2009年10月18日は、彦根市内ではさまざまなイベントが行われていました。
そんな中で鳥居本の『とりいもと宿場まつり』を見学しました。
写真は現地で限定販売された三成汁です。
このイベントだけで終わるのはもったいないので、佐和山や石田三成のイベントの時にはまた味わってみたいです。
ここでは午前中に、先日『三成伝説』という本を出版されたオンライン三成会の会員で佐和山城郭研究会代表の田附清子さんの講演がありました。
ちなみに、田附さんの講演の後には江戸時代に『佐和山落城記』を書いた山田喜庵の子孫である山田喜雄さんのお話も聞け、後ほど個別でお話もいただきましたので、その様子も後ほどお知らせいたします。
~~ここから講演内容をアップします~~
『佐和山城と石田三成の城下町』
佐和山城研究会代表:田附清子さん
佐和山城の簡単な歴史からお話しさせていただきます。彦根城は2007年に築城400年祭が開かれましたが、佐和山城の歴史は鎌倉時代まで遡る事ができますので、彦根城の400年と比べますと800年近くという2倍の歴史を持っていると言えます。
近江国は近江源氏の流れを引く佐々木氏が治めていました、佐々木氏十代目の定綱の六男・六郎時綱が佐和山に屋敷を構えた事が佐和山城の始まりだと『淡海温故録』や『近江小間攫』という資料に記載されています。
この時に、時綱は“佐保六郎”と佐保氏を名乗っています。佐和山は元々“佐保山”と呼ばれていたのですが、いつしか訛っていって“佐和山”になっていったそうです。子どもの頃に、佐保山の由来は「奈良に佐保山という山があり、藤原不比等が国司として近江に来た時に、佐和山を見て奈良の佐保山に形が似ていたので佐保山と呼ぶようになった」と聞かされました。
彦根城と比べる訳ではありませんが、彦根城は築城されてから廃藩置県でお城の役目が終わるまで一貫して大名の城というスタンスであり続けました。それに比べ佐和山城は鎌倉時代に在地豪氏の館として誕生して以来、時代背景によって使用目的が変わっています。
佐々木氏の十二代目になると、近江国は“大原氏”“高島氏”“京極氏”“六角氏”という四人の息子たちによって分家されていく事になります。特に琵琶湖の東を南北に分けた南側(江南)の六角氏と、北側(江北)の京極氏によって激しい勢力争いが起こります。
佐和山の位置が江北と江南の境目の位置にありましたので、京極氏と六角氏によって佐和山城の取り合いが始まります。少なくとも京極氏と六角氏が争った時代は、「佐和山を制する者が近江を制した」と言っても過言ではなかった時代背景がありました。
京極氏はやがて浅井氏に取って代わられますが、浅井氏が台頭してきても六角氏との佐和山城を巡る争いは続きます。この争いに終止符を打つ形で現れるのが織田信長です。
信長は、姉川の戦いで浅井氏を討つと、安土城が完成するまでの間、佐和山城を繋ぎの城という形で自分の居城代わりに使っていました。信長が亡くなった後に、豊臣秀吉が実権を握ると、豊臣政権が近江国を治める拠点の一つとして、秀吉の重臣たちが佐和山城を任されます。やがて関ヶ原の合戦が起こり、戦後は徳川四天王の一人である井伊直政が佐和山城に入り直政没後に彦根山に新城を築き、慶長10年(1605)に彦根山に鐘の丸が完成した時点で井伊家は佐和山から彦根城に移りました。そして翌慶長11年に彦根城天守が完成すると、佐和山城は破城となり城としての歴史を閉じる事になります。関ヶ原の合戦後、井伊家が彦根城を築城するまでの間はやはり佐和山城は繋ぎの城として存在した事になります。
「佐和山城、佐和山城」と言いますが、実情は「殆ど解っていない」と言った方が正しいと思います。
皆さんよく「佐和山城の天守って五層だったの?三層だったの?」と訊かれるのですが、本当に五層だったのか三層だったのかは解っていません。
また大手の向きが鳥居本(中山道側)を向いていたのか?古沢(琵琶湖側)を向いていたのか?さえもまだ解っておりません。
