彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

寿福院逆修塔(妙本寺) 訪問

2022年08月19日 | 史跡
寿福院逆修塔(鎌倉市大町1-15-1 妙本寺)

一幡の袖塚の後ろに一際目立つ大きな五輪塔があり、見に行くと「加賀太守宰相卿之御母公壽福院殿日榮逆修」とか「元和第十甲子六月十二日」と言った文字が読めたので写真だけ撮っておきました。


で、調べてみると、加賀太守宰相卿は、加賀藩二代藩主前田利常のことでありその母は寿福院こと千代保の方だったのです。


千代保の方は、朝倉家の家臣の出身ですが、芳春院(まつ)の侍女として前田利家に仕えて、利家のお手付きとなり側室になるのです。
日蓮宗に深く帰依していて加賀藩領に日蓮宗の寺を創建します。妙な縁から息子利常が加賀藩主になったため、芳春院に替わり人質として江戸に行きました。
その頃に、妙本寺に逆修塔(生前に建立する自らの墓)を建立したのです。

寿福院は、逆修塔建立の五年後(寛永8年3月6日)に加賀藩江戸藩邸で亡くなり遺灰は金沢に住まう時に帰依していた能登の妙成寺に納められ、この逆修塔は供養塔となりました。

源媄子之墓(妙本寺) 訪問

2022年08月14日 | 史跡

現在の説では、源頼家には四男一女の子どもがいたと言われています。

男子(一幡、公暁、栄実、禅暁)はすべて北条義時の絡む事件で非業の死を遂げました。残された一女は妙本寺の記録では媄子(よしこ)という名前で記されていますが、歴史的にはその住まいである「竹御所」と呼ばれています。


比企能員の乱の前年である建仁2年(1202)に誕生。

比企一族滅亡と父頼家の死により、北条政子に保護され15歳の時に三代将軍で叔父の源実朝の御台所・坊門信子の猶子となったのです。

この後に、栄実が泉親衡の乱に巻き込まれ、出家し栄西の弟子になるが殺害され、実朝が公暁に暗殺され、頼朝の血を受け継いだ唯一の男子となった禅暁も暗殺されてしまい、媄子は頼朝の血を残す唯一の生き残りとして御家人たちの拠り所となり、北条政子の後を明確な血筋で引き継いだのです。


実朝亡き後、本来なら京都から天皇の子を将軍(鎌倉殿)に迎える予定でしたが叶わず、鎌倉で預かっていた九条道家の子三寅を元服させて藤原頼経と名乗らせ、その正当性を維持する為に媄子が嫁いだのでした。

頼経13歳、媄子29歳だったのです。


四年後、媄子33歳で懐妊。

今でも30代の妊娠は慎重に進められますが、登場では超高齢の初産ということになり、媄子は男児を死産して自身も亡くなってしまったのです。

こうして、頼朝の血を残す者は歴史から消滅したのです(庶子はいると思います)。


媄子の母については諸説語られますが、竹御所は比企谷にあり、墓も比企一族が眠る妙本寺にあることから、母は比企能員の娘・若狭局ではないか?とも言われています。


源媄子之墓








比企一族の墓(妙本寺) 訪問

2022年08月13日 | 史跡
比企谷と呼ばれいる、比企能員屋敷跡に建立された妙本寺





ここに比企能員一族の墓があります。



源頼朝の乳母に比企尼という人物がいて、比企尼は頼朝が蛭ヶ小島に流されたあとには自らが20年に渡って援助し、長女・丹後内侍の夫である安達盛長を頼朝に従わせるなどの貢献をしました。
(丹後内侍の前夫との子が島津忠久とも言われています。また盛長との間の娘が源範頼に嫁いでいます)

この功績から、比企尼の甥を比企尼の養子にして比企氏を頼朝の重臣とします。これが比企能員です。
能員自身も頼朝に従って活躍し、頼朝の嫡男頼家の乳母夫にも選ばれたのです。
やがて、能員の娘・若狭局が頼家の側室となり長男・一幡が誕生します。

頼朝の死後、頼家補佐のための十三人の合議制が形成されますが内情は、比企能員と北条時政の権力争いだったのです。

この時点で、北条時政は頼朝の正室の父に過ぎず、比企尼をバックに控えた比企能員の方が実力者であったと考えられます。

やがて頼家が病に倒れ、その隙をついて時政が能員を暗殺しました。
『吾妻鏡』では、仏事の相談に時政の屋敷に呼ばれた能員は、平服で時政邸に入り、武装した天野遠景と仁田忠常に殺害されたとされています。
この話がどこまで本当かはわかりませんが、史実に近いならば、能員にとっては時政は自分より遥か下の存在だったと見ていたのではないでしょうか?

