彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

彦根の地場産業:3B

2007年05月30日 | 史跡
彦根仏壇と言えば、古くから名の聞こえた産業として全国に名が通っていますが、彦根仏壇の歴史はどのようなモノなのでしょうか?
戦国時代、長浜の国友村では鉄砲の生産で全国に知れ渡りましたが、戦争のない平和な江戸時代に入ってから鉄砲の生産技術を持った職人たちが別の分野に進む事になったのです。

その中で装飾を担っていた職人たちの細かい技術が重宝されるのが仏壇だったのです。同じ様な理由で、鎧や武器に使っていた塗師や金物師も集まって芸術作品としてますます素晴らしい物が完成したのです。

江戸時代は、キリスト教が禁止されていて、お寺の檀家となることが強制されていましたので、各家では仏壇を置く事も一般的になっていました。こう言った関わりがあり需要が多かった仏壇を作成し販売する町が彦根藩内に出来上がり、七曲がりと呼ばれる地域が発展したのです。


明治になると、近代化の波に乗って彦根にも多くの産業が始まるようになりました。その中の一つが門野留吉によるバルブ製造だったのです。

留吉は、仏具装身具の錺金物職人だったのですが、ある製糸工場の経営者から繭を煮る設備に必要な蒸気カラン製造の依頼がありその依頼に応えたところからバルブ技術へと発展したそうです。その後、彦根バルブは、暖簾分けという形で彦根市内に多く広がりました。


戦後になると、足袋独自のカーブを利用して日本人に合うブラジャーが彦根で誕生しました。中山道の宿場町を抱えた彦根では足袋を作る技術も発達していたのですが、アメリカからストッキングが伝わり足袋工場は減少していったのです。

ミシンもあり、女性従業員も多くいるのだから、何かできないか? という発想から生まれたのが国産ブラジャーだったそうですが、日本人の器用さや丁寧さが人気を呼んで、一時期はアメリカ全土にまでその販売幅が広がって行ったくらいなのですよ。
ちなみにワコールも近江商人によって創業された会社で、彦根のブラジャーの影響が滋賀県内に広がっていた証でもあるんですよ。



現在、彦根の特産物は3Bと呼ばれています。
これは、仏壇・バルブ・ブラジャーの1文字目が全てBで始まるからなのですが、彦根の地場産業は長い歴史の中で育った市民の努力の結晶なんですね。

彦根城周辺史跡スポット:「城南小学校と土器」

2007年05月28日 | 史跡
生命は水から誕生したといわれています。その為でしょうか? 生き物は水辺に集まる事が多く、それは人間も例外ではありませんでした。
人間が生きる事に精一杯だった時代、人々は川や湖の周りに集落を作って生活を営んでいたのです。琵琶湖とそれに付随する多くの河川がある滋賀県はそんな人々が住むのに調度良い場所でした。ですから古くからの遺物もたくさん発掘されています。


彦根市内でも数多くの太古遺跡が発掘されていますが、その中でも特に有名な遺跡が西今町の福満遺跡ではないでしょうか?
大正7(1918)年4月、現在は城南小学校と呼ばれている福満尋常小学校の運動場の土盛りを目的にすぐ北にあった田んぼを1mほど掘ってみると、そこから2個の土器が発見されました。
この土器は今から1900年ほど前の弥生時代後期に作成された弥生式土器だと言うことが解り、1個が小学校に保管されたのです。
やがて太平洋戦争が起こり、末期になるとアメリカ軍の本土爆撃機が彦根にもやって来ました。
何度かあった空襲の一つが小学校(この頃は城南国民学校と呼ばれていました)校舎付近に爆撃であり、建物が倒壊する悲劇が起こりました。この時、死者10名重傷者10名という悲しい結果を生むのですが、それと同時に倒壊した校舎の中の校長室にあった筈の土器が一時行方不明になったりもしたのです。
後に用務員室から発見され安堵したというエピソードも残っているんですよ。

昭和56(1981)年、城南小学校増築に伴って調査を行うと今度は3000年ほど前の縄文式土器も発掘されました。ただ、この土器には使われた跡が無くこの時代の住居跡が発見されて居ない事から縄文時代は土器の作製を行う場所として利用され、住居は近くの別の場所にあったと考える事ができますね。
ちなみに、詳しく調べてみると、近くの犬上川川筋が昔(縄文時代から古墳時代)はこの城南小学校の辺りを流れていた事も判明しています。
ですから、この付近で住居跡が発見されるのは古墳時代後期の物となります。この事から、犬上川に近いこの地域周辺は縄文時代や弥生時代は犬上川の周辺の湿地帯に低く狭い陸地が点在していたと考えられ、小さな集落しか形成する事ができなかったのではないかと予想されています。
古墳時代後期になると、犬上川から運ばれた土砂が堆積して大きな土地が出来上がり、それに伴って大集落が作られていったのではないでしょうか?


