彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

金沢城訪問④

2020年09月30日 | 日本100名城と続100名城
二ノ丸を橋爪門から出ると三ノ丸が広がっています。
この三ノ丸に入る門のひとつが河北門になります。

河北門も火災(金沢城は宝暦の大火で多くが焼けました)で失われたのちに再建されましたが、明治時代に壊されたようです。
平成22年に完成した今の建物は、宝暦の大火で焼ける前の姿とのことで、発掘調査で出た礎石をそのまま使っています。

河北門は、大手門から本丸に向かう時に通るので金沢城の正門との位置付けになっています。
まず、河北坂を登り一の門を潜りますが、門の右側には太鼓塀とニラミ櫓があり、その奥に前回紹介しました菱櫓の三層の建物が見え圧迫感を感じさせるようになっています。



ニラミ櫓とは、「睨みを利かせる」と言う意味ではないか?とのことですが、宝暦の大火後に再建された時はニラミ櫓を作らなかったそうです。
軍事施設のひとつを簡略化するのですから、幕府の許可も降りやすかったかもしれないですね。

そこから広めの枡口に入り高いニノ門を潜ってやっと三ノ丸に入ることができるのです。






三ノ丸から見た河北門






金沢城訪問③

2020年09月29日 | 日本100名城と続100名城
金沢城の本丸は木々が茂る自然公園のようになっています。


本丸の北西角にある戌亥櫓跡(ここも火事で焼けた場所).から見える二ノ丸に建つ大きな建物群が菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓です。




明治以降に再建された木造城郭建築としては最大の建物となり再建に3年半近くがかかったそうです。
金沢城の建物の特徴ともいえる鉛瓦と海鼠壁が大きな建物に合っていました。
以前は後日書きます石川門が金沢城の象徴でしたが、今は三層の菱櫓などここに関わる一連の建物の写真などをよく見る気がします。

菱櫓




五十間長屋






橋爪門続櫓




また、建物全体が二ノ丸を守る威圧的な壁になっていて、ここを攻めるのは難しいと実感できます。

金沢城訪問②

2020年09月28日 | 日本100名城と続100名城
本丸には三十間長屋があります。

玉泉院丸庭園から二ノ丸に向かい、極楽橋を渡ると本丸に入り、



すぐにある建物です。


金沢城では多聞櫓に連なる続き櫓を「長さ+長屋」で名付けていたようで三十間長屋も今は26.5間(48.2m).の建物となっています。
江戸初期には建っていたのですが、火事で焼け、長年石垣のみだった場所を幕末になりまた建造された建物が今に残っています。

海鼠壁や、城郭の外側から見て映える建物の外装に興味をそそります。










金沢城は平城のイメージがありましたが、実際に訪問すると平山城だったことがわかりましたが、それは周囲より高い建物があると言うことであり、落雷被害もあるのです。
桃山時代に、本丸には大坂城、駿府城に次ぐ立派な天守が建っていたのですが慶長7年(1602)に雷による失火で天守は焼けました。
関ケ原の戦いの後で、徳川家康が江戸に幕府を開く前年の事ですから原因は本当に雷だったのか?雷を好機と考えて、家康に疑いを掛けさせずに藩を守るために、自作自演で火を付けた可能性も否めないかもしれません。

何にしても、天守焼失以来、金沢城は火事に何度も見舞われる城となるのです。

金沢城訪問①

2020年09月27日 | 日本100名城と続100名城
金沢城を一度の紹介で終わるのは勿体ないので何度かに分けて書きます。

尾山神社から金沢城に入るは、鼠多門が一番近い入口です。
金沢城は再建計画が進行中で、調査と再建を繰り返してしますが、鼠多門と隣接する鼠多門橋は令和2年7月18日に完成式典が行われたばかりで、訪れたときは完成して1か月半も過ぎていない新しい姿を観ました。

江戸初期には建っていた記録があり、明治時代に焼失した物でした。
白漆喰塗、海鼠壁は城内でも見かけますが、海鼠壁の目地が黒漆喰なのはここだけですので、その色から「鼠」なんて呼ばれたのかもしれないですね。
屋根は鉛瓦、鼠多門橋は城内最大規模だったそうです。




ここから城内に入り、最初に広がるのが玉泉院丸庭園です。
平成27年3月7日に完成した庭園で、本来の遺構は土の中に残してその上に再現された庭園ですが、建物や石垣を借景にした壮大なお庭です。
金沢城といえば兼六園(今回は行けませんでした)が有名ですが、城郭を利用した庭園としては玉泉院丸庭園も充分雰囲気を楽しめました。









