らず、徳川政権では情報を制限していたので、個人的に詳しい人も居ればそうではない人も居た筈。
 それを調べる為には、その人の貯蔵文書を詳しく調べるしかありませんが、直弼に関しては質問者の認識で良いと思います。

(質問)
 今の日本は直弼の時代に似てると思います。過去の教訓を活かし日本の取る立場は?
(井沢先生)
 独立国家である形を整えなければいけない。場合によっては日本が核まで保有しなければならないかも知れないと言う物騒な議論もありますが、やはり独立国家としての実質を整えない限り世界に対して物申せないし自分たちの行き方も模索できない。
 昭和20年以降の日本はある意味でアメリカの属国(までいかないかもしれないけど)状態で、嫌な事はアメリカに任せてきましたが、そうもいかなくなるだろう。


《『どんつき瓦版』取材》
(井沢先生)
 「どんつき」とはどんな意味なのですか?
(管理人)
 どんつきと言うのは彦根の方言で「行き止まり」とか「喰い違い」みたいな意味です。
(井沢先生)
 「どん詰り」みたいな?
(管理人)
 そうですね、京都でもこの言葉があるのですが、ここは城下町ですから城を守る迷路みたいになって居ます。

それではインタビュー
(管理人)
先生は、井伊直弼は政治家としてあまり認めて居られず、決断の人として認めて下さっていると過去に読みましたが、先生にとって井伊直弼個人はどんな評価をお持ちですか?
(井沢先生)
 きっと真面目な人だったと思う、自己の信念に忠実、ちょっと狭い狭量な感じがします。「自分が絶対に正しい」という信念があるから反対派を容赦なく殺してしまうような所があるので、もうちょっと寛容であればよかったですね。
(管理人)
 では桜田門外の変はどういう位置付けで見られて居ますか?
(井沢先生)
 あれは、安政の大獄をやらなければあそこまでは無かったかな?坂下門外の変もあるので一概にそうとは言ませんが。
やっぱり安政の大獄で多くの志士を殺した事が「赤鬼」という評価になり「じゃあ、殺すしかない」という評価になっちゃったんじゃないかな。
(管理人)
 以前、お城の話を週刊誌で連載されていた時(『名城をゆく』)に、井伊直弼の所で「吉田松陰と井伊直弼は対外思想的には同志だ」と書いておられたとおもいますが・・・
(井沢先生)
 井伊直弼は開国した方が良いと言う意見で、吉田松陰だって同意見で、松陰は真っ先にアメリカ留学をしようとして捕まる。
井伊直弼にとって最も不愉快な人物は水戸斉昭だと思う、斉昭は私たちが見てもどうしようもない人物ですね、頭から悪いと決め付けて説得に耳を貸さない。それの息子が慶喜だと言うのが大きかった、大奥でも「あんな女垂らしの息子が将軍になったら嫌だ、直弼さん絶対に阻止して」だろうし、直弼も嫌だと思ってただろう。
それから見ると吉田松陰はまったく対極の人間なのだから、もうちょっと「牢には入れるけど生かしておく」みたいなことができなかったかな? というのが惜しいですね。
(管理人)
 では、もし吉田松陰が殺されず、例えば幕府に登用されたら直弼とどんな政治をしたでしょうか?
(井沢先生)
 松陰が許せないのは朝廷無視。そこで対立はしたと思うけど、ただ松陰の死を減じて遠島にしていれば直弼は暗殺されないと思う。
 大政が引っ繰り返って直弼が罰せられそうな時に松陰が「待った」をかけて「お互い良かったな」って事になったかもしれません。榎本武揚なんかはそうでしょ?
(管理人)
 そうですね。
 では幕末から話が変わるのですが、先生は彦根城がお好きだと伺いましたが、どんな所に魅力を感じますか?
(井沢先生)
 コンパクトに纏まっていて綺麗なお城。また外郭部分が良く残ってますね。同じ様にコンパクトで良い城は犬山城ですが、あそこは城の一部が残っているだけ、姫路城すら全体は残っていないので、日本の城で完全に残っているところは無いけど、平山城であるが上に山全体によく残っている。
 それに井伊直弼の城なのによく焼かれなかったですね(笑)
(管理人)
 そうですね(笑)
 私たちも調べましたら大隈重信が尽力してくれた事が分りまして、大隈政権の時には彦根の人が司法大臣も勤めているのです(大東義徹のことで、井沢先生はご存知でした)。
 先生はどれくらい彦根城にお越しいただけましたか?
(井沢先生)
 何度と何度と、城の取材でも『逆説の日本史』を書くときの実質調査でも観光でも来て居ます。
 父が彦根高商(現・滋賀大学)出身で、私は子どもの頃から鮒ずしを食べさせれれていました。(先生にとって鮒ずしはお酒のつまみだそうです)
(管理人)
 私たち『どんつき瓦版』は今回、井伊家は彦根城・信長の佐和山城、来年に肥田城の水攻め450年を取り上げて150年祭だけではなく、戦国史も取り上げていこうかな?と思って居ます。
(井沢先生)
(ここで瓦版をお渡しするのに入れていたクリアファイルをご覧になって)
 しまさこにゃん
(管理人)
 島左近より前の時代になるのですが・・・(肥田城のこと)
(井沢先生)
 だから縞ネコなの?
(管理人)
(しまさこにゃんの縞の話をしました)
 先生は『織田信長推理帳』の中で六角氏が信長暗殺を狙ってという小説も書かれていて、六角氏もお詳しいと聞いて居ますが、先生は近江の戦国はどんな風に思われますか?
(井沢先生)
 ここは京への通り道で、東海という豊な地方から最終的には秀吉も家康も来る位だから非常に重要視されたと思いますね。もう一つは大津や草津が物資の集積地でそれを比叡山延暦寺が経済的利権をおさえている、そういう意味での信長がやった経済改革(流通革命)の対象として一番この辺り(近江)が、後の近江商人になるような伝統商業もあり石田三成が複式簿記を使っていた話もあるし、後にここから豊臣政権の官僚がでますね。
 一方で、比叡山を中心とした古いカルテルみたいなものがあって、一方で最新の商業もあり面白く改革すべきで、政治理想が実践できるような土地だったのではないか。
(管理人)
 では、先生は近江で頭を過ぎるのは誰ですか?
(井沢先生)
 まずは天智天皇、それからやっぱり織田信長まできちゃうかな?
(管理人)
(話は尽きず、まだまだお話をお聞きしたいのですがお時間の関係でここで終了)
ぜひまた彦根にお越しください、ありがとうございました。