城南小学校の下には今でも多くの土器や遺物が埋まっているそうです、そんな遺物の一部である縄文式土器や弥生式土器が、土器が行方不明になる原因となった爆弾の破片と一緒に城南小学校の玄関に展示されていて、お客さんや生徒のみんなに地元の歴史を伝えているんですよ。

浅見波泉歌碑

2007年05月21日 | 史跡
彦根城内に彦根西中学校があります、その校門前には城門があった遺構となる石垣があります。

その城門は船町口御門と呼ばれる門で、城下と城内を仕切る大切な門の一つでした。
この石垣の上に、一つの歌碑が残されています。


歌碑には
“あわ雪の 彦根の城を 絵とし見る  波泉”
と刻まれています。


波泉とは、彦根高商(現在の滋賀大学・船町口御門近くに校門がある)の教授をされていた浅見波泉の事です。
この方は、岩手大学の教授なども務められ勲三等に叙せられています。

この句碑は波泉教授の喜寿の祝いに昭和46年5月23日に建立されたモノでした。
句碑建立に協力した人は、波泉教授の教え子の細江敏氏を中心に、同じく教え子の元内閣総理大臣・宇野宗佑氏などの名前が残っています。


彦根城の石垣の上で、滋賀大学も彦根城天守も美しく見渡せる場所に建っていますので、彦根城の別の面を知りたい時に行かれてみてはいかがですか?


彦根城の堀

2007年05月14日 | 彦根城
水堀と空堀、お堀には大きく分けてこの2種類があります。

一般的なイメージでは、水堀と空堀では水堀のほうが防御に勝っているような気がしますが、実際にはどちらの方が優れていたのでしょうか?

実は、空堀の方が有利でした。


堀は橋でしか渡る事ができず、その橋を落としてしまうと簡単に城に近付く事ができなくなります。
この時、攻め手側は堀に入って城に攻め上がるという戦い方を選択せざるを得なくなりますが、空堀の場合はこの攻め手の姿を隠す事もできず守り手側の攻撃を防ぐ手段も少なくなってしまいます。

しかし、水堀では、水が身を隠すばかりか、攻め手がやもえず堀に飛び込む時でも水がクッションになって怪我も少なく、攻め手の戦力減少の原因になることは少なかったんです。

ですので水堀にする場合は、その幅を広く取って泳いでもなかなか到着できないように作るの有効だったのです。

でも、彦根城の水堀はそれほど広くはありません。


彦根城は琵琶湖や松原内湖が近くにあった為に、排水処理を行う事ができず水堀となったのですが、それにしても堀の幅の狭さは戦略的に不思議さすら感じてしまいます。
もちろん、オニバスを堀に植えるなどして、独特の防御策はとられてはいたんですよ。


しかし、彦根城の本当の堀は天秤櫓と西ノ丸三重櫓の前面にある「堀切」と呼ばれる空掘でした。
この堀切は、彦根山を3つに分けるほどに大変な作業だったのです。
城に攻め上がっても、この空堀で敵が防げる仕組みになっていたんですね。


内堀を越えて彦根山に入って油断した敵を討ち取る・・・
心理的にも一番敵を討ち易い状態になっていたんですね。

彦根城周辺史跡スポット:「百間橋址」

2007年05月05日 | 史跡
「三成に過ぎたるものが二つあり 嶋の左近に佐和山の城」という有名な言葉がありますが、これは石田三成の所有物で三成が持つには勿体無いモノとして、猛将・島左近と佐和山城があるという事を示した当時の落首でした。
 そんな“三成に過ぎたるもの”としてこの二つに並んで挙げられる物が、今回ご紹介する“百間橋(ひゃっけんばし)”です。

 石田三成が佐和山城を居城としていた時、彦根山の北側には“松原内湖”と呼ばれる大きな湖がありました。この松原内湖に今の流れに変わる前の善利川(芹川)が流れ込んでいたのです。
『彦根古図』を見るとそんな松原内湖と琵琶湖の間にある陸地だった松原には何本かの水路が掘られていた事と、その陸地と佐和山城の麓を結ぶ橋があった事が記されています、この橋が百間橋になります。
佐和山城は山の上に建てられた城でしたが、琵琶湖の監視も行い、琵琶湖から陸揚げされる物資も沢山ありました。そう言った物資は一度松原の蔵に入れられたのです。
そんな松原の物資を運ぶ時は松原内湖を大きく迂回するか内湖に舟を浮かべるしかなかったので、最短距離で直接運べるようにと島左近が架けさせた橋が百間橋でした。『彦根古図』の記録に幅三間(約5.4m)長さ三百間(約540m)もあったと記されて』いますので大きな物だった事は間違いないようです。

佐和山側はそのまま島左近の屋敷の近くまで続いていましたので、左近がどれほどこの橋を重要視していたかもうかがい知る事ができますよね。

そして、冒頭の落首が「佐和山の城」から「百間橋」に変わっていた時期もあったそうですから、立派な橋だった事が改めて分かります。


その後、彦根の領主が井伊家に変わっても百間橋は大切な交通手段として活躍し、何度も架け替えが行われましたが、戦後になって松原内湖が埋め立てられてしまったので橋が不必要となり、今は古い写真でしかその姿を見ることはできません。

彦根市のお隣・豊郷町にある財団法人豊会館『又十屋敷』には、在りし日の百間橋の標柱(写真)が現存していますので、昔の名残を探しにお出掛けになってみてはいかがでしょうか?