前回は、宇曽川を挟み北に浅井賢政率いる1万弱、南に六角義賢率いる2万5千(それぞれ兵力は諸説有)が布陣したところまで書いた。この先を伝えるものは軍記ばかりであり一級資料ではないためこの先は物語として読んでいただきたいが、その軍記でも『浅井三代記』と『江濃記』では同じ戦いを扱ったと思えないほどに内容が変わる。このためそれぞれの内容を踏まえながら紹介したいと思う。
まず、共通(であろう)両軍の参戦武将を記す。
六角軍
先陣、蒲生定秀・永原重興・進藤賢盛・池田景雄・平井定武・和田和泉守
二陣、楢崎壱岐守・田中冶部大夫・木戸小太郎・和田玄蕃・吉田重政
後陣(本陣)、六角義賢・後藤賢豊
蒲生定秀は蒲生氏郷の祖父であり日野の近江商人を従えて資金力もある。平井定武は浅井賢政が追い返した正室の父。進藤賢盛と後藤賢豊は「六角の両藤」と称される六角氏の名宿老で文武に秀でていた。
浅井軍
先陣、百々内蔵助・磯野員昌・丁野若狭守
後陣(本陣)、浅井長政・赤尾清綱・上坂正信・今村掃部助・安養寺氏秀・弓削家澄・本郷某
磯野員昌は後に佐和山城で織田信長と戦う猛将。赤尾清綱は賢政の傅役を務めている。
両軍の戦いはどちらかが宇曽川を渡らなければ始まらない。私たちの考えでは戦うために出陣しているのであれば必ずどちらかがしびれを切らすと思ってしまうが、武将たちは現代人が思う以上に戦いを好んではいないため対峙するだけでお互いが兵を引くこともある。この場合六角軍は宇曽川までの勢力を確定させたことになり、浅井軍は六角軍の侵攻を足止めしたことになるため両軍にとって大きな損害がない決着となる。だが翌年にはまた六角軍が北進するかもしれず宇曽川南岸に位置する肥田城を守れなかったという傷を賢政が負うことになる。こう考えると義賢は引き分けでも良い戦であり、賢政にとっては負けられない戦だった。
『浅井三代記』によると、浅井軍が到着前に肥田城が六角軍に降伏。翌日賢政は宇曽川より二里北に陣取って、六角軍も川を挟んで対峙する。正午を過ぎた頃に六角軍の和田和泉守が正面の磯野員昌の陣に攻めるべく川に一文字に討ち入る。員昌は「川を越えて来た軍を迎え討つ方が有利」と思い、待ち構え北岸に上がってきた和田軍に攻めかかる。これの状況を見ていた義賢は、進藤・平井・後藤らに渡川を命じた。対する賢政も本陣の旗本を突撃させ半時ほど激戦が続いたのちに、員昌らが横槍を突いて六角軍が崩れ南岸に逃げたため賢政は勢いに乗って自ら川を越えて肥田城を奪還した。と記されていて、六角軍が宇曽川を渡ったと残しているのだ。
次回は『江濃記』の野良田の戦いを紹介し比較したいと思う。
宇曽川南岸より撮影。奥の山が荒神山