6月26日、島左近亡くなる

2008年06月26日 | 何の日?
寛永9年(1632)6月26日、島左近が亡くなったとの記録が京都にあります。

島左近といえば、石田三成の軍師として活躍して関ヶ原の戦いで黒田長政軍の鉄砲隊の発砲を受けて戦死した事になっていて、その黒田家の家臣たちが数年後に関ヶ原の戦いのことを語り合った時に島左近の「かかれ、かかれ」という声が耳に付いて離れないがその時の左近の出で立ちについては、皆がバラバラの事を言ったので関ヶ原の時に三成の家臣だった者に確認すると黒田家家臣は全員間違った記憶を持っていた事が解り「ヨクウロタエタルヲ、悔シキ事ナリ」と自分たちが恐怖で左近の姿を凝視できなかった事実に左近の武勇を改めて思い知らされた。との逸話が残っています。


つまりは、黒田長政軍の鉄砲隊に撃たれたとは言うものの黒田家ではその首をあげる事が無く、他にも左近の首を取ったと確実に解る記録は残っていないのです。

そこで「島左近は関ヶ原では死ななかったのではないか?」との伝説がうまれたのです。
島左近生存説を上手く組み込んで隆慶一郎さんが『影武者 徳川家康』で島左近を活躍させて居ますが、このような小説以外にもにも数多くの話があり京都では目撃談も多く残っています。

まずは奥川並村(滋賀県の余呉町)。
ここは川上から茶碗が流れてくるまで下流の人は上流に人が住んでいる事を知らなかったとの言い伝えがある村で、左近が匿われて居たとされる「殿かくしの洞」があり、人々の親身な介抱に感動した左近が島姓を贈り、村人はそれでは畏れ多いとして“島”の前に一字を付けて“下島”“中島”“上島”の姓を名乗ったとされています。
しかし、ここが彦根藩井伊家の所領になったので、発覚を恐れた村人が左近を殺害したとも、逃がしたとも言われています。

次に、左近の出身地とも言われる対馬。

または静岡県、岩手県などなど全国に広がるのです。
一説には幕府に仕えたとも言われています。

そんな中で京都での目撃例と合わせて語られるのが京都市上京区にある立本寺の墓なのです。
ここには表に“妙法院島左近源友之大神墓”裏には“寛永九壬申年六月二十六日歿”そして表の台座には“土葬”と彫られています。
ちなみに、石田三成の旧領である彦根の妙源寺(花しょうぶ通り商店街内)でも左近の命日は寛永九年として扱われているのです。


果たして島左近は関ヶ原で生きていたのでしょうか?亡くなったのでしょうか?
管理人の考える事は、全てが本物の“島左近”だったのではないか?という事です。
もし、島左近が伝わっている通りの人物なのだとしたら様々な謀略を巡らすのではないでしょうか・・・

「関ヶ原で死んだ筈の島左近が、領内で生きていた」なんて噂が自分の領国で聞こえたら藩主は枕を高くして眠れませんよね。
それが島左近(と思われる人物が)亡くなった後にしても、領内であの島左近が生活していたという恐怖は相当な物だったと思われます。
島左近が関ヶ原で指示した策は、自分の家臣や影武者(たぶん居たと思います)に本物の自分の持ち物を与え、それを証拠としてほとぼりが冷めた頃に島左近を名乗らせる。
その時期は、それぞれのタイミングに任されていたのかも知れません。

関ヶ原の戦いと大坂の陣という大きな戦いを終えて、平和な時代を迎えた徳川幕府。
しかし、四代将軍家綱の時に起きた“由比正雪の乱(慶安の変)”では長宗我部盛親の子と名乗る丸橋忠弥が正雪の片腕だったりと、豊臣時代の名残がいつまでも幕府に揺さぶりをかけていたのでした。
左近もそんな恐怖を徳川家に残し、もしかしたら自身もそんな策の一人になっていたのかもしれませんね。


