彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

彦根よさこい春の舞

2008年05月25日 | イベント
写真は「舞宇夢 赤鬼」の大旗


2008年5月25日『井伊直弼と開国150年祭』のプレイベントとなる“彦根よさこい春の舞”が開催されました。


400年祭期間中に行われたイベントに続く彦根での2回目のよさこいは、今回もYOSAKOIソーラン日本海の公認を受けて盛大に行われたのです。
よさこいの良さは雨天でも行える事。

前夜は大雨に見舞われ、当日の朝も残っていた雨ですが、開会式が行われる予定の8時半過ぎにはパラパラ程度の雨が時々降る程度まで止み、空は曇り空が残り、午前中は肌寒いくらいの気温を示していましたが、それが逆に直射日光による疲労を抑えて熱い熱気で心地良い空間を作り上げていったのです。

「よさこい」といえば激しい踊りをイメージしますが、そこはグループによって様々な嗜好が凝らされていて、本来の激しさを持ったチームもあれば、女性中心の華やかさが演出されたチームもあり、また可愛い女の子たちによる「まるでどこかのアイドルグループのライブ?」と思えるような演舞もあったのです。

午前中は、そんな演舞が駅前通りでパレードとして行われ、午後からは彦根市役所の駐車場のステージで次々と披露されていきました。


途中では“ひこにゃん”がゲストで登場し、スポレク2008の公式キャラクター“キャッフィー”の姿も見かけました。
『井伊直弼と開国150年祭』&『スポレク2008』
2008年の彦根が関わる重要なキャラクターの応援を受けて、この瞬間から『井伊直弼と開国150年祭』は正式に活動が始まったのですね。


開会式は6月4日より
あと10日

5月22日、彦根城天守完成?

2008年05月22日 | 何の日?
慶長11年(1606)5月22日、彦根城の天守が完成した。
・・・という説があります。

実は彦根城の天守がいつ完成したかについては諸説がありはっきりとした日時は未だに確定されていません。

天守の解体修理が行われた時に発見された隅木墨書の銘から考えると完成は慶長11年の6月以降だったのではないか?
という話もあるくらいなのです。


「でもでも、2007年に築城400年祭を行っているんだから、日付は分からなくても1607年に完成したんじゃないの?」
と言うご意見もあるように思いますが、彦根城天守の完成はどれほど遅くても慶長11年中だったと考えられているんです。

彦根城は、天下普請という幕府が行わせた工事でした。その責任者に任命されていたのは公儀普請奉行の佐久間政實だったのですが、佐久間は慶長11年に今度は江戸城築城の公儀普請奉行に任命されているのです。
彦根城を完成させないままに次のもっと重要な城への普請責任者を将軍家が任せるとは考え難いですので、慶長12年まで彦根に築城普請の音が聞こえていた可能性は皆無と言っても間違いないかもしれませんね。


では何故2007年に400年祭が行われたのかは、関係者の方に訊いてみないと分かりませんが、市政80年や琵琶湖周航の歌完成90年などが関係していたのでしょうか?

5月19日、桶狭間の戦い

2008年05月19日 | 井伊家千年紀
永禄3年(1560)5月19日、桶狭間の戦いで織田信長が今川義元の首を討ち取りました。


桶狭間の戦いといえば、今川義元が天下取りの為に上洛しようとして尾張を通過する時に、これの反発した織田信長に攻められて起こった合戦で、狭い谷の底に陣を張った今川軍に織田軍が谷の上から奇襲をかけて勝利を収めたという話が定説として伝わっていました。

しかし、近年ではこの説が崩れつつあります。


まず、今川義元は上洛を目指していたのではなく、尾張を目的地としていたのです。これは上洛をするための諸国への通達や根回しの様子が無い事や、今川軍の食料の少なさから予測されていて、今では上洛説は消えかけているくらいなんです。

そんな尾張への進軍を目的としての出陣は、井伊直盛と松平元康(後の徳川家康)を先鋒に2万5千の大軍になったと言われています。
5月18日に松平元康に1千の軍を与えて織田軍に囲まれている大高城への補給を行わせた義元は、翌19日に信長の居城だった清州城へ向かって兵を進めたのでした。
でも、この時には今川軍は5千程度のまで減っていたと考えられています。

先ほどの元康の例にもあるように、進軍途中で兵を裂く事が思いの外多かったからでしょう、一部の例を挙げるだけでも大高城・鳴海城・沓掛城・岡崎城・池鯉鮒城などが考えられるのです。


当時の信長の最大兵力が4千程度だと考えられているので、これでは今川軍の圧倒的優位という形にはなりませんでした(もちろん、織田軍もあちらこちらに兵を裂いているので4千が丸々今川軍には当れませんが・・・)。

こうして義元は案外慎重な戦略を示してきます。
まずは19日早朝から織田方の鷲津砦・丸根砦を攻略
義元の本隊は“おけはざま山”に進んで本陣を張ります。
鷲津砦には朝比奈泰朝
丸根砦には松平元康
が陥落させたのです。

両砦が攻撃されている報を聞いた織田信長は、『敦盛』を舞った後に具足を纏い湯漬けをかきこむと馬に乗って清洲城を飛び出していったのです、後に従うのは5人の小姓だけでした(午前4時頃)。
熱田社で馬を下りた信長が、ここで戦勝祈願をしたと言われていますが、記録には残っていません。しかし熱田社という目印の元で自軍の集まるのを待っていたのでしょう。これが午前8時頃の事でした。

『信長公記』には、この時に「義元が鷲津砦・丸根砦陥落の報を聞いて喜んで謡を三番うたったそうだ」との記述がありますが、作者の太田牛一は桶狭間の戦いには参加していませんし「~そうだ」との記述は実際に見たものではない上に『信長公記』は信長の死後の編纂でこの頃の記述は本編の前のプロローグにあたる部分ですから、地元で聞いたそのままを書き取っているだけなのです。
「~そうだ」程度の記述には地元で義元を辱める為の噂として広がっていた可能性が高く、2.3キロ先には合戦を行っている場所がある軍の大将の行動としてはありえないのです。


ここから、信長は佐々政次(佐々成政の兄で、曾孫は水戸黄門で有名な助さん)と千秋季忠に命じて今川軍に攻撃を仕掛けますが両名は討死します。
この両名も定説では信長の命を無視して今川軍に挑んだ事になっていますが、実は信長の命だった事がしっかりと記録に残っています。
この時点で信長の下には2千の兵が居ました。

そして次の攻撃を行う前に信長は「首は取らなくてもいいからとにかく追い払え」と命じたのですが既に突撃を行っていた前田利家たちが敵の首を取ってきてしまったのでもう一度この旨を言い聞かせたのです。
つまりこの時には佐々政次らの第一陣と前田利家らの第二陣が既に今川義元軍との戦いをしていたのでした。

