彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

沙沙貴神社の願かけ石

2018年11月25日 | 史跡
もう何年も前の話。

安土の沙沙貴神社に参拝に行き、本殿に向かって左にある少名彦社に願かけ石という物がありました。
周りからもせっつかれ、婚活などというものをやるような宣言もしていたこともあり、出逢いの願かけをして石を持ち帰りました。

この願かけ石は満願成就の時に返しにこないといけないため、わかる所に置いていたはずですが意識の片隅にありながらも返すチャンスもなくそのままになって、何年も過ぎました。

昨日、偶然沙沙貴神社が話題になり、その後の出来事からこのまま持っていて願いがまだあると神様に誤解されたら困るので、返しに行きました。


本殿にお参りし、少名彦社の奥の大きな石の前に持っていた石をお返ししました。


「ここからは、自分の努力次第」
そんな想いも新たに湧く、自分だけの神事となりました。

沙沙貴神社さん、少名彦社さん、長い間大切な石をお借りしてありがとうございます。

湖北の井伊家関連寺社を巡る

2018年11月25日 | 史跡
秋の一日、長浜市や米原市の井伊家に関わる寺社を少し巡ってみました。

まずは、福田寺
ここは幕末に井伊直弼の従兄弟が住職を務めていたらお寺なのですが、その奥様は明治天皇の皇后の従姉妹と言う関係でした。
明治11年10月10日、彦根城は取り壊しが決まっていて足場も組まれていましたが、明治天皇が北陸行幸の途中で福田寺に泊まり、福田寺の奥様より彦根城存続を頼まれます、13日に彦根城を観た明治天皇は14日に大隈重信を通じて彦根城存続を命じたのです。
いわば、彦根城を救ったお寺です。


そして、小谷城から移されたという浅井御殿もあります。


続いて木ノ本の赤後寺(ここの写真は以前の物)


転利観音さんで有名なところですが、木俣家の信仰が厚く、木俣土佐の母のために浜松から移築された厨子があり、その中に観音様がいらっしゃいます。

この厨子を参考にして日光東照宮の陽明門が造られたとの伝説もあるらしいですが、真相は不明。
ここには婚活の御神籤(と世話人さんはおっしゃっておられました)があり、引くと「吉」でした。

そして、安楽寺。
僕は、龍に会える寺として好きな場所のひとつで、観応の擾乱で北陸に出陣していた足利尊氏の伝承もある場所です。
夢窓疎石が琵琶湖を表して作庭した庭や、博物館クラスの寺宝が見学でき、帰りに親子の龍に出会えます。





そして、松尾寺。
醒ヶ井養鱒場のお隣で、ご住職自慢の鱒料理が堪能できます。


石田家にも井伊家にも保護を受け、役行者の所縁から飛行観音を本尊とされています。
ご住職の話も面白いです。

最後に、直孝神社。
番場宿にある神社で井伊直孝公をお祀りしています。
なぜ直孝公なのか調べきれていませんが、昭和42年に直孝神社と呼ぶようになったようです。




ピンポイントの寺社巡りでしたが、井伊家は湖北に影響を与えていることがよくわかるところばかりでした。

のろし駅伝 佐和山城

2018年11月23日 | イベント
毎年恒例の「琵琶湖一周のろし駅伝」は17回目となりました。

朝から雨に降られ、開催されるのかも疑問のまま佐和山城跡に向かいましたが、到着後は小康状態となり登城しました。

紅葉も綺麗でした。



彦根城を望むのも、その向こうの琵琶湖も綺麗。


雲とのろしの判別もなかなか難しい中でしたが、舞兵庫さまの「三成公を大河に!」の掛け声を合図にのろしが上がりました。




雨のため、登城された方は少なめでしたが、無事にのろしが伝達されました。

ひこにゃんWITH

2018年11月18日 | その他
夢京橋あかり館に寄ったら、『ひこにゃんWITH』のアプリについて教えてもらいました。
240円の有料ですが、どこでもひこにゃんと写真が撮れちゃうアプリです。