こうして、主を失った比企一族は北条軍に攻められ、一幡の住む小御所に籠って戦いましたが小御所に火を放って自害したのです。この時に若狭局と一幡(数え6歳)もその場で焼死したと言われています、建仁3年(1203)9月2日のことでした。
遺体は発見されず、焼け跡に残った小袖の切れ端を乳母が確認したために、墓代わりの供養塔として後に妙本寺に袖塚が作られました。




しかし『愚管抄』では若狭局と一幡は小御所から逃げていて北条義時に捕まり11月3日に刺し殺されたとも記されています。


妙本寺の御朱印





水無瀬神宮 訪問

2022年05月07日 | 史跡

承久の乱で北条義時追討の院宣を出し敗れて隠岐に流された後鳥羽院が離宮としていたのが、水無瀬でした。


隠岐で生涯を終えることになった後鳥羽院は、崩御の14日前に水無瀬信成と親成親子に自らの手型を押した置文(国宝『後鳥羽天皇宸翰御手印置文』)を書き、水無瀬離宮跡で後生を弔うように願ったのです。

これを受けた水無瀬親子は藤原信実が描いた後鳥羽院の御影を祀った水無瀬御影堂を離宮跡に建立したのが水無瀬神宮の始まりとされています。



本殿は、明正天皇の内侍所を移築した物

客殿は、豊臣秀吉献納、福島正則造営




神門は、安土桃山時代の建築

茶室「燈心席」は、御水尾上皇の遺構


神宮の周囲は土塁や堀



そして、手水舎の水は大阪府下唯一の名水「離宮の水」

という、見所に恵まれた場所です。


御朱印は、自ら装飾を加える事も可能です。



また、最寄り駅であるJR島本駅前の島本町立歴史文化資料館では、後鳥羽天皇宸翰御手印置文の複製が展示されていて、手の大きさを比べることもできました。


これで、大きさを比べられます。



同館に展示されている後鳥羽院御影の複製



時代は少し変わりますが、同館に展示されていた戊辰戦争で樟葉台場から放たれた砲弾は興味深い物でした。





大阪城90年

2022年05月06日 | 史跡

昨年2021年は、大阪城天守閣復興90周年だったそうです。

北川央さん『大坂城』によれば、昭和天皇即位御大典記念事業として昭和6年(1931)11月7日に竣工され、大阪市民の寄付で賄われた建設資金150万円は半年で集まったくらいに大阪市民待望の復興になったようです。


大阪城には、豊臣秀吉の時代や徳川政権初期にも天守が建ちましたが90年も残ったのは現在の天守が初めてなので、大阪城の象徴と言っても過言ではないかもしれないです。




太平洋戦争時の空襲にも耐え抜いた建物として、10年後の百周年も楽しみですね。


90周年のファイルもありました。


中に、昔の入城券や記念の御城印もありました。

90周年とは関係ないですが、城内の豊国神社で受けることができた春限定(4月28日に受けました)の切り絵御朱印もよい記念になりました。

裏の紙の色を替えると雰囲気変わります。



なんじゃもんじゃと甘野老

2022年05月05日 | 史跡

今年も沙沙貴神社になんじゃもんじゃを見に行きました。


昨年の記事

なんじゃもんじゃと杜若 - 彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

なんじゃもんじゃと杜若 - 彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

安土の沙沙貴神社になんじゃもんじゃを観に行きました。GWの頃に盛りを迎える木で、本来は対馬と木曽川沿いでしか見れないそうなのですが、なぜか沙沙貴神社でも楽しめます...

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『鎌倉殿の13人』で佐々木秀義と四人の息子が登場しましたし、後半の承久の乱では秀義の孫・信綱が宇治川の戦いで活躍するはず(して欲しい)です。

今年は注目したい大河関連地ともいえます。


そんな沙沙貴神社で楽しむなんじゃもんじゃ







そして、今回の季節の御朱印は甘野老(あまどころ)でした。あまり知らない花なので探し回りました。

少し季節が遅かったかもしれません。







あと、知らなかったのが参道にある石の大鳥居の額の字が源頼朝が書いた字を秀義の嫡男定綱が奉納した物だということです。



「佐佐木大明神」の御朱印にも使われています。



本当に歴史深い神社です。


平家終焉の地

2022年05月04日 | 史跡
東山道(中山道)を京都に向かって進み、近江八幡を越えて源義経元服地とも言われている鏡の宿から峠を越えてすぐにあるのが平家終焉の地(平宗盛胴塚)です。
○義経元服遺構








元暦2年(1185)6月21日、壇ノ浦の戦いに敗れ、捕虜となっていた平宗盛が源義経によって処刑されました(38歳) 