太田浩司さんの『近江が生んだ知将 石田三成』という本があります。この中に佐和山城の大手の向きについて書かれた章があります。中井均さんは、大手付近で瓦が出土していない事を根拠に「西麓(琵琶湖側)に石田時代の大手が在った」と推察しておられます。用田政晴さんは古絵図を検討されて、「元々鳥居本側に向いていた大手を、文禄4年(1595)に移動させた」と論じておられます。太田さんは佐和山の地形や城郭の残り方を見ながら「最終段階まで鳥居本側に大手が置かれていたのではないか」と書かれていて、研究者の中でも意見が分かれています。
大手の向きが悩まされている事の一つに、三成の屋敷がどこにあったのか?という問題が挙げられてきます。佐和山山頂の本丸跡の琵琶湖側にモチノキ谷があり、そこが三成の屋敷であったとの記述が『古城御山往昔咄聞集書』という資料に書かれています。
中世山城の定義というものがあります、ここには「城主の屋敷は、山の麓にあり戦が起きた場合には山の上にある詰の城に籠って戦をするのですが、この城主の居館と詰の城の関係は、“城主の居館の背後の山の上に城を建てる”というのが定義だ」と言われてきたのです。それから考えると三成の屋敷は本来なら鳥居本側に屋敷があるのがしかるべきですが、それが佐和山を盾にする形で西側にある事がセオリーに反するので、この為に西側が大手ではないのか?という疑問が生じてしまう訳です。
先日県の方で発掘調査が行われたのですが、佐和山城の場合は城郭に関する発掘調査がまだまだなされていないので、お城周りや城郭の発掘調査がなされてその結果が出れば、お城の向きなどの解決が出るのではないかな?と、それを楽しみにしています。
佐和山城を伝える資料としては、先程も出てきました『古城御山往昔咄聞集書』という物があります。佐和山城が機能していた時の資料は全く残っていません。この『聞集書』につきましては井伊家の七代藩主直惟が落城後に初めて佐和山とその周辺の事を調査させて書かせたものです。でもこれは享保2年(1727)という年代が記されていますので、落城後127年経ってようやく文字化された佐和山城についての資料ですので、全文を読んでいきますと“古老が言うには”というような書き方をされている物が多く、全て正しいのかと言われると疑問符が付く物が多いです。書かれている物も全てが三成時代の佐和山に付いてではなく、例えば“二の丸”という曲輪があるのですが、ここは三成の時代は三成の兄の正澄が常駐していましたが井伊直政が入った後は木俣土佐が入ったので“土佐殿丸”と呼ばれたという風に、三成の時代と直政の時代を併記して書かれています。そういう点も佐和山城が混同される点かな?と思います。しかし太田さんも著書の中で「地域の伝承をまとめた物だから、全てがすべて信用できない訳ではない」と仰っています。やはり『聞集書』を読み解いていくと言う事が、佐和山城とその周辺の城下町については一番知る手掛りになるかな?と思います。太田さんは城下町について、私は城郭について『聞集書』を読み込んでおりますので、また読んで頂けると嬉しいと思います。
何度も『古城御山往昔咄聞集書』の事を言っていますが、ここに佐和山城がどのように書かれていたかをお話しします。
“本丸の上にはおよそ5mの石垣が積まれ、その上に五重の天守があった。曇った日は鯱が見え無かった”との事です。子ども向けに『彦根かるた』という物がありその中に“佐和山城 五層の天守と 人はいう”という寄り札があります。この五層の天守は『聞集書』の一文から来ているのではないか?と思います。
と言うのも、他に佐和山城が五層だったとはっきり書いている物はありません。その事から佐和山城天守が五層であったとの説が独り歩きしています。独り歩きというと否定しているように聞こえるかもしれませんが…
