彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

400年祭終了

2007年11月26日 | イベント
2007年11月25日、秋晴れの心地良い天気の中で、400年祭のクロージングイベントが数多く執り行われました。


まずは、「ありがとう彦根城 つなごう未来へ」
と題した、彦根城に大きな金メダルを掲げようとするイベント。
お城の周囲およそ2キロに2000名のかたの協力を得て、手を繋ぎながら彦根城に金メダルをかけて労をねぎらったのです。

ウェーブが途中で切れてしまったのが残念でしたが、確かに金メダルは掲げられました。
この受付では“しまさこにゃん”のみならず“いしだみつにゃん”“やちにゃん”が初披露されましたよ。

そして川本勇さんによる彦根のイイうたの演奏。
途中でお経っぽい内容が入るのは斬新でした(笑)


クロージングイベントでは『ひこねを盛り上げ隊』の出し物やひこにゃんのオンステージがあり、ひこにゃんが『猩々』を舞った事には驚きましたね。


そして最後の夢一会
ここでは3万本のロウソクが参加者によって灯されました。
倒さないように注意しても、一緒の油断で倒れてしまう物ですから、とても気を使う作業ですがその分だけ完成した時の喜びも大きかったです。


何がともあれ、764484名の入城者を迎えて『国宝・彦根城築城400年祭』は終了しました。
来年は『日米修好通商条約締結150周年事業』が控えていますので、この先もますます彦根で楽しみたいですね。



(余談)
このブログはまだ続きますので楽しんでくださいね。

のろし駅伝

2007年11月23日 | イベント
毎年11月23日は、近江国内の中世城郭をのろしで繋いでいく琵琶湖一周のろし駅伝が開催されます。

2007年ですでに6回目になります。

今年は午前10時に小谷城をスタートして上平寺城や長浜城・鎌刃城佐和山城・観音寺城・瓶割山城を経由して甲賀地方に向かうルートと瓶割山城から水茎岡山城を経由して湖西を北上し小谷城まで戻るルートなど複数のルートが作られた上に、小谷城から福井県の一乗谷や国吉城まで繋がる県越ルートまでがありました。

戦国時代ののろしの便利さと、遠くまでの情報伝達の早さを改めて知る事ができるイベントになっています。
また、のろしは案外はっきり見える(写真は彦根城着見台より佐和山を見た様子)と言う事も知る事ができますよ。

11月19日、井伊直澄大老就任

2007年11月19日 | 何の日?
寛文8(1668)年11月19日、彦根藩三代藩主・井伊直澄が大老に就任しました。

井伊家では、直澄の父で二代藩主だった井伊直孝が“元老”という地位に就いていて、これが後の大老に比例する身分であった事から直孝を大老の最初とする考え方もありますが、しっかり大老と言う職を就任したのは直澄の就任からになります。


大老職と言えば一度に一人しか就任できないかのような書かれ方をしていますが、この時には直澄以外にも酒井忠清が大老に就任していたのです。
つまりこの時点ではニ人の大老が居た事になります。

酒井忠清と言えば、後に下馬将軍とも言われる位に権力を欲しいままにした人物ですので、もしかしたら直澄はこの忠清の抑え役だったのかもしれませんね。
(実際、直澄没後に独裁政治が目立った忠清が失脚したのち、取り潰しになった酒井家の忠清の弟は彦根藩に流罪となって山崎曲輪で預かられています)


何がともあれ、この時から井伊家は大老の家となる訳ですが、徳川四天王の中で何故井伊家だけが大老の家となったのでしょうか?

実は、これは偶然にも井伊家に身分の低い当主が続いたからだったのです。
徳川四天王の家は、その家の当主である事が既に名誉な事で「もし政治に関わって失脚すれば家名に傷が付き、江戸開幕の元勲としての名誉が無くなり、終には幕府の沽券にも関わる」という事で直接幕閣に参入する事が無かったのです。

しかし、そんな中でも一部の当主は老中に就任した人物も居ました。
そんな人々は側室の子や養子だったのです。

つまり、当主の身分が低かった為に政治に失敗しても言い訳が立ったのでした。
そんな意味で井伊家を見てみると、直孝は側室の子で、直澄は本来藩主でなるべき人物ではなく四代藩主・直興に引き継ぐ為の繋ぎと考えられていたのでした。
この偶然が、井伊家に大老職を与え、それが前例となって大老筆頭は井伊家になったのです。
もし、この時に正当な後継者たちが藩主として育っていたら、大老の家・井伊家は無かったのかも知れないのですよ。

「彦根藩主井伊家墓所」国の史跡指定

2007年11月16日 | 史跡
彦根藩の江戸での菩提寺・豪徳寺


文化庁文化審議会が平成19年11月16日付で、「彦根藩主井伊家墓所」が国の史跡に指定されました。

彦根藩井伊家墓所は
地元の彦根市は清涼寺に藩主の墓が7基、正室や側室の墓が15基、子どもたちの墓が38基あります。
江戸の墓所は世田谷の豪徳寺で、ここには江戸で亡くなった直孝・直弼を始めとする藩主の他に、正室・側室は当然ながら藩士の墓までが並んでいるのです。
そして、4代藩主・井伊直興は東近江市の永源寺に墓が建てられ側室たちと眠っています。