玉泉院丸は藩主の私邸とされていますので、彦根市民として彦根城で重ねて考えると玄宮園のような位置付けなのかもしれません。

尾山神社参拝

2020年09月26日 | 史跡
福井市から金沢市に移動し、金沢駅に降り立ちました。

金沢に来たのは30年以上前だったので、何も覚えていません(妙に金箔に反応したことは記憶の片隅にあります)。

今回は金沢城を観る計画を立ててバスで移動しました。
最初に寄ったのは尾山神社です。

明治6年(1873)に藩主別邸金谷屋敷跡に、金沢藩祖の前田利家と正室・保春院(お松)を主祭神とて建立された神社です。
神門と呼ばれる入口の門からモダンな造りになっています。明治8年に完成した神門は金沢最初の避雷針が立った場所で最上層はギヤマン貼りであり、創建期からしばらくはここに灯された御神灯が金沢城下町を照らし、日本海を進む船の灯台にもなっていたそうです。



本殿は金谷屋敷の御殿を移築した純和風の建物ですが、その脇には金沢初の煉瓦を使った塀があり、明治の新しい文化を貪欲に取り入れていたことがわかります。




前田利家の像や


お松を刻んだ石碑


金沢藩歴代藩主と正室を祀る金谷神社


そして、御殿の庭園


江戸期に庭園に水を引いた水道の石管


など江戸から明治の金沢を凝縮した場所でした。




恐竜王国福井

2020年09月25日 | その他
福井市に行く目的にしていた藤島神社と新田塚に寄れたので、福井市を離れることにしました。

駅前まで戻ると、何かの鳴き声が聞こえましたのでその地を探す…
駅前に三匹の恐竜のモニュメントがあり首が動いたり鳴いたりしていました。
この恐竜は、福井県で生息していたフクイラプトル・フクイサウルス・フクイティタンの実物大だそうです。






福井県の壁も恐竜が描かれています。


福井県内では化石が多く発掘される場所で、まさしく恐竜県の県庁所在地に相応しい物でした。

夜にはライトアップもしていました(帰りに途中下車して観ました)






また、何箇所かのベンチには恐竜博士なる者が座っていたりもします。



そんな福井市を離れ、そのまま金沢市に向かいました。

藤島神社参拝

2020年09月24日 | 史跡
ずっと書いている福井行きの目的は、新田義貞討死の地である新田塚を訪問することでしたが、その新田塚に明治3年(1870)に祠が建立され、明治9年に「藤島神社」と呼ばれるようになるです。

もともと、義貞は藤島城へ救援に向かう途中で戦死したことから藤島の社号が付けられたのだと思います。
その後二度の遷座で明治34年に足羽山麓の今の場所に鎮座しています。

大きな鳥居を潜り、本殿近くまで階段で登ります。



近年、義貞を愛した勾当内侍を祀った野神神社も建立されて、恋人の聖地になっているようです。

(そう言えば、滋賀の堅田、近江大橋の近くに勾当内侍の墓があり、春にお参りしたのですがが紹介していないことを思い出しました。写真は堅田の内侍の墓)








御朱印も義貞と内侍の縁を伝えるものでした。


戦前の印を使った御朱印も受けることができる珍しい場所でした。



家主貞良卵

2020年09月23日 | その他
最近『卵百珍』を紹介しているサイトを参考にしながら江戸後期のグルメを作っていますが、今回は「家主貞良卵(かすてらたまご)」を作りました。
そのまま、江戸時代のカステラです。


江戸時代は、土鍋などに入れて全体が焼けるように蓋をして火を入れたみたいですが、今はオーブンと耐熱器を使えば便利でした。
江戸時代のカステラは今より甘さ控えめで、硬めに感じましたが、江戸時代の味覚に少し近付けて楽しい時間でした。

参考にしたサイト
家主貞良卵レシピ



毛谷黒龍神社参拝

2020年09月22日 | 史跡
特に目指して行った場所ではなかったのですが、次回書きます藤島神社を目指していたときに見つけた場所でした。




黒龍なんて妄想が膨ら社号と社紋が三ツ葵だったことに惹かれました。
由緒を読むと、九頭龍川を黒龍川とも呼んだようで継体天皇がまだ越前にいた頃に黒龍川などの治水工事ののち黒龍川守護などを目的に「毛谷神社」が建立され、鎌倉時代末期に移転され「毛谷黒龍神社」と呼ばれるようになったそうです。

江戸時代にはいり、結城秀康(初代福井藩主)が松平家祈願所として崇拝。
明治になり、今建っている場所(福井市内足羽山麓)に遷座。
福井空襲、福井地震と続く福井市内の二度の災いの中で被害がでなかった福井市唯一の神社だったと言われていて厚い信仰があるそうです。

龍ですので、水を司っていて京都の貴船神社と同じ御利益があるとのことでした。

御朱印にも龍が描かれています。



黒龍は、コロナの影響で郵送するためのものだそうです。

しあわせ祈願の神社でもあるとのことでしたので、しっかり手を合わせてきました。