ちなみに、島左近はこういった替え玉策を以前にも用いた事があったと言われています。
それは「元の木阿弥」という諺として残っている出来事です。
左近が大和国(奈良)の筒井家に仕えていた時。
その時の当主だった筒井順昭は天文20年(1551)に2歳の嫡男・順慶を残して亡くなったのです。臨終に際して左近などの家臣を枕元に呼んだ順昭は、順慶への忠誠を誓わせました。
そして順昭そっくりの盲目法師の木阿弥を替え玉としたのです。
木阿弥は暗い部屋に寝かされて、順昭が病で寝入っているように見せ順昭の死を1年間隠し続けたのです。

そして1年後に順昭の喪が発せられ、木阿弥は一国の領主から元の法師になったのでした。これが「元の木阿弥」の故事なのですが、これを差配し続けた重臣の一人が島左近だったのです。

左近という人物は、どこまでも謎とロマンに満ちて居ますね。

開国大借り物競争 ギネス記録会

2008年06月22日 | イベント
2008年6月22日、花しょうぶ通り商店街で、昨年の世界一長いコンサートに続くギネス挑戦イベントとして『開国大借り物競争 ギネス記録会』が行われました。


梅雨の真っ只中、数日間の雨も続き天候が心配された中、小雨は降るものの激しい雨には襲われる事無く、正午に花しょうぶ通り商店街内の山崎外科の駐車場に集まった参加者たち。
150年祭を記念してか?150人程度の参加者を予定していたイベントに対して、最終的に参加されたのは183名となったのでした。

私たち日本人が想像する借り物競争は「紙に書かれた物を誰かから借りてきてゴールをする」というゲームですが、ギネスに認定されている借り物競争は、英語で「スカベンチャーハンティング」と書かれる、和訳するなら「廃品回収」や「ゴミ拾い」と呼ばれる物をゲーム性を持たせた物になるそうなのです。

今までのギネス記録では116名の参加になっていました。


ギネスの認める公式ルールとして
・1チーム4人以上
・1時間以上継続される競技
・3つ以上の物を集める
という規定があったそうです。


そこで今回の『開国大借り物競争 ギネス記録会』では、
183人で41チームを作り、500mの商店街を行き来して11のアイテムを集めていったのでした。

そのアイテムもただ集めるだけではなく、
・石田三成の軍師として有名な嶋左近の「鬼子母神」の旗が立っている店でバナナをもらう
・岡山城主でもあった小早川秀秋「違い鎌」の旗が立っている旅館で、きびだんご菓子をもらう
・「しまさこにゃん」と「いしだみつにゃん」がよく出入する元銭湯の街の駅2号店でシールをもらう
などの、“戦国商店街”として各店に戦国武将の幟を立てている花しょうぶ通り商店街らしい工夫を凝らしてゲームを楽しみながら商店街のお店を知ってもらい特徴も生かされていたのでした。

そして午後1時15分頃、183名全てがゴールである妙源寺に入り、無事に競技は終了したのです。


参加者は、少人数の場合は他の方と混ざっての競技参加となったのですが、武将の幟を見ながら一緒に商店街を周る事でいつの間にか親しい間柄になっていたり、街の駅「戦国丸」では“しまさこにゃん”のサイン会が行われていたりと、日曜のお昼のひと時をどんな人でも楽しく過ごせる時間が用意されていました。
彦根市長も参加されていましたよ。


今回の183名の記録は、ギネスに申請され、ギネス本部から認定されましたら記録更新ということになるそうですよ。

6月19日、日米修好通商条約締結

2008年06月19日 | 何の日?
安政5年(1858)6月19日、アメリカ軍艦ポーハタン号の船上において『日米修好通商条約』が締結されました。

4月23日に井伊直弼が大老に就任した時点で、列強との修好通商条約締結はほぼ決定されたものでした。
しかし、幕府は自らの責任を転嫁するために朝廷を利用しようとし、それが「無勅許での条約締結はありえない」という世論を呼ぶ事となったのです。
当時の社会情勢では、日本の大政は江戸幕府にあり、井伊直弼はそのトップである大老の地位にあった訳ですから、本来なら無勅許という問題が起こる筈もなかったのです。
これが、幕府崩壊の原因の一つになるのですから、責任無き政府は怖いですね。

さて、直弼が大老に就任した頃は堀田正睦の失策で時の天皇である孝明天皇は意地でも条約を認めない思いが強かったのです。
これは、当時の瓦版の影響が強く、海の無い京都では異国人は妖怪かエイリアンのようなイメージで語られていたからなのです。

こうして、直弼は勅許の無いままの条約調印を渋りますが、現場サイドで条約調印が行われてしまい、直弼が責任を負う形になったのでした。
この日の夜、直弼は側近に「この上は責任をとって大老を辞任しよう」と弱音を吐いたと言われています。

ちなみに『日米修好通商条約』では、
箱館・新潟・長崎・神奈川・兵庫の5つの港の開港
自由貿易の承認と開港場での居留地の設置
関税自主権の放棄
治外法権
などが締結されたのです。
この不平等条約に対し、明治政府は条約改正に苦労したので、直弼の批判材料となりますが、当時の世界情勢では先進国の列強と未開国の日本の間に結ばれた条約としては常識の範囲内だったという説もあるのです。


余談ですが、
神奈川の代わりに横浜が、兵庫の代わりに神戸が開港されます。
列強は、これを条約違反と主張しますが、明治になってから横浜を含んだ地域を神奈川県とし、神戸を含んだ地域を兵庫県とする事で誤魔化したのです。