宗盛は清盛の三男。 
本当は嫡男の重盛が後を継ぐ筈でしたが、重盛が清盛よりも先に亡くなってしまったために平家を継ぐこととなったのです。 
はっきり言えば愛情深い凡将だった宗盛に源氏の脅威に晒されて滅び行く平家を支えるのは無理でした。 
壇ノ浦の戦いでついに敗北と決まり、平家一門が海に身を投じる中、宗盛は入水してもすぐに浮き上がり沈めないままに源氏に捕獲されてしまったのです。 
この時、息子の清宗も生け捕られたのです。 

義経の看視下に置かれ、鎌倉まで護送される途中、腰越で止められた義経と共に無為の日々を過ごし、義経が京に帰る途中の近江国篠原で斬首されたのです。
義経は、宗盛親子の処刑を哀れに感じていたのですが、このまま京に連れて行くと平家残党に新たな動きを起こさせる可能性もあったためにその命を奪う必要がどうしても生じたのです。

それが、京まで一日で入れてしまうこの地域でした。 
しかし、東山道のこの場所は鏡の宿という義経が元服を行った場所に近かった為、義経は東山道を進み、鏡の宿を超えてからしばらく進んだ場所で宗盛と清宗の首を斬ったのでした。

元服地を血で汚したくないという想いだったのかもしれませんが、僕自身はこの地を義経元服地と考えることに多少の疑問がありますが、それは別のお話です。
斬った首は近くの池で洗われ京で晒されてました。
この池は近年になり一度埋められましたが、大河ドラマ『平清盛』の頃に再現されたみたいです。


○蛙不鳴池


宗盛と清宗親子の胴は一緒に埋められたといわれています。






宗盛は亡くなる直前まで息子や部下の心配をしたそうです。
『平家物語』に代表されるような源平合戦を描いた物語で、後半の平家の件では涙を誘うシーンが多く記されています。これは滅びの悲しさもありますが、清盛全盛の時代に恋の歌を詠み、音楽を奏で、芸術を愛した公家として生きて来た若者たちが、馬に乗り、弓を引き、兵を指揮しながら鍛えられていない白い肌を血で染める姿に憐みを覚え、そして武士の覚悟を持って死んでいく様子に生き様を感じたからでしょう。
平宗盛も、世が世なら平家滅亡の激しい歴史に名前を残す事も無く、静かに人生を終えたんでしょうし、このような死に方は20代の時には想像もしていなかったのでしょうね。

江戸時代の観光ガイドブックである『近江名所図会』にはここの紹介が載っています。




常楽寺(墓中心) 訪問

2022年04月29日 | 史跡

鎌倉市大船の常楽寺は、北条義時の後を継いで鎌倉幕府三代執権を務めた北条泰時を開基とする名刹です。

泰時の妻の母の追善供養のために建立された粟船御堂が、五代執権北条時頼(泰時の孫、時宗の父)の招きで南宋から来日した蘭渓道隆が七年間住持を務め臨済宗の元になる禅宗を伝来させたことから臨済宗の大切な寺の一つになります。








そんな常楽寺の仏殿裏には三基の墓が並んでいます。



まずは、開基である北条泰時




そして圓通大應國師

圓通大應國師こと南浦紹明は、鎌倉時代前期の臨済宗の僧です。

建長寺の蘭渓道隆に学んだ後、宋に渡り帰国後は後宇多上皇の招きで万寿寺(京都五山の一山)の住持を務めたのちに建長寺の住持も務めました。

没後に後宇多上皇に「圓通大應」の國師号が贈られるのですが、これは日本初の國師号となり、圓通大應國師が臨済宗の法系の祖となります。

圓通大應國師と常楽寺に直接の関わりが見えないのですが、上記の通り蘭渓道隆が来日してから建長寺が建立され入るまでの七年間は常楽寺に滞在していたことから「常楽は建長の根本」との考え方もあったため、臨済宗の根本である常楽寺に墓が作られたとも考えることができるかもしれません。




もう一基は中央に建立されているのが、中興の龍淵胤和尚の墓です。

この人は、龍渕存胤という名で建長寺住持も務めたそうですが案内の石碑から安政4年3月20日に亡くなったことはわかるくらいで、あとのことがよくわかりませんでした。



そして、常楽寺の裏の小高い丘の上には木曽塚があります。

墓の主は源義高です。木曽義仲と巴御前の子とも言われている人物で、義仲と源頼朝が同盟を結んだときに鎌倉に来たと言われています。

そのときに、頼朝の娘・大姫の婿となったのですが、義高11歳、大姫6歳だったので頼朝は名目だけのものと考えていたようです。

しかし、大姫は真剣だったようで、義仲が討たれたのちに義高に刺客が放たれたとき、大姫が義高脱出を手助けしています。

それでも、義高は藤内光澄に殺害されたのです。

北条政子は義高の死を知った娘が嘆く姿を見て頼朝に詰め寄り、光澄は頼朝に処刑されたのです。

そんな義高の墓はもともとは木曽免と呼ばれる近くの水田に墓があったのですが、延宝8年(1680)に移されました。その時に青磁器に入った人骨が見つかったと言われています。