そしてついに信長が自ら兵を率いて三度目の戦闘が行われます。
『信長公記』には信長軍が山裾に兵を進めると、大きな雹(氷雨)が降って驚いた今川軍の前線が崩れ、これをチャンスと考えた信長が全軍に突撃を命じた。
今川軍はその勢いに押されて総崩れとなった。
と書かれています。こちらは織田方の記述ですので、見えない今川軍の噂話とは違って信憑性が格段に高くなります(だって経験者がたくさん残っているわけですから・・・)。
そんな当時の記録の中に既に「山裾(正式には山際)」という言葉があるのですから、信長軍は谷を駆け下りたのではなく、山に向かって駆け上った事がわかるのです。
こうして今は、桶狭間は谷ではなく山だったと訂正され、攻撃も奇襲ではなくて正々堂々とした正面攻撃だったと定説が変わっています。

信長は、堂々と今川軍に挑み、雹と言う自然の助けで今川義元の首を奪ったのでした。


しかし、信長にとって義元の首が取れたのは予想外の出来事だったと言えます。当事者ですらそんな状態なのですから後世の人々がこの不思議な勝利の原因を探して油断と奇襲を当て嵌めても仕方なかったのかも知れませんね。


ちなみに、松平元康は義元の命で18日夜に大高城に入っていたために桶狭間の戦いには加わらずに命拾いをし、この後すぐに岡崎城に入って今川家から独立します。
井伊直盛は、前日まで朝比奈泰朝とともに鷲津砦を攻めていたのですが18日に義元に呼び戻されて本陣近くにいて義元戦死の報を受けて自害して果てます。
朝比奈泰朝は無事に帰国し、義元没後の今川家を支えますが、桶狭間の戦いの3年後には井伊直盛の跡を継いだ直親を今川家に対する謀反の疑いで掛川で殺害してしまうのです。



さて、桶狭間は愛知県の事ですしこの時はまだ井伊直政すら生まれていない話が彦根とは何の関係があるか?
と言われると実は何もありません、しかし所々に登場した“井伊直盛”は井伊家と関係があるのです。
井伊直盛の跡を継いだのは従兄弟の直親ですが、この直親の息子が井伊直政です。
また直盛の娘である直虎(次郎法師)は直親が暗殺された後に井伊家を継いで女地頭として井伊領を治め、直政を徳川家康に引き合わせるきっかけを作った人でもありました。

彦根城周辺史跡スポット:「本庄城」

2008年05月18日 | 史跡
鎌倉幕府が滅びて南北朝の動乱が起こっていた頃、本庄には本庄次郎左衛門藤原満宗という人物が館を構えていたとの記録があります。

本庄一族は、本庄周囲の“栗見”と呼ばれた地域の地頭を務めていた豪族で、南北朝時代には北朝の足利尊氏に味方した佐々木氏に仕えていて佐々木氏の末である六角氏頼が建立した永源寺の寺社郷が本庄の中にもあったと言われています。


佐々木六角氏を通じて足利将軍に仕えた本庄氏は、三第将軍足利義満の京・相国寺供養では義満に従って警護をする有力武士に中に先ほどの本庄満宗の名前があります。そもそもこの“満”の名前は義満から与えられたモノだったそうです。


戦国時代中期には、本庄旧雄とその息子の将監(正玄)の名前が六角氏や彦根藩の記録にありますが、織田信長の近江侵攻に敗れた六角義賢が没落すると本庄将監も信長配下の山崎賢家と戦い敗北し本庄城も落城したのです。

その後、羽柴秀吉に仕え、そのまま秀吉子飼いの武将だった福島正則に預けられて五千石を拝しますが、福島家が改易となった後は九州の有馬氏に仕えたと言われています。


現在、本庄城跡はどこにでもある街中の交差点横に一画だけある水田だと言われています。そこに何かがある訳でもありませんが、近くには栗見領に鎮座した久留美神社があり、この参道は本庄氏の家臣だった谷口氏の屋敷跡でもあるそうなのです。

5月14日、紀尾井坂の変

2008年05月14日 | 何の日?
明治11(1878)年5月14日、内務卿・大久保利通が暗殺されます。

この日、東京はいつ雨が降ってもおかしくない様などんよりした空模様だったと伝わっています。
午前6時、福島県令・山吉盛典の訪問を受けた大久保利通は、色々な政策を話し合いました。話が一段落し盛典が大久保邸を辞そうとした時にそれを引き止めて明治年間における30年計画を話しました。
30年計画とは、明治元年から30年までを10年ごとに3期に分けて、
最初の10年は第一期として“創業期”
次の10年は第二期として“内治整理・殖産興業・富国強兵”
最後の10年は第三期として“完成期”
として、利通は第二期も力を尽くし、第三期は後継者による完成を望みたいと考えていたのでした。

結局、この話が最後となってしまったのです。


午前8時、家族・書生に見送られて裏霞ヶ関の私邸を出発する時、いつもは大人しい娘がぐずってなかなか出発できなかったと言われていますが、そんな娘を落ち着かせて二頭立て馬車に乗り込んで赤坂仮御所を目指したのです。
この先はいつも通っている通勤コースを進みました。
その途中に紀尾井坂があったのです。
本来なら紀尾井坂を進まない方が近道なのですが、その為には赤坂見附を通る事になります。
利通は「赤坂見附付近は人が多くて危険だ」と言うことで人通りの少ない紀尾井坂を選んでいたのですが、逆にこれが仇となったのでした。

午前8時30分頃、紀尾井町一丁目に差し掛かった時、書生姿の男が二人、摘んだ様な花を持って道に出てきました。
この二人をやり過ごした後、また別の二人(長漣豪と脇田巧一)が同じ様に花を持って馬車の前に姿を現したのです。
利通の馬車の芳松は馬車から降りて前の二人に道を開けるように言いますが、それを無視して片方が隠していた長刀で馬に斬り付けますが失敗。
驚いた馬が走り去ろうとし、それをもう一度刀を使って馬車を止めました。

その騒ぎが起った直後に馬車の後方から島田一郎・杉村文一ら四人の男が馬車を襲います。この四人は手に短刀を持っていました。
まずは芳松が四人に襲われ二度斬り付けられますが、すぐに逃亡し、近くの北白川宮邸に助けを求めに行きます。
御者・中村太朗が異変に驚きながらも馬を走らせようとするのですが、斬り付けられた馬が進まず馬車から飛び降りた所を肩から斬られて絶命。

その直前まで書類を読んでいた利通は異変に気が付いて逃れようとして左の扉を開けました。そこにはこの襲撃のリーダー・島田一郎が立っていたのです。
一郎は開いた扉に手を掛けて素早くこじ開けます。利通が「無礼者!」と叫ぶと同時くらいに利通の右腕を左手で掴み、右手に持った短刀でその眉間から目に至る部分に斬りかかりました。
そして振り下ろした短刀を素早く腰に突き刺したのです。

その直後、右の扉から他の暗殺者たちが利通に斬りかかり、身体を馬車の外に引きずり出したのでした。
それでも利通は立ち上がります、しかしメッタ斬りにされて最後は喉に短刀が突き刺されたのでした。この短刀は地面にまで達していたそうです。大久保利通47歳。
御者・中村太朗の喉にも同じ様に短刀が突き刺さっていたのでした。

