平安時代前期の群発地震が落ち着いてから一世紀弱、日本では災害史に特筆すべき出来事は発生しなかった。一方で政治の世界では藤原北家が確実に地位を高めつつある摂関政治の創成期とも重なっている。
政治史において円融天皇の許で藤原兼道と兼家(藤原道長の父)が兄弟で激しい権力争いを行っていた天延4年6月18日(976年7月17日)申刻(午後4時頃)、京都が激しく揺れた。
京都の被害として『日本紀略』には、雷のような轟音が大地に響き八省院(大内裏の政庁)・豊楽院(内裏饗宴施設)・東寺・西寺・極楽寺・清水寺・円覚寺が顛倒と記録されている。6月18日が観音様の縁日であったため十一面観音像を安置している清水寺では多くの参詣者が訪れていたため倒壊した本堂に巻き込まれた僧侶や民衆の50余名が圧死した。また『扶桑略記』には大津市辺りの被害も記録されていて近江国庁の建物30余棟倒壊、近江国分寺大門が崩れ二王像破損、崇福寺の法華堂・時守堂が谷底に落ち鐘堂なども被害に遭った。当時は大伽藍として知られていた関寺(現・長安寺)の大仏も破損し腰上が全てなくなったと記している。『日本紀略』『扶桑略記』ともに今稿で紹介している地震から二世紀のちに他の史料を抜粋して編纂された書物であるため信ぴょう性を疑問視される部分もあり地震被害についても過大解釈されているとの説もあるが、近江国庁などの発掘調査で地震被害の痕跡を確認できるため規模の大きい内陸地震が京都や大津を襲ったことは間違いなく現在の滋賀県と京都府の県境を震源とする大規模な地震であったと考えられている。また近江地震史にとっては初めて被害状況が記された地震となるのだ。地震の発生の翌日14回の余震が記録され7月23日まで揺れていて、円融天皇は7月22日に元号を「貞元」に改元。余談ではあるが地震の2年後に藤原兼家の次女詮子が円融天皇に入内している。
この地震で倒壊した関寺はこののち源信(恵心僧都・横川僧都『往生要集』著者)の弟子・延鏡が仏師康尚らの協力を得て約50年後に再興される。再興事業の際、清水寺から役牛が寄進されたのだがいつの頃からか一頭の牛が迦葉仏(釈迦仏の直前に出現した過去七仏の六番目の仏)の化現であるとの夢告が噂となり、人々は牛との結縁を求めて作業現場を訪れるようになる、この中には藤原道長・倫子夫妻も含まれている。長徳2年(996)紫式部は父・藤原為時の越前守任官に伴って越前国(福井県東部)に下向する。越前への往復については次稿で触れるが、この時期と関寺再興事業が重なっている。為時一行は都を出て逢坂の関を越え打出浜から船に乗り琵琶湖を渡ったと伝えらえていて、文化人である為時や紫式部が関寺を訪れ霊牛と縁を結んだ可能性があるのかもしれない。
関寺の霊牛塔(大津市逢坂二丁目 長安寺)
政治史において円融天皇の許で藤原兼道と兼家(藤原道長の父)が兄弟で激しい権力争いを行っていた天延4年6月18日(976年7月17日)申刻(午後4時頃)、京都が激しく揺れた。
京都の被害として『日本紀略』には、雷のような轟音が大地に響き八省院(大内裏の政庁)・豊楽院(内裏饗宴施設)・東寺・西寺・極楽寺・清水寺・円覚寺が顛倒と記録されている。6月18日が観音様の縁日であったため十一面観音像を安置している清水寺では多くの参詣者が訪れていたため倒壊した本堂に巻き込まれた僧侶や民衆の50余名が圧死した。また『扶桑略記』には大津市辺りの被害も記録されていて近江国庁の建物30余棟倒壊、近江国分寺大門が崩れ二王像破損、崇福寺の法華堂・時守堂が谷底に落ち鐘堂なども被害に遭った。当時は大伽藍として知られていた関寺(現・長安寺)の大仏も破損し腰上が全てなくなったと記している。『日本紀略』『扶桑略記』ともに今稿で紹介している地震から二世紀のちに他の史料を抜粋して編纂された書物であるため信ぴょう性を疑問視される部分もあり地震被害についても過大解釈されているとの説もあるが、近江国庁などの発掘調査で地震被害の痕跡を確認できるため規模の大きい内陸地震が京都や大津を襲ったことは間違いなく現在の滋賀県と京都府の県境を震源とする大規模な地震であったと考えられている。また近江地震史にとっては初めて被害状況が記された地震となるのだ。地震の発生の翌日14回の余震が記録され7月23日まで揺れていて、円融天皇は7月22日に元号を「貞元」に改元。余談ではあるが地震の2年後に藤原兼家の次女詮子が円融天皇に入内している。
この地震で倒壊した関寺はこののち源信(恵心僧都・横川僧都『往生要集』著者)の弟子・延鏡が仏師康尚らの協力を得て約50年後に再興される。再興事業の際、清水寺から役牛が寄進されたのだがいつの頃からか一頭の牛が迦葉仏(釈迦仏の直前に出現した過去七仏の六番目の仏)の化現であるとの夢告が噂となり、人々は牛との結縁を求めて作業現場を訪れるようになる、この中には藤原道長・倫子夫妻も含まれている。長徳2年(996)紫式部は父・藤原為時の越前守任官に伴って越前国(福井県東部)に下向する。越前への往復については次稿で触れるが、この時期と関寺再興事業が重なっている。為時一行は都を出て逢坂の関を越え打出浜から船に乗り琵琶湖を渡ったと伝えらえていて、文化人である為時や紫式部が関寺を訪れ霊牛と縁を結んだ可能性があるのかもしれない。
関寺の霊牛塔(大津市逢坂二丁目 長安寺)