“本丸も天守も今より高く、井伊家が拝領の後に13mあるいは16m切り落としたと言うが、今は分からない”との一文もあります。今の233mの山の上にまだ13mあるいは16mの山の高さがあって、なおかつ5m近い石垣を積んでその上に五層の天守となると、彦根城が三層ですのであれよりも高い天守があるとなると、本当に凄いお城ですよね。「だから『三成に過ぎたる城』と言われるんじゃないの?」と言われたらそうなのかもしれませんが、物理的に考えて必要があったのか?との事です。今山の上に立つと、充分眺望が利きます。山城のメリットは周辺の眺望が利く事と、高いから攻め難いと言う事があるのですが、「そこまで高うせんでもええやろ」って話しています。あまり高いと“落城炎上”ではなく“落雷炎上”してしまうんじゃないか、雷が落ちて燃えるのが先なんじゃないか?という話もしていおりますので「本当の所は三層の天守だったんじゃないかな」と推測しておりますが解らない点です。
三成が佐和山城主になる時期ですが、文禄4年(1595)に三成が正式に湖北四郡の周辺の領地を得て佐和山城主になります。1600年に関ヶ原の合戦が起こりますので、三成が城主であるのはわずか5年間の事なのです。その中でもほとんどは秀吉の傍に居ますので、三成が実際に佐和山城で寝起きしたのか?という事になりますと慶長3年(1598)8月に秀吉が亡くなり、翌年閏3月に前田利家が亡くなり、抑えが無くなったので三成に対する不満が爆発し、加藤清正ら七将襲撃事件が起こります。三成はそれを逃れるために家康の元に逃げ込むのですが、結果的に家康から引導を渡される形で佐和山に隠居します。それは慶長4年閏3月です、関ヶ原の合戦が慶長5年9月ですので、1年半ほど佐和山で三成が過ごした事になります。
三成が佐和山城主になったのは天正19年(1591)という説もあります。これは『新修 彦根市史』で答えを出されました。天正18年に小田原の北条氏が滅び、その論功行賞で佐和山城主だった堀尾吉晴が浜松に移ります。翌年には佐和山は一旦秀吉と秀次の直轄地となり、その城代で三成が任命されますが、三成が城主に任命されるまでは佐和山城は手付かずであったとされています。
文禄4年に三成が城主に任命されてからした事は何であったのか?と言いますと、総構え(城下町)の整備をしています。城郭を建てた訳ではなく、それよりも城下町やお城周りの土塁や堀の整備に力を入れます。
三成が城主になる以前、堀尾吉晴の時にそこそこのお城の整備があったと推察されます。これも『聞集書』に書かれている事ですが“佐和山は昔、浅井備前守の出城であり、城内に櫓などがあった”とあります。
『信長公記』にも永禄11年(1568)に足利義昭を上洛させる為に、六角義賢に道を開けて貰うように信長が依頼します。その為に摺針峠を越えて佐和山城に入り、佐和山城から六角氏に交渉しています。その交渉は決裂します。同じ事が『浅井三代記』には「浅井長政が摺針峠で信長を迎えて、小谷では遠いので佐和山で信長を接待した」と書かれています。
『浅井三代記』は信憑性が高くないとは言われますが、両方の資料に記述がある事から、浅井長政の時代には山頂にどんな物がったのかは解りませんが、少なくとも麓には信長一行を迎えるための広間を持った施設があったのではないか?と検証しました。そして小和田哲男先生に質問しましたら「何とも言えないが、考えられない事ではない」とのお返事をいただきました。浅井長政の時代は、磯野員昌が佐和山城主をしていたのですがその頃はもしかしたら佐和山城は小谷城の表御殿的な役割も持っていたのではないか?と考えています。
先日、県の補助整備に伴う発掘調査が行われ、その成果が発表されました。“奥の谷”の発掘をされて武家屋敷の跡や、桐紋の金具飾りが出た事は新聞記事などで大きく紹介されました。
佐和山城郭研究会で、桐紋の入った鬼瓦を佐和山城本丸の南斜面から採取しています(TOP写真)。大きさはタテ16cmヨコ11.5cm厚さ3.5cmで女性の手のひらほどの大きさです。桐紋は下の葉っぱの真ん中の部分が出ました。ここしか出ていないので五三の桐か五七かは解りません。しかし瓦で桐紋の瓦が出る事が重要だったのです。
