現在の説では、源頼家には四男一女の子どもがいたと言われています。
男子(一幡、公暁、栄実、禅暁)はすべて北条義時の絡む事件で非業の死を遂げました。残された一女は妙本寺の記録では媄子(よしこ)という名前で記されていますが、歴史的にはその住まいである「竹御所」と呼ばれています。
比企能員の乱の前年である建仁2年(1202)に誕生。
比企一族滅亡と父頼家の死により、北条政子に保護され15歳の時に三代将軍で叔父の源実朝の御台所・坊門信子の猶子となったのです。
この後に、栄実が泉親衡の乱に巻き込まれ、出家し栄西の弟子になるが殺害され、実朝が公暁に暗殺され、頼朝の血を受け継いだ唯一の男子となった禅暁も暗殺されてしまい、媄子は頼朝の血を残す唯一の生き残りとして御家人たちの拠り所となり、北条政子の後を明確な血筋で引き継いだのです。
実朝亡き後、本来なら京都から天皇の子を将軍(鎌倉殿)に迎える予定でしたが叶わず、鎌倉で預かっていた九条道家の子三寅を元服させて藤原頼経と名乗らせ、その正当性を維持する為に媄子が嫁いだのでした。
頼経13歳、媄子29歳だったのです。
四年後、媄子33歳で懐妊。
今でも30代の妊娠は慎重に進められますが、登場では超高齢の初産ということになり、媄子は男児を死産して自身も亡くなってしまったのです。
こうして、頼朝の血を残す者は歴史から消滅したのです(庶子はいると思います)。
媄子の母については諸説語られますが、竹御所は比企谷にあり、墓も比企一族が眠る妙本寺にあることから、母は比企能員の娘・若狭局ではないか?とも言われています。
源媄子之墓
ここに比企能員一族の墓があります。
妙本寺の御朱印
承久の乱で北条義時追討の院宣を出し敗れて隠岐に流された後鳥羽院が離宮としていたのが、水無瀬でした。
隠岐で生涯を終えることになった後鳥羽院は、崩御の14日前に水無瀬信成と親成親子に自らの手型を押した置文(国宝『後鳥羽天皇宸翰御手印置文』)を書き、水無瀬離宮跡で後生を弔うように願ったのです。
これを受けた水無瀬親子は藤原信実が描いた後鳥羽院の御影を祀った水無瀬御影堂を離宮跡に建立したのが水無瀬神宮の始まりとされています。
本殿は、明正天皇の内侍所を移築した物
客殿は、豊臣秀吉献納、福島正則造営
神門は、安土桃山時代の建築
茶室「燈心席」は、御水尾上皇の遺構
神宮の周囲は土塁や堀
そして、手水舎の水は大阪府下唯一の名水「離宮の水」
という、見所に恵まれた場所です。
御朱印は、自ら装飾を加える事も可能です。
また、最寄り駅であるJR島本駅前の島本町立歴史文化資料館では、後鳥羽天皇宸翰御手印置文の複製が展示されていて、手の大きさを比べることもできました。
これで、大きさを比べられます。
同館に展示されている後鳥羽院御影の複製
昨年2021年は、大阪城天守閣復興90周年だったそうです。
北川央さん『大坂城』によれば、昭和天皇即位御大典記念事業として昭和6年(1931)11月7日に竣工され、大阪市民の寄付で賄われた建設資金150万円は半年で集まったくらいに大阪市民待望の復興になったようです。
大阪城には、豊臣秀吉の時代や徳川政権初期にも天守が建ちましたが90年も残ったのは現在の天守が初めてなので、大阪城の象徴と言っても過言ではないかもしれないです。
太平洋戦争時の空襲にも耐え抜いた建物として、10年後の百周年も楽しみですね。
90周年のファイルもありました。
90周年とは関係ないですが、城内の豊国神社で受けることができた春限定(4月28日に受けました)の切り絵御朱印もよい記念になりました。
今年も沙沙貴神社になんじゃもんじゃを見に行きました。
昨年の記事
『鎌倉殿の13人』で佐々木秀義と四人の息子が登場しましたし、後半の承久の乱では秀義の孫・信綱が宇治川の戦いで活躍するはず(して欲しい)です。