しばらくして助けを求めに行った芳松の報告で警官が現場に駆けつけると、島田ら六人はそのまま赤坂仮御所に出頭し自首したのです。

約2ヶ月後の7月27日六人は斬刑となり即日刑が執行されたのでした。


島田らは政府の高官七人の命を狙っていたそうです。
木戸孝允・大久保利通・岩倉具視・大隈重信・伊藤博文・黒田清隆・川路利良
この内、木戸孝允は既に病没していて、2番目の標的・大久保利通を狙ったと言われています。

ちなみに、この狙われた人々は・・・
木戸孝允・・・既に死去
大久保利通・・・この時に暗殺される
岩倉具視・・・明治7年に暗殺未遂事件に遭う、明治16年胃癌で死去
大隈重信・・・明治22年爆弾テロに遭い右足切断
伊藤博文・・・明治42年暗殺される
黒田清隆・・・夫人惨殺という大事件を起こす
川路利良・・・明治12年病没

この一連の名簿から、紀尾井坂の変の黒幕は西郷隆盛やその側近だったという説もあります。
実際には前の年に西南戦争で西郷の関係者は亡くなっていますが、西南戦争の前に西郷に会って鹿児島から石川県に行った人物に長連豪が居ます、長は島田一郎と共に紀尾井坂の変の首謀者となった人物ですので、西南戦争で西郷隆盛が自害したからこそ、この計画が必ず実行されるべき物となった筈なんです。
それが読み取れるのは川路利良の名前です。
川路は大警視(今の警視総監)という役職には居ましたが、他の6名ほどには大人物ではありませんでした、しかし西南戦争の前に西郷隆盛暗殺団を鹿児島に派遣した人物だったんです。


では本題に戻って・・・
自首した時の事、赤坂仮御所で一台の馬車が島田らの目の前を通っていきました。
そこには4番目に名前の挙がっている大隈重信が乗っていたのです。島田らは紀尾井坂に刀を残してきたので襲うに襲えず地団駄を踏みました、しかしその後で島田の懐にピストルが入っていたのに気が付いてもう一度地団駄を踏んだというエピソードが残っています。


紀尾井坂の変の後、国の最高権力者がどれ程の遺産を残したのか国民の注目の的となりました。すると、利通には財産は殆んどなく八千円の借金があったのでした。当時、千円あれば新築の豪邸が建った時代で相当な借金だったのですが、この借金は財政難に喘ぐ政府のために作ったモノだったそうです。

大久保利通と言えば西郷隆盛を殺させたと言う冷酷な悪人のイメージが強いですが、本当は一流の政治家だったんです。


「彦根とは反発する薩摩藩の、しかも明治の元勲の暗殺事件が何で彦根に関係するんだ、もしかして“紀尾井坂”の“井”が“井伊”だからか?」という質問を受けそうですが、実は紀尾井坂の変には明治の彦根に関わる人物が2人も関係しています。
この時、大久保利通に関わった彦根人に日下部鳴鶴と西村捨三の名前があります。

日下部鳴鶴はこれより2年前の明治9年4月に大久保利通邸に行幸した明治天皇の前で御前揮毫の栄誉を賜ります。そして紀尾井坂の変以降に政治の世界に身を置くことに無情を感じて書の世界に没頭し、明治三筆の一人として賞されるまでになったのです。

西村捨三は共に働いた大久保利通の威徳を偲び、事件より10年後の明治21年5月に紀尾井坂の変現場近くの清水谷に「贈右大臣大久保公哀悼碑」(写真)を建てました、この碑は高さが6.27メートルもあり捨三たちの大久保に対する想いの強さが窺えます。
捨三は、この後も政治の世界に関わり続け沖縄県令・大阪知事などを歴任し、京都の時代祭の発案や大阪湾の築造などの功績を残したのです。

5月11日、大津事件

2008年05月11日 | 何の日?
1891(明治24)年5月11日、ロシア皇太子・ニコライ(後のロシア帝国最後の皇帝・ニコライⅡ世)が大津市下小唐崎町で滋賀県警の津田三蔵巡査に襲われる。

この話自体は、滋賀県内とは言えども大津の事ですので彦根には直接関係内のですが、当時の日本は幕末に井伊直弼によって結ばれた『修好通商条約』による不平等条約の改正の為に国家の近代化に力を入れている時期でした。
その為に2年前の明治22年に『大日本帝国憲法』を発布し軍隊にも近代装備を性急に配備していた時でもあったのです。こう言った意味では『井伊直弼と開国150年祭』が行われる時にこそ、井伊直弼によって結ばれた条約のその後を知る一つになる事件としてここでご紹介します。


日本が諸外国の中での不当な扱いから脱却しようとしている中で、すぐ近くの近代大国ロシアは日本にとって最大の脅威でもあり一番味方にした国でもありました。また、ニコライ皇太子は日本に深い関心を持っていたのです。
ニコライ皇太子の来日は日本の外交の重要なキーポイントになるとして、当時最高の人材が接待に携わったのです。

5月11日、朝から琵琶湖見物をしたニコライ一行は滋賀県庁で昼食を取った後に京都に向けて出発。
夏の様に暑い晴れた日だったそうです。
大津市内では歓迎に為に多くの市民が道の両側を埋め尽くし、深く頭を下げていた。
警護の警官も最敬礼で並んでいたと伝わっています。
午後1時50分、大津市下小唐崎町(京町二丁目)を通過中の人力車の順番は、
先頭が京都府警部
2番目が滋賀県警部
3番目が滋賀県知事
4番目が接伴委員長・有栖川宮威仁親王
5番目がニコライ
6番目がギリシャ王子・ジョージ(ニコライと一緒に来日していた)
でした。
人力車に付いている車夫は3名で1名が車を引き後の2名が後ろから押していた。
ニコライの車を引いていたのが向畑治三郎、ジョージの車を引いていたのは北賀一太郎という人物でした。

下小唐崎町の京町通りは声も無く人力車の通る音だけが静かに響ていたそうです。
ニコライが津田岩次郎宅前を通過しようとした時、そこで警護をしていた滋賀県警の津田三蔵巡査がサーベルを抜いてニコライの右後頭部に斬りつけて帽子が飛んだ。
驚いて振り向いたニコライに対して頭部に二撃目を入れた所でニコライが反対側に飛び降りて逃げ始めます。
サーベルを振り上げ後を追う三蔵に対してジョージ王子が後ろから迫り竹の鞭で頭や肩を打ち据えたのです。
向畑治三郎が三蔵の背中に抱きつき押し倒してサーベルを落とさせると、北賀一太郎がそのサーベルを拾って三蔵をメッタ斬りにして他の車夫と共に取り押さえている。
この時、2番目の人力車に乗っていた滋賀県警・北村武警部が「殺すは不都合」と叫んで三蔵を逮捕。
ニコライは数件先の呉服屋・永井長助の店で傷口をさらし木綿で捲いて休む事となったのでした。