もう一つ余談を書くなら、
兵庫(神戸)を除く4つの港はすぐに開港されますが、兵庫だけは大政奉還が行われた後でした。
これは、異国人に恐怖を感じていた孝明天皇がいつまでも京都に近い港の開港を認めなかったために、孝明天皇の崩御後に開港となったのです。


そして、これらの条約は9月までに、フランス・イギリス・ロシア・オランダとも締結されるのです。


今日は、日米友好150年の記念日であり、これが元となって彦根では『井伊直弼と開国150年祭』が開催されています。

6月17日、阿部正弘死去

2008年06月17日 | 何の日?
安政4年(1857)6月17日、前の老中首座だった阿部正弘が病没しました。享年39歳。

大河ドラマ『篤姫』で今までの幕末ドラマの中では初と言っても過言ではないくらいにその政策が丁寧に描かれた阿部正弘とは一体どんな人物だったのでしょうか?

正弘が幕府老中に就任した時、老中首座は「天保の改革」で有名な水野忠邦でした。つまりは、まだ遠山の金さんが活躍していた時期だったのです。ちなみにこの時、正弘はまだ25歳だったのです。
天保の改革の失敗で一度失脚した水野忠邦なのですが、オランダ国王が日本の為にわざわざ船を走らせて届けられた国王からの親書に「アメリカからの開国請求が行われる」との手紙に驚いた将軍家慶によって再び老中首座に返り咲いたのです。
そんな対外問題に対して忠邦の補佐をしたのが若き阿部正弘だったのです。

しかし、水野忠邦の時代は既に終わっていて、その責任をとって辞任した忠邦と同じ様に老中たちが辞めて行き残った正弘が老中首座に着任したのでした。若くて二枚目だった正弘は大奥でも人気が高く支持率があったと言われています。
阿部政権(って現代みたい・笑)の最大の仕事は対外政策だったとい言って間違いないでしょう。
オランダ国王に対する返事から始まり、親書にあったアメリカ東印度艦隊司令長官ジェームス・ビドルが2隻の帆船(蒸気船ではない)で浦賀来航。この時に開国ができていれば幕末の騒乱や幕府崩壊も回避できたのかも知れませんが、幕閣の猛反対に遭い追い返してしまうのです。
嘉永6年の黒船来航時にペリーが恐喝外交に出たのは、この事に由来します。


こうした外交問題から、黒船来航前より譜代大名以外にも広く意見を求めるように幕政改革を始めた阿部正弘。
これによって、御三家である水戸斉昭や親藩の松平慶永、外様大名の島津斉彬・伊達宗城などが幕政に意見するようになったのです。
譜代大名たちがこれに反発して外様大名たちに罰を与えようとした時に黒船が来航し、内政はうやむやになったのです。

一度浦賀を去った黒船の再来港に備えて品川沖に砲台場(今のお台場)設置を江川英龍に命じ、家柄に関係なく幕臣を登用したのでした。ここで採用された人材の一人が勝海舟なのです。

安政元年(1854)3月3日、神奈川条約と言われる『日米和親条約』を締結し日本とアメリカの交流がスタートしました。これを開国とする意見もあり、開国は井伊直弼ではなく阿部正弘の功績とする動きもあります。

国内では12代将軍家慶が亡くなり、病弱といわれる家定が13代将軍に就任するのですが、その直後から将軍継嗣問題が勃発したのでした。
正弘は一橋慶喜を推す“一橋派”に属しますが、対外問題の責任を負わされ、また安政の大地震の混乱もあり老中首座を退いたのです。

阿部正弘の後任は開国派で“一橋派”にも、井伊直弼を中心とした“南紀派”にも属さない堀田正睦に任せたのですが、堀田は生まれながらの官僚気質で重大な決定をする勇気が無く、幕府は一時期停滞したのです。

そんな堀田よりも阿部の再任を望まれた頃、正弘は病で倒れて没するのでした。39歳
その若すぎる死から世間では様々な憶測を生み、少し前に迎えた若い側室(16歳)との閨が過ぎた衰弱死や井伊直弼の毒殺説などが伝えられています。

6月13日、最後の遣隋使

2008年06月13日 | 何の日?
写真は、河瀬氏の居城・河瀬城があった場所に建つ法蔵寺


推古天皇22年(614)6月13日、犬上御田鍬を大使とした五回目の遣隋使が派遣されました。

これが遣隋使の最後となるのですが、最後となった理由は日本側にあったのではなく、隋が滅びて唐が建国されたために次に派遣されるのが遣唐使となった為なのです。

ちなみに、舒明天皇2年(630)に派遣された最初の遣唐使の大使も犬上御田鍬でした。


犬上君は、近江国犬上郡を中心に治めた豪族で日本武尊の子孫だとも言われる一方で渡来人の末裔との説もあり、近江という内陸に居ながらにして朝鮮半島や中国大陸との文化交流が盛んな一族だったのです。
このために古代日本では様々な面で活躍を見せ、その最たる例が犬上御田鍬でした。

これは『犬上郡と犬上君』の時にも書いて居ますが、「犬上」という不思議な姓に惹かれたのか?手塚治虫さんの『火の鳥 太陽編』の主人公のモデルにもなった犬上君ですが、その勢力は戦国時代まではっきりと足あとを残したのです。
多賀大社に関わる大神主河瀬氏やそこから別れた甘露氏・連台寺氏などが豪族として活躍しています。


ちなみに、遣唐使としての犬上御田鍬の物と言われている世界最古の旅券(パスポート)が滋賀県内に現存しているとか居ないとか・・・(ウィキペディアにはそう紹介されているのですが確認はできていません、どこから出た説なんだろう?)

