彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『戦国怪談話』その7 北ノ庄城 死者の行列

2011年08月30日 | 『戦国怪談話』
本能寺の変の翌年、羽柴秀吉は、織田家の実権を奪うために最大の敵である柴田勝家を、賤ヶ岳の戦いで破り、そのまま勝家の居城である北ノ庄城を攻め落としました。

天正11年(1583)4月24日、勝家は信長の妹お市の方と共に自害して果て、多くの家臣たちが無念のうちに亡くなり、城には火が放たれて焼け落ちたとされています。
勝家が亡くなった日は「柴田忌」とも勝家とお市の辞世の句から「ほととぎす忌」とも呼ばれるようになり、この日の丑三つ刻には勝家たちの霊が出るとの噂が広がって、町の人々は外に出ることはありませんでした。

ある年のこと、一人の老婆が知り合いの家で話し込み、遅くに帰宅することになりました。その日が4月24日だったことを忘れていて、北ノ庄城に架かっていた九十九橋に差し掛かった時に向こうから物音がしたのです。
多くの馬の蹄の音、嘶き、人々の歩く音、そして鎧の音。
今のイメージでは、鎧の音はガチャガチャと金属の当る音のように思いますが、あれは映像用の演出であり、本当にそんな音がしたら奇襲や夜襲は成功するはずがありません、本当の音は皮がこすれる程度の静かな音です。それでも多くの人が一緒に動けばそれなりに大きな音になりました。つまりはそこには大勢の鎧武者がいたことになります。
老婆は、これが噂に聞く勝家の霊だと思い、後ろを向いて目を閉じて音が消えるまでじっとしていました。そうするとやがて九十九橋に多くの人や馬の足音が通り、静かになりました。
老婆は安心し帰宅しましたが、このことを周囲にしゃべってしまい、翌年の同じ日にやはり帰宅が遅くなり、そして九十九橋が架かる川の中に頭を突っ込んで両足を上に向けた状態で亡くなっていました。そのイメージは犬神家の一族のような状態だと思われます。

享保17年(1733)といいますから、八代将軍吉宗の頃、表具師の佐兵衛という人物が、興味に勝てずにあえて4月24日に出掛ける決意をしました。自分は死んでもかまわないが、しかし家族にまで祟りが及んでは困ると思い離縁して妻を実家に帰したのです。
佐兵衛は九十九橋に身を隠すと、やはり馬の蹄の音がします。そして首の無い傷口から血が滴り落ちる馬や同じく首の無い鎧武者たちが大勢橋を渡りはじめたのです。首が無いのに馬の嘶きや人々の息使いが佐兵衛の耳には聞こえてきました。
行列が過ぎて行ったあと、佐兵衛は急いで家に帰って見てきたものを絵に描いて、表具の注文があった武士の置いて行った桐の箱の中に絵を隠したのです。
翌朝、佐兵衛は血を吐いて死んでいました。

桐の箱は武士の元に戻ります。そして武士は箱の中から絵を見つけました。佐兵衛の噂を知っていた武士はその絵を庭で燃やそうとしたのです。
武士の屋敷の庭は広く、その中で絵に火を放つと、絵は勝手に宙を舞い、屋敷の屋根に乗って屋敷を火で包み近所にまで類焼したのです。その炎の中に首の無い鎧武者の姿を見たとの話もあるのです。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
知らない話で興味深かったです。 (好事家)
2015-12-31 00:34:51
 享保17年の話などはどのような文献で読むことができますか? ご教示いただければ幸いです。
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Unknown (管理人)
2016-04-21 20:24:20
好事家さん

北庄城の話ではよく登場するものですので、出展を調べたことがありませんでした。
調べてみて、わかりましたらお知らせします。
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