まずはインストール

最初は一つのポーズしか選べませんか、彦根市内のポイントで新たなポーズも増やせ、増やしたポーズはどこでも使用可能です。
で、ポイントに行ってポーズ入手。

色々撮影してみました。






あかり館2階のMITUNARI11の奥には関ケ原合戦屏風とひこにゃんが撮れる場所もあります。
井伊の赤備えと士気を上げたり。

石田陣を見つけ万歳したり。

大谷吉継の最後をじっと見たり。

楽しみ方は人それぞれですね。

井伊直興公のお墓参り

2018年11月05日 | 井伊家関連
井伊直滋さんの甲冑を永源寺に観に行きましたが、永源寺は直滋の甥で彦根藩四代藩主井伊直興公の墓所でもあります。

ですので、東近江市にある直興の二か所の墓所を参りました。
直興は、永源寺86世住持南嶺慧詢(なんれいえじゅん)に帰依していて生前から寿塔として永源寺に直興の墓が作られていました。
その南嶺慧詢が建立したのが永源寺から愛知川を下った場所にある松雲寺で、ここにも直興の墓が建立されたのです。

と、いう訳で松雲寺のお墓から

八人の側室も一緒にお墓があらります。

続いて永源寺。
中には入れないので少し離れたところからお参り。


八人の側室も同じようにお墓があります。

不思議なのは、八人のうち松源院だけは別に石塔が建っています(つまり同じ敷地に二基の墓があるのです)

永源寺は紅葉の季節にも入っていて、綺麗な景色の中で直興公たちが眠っていることを実感しました。




御朱印も受けてきました。


関連地:東近江市 永源寺

井伊直滋さんの甲冑とお墓参り

2018年11月04日 | 井伊家関連
先月末に突然飛び込んできたニュース。
「永源寺で井伊直滋の甲冑見つかる」

それだけなら、実は「ふーん」程度のニュースなのです(永源寺でも直滋の供養を行なっている)。問題はその甲冑の形でした。
金の脇天衝です。
これは彦根藩主のみに許された形でした。直滋さんは井伊直孝公の嫡男に生まれ、長く世子をしていて正室も彦根城を築城した井伊直勝公(直継、直孝の兄)の娘でしたから、正式に彦根藩主を約束された人物でした。
剣が強く、文化人でもあったのですが徳川家光に気に入られすぎて直孝が危機感を感じて藩主の座を譲らないまま直滋は百済寺で出家したのです。

つまり、藩主に極めて近い人物でありながら藩主にならなかった人物なのに藩主仕様の甲冑を作っていたことになります。
これは、彦根藩の定説が覆る発見です。

そんな直滋さんの甲冑が永源寺で公開されていました。
写真許可を声掛けしていただいて撮影。
脇天衝は立派で藩主仕様と遜色ありません。

兜も赤備えのそのままです。

位牌に手を合わせ…

この甲冑が元禄年間に江戸藩邸から見つかった経緯を書いた犬塚家の手紙も見れます。

直孝公が元老として江戸詰めであったため、彦根に居ることがあった直滋さんなのですが、甲冑は江戸にあり、わざわざ永源寺に運んでいるのも不思議です。
直滋さんが何歳くらいの頃に作られたのか?
同じく藩主になれなかった十代藩主直幸公の世子直富さんの脇天衝甲冑も存在するのか?
ますます興味湧きます。

その後、百済寺の直滋さんのお墓に参りました。
いつもながら、空気がピンッと張り詰めながらも決して冷たい感じはしない聖地です。

そのまま、百済寺を見学。

素晴らしい庭園


ここは遠望がきれい。

そして、信長以前の石垣も観れます。

この時期限定の湖東三山の御朱印もありました。


関連地:東近江市 永源寺 百済寺

井伊直政公顕彰式

2018年11月03日 | イベント
毎年11月3日は、ひこねお城まつりが行われますが、その前には井伊直政公顕彰式があります。

今年も彦根駅前の直政公の像の前で行われましたが、例年なら像をバックにステージが組まれるのを像に向かい合うように作られるように変更になりました。

ひと通りのご案内と鉄砲演舞があり

最後にみなさんにクッキーが配られたのですが、この表面には彦根城と直政公の像がデザインされていました。
噛み砕くことはできない…

さいわいにデザインの部分は剥がせたのでまずはクッキーを食べ、剥がしたデザインを噛まずにゴクンと喉に通して彦根城と直政公をそのまま体内に吸収しちゃいました。

関連地:彦根駅前