6月12日、乙巳の変

2008年06月12日 | 何の日?
645年6月12日、中大兄皇子と中臣鎌足らが、宮中で蘇我入鹿を暗殺します。

俗に“大化の改新”と呼ばれていますが、翌年に発布される『改新の詔』が本当の大化の改新で、この暗殺事件は“乙巳の変”と呼ばれています。

昨年、蘇我入鹿邸の遺構が明日香村で発見されて新聞の一面を飾りました。その時に「蘇我入鹿何気なく聞いた事がある名前なぁ」と思い出した人も多かったのではないでしょうか?
でも、ただ名前が面白いだけで何をした人か分からないと言うのが本音ですよね。
蘇我入鹿は、お祖父さんの馬子が聖徳太子と共に政治を行なっていた人でした、太子の死後間もなく馬子も亡くなりますが、聖徳太子の子孫である上宮王家と蘇我氏の協力体制が続く筈でした。
しかし、入鹿は蘇我家の単独政権を狙って上宮王家を襲って、王家の人々は全員自殺し滅びたのです。
この先、歴史上に聖徳太子の子孫が登場しないのは、この時に残った人がいなかったからなんです。もちろん、太子の子孫を名乗る人は今でも居ない筈です。

そんな蘇我氏の横暴に怒った中臣鎌足は皇族の中から特に勇気と行動力のある中大兄皇子に接近して入鹿暗殺を企てたのです。
こうして、宮中の儀式を利用して中大兄皇子自身も武器を持って入鹿に襲い掛かったのでした。
襲われた入鹿は儀式に参加していた皇極天皇(中大兄皇子の母親)に対して「私に何の罪があるか」と叫んだと記録が残っています。
この日は雨だったそうで、そのまま問答無用で殺された入鹿の死体は雨で水の溜まった庭に捨てられ、上から障子が掛けられたのです。

この功績で中大兄皇子は皇太子となり鎌足と共に大化の改新を進めますが、中大兄皇子はその後2代は別の人物が天皇を務めた後に皇位に就きます。
これは、実の妹である間人皇女(皇極天皇の次の天皇である孝徳天皇の皇后)と近親相姦の関係があったためと言われていて、間人皇女が亡くなってやっと皇位に就く事が出来たのです。
それが、悪名高い天智天皇です。
鎌足は、「藤原」姓を与えられてその子孫たちが公家の最高権力を握り続けるのです。

余談ですが、一説では大化の改新を進めていた人物は蘇我入鹿で、その成功を恐れた中臣鎌足が中大兄皇子を巻き込んで入鹿を暗殺して、その功績を引き継いだ。という説もあります。


さて、相変わらず彦根に関係ない話を書いています。
確かにこの事件は彦根とは関係ありませんが、藤原鎌足を始祖とする藤原一族はこの先の歴史に大きく関わってくるのです。

まずは佐和山の名前の由来ですが、鎌足の息子である不比等は、“淡海公”という呼び名で呼ばれる歴史が示す通りに近江国太守の時期があり今の芹川町辺りに屋敷があったと言われていて“長者屋敷”と呼ばれていました。
この不比等が、長者屋敷から見た山の形が、父の鎌足が眠る明日香の「佐保山」に似ていた事から、この山を佐保山と命名し、それが時代を経て「佐和山」となったのです。

そして不比等の次男である藤原房前(藤原北家始祖)も近江国司を務め、720年に元明天皇の勅願で金の亀に乗った聖観世音菩薩像を本尊とする寺を建立しました。この寺が今の彦根城が建つ彦根山にあった彦根寺です。

もう一つ、房前-真盾(房前三男)-内麻呂(真盾三男)-冬嗣(内麻呂次男)と続いて繁栄を極めた藤原北家。
その藤原冬嗣の六代目が遠江守の三国共資で、共資が娘婿として迎えたのが井伊家の始祖となる井伊共保になるのです。


この事件で、藤原鎌足が世に出なければ壮大な彦根の歴史の殆どが違っていたと思うと、小さな縁でも注目してみたくなりませんか?

時の記念日

2008年06月10日 | 何の日?
671年4月25日(グレゴリオ暦6月10日)、天智天皇が漏刻(水時計)と鐘鼓による時報を開始します。

こう書くと、天智天皇の前には時計が無かったように見えますが、実は日時計のような物はもっと昔からあり、時間という観念は存在していました。
この頃の時計は今ほど正確か?と言われると分や秒単位では難しいですが、1日を12に割ってお線香などが燃え尽きる時間を一定にして時間を知ったのです。


ですが、よく誤解されるのが、昔の時刻の数え方は時代劇なのでよく登場する“日の出と日没を基準にしている不均等な物”で、夏と冬で時間が変わる…
という考え方です。

実は、そういう時刻の数え方は戦国時代という日本が大混乱した時期に、統一した時間を知る方法が確立できなかった為に仕方なく使っていた方法で、天智天皇の時代は今の私たちが使っているような均等に割り振った時間を正確に告げていたのです。
つまり日本の時間は、正確→不正確→正確へと移動していったと言う不思議な国なのでした。