今回この3ヶ所が国指定史跡となったのですが、その理由として「彦根藩主全ての墓石が遺存し、その一族の墓石が網羅されている事」それが国許と江戸に分かれていて幕藩体制時代の大名文化を考える上で欠く事のできない貴重な資産になっているそうなのです。


400年祭も10日を切ったこの時に新たに井伊家が注目される事は嬉しいですが、井伊家の墓所は面白いほどに均等さがありません。
これを調べていくのも楽しいかも知れませんね。

ひこにゃんの特別住民票

2007年11月14日 | イベント
平成19年11月9日午後1時30分、ひこにゃんが彦根市の特別市民として迎えられ市役所で住民登録が行われました。


そのひこにゃんの住民票を彦根市役所で手に入れることができます。
この記事を書いている11月14日の時点では無料で配布されています。


ひこにゃんは世帯主で、住所は「彦根市金亀町1番1号」これは彦根城天守の住所です。


生年月日は「平成18年4月13日」これは、築城400年祭のキャラクターとして愛称が「ひこにゃん」と決定した日なんだそうです。(400年祭の公式サイトより)
個人的な意見ですが、管理人の姪っ子と同じ誕生日(姪のほうが1歳年上ですが・・・)。

ちなみに個性心理学を見ると、優しいお坊ちゃんタイプの「協調性のないひつじ」
・仲間外れは大嫌い
・誘われるとどこへでも顔を出す情報通
なんだとか・・・

同じ誕生日の人は、
・宮尾登美子さん
・藤田まことさん
・上沼恵美子さん
・西城秀樹さん
・萬田久子さん
などなど・・・
個性的な人が多いですね~
『必殺!ひこにゃん』とか面白そう(笑)


生まれたその日に世帯主として彦根城天守に住むようになったひこにゃん。
個性心理学的には、「世のため、人のため」が口癖で、寂しがり屋で独りぼっちが嫌いなひこにゃん!
新しい家族が増える可能性は少ないでしょうが、たくさんの仲間を増やしてこれからも頑張れ!!

辻番所内部初公開

2007年11月11日 | 史跡
善利組足軽屋敷の象徴的な建物となってる辻番所が売りに出されているという事で、取り壊される危機感を危ぶんだ彦根景観フォーラムの主催で、善利組足軽屋敷の辻番所の内部が初公開されました。


善利組足軽屋敷は、彦根城の第二期工事が行われた頃に、戦の時に城下に入る敵を食い止める目的で外濠と芹川の間に足軽組を配置し、その足軽組の一つだった善利組の人々が住んでいた場所でした。
他にも幾つかの足軽組はあったのですが、善利組が一番大きな組織だったようです。


辻番所は敷地の大きさが70坪、辻の角に建っていてそこから見張りに使う「見張り窓」が付いている事が特徴です。
ここはあえて道を狭くそして迷路のようにしていて“どんつき”や“くいちがい”といった方法で守られています。

この屋敷に住んでいるのは足軽たちだったそうですよ。
彦根の宅地開発の波を受けて数を減らしつつある足軽屋敷ですから、これを機会にぜひ守って行って欲しいですね。

井伊家上屋敷と櫻の井

2007年11月04日 | 史跡
国宝彦根城築城400年祭と東京金亀会設立90年を記念して、10月13日に東京永田町の井伊家上屋敷跡地にある同屋敷で使われていた井戸“櫻の井”の修復除幕式が行われました。


井伊家上屋敷は現在の国会議事堂のすぐ前、憲政記念館辺りにあり、皇居(江戸城)の濠沿いに進むと13代藩主・井伊直弼が暗殺された桜田門がすぐにあります。


この井伊家上屋敷は、元々加藤清正の屋敷だったところで櫻の井も加藤清正が掘った物でした。
江戸城が築城された頃、江戸の町は湿地帯が多く点在していた丘や小山を削って湿地帯を埋め立てて平地としたのですが、この湿地は江戸湾に繋がっていた為に埋立地で井戸を掘っても塩水しか湧き出ず、清水が出る様にするためには深い井戸を掘らなければならず、加藤清正のような築城の名手であればこそ掘る事ができた井戸だったと想像されます。

こういった江戸の特徴から、水は遠くから引く水道が発達し“玉川上水”のような水道が出来上がりますし、水に塩分が含まれているために料理の味付けはそれを消すくらいに濃いものになるのです。
海沿いの料理の味付けが濃いのは決して偶然ではなく水の加減もあるんですよ。


そんななか、この櫻の井は清水を飲ませる事で有名で、井伊家上屋敷の表門西側にあったことから、この付近を通る通行人の喉を潤す井戸として愛用されました。
こうした通行人の為に三連の釣瓶が用意されていて、「類なき名水」として『江戸名水』の一つに挙げられ『江戸名所図会』にも描かれているのです。


残念な事に、今は井戸が元の場所から10mほど移転され下を道が通り水は枯れていますが、大井戸の外観はそのまま残っていますので東京見物の時にはぜひ訊ねて欲しい場所の一つです。