最初の後頭部の傷は9センチあり、骨まで達していて暫く血が止まらなかったと記録されています。

ニコライが永井長助の店で手当てを受けて少し休んでいる間に有栖川宮威仁親王が慌ててやってきます。
その時ニコライは「今日、図らずも一人の狂人の為に傷を受けたが、決して貴国を悪く思っていない。こんな傷は京都で養生したら2.3日で治るだろうから、早く東京に行って明治天皇とお会いしたい」と語ったとか・・・
しかし、傷の具合はそんなに軽いものではなく、ましてや大国ロシアの皇太子に警護の者が傷を負わせた事が一大事となるのです。
落ち着いた後にニコライはすぐに滋賀県庁に入り、その後京都の常盤ホテルに入ったのです。

有栖川宮威仁親王は東京にこの事件を電報で報告し明治天皇からの慰問の親電と京都行幸を依頼。
最高権力者の伊藤博文は病気療養の為に箱根にいたが、慌てて東京に戻り翌日午前1時に皇居に入ったのでした。
その頃、海軍は午後4時頃にロシア艦隊の報復に備えて警戒警報が発令されていたのです。
下手をするとそのまま日本海域で戦争が起る可能性も考えられたのです。

大津の有栖川宮威仁親王から報せを受けた明治天皇は伊藤博文の帰還を待って京都へ向かう事を決定。
翌日午前6時38分に新橋駅を出発した明治天皇を乗せた特別列車は10時5分に京都駅に到着。
この日はニコライとの面会は叶いませんでしたが、翌13日の午前中に面会が叶い、ニコライはそのまま神戸港に停泊中のロシア艦隊に戻る事になった事を伝え、明治天皇は神戸まで同行してこれを見送ったのでした。
14日、ニコライを乗せたロシア艦隊が日本を離れる事を決定し、その前に日本最後の昼食に明治天皇が招かれます。
ロシア艦隊に乗ってそのまま連れ去られる事を危惧した官僚達がこの誘いを断る様に進言しましたが明治天皇は毅然とした態度で誘いを受け入れ、そして無事に帰ってきたのです。
その日の午後5時前にロシア艦隊は神戸を出発し帰国の途についている。
この事件はニコライの中に暗い影を落とした様で、この後は公式文書の中で日本人をヒヒ扱いした発言も見られる様になるのでした。

大国ロシアの皇太子が負傷し、天皇の訪問の後に帰国した―というニュースは日本中を駆け巡りそして国民を恐怖の中に突き落としたのです。
特にニコライが帰国した事は問題で、「天皇陛下が謝りに行っても許してもらえなかった」との誤報が信じられたくらいでした。


5月20日、午後7時頃京都府庁前で一人の女性が自殺。
その女性の名は畠山勇子(25)和服姿で裾が乱れないように両足を手拭にて括り、剃刀で胸と喉を深く切ったがすぐには死にきれずに苦しんで亡くなったと記録が残っています。
勇子は府庁の門番所にロシア政府宛に1通・日本政府宛に2通の手紙を残していました。それによると自分の死でロシア皇太子にお詫びをするとの事でした。
勇子の自殺自体がその後の日露関係に影響を与えたとは考え難いですが、勇子自身は日本を救おうとした烈女として全国で賞賛され、小泉八雲などがその墓に訪れているし海外でも紹介されたのでした。


さて、大津事件でニコライを救うために活躍した二人の車夫(向畑治三郎と北賀一太郎)はこの事件の後に過分な恩賞を貰っています。
5月17日に京都府庁に赴いた二人は北垣京都府知事から叙勲の栄誉を受け、終身年金36円(当時の一般家庭の1年分の生活費)を約束されたのでした。
また、ロシアからは小鷲勲章と2500円の恩賞金が下賜され、年金1000円が約束されたのです。
あまりに巨額の恩賞に2人とも青くなって小刻みに震えたと言われています。

反対に滋賀県知事・沖守固、滋賀県庁書記官・横尾平太、滋賀県警警察部長・斎藤秋夫は罷免。
大津警察署長・守山警察署長(津田三蔵は守山署の巡査だった)も免官となったのでした。


そして津田三蔵自身は北賀一太郎がサーベルで斬りつけた為に頭部や背中に怪我を負っていたのです。
滋賀県監獄署に送られた三蔵は傷の手当てを受け、傷の養生の為に一般規定の三倍もする予算を当てて食事が与えられたと言われています。

明治維新以降、不平等条約の改正の為の近代化の動きは監獄の中の人権にも見られる様になっていて、国家を揺るがした三蔵の食事でもその恩恵に預かっていたと言えるのでした。
しかし、この頃から三蔵は自殺を考え始め、取調べの途中でも短刀を要求したり絶食を試みたりします。
特に絶食については監視達を困らせましたが、取調べを行っていた者の一人が、この事件で明治天皇が京都まで行幸してニコライに詫びを入れた事を伝えた為に三蔵は自分のやった事の重大さを認識し、素直に訊問に答え食事も行うようになったのでした。

訊問等で調書が作成されたのは事件の8日後の事で、これは当時としても異例の早さでした。
その結果出された罪状は「謀殺未遂罪」
当時の刑法では無期徒刑以下の刑を科せられる事となるはずでした。

しかし、政府はロシアへの配慮も考えて法を曲げてでも三蔵を死刑にすべしとの考えが主流となり、政府の重鎮(伊藤博文・陸奥宗光・松方正義・黒田清隆など)から大審院長・児島惟謙に伝えられました。
児島惟謙はこれをきっぱりと否定したのでした。大審院長とは、今で言う所の最高裁長官の様な人です。
近代国家の条件に三権分立というモノがありますね、司法(裁判所)・行政(内閣)・立法(国会)はそれぞれに独立し、それぞれに干渉を受けない事が最低限の基礎となっているというやつです。
しかし、まだ封建時代の考え方が抜けない政府要人は、権力で三権分立を無視しようとしたのです。


国家あっての法律か?
法律があるからこその国家か? という問題は日本中を巻き込みます。
児島惟謙は「国家の無事、平和は願うが、それは屈辱に満ちてはなりません。戦争の有無は裁判官が言う事ではなく、裁判官にはただ法律があるのみです。」と語り持論は曲げませんでした。


5月27日、大津地方裁判所で開廷された大審院の下した判決は「無期徒刑」でした。

裁判所の近くで判決を待っていた政府高官・西郷従道の部屋に報告に行った児島惟謙(児島は管轄違いなので裁判には直接関わっていない)は、西郷から「これで戦争になる、法律を守って国家が滅ぶ」と怒鳴られたのです。
この時児島は「戦争になるかならないかは、大臣皆様のご意向次第ですが、なんとしてもロシアとの戦争は避けて頂きたい。もし、ロシアが軍事行動を起こしたなら、その折は私も司法官の一隊を組織し、閣下達の指揮のもとで戦いましょう。その時は、堅苦しい法律は持ち出しません」と言って一礼し西郷の部屋から去ったのでした。
この事件に関わる一連の名言は真の意味での司法界の独立を表した物として歴史に刻み込まれたのです。


裁判結果は公使からロシア本国に伝えられ、6月3日にロシア政府から「貴国の法律がその様なものである以上、やむを得ない事は承知しており、判決に満足するほかはない。もとより加害者の処刑を望んでもいない」との返答があり、戦争どころか賠償金の請求も無かったのでした。
ロシアにも法律があり、日本も欧州を見本にした法律がありました。
日本が法に基いた判決を下したのだから、当たり前の結果が出ただけなのかも知れないですね。


結局、日露の関係は何かのしこりを残し1904年日露戦争勃発。
苦戦しながらも日本が勝利しましたが、ニコライは「一握りの土地も1ルーブルの金も日本に与えてはならぬ」と厳命したと伝わっていて、やはり日本に恨みを残していたのでしょうか?