こんな状況でも日本人は工夫を凝らす人種だと解るのが時計の考え方です。
私たちが知る時計は、1日を12時間で均等に割って1周させるものなのですが、江戸時代の技術者たちは季節によって文字版を変える事で、季節によって変わる時間もからくり時計にも対応させていたのです。

ちなみに、天智天皇は畿外であった大津に都を置いたり、水城を設置したり、最初の戸籍である庚午年籍を作ったりと、多くの実績を残していて漏刻もそんな中の重要な功績となっています。
でも、その全ては663年に白村江の戦いで敗北した為に唐・新羅が日本へ襲来するのを恐れての政策だったのです。
大化の改新などで英雄としての扱いを受けている天智天皇ですが、実は暴君だったのではないかという説もあるくらいなんですよ。


この話は彦根とは直接関係ありませんが、昔の記録には、今とは違った時間感覚が登場しますので、それを知りながら資料を読むのも面白いんですよ。

『井伊直弼と開国150年祭』開幕記念式典

2008年06月04日 | イベント
平成20年6月4日。

2日前に梅雨入りのニュースを受けた彦根では雨の心配もありましたが、晴れ渡った青空の中に3割程度の白い雲が浮かび、心地良い風が人々の間を通り過ぎるような気候にも恵まれた午後に『井伊直弼と開国150年祭』は開幕しました。

【彦根鉄砲隊開幕演舞】
午後1時半過ぎ、表門付近から彦根城博物館の土手に目を向けると、彦根鉄砲隊が稲富流砲術の演舞を披露し、会場は彦根城博物館能舞台へと移ったのです。


【開幕(井伊直弼大老就任150年)記念コンサート】
能舞台では“ひこね第九オーケストラ”のメンバー4名による記念コンサートが開催されました。
井伊直弼が生きたのと同じ時代に活躍したベートーベンの『よろこびの歌』に始まり、1855年から20年をかけて作曲されたちょうど日本の開国期に重なる時の曲であるブラームスの『ハンガリア舞曲第5番』。そして今年が生誕150年となるプッチーニの『誰も寝てはならぬ』と150年祭に関わるような曲が演奏されました。
続いては、井伊直弼が大老となった年の1858年に初演されたオッフェンバックのオペレッタ『天国と地獄』。
このような曲を紹介してくださっているのは“ひこね第九オーケストラ”のヴァイオリン奏者であられる澤純子さんですが、曲への想いと同時に井伊直弼に関わる歴史も調べて居られてこそ伝えてもらえるものだと思うと、何気なく語られる曲紹介の後ろに見える心に感動を覚えます。
そんな開国に関わる曲として次に披露されたのが、フォスターの『主人は冷たい土の中』『懐かしきケンタッキーの我が家』『草競馬』でした。
『主人は冷たき土の中』は、1854年のペリー再来航時に幕府の役人を招いた日米の交流会が行われ、その時に船員たちが披露した曲だったのです。
余談ですが、この時にタップダンスも踊られて日本人も大いに楽しんで笑ったという記録がありますので、音楽は例え言葉が通じなくても万国を繋げる力があるのかも知れませんね。
そして“ひこね第九オーケストラ”最後の曲はJ.シュトラウスの『トリッチ・トラッチ・ポルカ』この曲もちょうど150年前の1858年に作曲された曲だそうです。
「ヨーロッパからアメリカ、そして日本。段々世界が広がる流れを考えられた」との澤さんのお言葉でした。


【開式の辞】
井伊直弼と開国150年祭に関わる方々のご挨拶を読みやすい短さに略しながらご紹介します。

○井伊直弼と開国150年祭実行委員会会長 北村昌造さん
 6月4日は、150年前に井伊直弼が大老になった日、そして7月29日には『日米修好通商条約』が調印されました。井伊直弼が大老だった22ヶ月に合わせて150年祭が開催されます。
日本を開国に導いた井伊直弼を正しく評価し、また政治家だけではなく文化人としての一面も彦根から発信していきたい。彦根に訪れた方々に井伊直弼を知っていただき、昨年の『国宝・彦根城築城400年祭』でつちかった市民の力で盛り上げ、縁ある土地や人々との交流をしていきたい。
150年祭が市民の誇りとなって元気な彦根を自慢し若い世代に伝えていきたい。

○井伊家第18代当主(彦根城博物館館長) 井伊直岳さん
彦根は関ヶ原の戦いの後に井伊直政が入封以来、江戸時代を通して彦根の藩主でありつつけ、明治以降は直憲が教育・産業・医療に尽力しました。
昨年は彦根城という建造物が主役でしたが、今年は井伊直弼という人が主役です。
井伊直弼は、
1.開国の元勲 と呼ばれる肯定的な評価
2.国賊・強権政治家 と呼ばれる否定的な評価
があり、『日米修好通商条約』『安政の大獄』は共に直弼が大老の時に行われました。
藩主としての功績は、弘道館や湖東焼の経営などの改革を行っていて、直弼像の見直しの機会です。
また、直弼のみではなく前藩主の直亮の頃から盛んに洋学が研究されていました。

