彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

彦根城周辺史跡スポット:「大洞弁才天の大黒天」

2007年06月30日 | 史跡
彦根城の鬼門の位置に四代藩主・井伊直興が建立したのが長寿院大洞弁才天です。

詳しいお話は過去に書きましたので省略しますが、元禄8(1695)年の開山より4年遅れた元禄12年には経蔵が建てられました。
この経蔵と楼門には1万体の大黒天が納められたのです。

毎年10月第4日曜日には「壱万体大黒天奉納式」も行われています。


大黒天は商売の神様ですが、日本では甲冑を着て黄金の袋と打出の小づちを持った姿を見る事もできます。
これは、諸々の災いを除いて富貴に恵まれるという想いがあるそうです。


今回、国宝彦根城築城400年祭に合わせて大黒天の色が再現されて見学できました。
独特の色彩を持つ大黒天は目を引きますよね。

井伊直弼歌頌碑

2007年06月20日 | イベント
国宝彦根城400年祭のイベントの一つとして6月17日に金亀公園にある井伊直弼の銅像のすぐ下に『井伊直弼歌頌碑』が建立されました。

碑には、直弼の曾孫になる十六代当主・井伊直愛(元彦根市長)の奥様・文子さん(ご夫婦共に彦根名誉市民)の短歌が刻まれています。


一身に 
 背負ひまして
   立ちましし
大老ありれこそ
   開港はなりぬ


井伊直弼の業績を称える思いの一つとして訪れてみて下さいね。

彦根城周辺史跡スポット:「平田山城」

2007年06月16日 | 史跡
近江平野の一部に含まれる彦根市では市内中心部にそれほど多くの山がありません。しかし、昔の兵法では高い所を拠点として低い所に攻め降る方が有利とされていたので、彦根市内の山のほとんどは城が築城されていたと考えられるのです。

現在、雨壷山として知られている平田山にも当然お城が築城されていました。それが平田山城です。
・いつ頃築城されたのか?
・誰が城主だったのか?
などの詳しい情報はわかりませんが、先月『肥田城と水攻め』の話で登場しました六角義賢の父親・六角定頼が上坂景宗と対陣した時に平田山を中心に矢を射ち合う“矢戦”が行われて、「江北軍(上坂軍)・磯野源三郎為員の軍勢、が江南軍(六角軍)・吉田安芸守定雄の軍勢と戦った結果、磯野為員が耐え切れずに退却した」という記録が残っています。
この矢戦がいつ頃行われたのかもハッキリしていませんが、六角定頼が当主になった永正15年(1518)から磯野為員が山本山で戦死する天文元年(1532)の間である事は間違いありませんので戦国時代前半には城として戦略拠点になっていたことが窺えますね。

しかし、ある資料では応仁の乱の騒乱の中でも平田山が軍事拠点として使われていたとも伝えられていますので、実は彦根市内でも古いタイプの山城形式をもった平山城だったのかもしれません。

元亀元年(1570)に織田信長が磯野為員の甥・磯野員昌が守る佐和山城を攻めた時には、水野信元(徳川家康の伯父)が平田山城に軍を置いて佐和山城を囲む一端を担っています。
そして慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの直後に行われた徳川家康による佐和山城攻めでも平田山に家康の本陣が置かれ、家康はここから佐和山城が落城する様子を眺め、戦いが終わった後に麓の長久寺で休息しました。
家康の佐和山城攻めの時には城としての機能がどれほど残っていたのかははっきりしませんが、彦根市内の戦いでは絶対に必要となる場所だったと言えますね。


江戸時代になると平田山城跡は井伊家の狩場となっていました。
七代藩主・井伊直惟は特に好んで鷹狩を楽しんでいたそうですよ。


現在、城跡は千鳥ヶ丘公園として整備されている所もありますが、山の中に入って行くと、土塁や曲輪の跡、そして石垣も残っています。この石垣がいつの時代の物かは判断できませんが興味が引かれる遺構の一つですよ。


ちなみに、彦根の城を調べると平田館という平城(館)があったと書かれています。
この平田館は、平田山城とは別の場所(現在は福祉センターから少し北に行った宅地)にあり、館主は平田氏だったようで、この平田氏は荘園の下司職出身の豪族だったそうです。
当主の名前に“平田宗左衛門高慶”と記された資料も残っています。

この平田氏がどうなっていったのかわかりませんが、彦根市内で刊行された書籍の中に薩摩藩の島津家に仕えて3000石の家老になったと書かれていました。
島津の家老・平田氏といえば、木曽三川の工事(宝暦治水)を指揮し最後に切腹した平田靱負が頭に浮かびますが、この人物が子孫であったのかどうかの判断は付けられませんでした・・・

ひこにゃんオムライス

2007年06月15日 | イベント
国宝彦根城築城400年祭の特別メニューがこの「ひこにゃんオムライス」です。

南彦根駅前のショッピングモール・ビバシティにある“Hallo Egg 彦根店”がエフエムひこねのリスナーさんのアイデアを元に作られたメニューです。

本来なら5月中の販売だったのですが、大人気につき6月一杯まで食べる事ができます。


オムライスの上にひこにゃんの顔が描かれていて、頭の2本のエビフライは赤備えの天衝の脇立を現しています。
また、ひこにゃんの旗も立っていて見ても楽しい、食べても楽しい料理でしたよ。


値段はエフエムひこねの周波数にかけて782円!
お持ち帰りもできるそうですので、立ち寄ってみてはいかがですか?

是非、このゆるい表情をお楽しみくださいね。

脇家長屋門

2007年06月10日 | 彦根城
脇家は、家老の一家として彦根藩に仕えました。

初代・脇豊久は元々武田家に仕えていましたが、武田家滅亡後に徳川家康に仕えそして井伊直政に預けられたのです。
井伊家に仕えて、歴戦で活躍し2000石の知行で家老職を任されました。
記録では脇五右衛門・脇内記・脇伊織などの名前で登場します。

そんな脇家の長屋門として表門橋近くに建っているのが「なまこ壁」の長屋門です。


なまこ壁とは、
壁に平瓦を張り詰めて、つなぎに漆喰を使いました。
この漆喰がなまこの様に見えることから「なまこ壁」と呼ばれるのですが、防火・防水に優れていたといわれています。
脇家の屋敷は一度焼失している為に、再建された屋敷に防火対策を施したのかも知れませんね。


ちなみにこの長屋門の脇には案内の碑があり、そこには「子孫に脇光三がいて明治36年4月10日に蒙古で25歳で死亡した」みたいな意味の事が書かれています。
この脇光三は、日露戦争で露西亜兵に銃殺された人物なのですが、隠密作戦で露西亜の鉄道を破壊しようとし捕まって殺された人でした。

しかし、この事件のために露西亜は鉄道に兵を裂かなければいけなくなった事から烈士として評価されたそうです。