5月8日、豊臣氏滅亡

2008年05月08日 | 何の日?
慶長20年5月8日、大坂城が落城し豊臣家が滅亡しました。


なぜか続けて大坂夏の陣を書いてしまいましたので、最後に大坂城落城を書いて大坂夏の陣のお話を終わりにします。


連続で続いた敗戦により、いよいよ追い詰められた豊臣方は、最後に大坂城による決戦を行うしかありませんでした。
しかし、大坂冬の陣の講和条件によって丸裸にされていた大坂城は篭城する事もできないお城だったのです。

私たち現代人の感覚では「篭城なんて、勝ち目が無い戦いの最後の抵抗じゃん、やるだけ無駄な気がするけど・・・」と思いがちですが、実は戦国時代は篭城こそ必勝の一手という常識がまかり通っていたのです。

織田信長が登場する前の戦国時代の常識では、いつでも戦が出来た訳ではなく、戦は農閑期しか出来ませんでした。これは多くの兵が半農半兵で戦の時になると領主から借り出された農民だったので、農業が忙しい時に戦をすると収穫が下がって国力すら落ちてしまう結果が待っていたからでした。
そこで戦は短期決戦が望まれていて、時間のかかる城攻めは避けるのが普通だったのです。
徳川家康と武田信玄が戦った三方ヶ原の戦いの後で、浜松城に籠もった徳川家康を武田信玄が攻めなかった理由として、家康が城内の門を開け放ってか居た為に信玄が「空城の計」を案じて兵を引き、家康の機転を褒める逸話がありますが、これは江戸時代に家康の功績を称えた作り話だった可能性も高いと思います。
真相は織田信長との決戦を目指した信玄にとって、浜松城の城攻めに時間をかける余裕が無かっただけなんでしょう。

ちなみに、この時代の城攻めは落城を勝ちとするのではなく、城を囲んだ事により経済封鎖が行われ、守城方の経済的圧迫と民衆に対する信頼の失墜こそが最大の目的だったのでした。
つまり守る方にすれば、篭城は命を繋げる一番堅い策でもあり、これは戦国時代を通しての常識だったのでした。


この事を踏まえると、戦国時代の気質を残した浪人が多かった豊臣方が大坂城に集まって最終決戦に備えたのは、身体や空気が自然に覚えている行動だったのかもしれませんね。


さて5月8日、徳川軍による大坂城総攻撃が行われいよいよ本丸を残すのみとなった時にあまり記録には登場しないのですが講和会議が行われました。
そしてなんと講和が成立しているのです。

細かい条件は分かりませんが、少なくとも家康の孫の千姫が大坂城から出る話(これが一人でなのか、それとも秀頼や淀の方も一緒なのかは謎ですが・・・)はあったと思います。
大坂城落城を現場で経験した女性“菊”が記した『おきく物語』には、合戦が終わって静かになった事が記されているのです。

講和が結ばれてホッとした城内、夕刻になると夕食の準備が行われました。
その時になって段々城内が騒がしくなっていき、やがて大混乱に陥ったのです。
「火事だ!」「本丸が燃えている!!」「徳川に騙された!!!」
そんな叫びが阿鼻叫喚の地獄絵図を生み、大坂城に入っていた徳川家康からの和平の使者である常光院(淀の方の妹)も慌てて城外に逃げ出したのでした。
この騒ぎは、夕食の準備をしていた誰かが失火をしてしまい、それが本丸に燃え広がったのが原因だったのではないかと考える人もいます。
もしかしたら戦が終わって腹が減って、調理の途中についウトウトと・・・
気が付いたら火の海だった。というものかも知れませんね。

つまり、講和が結ばれ平和裏に終わった大坂夏の陣は、豊臣方の油断によって城を火の海に包んでしまったのです。


千姫の元気な姿を見て居ない家康は慌てて千姫救出を命じます。
そして、城が燃えて居る事に慌てたのは豊臣方も同じだった事でしょう・・・

徳川軍では、再び戦が起こったと勘違いした井伊直孝らが功名を求めて秀頼や淀の方の居場所を探し始めました。
そして、秀頼は千姫を城外に逃がして側室・成田の方を共に連れて行ったのです。一般的にドラマや小説などでは秀頼と千姫は想い合っていて、秀頼は愛の深さゆえに千姫と淡い恋を続け、愛しい人の命を救う為に城外に逃がした。とされていますが、真相はもっとドロドロしていたようです。秀頼には成田の方という側室が居て(秀吉の側室だった成田の方とはどういう関係なのかは不明ですが、小説家が色んな材料で楽しむ素材の一つです)、その間には“国松”とう男の子と後に出家する女の子が生まれていました、これに対し千姫との間の子どもは流産してしまったとかしないとか・・・
秀頼にとっては千姫は厄介払いだったのかもしれませんね。

真相は謎のままですが、山里郭に逃れた秀頼と淀の方一行。
その建物を囲んだのが井伊直孝でした。直孝は秀頼に降伏と投降を勧告し、その後に発砲を行い警告を発します。これによって豊臣秀頼は大野治長や毛利勝永・速水守久らと共に自害して果てたのです。23歳でした。
ここに成田の方も従っていたのでした。
淀の方も自害しました。49歳。

この時、山里郭から火が出て遺体を焼いてしまったらしく、秀頼や淀の方の痛いが発見されなかった為に後々まで生存説が残りました。
真田丸の批准地の最有力候補とされている三光神社にはそんな伝説を示す「真田の抜穴跡」が残っています。


しかし、昭和55年になって大坂城京橋口三ノ丸跡の豊臣時代の地層から3つの人骨の頭骸骨と1つの馬の首の骨が発見されました。
豊臣時代の地層をまだ掘って埋められたその首は豊臣秀頼と側近2名そして愛馬の首だったのです。
秀頼が最後まで共に望んだ成田の方の首が無かったのは残念ですが、この頭蓋事は370年を経た大発見となったのです。
様々な研究が行われた後に、昭和58年になって京都の清凉寺で法要を行うと、その頭蓋骨の眼球の無い目の窪みから滂沱の涙が溢れ出たのでした。