藩主・政治家だけではなく文化人でもあり、人間味があり、茶会の記録からは家族愛もうかがえます。
150年祭の期間中に市民だけでなく多くの方にそれぞれの直弼像を持ち、直弼のみでなく郷土を知って欲しい。

ここで直弼の2つの和歌を紹介します。
1.世の中を よそに見つつも埋もれ木の 埋れておらむ 心なき身は
2.あふみの海 磯うつ波の幾く度か 御世にこころを くたきぬるかな
“1”から“2”の間には約30年の月日が流れます、“1”は決意であり“2”はある種の充実感があり、この期間での変化が象徴される句ですね。

○滋賀県知事 嘉田由紀子さん
近江の国と呼ばれた滋賀県は、縄文・弥生時代から歴史ファンを魅了する歴史の宝庫。彦根には威風堂々とした彦根城があり昨年の400年祭では来場者が76万人を越え、本日、大老井伊直弼の人物像に焦点を当てた150年祭の開幕をたいへん嬉しく思います。
直弼は勇気を持って日本を開国に導いた人物。
先ほどの“ひこね第九オーケストラ”を直弼が聴いたらどう思うでしょうか? 西と東の文化が出会う出発点を直弼は開いたのです。

昨年、400年祭を成功させた力で彦根の魅力を発信して欲しい。
また、これを機会に今の私がどこから来たのか改めて考えてみては如何ですか?
(嘉田知事の)260年前の先祖は、江戸の屋敷で彦根藩の家老と出会い、陸運車(陸舟奔車か?)の図面の情報を伝達した。という繋がりがあるのです。

○文化庁文化財部記念物課調査官 三宅克広さん
150年を経過した開国。直弼により成し遂げられた偉業を思い起こし再認識して欲しい。
幕末期は様々な思惑の中で世の中の動きが加速され、はからずもその渦に巻き込まれた直弼。信念に基いて完結させた事は見事でした。
今の時代は幕末に重るかもしれません。日本史上最大の英断を行った直弼から何を学ぶべきでしょうか?

大河ドラマ『篤姫』には井伊直弼も登場しています、これからの直弼がどう描かれるのかも楽しみです。
直弼のイメージは舟橋聖一さんの『花の生涯』の印象が大きいですがもう一度直弼を考え直し、新たな直弼像の構築にも期待します。

江戸以降の彦根の歴史は井伊家と主に歩んできました。近世大名文化を多目的の見れるのも大きな魅力です。また天守からの琵琶湖の雄大な風景も彦根の誇りではないでしょうか?


【リレートーク『直弼を語る』】
井伊直弼と開国150年祭の開催にあたり、様々な視点での直弼像の紹介もありましたので省略しながらお伝えします。

○『日米修好通商条約と直弼』 渡辺恒一さん
安政5年6月19日、日米修好通商条約が調印されました。この時に下田・箱館に続き神奈川・長崎・新潟・兵庫が開港される事となったのです。
これ以前に調印されていた『日米和親条約』はまだ鎖国の延長ともいえる条件でしたので、『日米修好通商条約』は幕府の方針が変わった実質的開国となり、他の列強とも条約を結んでいったのでした。
井伊直弼は最高責任者として関わりました。
当時は天皇の許可である勅許に関心が集まっていましたが、勅許を得ないままに調印を行った為に後に直弼は「違勅の臣」として非難を受けるのです。一方、近代的な観点からは「開国の恩人」でした。

当時は列強に対し“積極的開国”“攘夷”の両極端な外交思想の間に様々な意見が乱立している状況でした。
そんな中、直弼は幕府の中心に居たことから正しい情報が早く手元に入り客観的な現状認識ができたのです。それと同時に幕権の維持を重視していました。こういった意味で“鎖国に戻す”“開国”の両方が重なった考えを持っていたのです。

直弼が大老に就任した時には、14代将軍をめぐる将軍継嗣問題と外交問題が持ち上がっていた時で、直弼は将軍継嗣問題を解決させてから天皇の勅許を得て条約調印というプランを考えていました。
しかし現場ではハリスに押し切られる形で『日米修好通商条約』に調印してしまい、やむなく調印するのは仕方ないとOKを出していた直弼としては計算外の事だったのです。
調印当日、直弼は家臣に「あやまった」と漏らし大老辞任も考えたそうです。

ただ、当時の幕府の対応としては評価できるものでした。しかし世の混迷は収まらず一橋派が反発し、安政の大獄から桜田門外へと進んでいくのです。

死後の直弼にはマイナスのイメージが付き纏います。
これは、
1.幕末から戦前に天皇の権威や勅許の価値が上がった為に、違勅は大きな罪になった。
2.明治期の外交で不平等条約の解消が問題となり、直弼は弱腰外交として一方的に断罪された。
からです。
しかし、当時の国際関係からは妥当であり、戦争を回避した評価もされるべきなのです。

直弼は死後にマイナスのレッテルが大きくなりましたが、ここから歴史が歪められる恐ろしさを学ぶべきです。

○『直弼の茶の湯』 小井川理さん
安政4年、直弼は『茶湯一会集』を書き上げました。
ここでは「一期一会」という茶人の心構えを説くと共に、人の生き方を示す言葉が使われています。元々は千利休の周辺で語られていましたが世間にも示し、所作・作法・精神を極める知識をも示したのです。井伊直弼は稀代の茶人と言えます。