瓦に紋を入れるのを最初にしたのは信長だったのですが、桐や菊の紋は天皇家の家紋でこの使用許可を最初に得るのも信長でした。信長は桐紋や金箔の瓦を葺きますが、それは自分の権威を見せつけるための手段でした。この使用範囲は自分の城と息子たちの城に限定しました。
桐紋の瓦が秀吉の時代になると、秀吉が決めた城や、認めた家臣に桐紋の瓦の使用を許します。
佐和山城で桐紋の瓦が出た時に「誰が城主だったのか?」という疑問が浮かびます。城郭談話会から『近江佐和山城・彦根城』という本が出ていてその本の中で私も桐紋の瓦についてもう少し詳しく書いていますが、その時は「この桐紋の瓦を葺いたのは石田三成だった」と断言して書きました。それから4年5年経つ中で「三成は総構えを整備しただけでお城を建てた訳ではないのだから、もしかしたら堀尾吉晴の時代に桐紋の瓦が葺かれた可能性がある」という思いが出てきました。『近江佐和山城・彦根城』をお持ちの方には申し訳ないですが、あの時断言しましたが保留し、いろいろ勉強して答えを出したいと思います。
ただ桐紋の瓦が佐和山城で出たのが重要なポイントで、今まで解らなかった佐和山城のお城の格が「豊臣政権にとって佐和山城は重要な城だったんだ」という物的証拠になりうる物だと思います。
また、佐和山城を伝える資料の話に戻ります。
『古城御山往昔咄聞集書』や井伊家に伝わる古地図以外に、『西明寺絵馬』『多賀大社・社頭絵図』『多賀・大滝のかんこ踊り歌』があります。
『西明寺絵馬』に描かれているのが佐和山城との説があります。
『多賀大社・社頭絵図』に三層のお城が描かれていて、そこに“澤山城”との注記がなされています。これが佐和山城じゃないか?と言われています。
『多賀・大滝のかんこ踊り歌』は歌詞の中にはっきり“近江佐和山見物しょ”と書かれています、ここには“大手のかかりを眺むれば 金の御門に八重の堀”という凄いお城と連想されます。
しかし、実際にこの3つに描かれているのが佐和山城だったのか?というのは大きな疑問符が付いています。
『西明寺絵馬』は元禄時代に描かれた物で、これは元禄時代の絵師が元禄時代のお城を見て模写した物なので、それをそのまま三成の時代の佐和山城というのは危険です。
『多賀大社・社頭絵図』は描かれている位置から彦根城ではないか?と思われます。
『かんこ踊り歌』も最後に“裏の御門まず出でて北を眺むれば 裾は湖やや見事”という歌詞があるのですが、裏門を出て北側に湖がそこまで来てるのは、佐和山の裏門はどっちを向いていたかは解りませんが、彦根城の裏門を出てすぐ北には松原内湖が広がっていましたので、“近江佐和山見物しょ”というのは彦根城を見物しようという歌ではないか?との私の勝手な推論です。
実は彦根城は、佐和山城と呼ばれていた時代がありました。彦根城築城は慶長7年に井伊直政が亡くなった後に始まります。今は慶長8年からか9年からかで揉めていますが、藩主が亡くなると1年は喪に服すそうですので9年ではないかと思います。慶長11年には天守が完成し佐和山城は廃城となります。その時点では彦根城は“彦根城”と呼ばれていません。1640年の年号が入った姉川の上流と下流で水争いが起こった時の資料に、村の人たちが「佐和山奉行に持って行こう」と言った物があるのですが、この佐和山奉行が井伊家の事なのです。
この時にまだ井伊家は彦根藩ではなく佐和山藩、佐和山奉行として通っていたという事が考えられます。彦根博物館で中山道を企画した展示があったのですが、その時に江戸期の中山道を描いた屏風絵があり、彦根城の位置に“佐和山城”と注記されていて、佐和山には“古城山”と注記されていました。これは明らかに彦根城が佐和山城と呼ばれていたと示す物だと思われます。