ここまで書くと、秀頼は無念の死を迎えたように思えますが、味方の失火による真相を知っていたとしたら、もしかしたらこの涙も一部の学者が夢もなく言うような「法要の熱気で蒸発した水蒸気が、頭蓋骨という冷たい物に集まって露ができただけだろう」という説になっちゃうのかもしれませんね。


ついでに書けば、この失火は徳川方では知れ渡っていたらしく、16年後の秀頼の命日に江戸で天変地異とも言える大きな雹が降ってパニックになった時に「秀頼の祟りではないか?」と慌てふためいた人々の話を手紙で知った細川忠興は、息子に対して「そんな事ある筈が無い、もし秀頼公の祟りなら米粒ほどの大きさだろう」と送った。と藤原京さんが最近書かれた文章に載っていました。


こうして、豊臣秀吉が一代で築き上げた豊臣家は滅亡したのです。
ちなみに大坂の陣後に捕らえられた国松が処刑された事により豊臣家は無くなった。と思われがちですが、秀吉の正室の北政所の実家である木下家が豊臣姓を使っていましたので、明治時代に姓や氏をまとめて一つにするまではこの木下家で豊臣姓が使われていました。
つまり豊臣一族は明治時代に姓が廃止されるまでは残っていたのです。

5月7日、天王寺口の戦い

2008年05月07日 | 何の日?
慶長20年(1615)5月7日、大坂夏の陣最後の激闘である天王寺口の戦いが行われ、真田信繁(幸村)が戦死しました。享年49歳


真田幸村は今でこそ名将として名を残していますが、当時は無名の浪人の一人でしかありませんでした。
と言うのも、父親の昌幸は少数の兵で徳川家康を翻弄した謀将として知られていて、その次男として父の指揮する戦に参加する事はあっても幸村自身が兵を指揮して戦を行うのは大坂冬の陣が初めてだったからです。

関ヶ原の戦いで、昌幸・幸村親子が上田城に籠もって徳川秀忠軍を引き寄せ結果的に秀忠の関が原遅参の原因を作った事でますます真田昌幸の恐ろしさを感じた徳川家康は、関ヶ原の戦後処理の時に昌幸と幸村を処刑するように決定していました。
しかし、昌幸の長男で家康の養女の婿だった真田信幸が井伊直政を通じて家康に父と弟の助命嘆願を行い、家康の目前で直政が(家康に無断で)勝手に二人の助命を許可した為に九度山への流配となったのでした。


貧しいながらも九度山で有り余る時間を過ごした昌幸・幸村という二人の天才軍略家が行ったのは、いずれ起こるであろう大坂城攻防戦のシュミレーションだったのです。
やがて昌幸は亡くなってしまい、豊臣家の求めに応じて幸村が大坂城に入城したのでした。
「真田が大坂城に入る」の報せを聞いた徳川家康は怯えながら「それは父(昌幸)の方か?倅(幸村)の方か?」と家臣に尋ね、「倅」との返答を聞いて胸を撫で下ろしたといわれています。


大坂城でも真田昌幸の入城を期待したのですが、幸村が一軍を率いていた事に落胆の色が濃かったのでした。
こうして期待もされなかった幸村は長年練り続けた策を披露する間もなく大坂冬の陣ではただの守将の一人だった為に真田丸を築城してこれを守り切り、その存在を見せ付けたのです。
この時になってやっと豊臣諸将は幸村を軍師として迎えるに到ったのですが、それまで豊臣軍で采配を振るっていた大野治長は大坂冬の陣で豊臣優勢のままで戦を終了させた功績があり(また冬の陣を語る機会があれば詳しく書きます)、夏の陣でもそれほどに幸村の軍略は必要とされていなかったのです。


ちなみに真田幸村の本名は「信繁」です。
大坂の陣より55年近く前の第四次川中島の戦いに、真田昌幸は武田信玄の側近として参加していました。この戦では軍師・山本勘助の他に多くの武将が討死しますがその中には信玄の弟の武田信繁も含まれていたのです。
昌幸は信繁の人柄に惚れていて「次に生まれてくる子どもにはその名を戴こう」と心に決め、次男に「信繁」を名乗らせたのでした。
ですから公的資料に「真田幸村」という名前は存在しません、この名前は江戸時代に幸村の武勇を語った講釈師たちが「真田家は代々“幸”の字が付いていたから信繁にも“幸”の字の付く名がある筈だ!」と勝手に付けた名だと言われていて今もその説が定説となっています。
だた、一部の作家や歴史愛好家の間では大坂の陣の前に兄の信幸が、徳川家に遠慮して“信之”と改名し“幸”の字を捨てている事から、信繁は敢えてこの字を使って“幸村”を自称したのではないか? とも言われているのです。



前振りが長くなりましたが・・・
慶長20年5月7日。
前日に各地で敗戦を重ね有能な将を失った大坂方が、大坂城を撃って出る戦を行う筈が無い。と油断した徳川家康は鎧の着用を行いませんでした。
15年前の関ヶ原の戦いで戦の後に改めて兜のを被り「勝って兜の緒を締めよ」と戒めた人物とは思えないくらいの堕落ぶりだったのです。
この油断はすぐに全軍に伝わり、徳川軍は一気に弱兵と堕落したのでした。

この油断を感じとった豊臣諸将が徳川軍に戦を仕掛けたのです。
槍の名手・渡辺糺、毛利勝永らが動き、茶臼山で陣を張ってこの様子を見ていた真田幸村も秀頼の側近の速水守久と共に家康本陣がある天王寺口に向かって猛攻を加えたのでした。

徳川軍15万に対し豊臣軍4千

しかし、徳川軍は突き崩され家康の本陣近くに真田軍が猛進していったのです。
幸村は3度に渡って果敢に徳川軍に挑みました。徳川家康の長い戦人生において本陣の馬印が倒れた事が3回あったと伝わっています。1度は三方ヶ原で武田信玄に敗れた時、そして残り2度はこの時だったのです。
関ヶ原の戦いから15年、徳川家臣も代替わりをしていて家康の本陣はほとんど戦経験の無い若い侍で固められていました。そんな若者に老練の域に達した猛将真田幸村は鬼以外の何者にも見えなかった筈です。
命の危機に晒され逃げ惑う若侍がますます混乱に拍車をかけたのです。

そんな時、織田信長の四天王と言われた滝川一益の一族に連なる滝川一積(かずあつ)が七創を負いながらも幸村の猛攻を跳ね返したのです。
ちなみに一積の妻は幸村の妹でした。
運命の皮肉で行われた兄と義弟の戦いだったのです。
この隙に家康は3里(約12キロ)退却し陣を立て直すますが、落ち着いた時に家康に従っていたのは小栗正忠ただ一人でしたが、この小栗も再び幸村が突撃してきた時に家康を守って討死するのです。


勇猛果敢に戦った幸村でしたが、ついに家康を討つ事ができず隙を突いて真田軍の陣のあった茶臼山を占領した徳川秀忠軍に背後を狙われる形になったので敗走するに至りました。