当時、大名の子として必須だった石州流を学んだ直弼は、埋木舎で片桐貞信に学び埋木舎時代には澍露軒という茶室を造ったり、楽焼の製作も行っていたのです。
直弼の茶の湯は、31歳で一派(宗観流)創立の宣言を行うところまでになりますが、その翌年には彦根藩世子になり4年後には藩主の座に就くのです。
これは直弼にとって大きな転機でした、こうして彦根藩家伝の書を読み、自分で書物を収集する事もできるようになったのです。また片桐宗猿との出会いもありました。

直弼は、藩主や大老という激務の中でも茶会を多く開いて後身の育成にも努めました。直弼が大切にした茶会は茶人にとっては実践の場でもあったのです。一時の茶会を有意義にするために日々の稽古を重ね、茶会の実践を振り返って理論と実践を学んでいくのでした。

また、直弼は多忙な時でも茶道具の製作を続けています。作製された茶道具は弟子に与えて、新たな交流を生みました。
そして、見立ても行われたのです。見立てとは茶道具ではない物を茶道具として利用する事です。
直弼の茶道具は作製も上手とは言えず、見立ても洒落っ気はありませんが、先人に学ぼうとした一生懸命さが見て取れるのです。本当に茶の湯が好きで悪戦苦闘していた様子を想像すると微笑ましくなります。
これが直弼の美意識を育てました。

こうした努力から、理論の深まり・実践・美意識を総合した『茶湯一会集』が完成し、「一期一会」は150年の時を越えて残る言葉となったのです。

○『湖東焼と直弼』谷口徹さん
最近は市民権を得てきた湖東焼きですが、2.30年前はあまり知られていないために「幻の湖東焼」とも言われていました。

湖東焼は江戸時後期に絹屋半兵衛という古着屋が焼き物を思い立ったのが始まりで、今の言葉で現すなら「ベンチャー」だったのです。
この時から13年は絹屋が湖東焼を扱っていましたが、難しかったのが販売でした。その為に彦根藩に2度の借金を申請し、2度目に彦根藩に召し上げられたのです。
湖東焼を彦根藩窯にした時の藩主は直弼の兄の直亮でした。直亮は美術品愛好家でもあったので湖東焼は高級品として引き継がれていったのです。

直弼が藩主になると湖東焼は黄金時代を迎えます。
佐和山のモチノキ谷に窯があり、赤絵・金細・染付などの技術が使われ、生産も拡大し、50人を超える職人で賑わいました。そして全国に知られるようになったのでした。

直弼は焼き物の経験があった為に湖東焼に注文を付け、それがますます湖東焼を発展させたのです。
直弼の注文には
1.赤絵
湖東焼は鉄分が多い土を使っていたので青味を帯びるのですが、赤絵をのせると赤黒くなってしまうので青色を抜く工夫がされて、赤が鮮やかになります。
2.茶道具の発注
注文書には丁寧な絵を添えて作家の銘の場所も指定しました。
この事から直弼が細やかな性格だった事が窺えます。

そんな湖東焼を愛した直弼は桜田門外に斃れ、スポンサーを失った湖東焼は民間に移り明治期には雑器と呼ばれる日常品になってしまったのです。

このような湖東焼と直弼の関係を見ると、安政の大獄を行う豪胆さと、焼き物を扱う時のデリケートで細やかな性格。
どちらが本当の直弼なのでしょうか?

○『明治以降の直弼』小林隆さん
桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の死後にはその評価は著しく低下し、彦根にとっても「井伊直弼の彦根人だから出世できない」といった自虐的な悪い評価が出るまでになっていたのです。
しかし、直弼の汚名返上に努力した先人もいたのです。

1.井伊直弼御誕親祭
井伊直弼の誕生日に直弼の偉業を偲び、直弼の肖像を掲げて神として祀り旧彦根藩士たちは思い出を分かち合ったのでした。
やがて、学生や女学生も参加する大きなイベントとなります。

2.書籍
島田三郎の『開国始末』が発表されたり、『世界の平和をはかる 井伊大老とハリス』という本が発表されたりしました。
『世界の平和をはかる 井伊大老とハリス』では、井伊家は南北朝時代から天皇家との結び付を大切にしていた事を示して、「井伊直弼が天皇の意向を無視するつもりではなかった」事と、「薩長側から書かれている幕末維新の見方を改めるべき」と主張されているのです。

3.井伊直弼朝臣顕彰会
昭和14年に井伊直弼没後80年を迎えるにあたって市役所内に井伊直弼朝臣顕彰会が発足しました。
翌年には直弼没後80年として偉業を偲ぶ行事が行われ、『井伊大老』という冊子が配布されたのです。
そして昭和17年には、教科書における偏った直弼の書き方についての意見書を文部省に提出しています。ここでは“違勅の反論”や“安政の大獄は当時の法では正当だった”事が主張されたのです。

戦前の彦根市民はこうして直弼を語り続け今に伝えています、舟橋聖一さんの『花の生涯』でその評価は大きく変化しましたが、未だに悪いイメージは消えたとは言えず、直弼をもっと知ってきっちりと受け止めて市民が伝えていく努力をし、新しい彦根の文化を創りましょう。


この後、ひこねお城大使による「はじまり宣言」と開催市長のお礼の言葉で『井伊直弼と開国150年祭』の開幕記念式典は無事に終了したのです。