また彦根市立図書館が保管する佐和山城に関する記録を見せていただいた時に、『佐和山御城古実(?)』という資料があり「何や、彦根は何にも無い無い言いながら、佐和山城の資料があるんやないか」と思いまして資料を見ましたら、彦根城の築城に際して細かく書いた物だったのです、これも明らかに彦根城が“佐和山城”と呼ばれていた証拠だと思います。
三成の佐和山城は、彦根城ができた事で破城されてしまいますが、佐和山城という名前に関してはしばらく使われていたという事です。彦根城が佐和山城と呼ばれていた事によってますます謎は深まります。資料が混同しているのでますます解らなくなる理由になります。
『古城御山往昔咄聞集書』の最後に“井伊家が彦根の地に移ってきた時に、(石田一族の事を)善くも悪くも口に出して話す事はご法度だった”と書かれています。ご法度が解かれるのが『聞集書』が書かれる1727年になるのですが、関ヶ原の合戦から127年は佐和山城に関して喋る事も領民は許されず、佐和山の登城口は門番が立ち入山も許されませんでした。そんな中で領民の中ではどんどん佐和山の記憶も薄れて行ったのだと考えられます。
井伊家にとっては石田家に対する思いを封じ込めるために取らなければならない行動だったのだと思います。
『三成伝説』を書くにあたりまして、彦根市内のお寺について書いている章があります。それは石田三成や佐和山城に関わるお寺を書かしていただいたのですが、鳥居本に専宗寺という聖徳太子所縁のお寺があり、そこには三成と足軽北助のエピソードが残っていました。佐和山城が落城する最中、足軽の北助は「何か三成を明かす物を持ち帰りたい」と佐和山城の城門の扉を持ち出しました。その扉が専宗寺の太鼓門の天井板に使われています。
『三成伝説』の本が出来て専宗寺さんに持って行くと「この話は本当なんでしょうか」と仰られました。私は落城して400年も経てばその様な逸話の一つ一つが本当か?嘘か?というのはどうでもいい気がします。それよりもその様な話が残った背景の方が興味を惹かれます。
他にも古橋の七つの言い伝えについて書いています。古橋(木ノ本町)は三成が関ヶ原の合戦に敗れた後に落ち延びた場所で、三成の母親の生まれた場所だとの説もあります。そこで三成はしばらく匿われますが結局は東軍の田中吉政に捕まります。
その古橋に七つの言い伝えがあります。
1.養子を他の村から迎えるな
2.苗代の種まきは午前中にしない
3.朝霧はなかなか晴れない
4.腹痛には韮粥
5.金谷橋の語源は金やる橋
6.味噌汁に沈む澱
7.自生の茶の木が多い
例えば、“1.養子を他の村から迎えるな”というのは、三成を匿っている事を告げ口したのが、唯一養子で入っていた男だったそうです。ですから古橋では養子を入れない事で結束を固めました。
この言い伝えの出典がどの本に載っているのかを古橋の方に訊ねると、「これは何にも書かれていない事で、ずっと口伝えで言い伝えてきた事だ」と仰られました。養子を迎えないのは昭和24年までの約350年間、三成を匿い切れなかった念を言い伝えてきた背景が、専宗寺の北助のエピソードではないですが、江戸時代を通じて悪く書かれてきた石田三成を「そんな人ではないのだよ」と地元の人に慕われてきた想いが籠っているのだと思います。
私が『三成伝説』で担当したのは、史実だけではなくそういうエピソードが多いのですが、逆に地元に残るエピソードを拾う事で三成が地元では凄く慕われていたという事を、私の立場から発信していけたらと思いました。
先月、東京の代官山で佐和山城の話をしてきました。その時に話の締めで言わさせていただいたのは「西軍にとって関ヶ原は決戦の場所だったのですが、佐和山は決戦を決断した場所です、三成が決断した事が天下分け目と言われてこの国の歴史を大きく動かした事になるのです」と。
佐和山は決戦の地である関ヶ原に負けない、大きな決断をした場所です。ですから関ヶ原に負けないだけのアピールをしていきたいと思います。