そして茶臼山近くの安居神社の木の袂で休息中に、越前松平家家臣・西尾仁右衛門に発見されその槍で突かれて絶命したのです49歳でした。
幸村が何故この場所に居たのかと言う事には疑問が残ります。また西尾は幸村の兜である鹿の角のみをその根拠としています。
幸村には真田十勇士で有名な根津甚八・穴山小助を始めとする七人の影武者が居たとも言われていて、実際に幾つもの幸村の首が家康の元に届けられています。
この事から、いまだに幸村生存説は根強く残っているのです。


ちなみに、幸村と共に徳川軍と戦った渡辺糺・毛利勝永・速水守久はこの激戦から生還し大坂城へと戻ったのです。


余談ですが、ここで討死した幸村には9人の娘が居たと言われています。
この中で8女と9女の行方はよく分からないのですが、その多くは先の人生が伝わっているのです。
大坂夏の陣後に、幸村の妹婿だった滝川一積が何人かを育てます。
また当時13歳(だったらしい)の阿梅は伊達政宗の家老・片倉小十郎重長が保護しました、そして彼女が16歳になった時に妻として迎えるのです。
この縁で片倉家には幸村の次男・大八が家臣として仕え、片倉姓を与えられて片倉守信と名乗りました。
重長がなぜ13歳の娘を保護したかと言う話には、可愛いから攫ってきたなんて話もあるのですが、ここは幸村と重長に交流があったと言う事にしましょう。


ちなみに、彦根の笹尾町にある少林禅寺には彦根藩士に嫁いできた真田幸村の娘の墓が残っています。
しかし、今分かる限りでの7人の娘の中に彦根藩士に嫁いだ娘の記録はありませんので、8女か9女が彦根藩士に嫁いできたのでしょうか?
これからの研究に期待されますね。

5月6日、若江の戦い

2008年05月06日 | 何の日?
慶長20年(元和元年・1615)5月6日、大坂夏の陣の戦いの一つである若江の戦いが行われました。


大坂夏の陣では大坂城より多方面に軍を進軍させて徳川軍との戦いを行っていた豊臣軍。
その中でも特に激しい遭遇戦が繰り返されたのが5月6日でした。
豊臣方はこの日だけでも後藤又兵衛や薄田兼相(岩見重太郎)といった猛将を失っているのです。

そんな中で河内方面の進軍を任されたのが木村重成でした。
重成は、以前に『宗安寺』のお話の時にも紹介しましたが、前年の大坂冬の陣の時に徳川家康が豊臣秀頼に嘘の講和を持ち掛けて、大坂城のお堀を埋め立てさせる形で終わりを迎えますが、この講和調印に秀頼の代理で家康の陣に赴いたのが木村重成でした。
この時、まだ20代前半(20歳と23歳の2説あります)だった重成は、節度があり、行動も礼儀にのっとったモノで、これを見た井伊直孝を始めとする徳川家の武将達は感嘆したと伝えられています。
また当時の武士の誓約書は脇差で左手の親指の腹に切り込みを入れて、流れた血を右手の親指に付けて押印の代わりとする血判状が主流でしたが、大坂冬の陣の時はすでに高齢となっていた家康の血判の血が薄く鮮明には映りませんでした。これを見た重成は家康をとがめて、再び鮮明な血判を求めた逸話があります、並みいる徳川武将の中での重成の度胸は後々まで語り継がれました。
重成は、この日を境に歴史に名を残す名将となったのでした。

という逸話を残す人物だったのです。


そんな木村軍にすれ違ったのは、先鋒を藤堂高虎、二番手を井伊直孝が進む軍だったのです。
若江堤で藤堂高虎軍とは気付かれないようにすれ違った重成は、二番手の井伊直孝軍に襲い掛かります。
「いざ戦」となれば藤堂軍が先と思い油断していた井伊軍は苦戦を強いられるのです。また後方から戦が始まった藤堂軍には混乱が広がりました。
その混乱した藤堂軍に長曽我部盛親が攻撃して、藤堂軍は一門衆をはじめとする有能な武将が多く討死し一時は壊滅状態まで追い込まれたのでした。
これを何とか盛り返し、長曽我部軍は増田盛次を殿にして兵を引きます、しかし藤堂軍に井伊軍を救う余力は無かったのでした。

一方井伊軍は、苦戦はしていたものの数に勝っていたので段々優勢になっていったのです。
井伊軍の二人の先鋒武将が勇猛果敢に木村軍に挑んでいきましたが、その一方の川手良利は討死、もう一方の庵原助右衛門(朝昌)と木村重成の一騎討ちが展開されたのでした。
やがて重成は水田に沈められてしまいまったのです。
そこに井伊家家臣・安藤長三郎重勝が現れて「自分は今日は手柄がありませんので、この首を譲ってもらえないか?」と願うと助右衛門はこれを許したのです。周囲は驚きますが既に井伊家中で5000石の次席家老の地位にあった助右衛門にとって手柄はどうでも良かった事なのかも知れません。長三郎は感謝しながら重成の首を切って自分の手柄としたのでした。

当時、戦の時に斬った首は大将の所に持っていかれて、首実験と言う首と手柄を確認する作業が行われました。長三郎によって斬られた重成の首も家康の所に持っていかれて首実検が行なわれます、家康や徳川家の武将達が感慨深く首を見ていると、何処からとも無く素晴らしい香りが漂ってきました。
家康がその香りの元を確かめさせると、何と重成の髪の毛から発せられていたのでした。これは、夫の死を覚悟した重成の妻が、重成出陣の直前まで兜にお香を炊き込めて送り出したモノだったのです。
ちなみにこの重成の妻は大坂の陣で豊臣方の実質的な総合指揮官を務めた大野治長の従兄妹で、重成に想いを寄せた末にこの年の正月に婚礼を挙げたばかりだったのでした。

こうして重成は3度目の賞賛を受け、その首は安藤長三郎によって彦根に持ち帰って安藤家の菩提寺・宗安寺の祖先の墓と並べて五輪の塔を建てて祀ったのです。


個人の名誉は評価された豊臣方でしたが、主力武将が討ち死にし城は風前の灯火となっていったのです。

端午の節句

2008年05月05日 | 何の日?
武士の大切な年中儀式の一つである「端午の節句」は五節句(1/7の人日・3/3の上巳・5/5の端午・7/7の七夕・9/9の重陽)の一つで、中国から伝わった陰陽道の考えに沿っていると言われています。

