彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

揺れる近江(3)

2023年12月24日 | ふることふみ(DADAjournal)
 天智天皇2年(663年)、百済救援のために朝鮮半島に出兵した倭国(日本)は、唐・新羅連合軍との「白村江の戦い」で歴史的大敗を経験した。
 この敗戦に驚いた天智天皇は都を内陸部の大津へと遷都させ九州北部には水城と呼ばれる巨大な防御壁を築き唐や新羅が日本へ攻め込んできた場合の備えとした。同時に連絡網の整備も急速に進み、全国の情報が都に伝わるようになり地方の記録が中央政府に残るようになる。
 天智天皇崩御後に壬申の乱を経て即位した天武天皇にも連絡網は引き継がれ全国の災害が後世に伝わるようになった。
 天武天皇7年12月27日(679年2月13日)筑紫国(福岡県)で、鳥の異常行動が目撃されその月のうちに大地震が発生。地面が割け丘も崩れ地滑りを起こした。丘の上に建つ家が地表ごと滑ったために無傷で住民は夜が明けてから異変に気付いたという逸話まで残る。この「筑紫地震」が日本災害史における初めての地割れの記録である。また天武天皇13年10月14日(684年11月29日)午後10時頃に発生した大地震では伊予国(愛媛県)の道後温泉が枯れ、土佐国(高知県)の10万平米近い平地が海に沈み翌月に大津波が土佐を襲っている。「白鳳南海地震」と呼ばれた記録に残る最初の南海トラフ地震である。筑紫地震と白鳳南海地震が近江に影響を及ぼしたとは考え難いが日本史にとっては重要な災害記録であった。

 白鳳南海地震から半世紀が過ぎた頃、政治史としては混迷の時代を迎えていた。天平6年4月7日(734年5月14日)に『続日本紀』が大地震の記録を残しているが、この頃は聖武天皇が平城京を飛び出してあちらこちらに遷都を繰り返していたのである。
 天平15年、聖武天皇は紫香楽宮(甲賀市信楽町)に大仏を鋳造するための「廬舎那仏造営の詔」を布告。翌年4月より紫香楽宮造営が始まり天平17年元日に遷都した。こうして紫香楽宮での政務が行われるようになるが同年4月に紫香楽宮周辺で火災が続出し下旬には美濃国(岐阜県)で三昼夜続く大きな地震が発生し国衙や寺院・家屋の倒壊が相次いだ。5月に入ると都でも毎日のように12日も地震が起こり「地震異常」とも書き残されている揺れでは、地面に亀裂が走りその割れ目から泉が沸くこともあった。
 地震は翌月からも続き年を跨いでも治まることはなかったため平城京に遷都。紫香楽宮に造営される予定で詔まで公布された廬舎那仏は平城京で鋳造されることとなり、現在も奈良の大仏として世界遺産に登録されている。

 当初の計画のまま造営されていたならば信楽の観光名所が大仏であったかもしれないとの夢も広がるが、都であり続けたならば焼き物文化は衰退していた筈であり信楽には大仏よりも価値ある個性が残ったと考えてもよいのではないだろうか。


紫香楽宮址(甲賀市信楽町)
コメント
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