また、木曽塚より少し下ったところに、姫宮塚があります。

これは、北条泰時の娘(誰なのかは?)の墓と言われていますが、別の伝承では源義高の許嫁であった大姫の墓ともされています。


個人的な見解としては、姫宮塚が泰時の墓よりも高い位置にあること(父を踏みつけることになる)や、木曽塚とあまり離れていない場所であることから木曽塚が移されたあとに大姫の供養塔として建立されたのではないか?

と、思っています。


姫宮塚

奥にある栗船稲荷



御朱印






北条氏政・氏照の墓

2022年04月24日 | 史跡
豊臣秀吉の小田原征伐の時に自害した北条氏政・氏照の墓所に寄りました。



最近古文書の勉強の教材で秀吉の手紙があり「申刻北条氏政同陸奥守刎首差上候…」の文章を見たばかりがでしたので小田原に行った時に寄ってみました。


小田原駅近くの夜に人が集まりそうな街の中にひっそりとあります。




中央二基の右が氏政の墓、左が氏照の墓、氏政の墓の右隣には氏政夫人の墓
中央二基の前にある巨石は、氏政と氏照がこの石の上で切腹したといわれている「生害石」です。


氏政夫人は、武田信玄の娘黄梅院と解釈して良いのか?とちょっと悩んでいますが、以前は信玄の駿河侵攻で黄梅院は離縁して甲斐に返されたという説が定説だったものが、最近は黄梅院は亡くなるまで小田原城にいたとの説もありますので、後者の説ならばこの地にある墓が黄梅院である可能性は高くなりそうです。

二俣川古戦場

2022年04月23日 | 史跡
畠山重忠の嫡男重保と平賀朝雅の争いから、朝雅が北条時政に重忠謀反を讒言し、北条義時が重忠討伐軍を率いて戦った合戦が、二俣川の戦いです。

重忠軍150騎
義時軍1万

だったと言われています。
元久2年(1205)6月22日正午頃に戦端が開かれ、圧倒的な戦力差にも関わらず重忠軍の士気に義時軍が押され続ける戦いにとなったと言われていますが、重忠が弓の名手愛甲季隆(源頼家の弓術師範)に射られて討死したのです。

そんな二俣川古戦場は、横浜市旭区にありますので訪問しました。

まずは、重忠関連遺構が鶴ヶ峰駅周辺に広がっています。
横浜市旭区役所には、重忠が討死した地に石碑が建っています。


また、重忠討死前に二本の矢を地に刺して「我が心正しければこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と念じ、その矢から竹が育ったと言われています(さかさ矢竹)。
その竹は一度枯れてしまい、この場所に植え直したそうです。


旭区役所裏には、重忠の首塚と首洗いの井戸跡。
しかし重忠の首は洗われたあとに鎌倉に送られたためこの塚は兜などの遺品を埋めた供養塚ではないか?とも考えられています。



首洗いの井戸も今は枯れてしまい、跡地に案内板があるのみです。



ここから高台を登って行くと、畠山軍143騎を葬った六ツ塚がある薬王寺






重忠の内室・菊の前が二俣川の戦いに際して戦場に向かっている途中、重忠討死の報を聞いて自害し、乗っていた駕籠のままその場に埋葬されたと伝わっている駕籠塚があります。



菊の前は、十三人の合議制に甥の安達盛長と共に名前を連ねた足立遠元の娘でしたが、北条時政の娘が重忠に嫁いだために一歩引いた立場となった女性でもありました。


続いて二俣川駅近くの万騎が原にある畠山重忠公遺烈碑です。
これは、明治25年(1897)に建立された畠山重忠の慰霊碑です。



他の二俣川の戦いの意向が鶴ヶ峰駅周辺に固まっているのに対し、畠山重忠公遺烈碑は二俣川駅にあります。
そして、この間には大変な高低差も感じられます。

碑がある万騎が原の地名は、この地に北条義時が陣を置いたことに由来すると言われていますので、現地を訪れると二俣川の戦いは高地に陣を張った北条軍と畠山軍が両軍の間にある二俣川周辺の低地に駆け下って激突した戦いと考えられそうです。

旭区の鶴ヶ峰駅から二俣川駅に跨ぐ二俣川古戦場は、自転車を借りるとゆっくり回っても3時間もかからない広さですが、高低差を知ることで現地訪問の価値が高くなる場所でした。