端午の節句の起源は有名な説で2つあります。
まずは、中国の戦国時代というか今から約2300年前のお話。楚の国の国王の側近に、屈原(前340頃~前278頃)という政治家がいました。
詩人でもあった彼はその正義感と国を思う情は強く、人々の信望を集めていました。
しかし、屈原は迫り来る秦の脅威に危機感を感じ国王に諫言したために、陰謀によって失脚、国を追われてしまいます。その時の想いを歌った長編叙事詩「離騒」は中国文学史上、不朽の名作と言われています。
故国の行く末に失望した屈原は、楚の文字を刻んだ石を抱いて汨羅(べきら)という川に身を投げてしまったのです。
楚 の国民達は、小舟で川に行き,太鼓を打ってその音で魚をおどし,さらにちまきを投げて、屈原の死体を魚が食べないようにしました。その日が中国の年中行事になり,へさきに竜の首飾りをつけた竜船が競争する行事が生まれたそうです。
これは今日のドラゴンレースの始 まりとも言われています。
ちまきは屈原の死体を魚が食べないようにするのと同時にお供えの意味もありました。ところが漢の時代に、里の者が川のほとりで屈原の幽霊に出会います。
幽霊曰く、「里の者が毎年供物を捧げてくれるのは有り難いが、残念なことに、私の手許に届く前に蛟龍という悪龍に盗まれてしまう。だから、今度からは蛟龍が苦手にしている楝樹の葉で米を包み、五色の糸で縛ってほしい」と言ったそうです。
これが“ちまき”の起源です。このようなエピソードから、毎年命日である5月5日の屈原供養のために祭が行なわれるようになり、やがて中国全体に広がっていったのでした。


ちなみに古代中国では、5月5日生まれの子は家を傾ける縁起が悪い子とされていました、でも「鶏鳴狗盗」で有名な戦国四君の一人・孟嘗君も5月5日生まれだったそうですからどうなのか分かりませんよね~
ただ、春秋時代の呉の名将・伍子胥が自殺したのも5月5日だったとも言われていますので、とにかく色々ある日なんでしょうね。


そして、その風習は、病気や災厄を除ける大切な宮中行事、端午の節句となったと言われています。三国志の時代に端午の節句は、魏の国により旧暦五月五日に定められ、やがて日本にも伝わって行きました。
それが中国の陰陽道に由来する五節句の一つとなり、平安時代に陰陽道と共に日本に定着します。
この五節句は、当時の貴族の間で、それぞれ季節の節目の身のけがれを祓う大切な行事でとなりました。


もう一つの起源は、奈良時代からと伝えられています。端午というのは、月の初めの午の日という意味の言葉です。それが、午(ご)と五(ご)の音が同じなので、いつのまにか、毎月の五日をさすようになり、更に、五月五日だけをいうようになりました。

そのころの五月五日は、病気や災厄をさけるための行事が行われる重要な祭日でした。宮廷では、この日に、菖蒲を飾り、皇族や臣下の人々に蓬などの薬草をくばったりしました。また、病気や災をもたらす悪鬼を退治する意味で、騎射(馬から弓を射る儀式)などの練武の催しも行われていたのです。

平安時代の末ごろから行われた練武の催し一つに、印字切、印字打という石合戦があり、鎌倉・室町をすぎて、桃山時代ごろまで続きました。その後、平和な世の中がくると、この催しは、菖蒲打、菖蒲切といって、菖蒲でたたきあう子供の遊びに変化して、江戸時代の末まで行われていました。
鎌倉時代の武家政治の世の中になると、朝廷の端午の儀式は廃れましたが、武士の間では尚武(しょうぶ・武芸、軍事を尊ぶ事)の気風が強く、菖蒲と尚武をかけて、尚武の節日として盛んに祝いました。
菖蒲や蓬を、屋根や軒にふき、菖蒲枕をしたり、菖蒲酒を飲んだりしました。甲冑や刀、槍などの武具や旗幟等を飾りました。
江戸時代になると、五月五日は徳川幕府の重要な式日に定められ、大名や旗本が染帷子の式服で江戸城に出仕し、将軍にお祝いをのべました。また、将軍に男の子が生まれると、表御殿の玄関前に馬印や幟を立てて祝いました。

端午の節句が男の子の誕生の祝いに結びついたのは、このころからです。また、武士の間だけでなく、一般に人々にもこの行事がとりいれられていったのです。


はじめのころは、玄関前に幟や吹流しを立てて祝いましたが、やがて、厚紙で作った兜や人形、紙や布にかいた武者絵なども飾るようになりました。江戸の中ごろには、武士の幟に対抗して、町人の間で鯉幟が盛大に飾られるようになりました。
明治時代になると、新政府の方針で節句行事が廃止され、端午の節句も一時廃れかけました。しかし、男の子の誕生を祝う行事として人々の生活の中に浸透している行事は、簡単になくなるものでもなく、すぐに復活して、今も盛大に各地で祝われています。


(柏餅の由来)
柏の葉は、新芽が出ないと古い葉が落ちないという特徴があるので、これを「子供が産まれるまで親は死なない」=「家系が途絶えない」という縁起に結びつけ「柏の葉」=「子孫繁栄」との意味を持ちます。また、柏餅を作る手の形が拍手を打つ形にも似ているので、縁起が良いとされます。
柏餅というお菓子が日本の歴史に登場したのは、徳川九代将軍の家重~十代将軍の家治の頃だと言われています。その理由は俳句の季語を記した書物1641年発刊の「拝諧初学抄」には五月の季語として「柏餅」が記載されていないのに対し、1661~1673年頃に成立した「酒餅論」には柏餅が紹介されていることを理由にしています。


(五月人形の由来)
古来長く続いた武家社会の中で、「身を守る」武具はとても大切なものでした。当時から敵から身を守ると共に、「邪気、災難から家を守る」として、着用しないときは家の一番大切な場所に保管したようです。大将ともなれば、戦の長として、家の繁栄を誇示するため、華麗な装飾を施しました。それが国宝として現代迄伝承されています。これらを模写し、大鎧・兜として端午の節句に飾るようになりました。『家を守る』男児に、「健やかに、強く、たくましくあれ」との願いを感じとることができます。 


(鯉のぼりの由来)
端午の節句を祝う鯉のぼりは、本来武家出陣の際に用いる幟を起源とします。元寇の勝ち戦が5月5日、足利尊氏の天下統一の日が5月5日だったので、武家社会で幟を立てるようになったいう説もあります。初期の頃にはそれぞれの定紋の入った幟を馬印、長刀とともに戸外に立てたのが始まりとされています。これが”外ノボリ”で、現在では家の中で立てる”内ノボリ””座敷ノボリ”として残っています。
幟そのものの図柄は、定紋から金時、神功皇后、竹内宿裲など武者絵へと変わっていき、江戸初期頃に鯉柄が登場して現在に至ります。そして、中国の「鯉が黄河を上っていき、その水脈(登竜門)に達したとき、龍になる」という故事から、”鯉の滝のぼり”は立身出世の例えとされるようになり、幟の柄も鯉が主流をしめるようになりました。
ちなみに、鯉が登ると龍になりますが、力尽きて落ちるとなんと鮒になるそうです。
鮒は煮ると骨が無くなる事から「骨の無い奴」の象徴となっています。『忠臣蔵』の松之廊下事件で吉良上野介が浅野内匠頭に対し「鮒侍」と言いますが、この鮒にはそう言う意味があったんです。


余談ですが、石田三成の参謀だった島左近の誕生日が5月5日だったという説があります。
たぶんこれは、江戸期辺りに「この日に生まれた子どもが家を傾ける」という言い伝えを利用して逆説的に作られた悪意のある説なのでは無いかと思っています。