彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

彦根城総構え400年(10)

2022年09月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
江戸時代中期以降、一番先進的であったのは医者ではないだろか? 徳川吉宗が医学書に限って洋書が日本に入ることを認めたために蘭学と呼ばれる分野が日本中に広がるようになった。この影響で西洋の医学書を読もうとする意欲も高まり、杉田玄白(小浜藩医)や前野良沢(中津藩医)らによって『解体新書』が刊行されるなど、医者が蘭学者であることは歴史の必然であり、幕末の日本を動かした人物にも医者は多く存在したのだ。彦根藩でも藩論が勤王へと変わる大きなきっかけを作った下級藩士による至誠組の存在が欠かせないが、至誠組を率いた谷鉄臣の生家・渋谷家も町医者であったことを私は重視している。

 ただし医者がすべて蘭学者であったわけではなく漢方など日本古来の医療に精通している者も多くいる。彦根藩でも諸説あるもののだいたい30家近くが藩医として召し抱えられていたとされていて彦根藩では医療技術の高い人物を登用すると共に藩校稽古館(弘道館)に医学寮を設置して藩医養成にも力を入れていたとされている。

 彦根藩医として召し抱えられた人物として特に名が知られているのは、河村文庫を残した河村純碩と養子・純達である。純碩は近江国内で複数の医者に学び町医者として開業。評判が良かったようで彦根藩内で藩主一族など要人が病に倒れ藩医のみでは判断が決まらないときなどに藩からの要請で診断に加わっていた。弘化元年(1844)彦根藩に二人扶持で召し抱えられることとなり翌年には「御医師並」となり苗字帯刀を許されたことを皮切りに次々と出世、「一代切奥御医師」(純達が正式に奥御医師に就く)となり五十石の知行地を得ている。町医者でも彦根藩士として重要な役職に就き知行を得ることができるという一例を示しているのだ。なお純碩は井伊直亮(十二代藩主)の死病を診て記録を残していて彦根藩主の最後を知る重要な記録となっている。また純達の代には弘道館医学会頭御用懸となり河村家は藩医育成にも影響を示したことが伺える。

 河村純碩の例を見るように、場合によっては立身出世もあり得る医者だが、藩領内の百姓が医者になるときに現在では考えられないような理由が存在していた。『新修彦根市史』第二巻には、『文政十二年に高宮の医師周蔵が作成した弟子証文では、弟子の勘平が「病身者」で「御百姓業」を務め難いので医業を行うとのべられている』と紹介されている。つまり藩の貴重な生産者である百姓から医者に職替えをするために、医者でありながら病身者であるという理由が書かれるという矛盾した理由付けが行われたのだ。日本における形式主義の可笑しさを極端に示した例ではないだろうか?

 そんな冗談のような話もあるが、患者自身が自ら医者を選んで通っており、現代と変わらない姿がうかがえる。


谷鉄臣屋敷跡碑(彦根市京町三丁目)
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