今年は注目したい大河関連地ともいえます。
そんな沙沙貴神社で楽しむなんじゃもんじゃ
そして、今回の季節の御朱印は甘野老(あまどころ)でした。あまり知らない花なので探し回りました。
少し季節が遅かったかもしれません。
あと、知らなかったのが参道にある石の大鳥居の額の字が源頼朝が書いた字を秀義の嫡男定綱が奉納した物だということです。
「佐佐木大明神」の御朱印にも使われています。
本当に歴史深い神社です。
元暦2年(1185)6月21日、壇ノ浦の戦いに敗れ、捕虜となっていた平宗盛が源義経によって処刑されました(38歳)
○蛙不鳴池
宗盛と清宗親子の胴は一緒に埋められたといわれています。
宗盛は亡くなる直前まで息子や部下の心配をしたそうです。
鎌倉市大船の常楽寺は、北条義時の後を継いで鎌倉幕府三代執権を務めた北条泰時を開基とする名刹です。
泰時の妻の母の追善供養のために建立された粟船御堂が、五代執権北条時頼(泰時の孫、時宗の父)の招きで南宋から来日した蘭渓道隆が七年間住持を務め臨済宗の元になる禅宗を伝来させたことから臨済宗の大切な寺の一つになります。
まずは、開基である北条泰時
そして圓通大應國師
圓通大應國師こと南浦紹明は、鎌倉時代前期の臨済宗の僧です。
建長寺の蘭渓道隆に学んだ後、宋に渡り帰国後は後宇多上皇の招きで万寿寺(京都五山の一山)の住持を務めたのちに建長寺の住持も務めました。
没後に後宇多上皇に「圓通大應」の國師号が贈られるのですが、これは日本初の國師号となり、圓通大應國師が臨済宗の法系の祖となります。
圓通大應國師と常楽寺に直接の関わりが見えないのですが、上記の通り蘭渓道隆が来日してから建長寺が建立され入るまでの七年間は常楽寺に滞在していたことから「常楽は建長の根本」との考え方もあったため、臨済宗の根本である常楽寺に墓が作られたとも考えることができるかもしれません。
もう一基は中央に建立されているのが、中興の龍淵胤和尚の墓です。
この人は、龍渕存胤という名で建長寺住持も務めたそうですが案内の石碑から安政4年3月20日に亡くなったことはわかるくらいで、あとのことがよくわかりませんでした。
そして、常楽寺の裏の小高い丘の上には木曽塚があります。
墓の主は源義高です。木曽義仲と巴御前の子とも言われている人物で、義仲と源頼朝が同盟を結んだときに鎌倉に来たと言われています。
そのときに、頼朝の娘・大姫の婿となったのですが、義高11歳、大姫6歳だったので頼朝は名目だけのものと考えていたようです。
しかし、大姫は真剣だったようで、義仲が討たれたのちに義高に刺客が放たれたとき、大姫が義高脱出を手助けしています。
それでも、義高は藤内光澄に殺害されたのです。
北条政子は義高の死を知った娘が嘆く姿を見て頼朝に詰め寄り、光澄は頼朝に処刑されたのです。
そんな義高の墓はもともとは木曽免と呼ばれる近くの水田に墓があったのですが、延宝8年(1680)に移されました。その時に青磁器に入った人骨が見つかったと言われています。
また、木曽塚より少し下ったところに、姫宮塚があります。
これは、北条泰時の娘(誰なのかは?)の墓と言われていますが、別の伝承では源義高の許嫁であった大姫の墓ともされています。
個人的な見解としては、姫宮塚が泰時の墓よりも高い位置にあること(父を踏みつけることになる)や、木曽塚とあまり離れていない場所であることから木曽塚が移されたあとに大姫の供養塔として建立されたのではないか?
と、思っています。
奥にある栗船稲荷
御朱印
首洗いの井戸も今は枯れてしまい、跡地に案内板があるのみです。
他の二俣川の戦いの意向が鶴ヶ峰駅周辺に固まっているのに対し、畠山重忠公遺烈碑は二俣川駅にあります。