彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

石垣の刻印

2009年10月30日 | 彦根城
お城を築城する時に、石垣用の石を集めて管理する事はとても難しい事でした。
そこで、担当者は自分の運んできた石に目印となる刻印を刻んで、他の人が運んできた石と区別をしていたのです。

これは、築城に関わる大名が多いほど管理の為に必要だと思われてきました。

彦根城は、天下普請と言う国家事業だった為、築城に関わる大名が多い城でもあったのですが、不思議と石垣に刻印が見つからなかったのです。

全く無かったのかと言えばそうではなく、管理人が聞いた話では山崎郭の石垣の中にある事と、佐和口多聞櫓の石垣のどこかにある刻印の写真が載った本もあるそうなのです。

しかし、はっきりとした位置は一部の人が知っているか、もしくはもう誰も知らないのか?という世界なのです。

そんな中でもう一ヶ所刻印が見つかりました。


その場所は、玄宮園の囲いにある石垣です。

この写真だけでは分からないので、指さして貰いましょう。


漢字の“六”の字が確認できると思います。
この漢字の意味が何なのか?また玄宮園は四代藩主井伊直興の時に造られた物なので、なぜ藩内だけの事業で刻印が居るのか?
などまだまだ謎が多いですが、彦根城に残る新たな歴史として記録に刻み込まれる物ではないでしょうか?
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『ゆるキャラまつり』より、歴キャラの取材記

2009年10月25日 | イベント
(TOPの写真は、今回の中から特に『天地人』絡みのキャラを集めた一枚です。)


2009年10月23日から25日まで彦根市内では『ゆるキャラまつり』が行われました。

管理人は、平日は仕事がありますので23日は参加できず、そして24日は別件の予定がありましたので、25日のみ見学に行きました。
それもメインとなる会場ではなく、花しょうぶ通り商店街の「歴キャラ」を目的としてみました。


11時よりスタンプラリーによるイベントで幕が開き、10か所のスタンプポイントにはそれぞれにキャラ達が待っていたのです。
《待機中のしまさこにゃん・いしだみつにゃん》




やがてイベントが始まり、歴キャラ達が登場しました。
(集合写真の様子をアップします)
《浅井三姉妹(茶々姫・江姫・初姫)と伯父の織田信長“のぶさま”》


《佐和山の三キャラに一番左は?》


《『天地人』三キャラ(おせんちゃん・かげっちさま・かねたん) 》

「夫婦の間に景勝が邪魔したらダメでしょう?空気読んで殿…」と思っていたら、しっかりと二人だけの姿も披露してくれました。


まさに戦国に絡む歴キャラ集合。
『天地人』に『江~戦国の姫たち~』と大河ドラマに絡むキャラも充実していました。
そんな中に入っている見知らぬキャラが…

“獣兵衛”という千葉県からのキャラなのだそうです。凛々しいです。

そして凛々しさでもう一人印象に残ったのが“のぶさま”でした。


お昼に商店街の中にある「魚浩」さんが出されている“真田どんぶり” をいただきました

お肉ベースの柳川丼の上にお麩の六文銭を乗せた物で、美味しく値段もお得な一品でした


14時半頃、花しょうぶ通り商店街でのイベントが終り、ちょっとだけキャッスルロードを覗くとたくさんのキャラが居ました。
その中で特に印象に残ったのが“ひつじのしつじくん”


ゆるキャラにも、様々なアイデアが盛り込まれていますがギャグもキャラ誕生には必要な要素なのでしょうね
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『佐和山落城記』と山田一族

2009年10月19日 | 講演
田附さんが、佐和山城と石田三成について話して下さった後で、佐和山城落城時に城に居た山田上野の子孫である山田喜雄さんがお話をされました。

そして、講演後に『どんつき瓦版』はいろんなお話をいただきましたので、合わせてご紹介します。


~~以下、本文~~



『佐和山落城記』
山田上野介の末裔:山田喜雄さん

 私は30年近く近江に通い石田三成の足跡を歩きました。それは我が家に残っている古文書によるルーツ探しでした。そんなお話をしたいと思います。
 我が家には、佐和山の落城の様子を描いた『佐和山落城記』という古文書があります。ちょうど徳川家康が亡くなった元和2年(1616)に、私の先祖の山田喜庵が書いた物です。
 その発見の経緯をお話ししますと、昭和10年に家の蔵から古い書き物が見つかりました、よく読むと石田三成の家来で三成が戦に出た後に佐和山で留守番をしていたが、佐和山が落城する時にお爺さんが倅と孫を落城寸前に脱出させて、倅と孫は各地を放浪し、現在私が住んでいる千葉県流山に住み着いた経緯が書かれています。
 昭和10年に発見されるまでは一切家の事は分らなかったのですが、谷崎潤一郎が佐和山落城から始まる負けた武将の娘がいかに悲しい生活を送るかという新聞連載小説が載っていて、それを見た父親が「家にある古文書と内容が同じである」という事にびっくりして、当時の石田三成の権威である渡辺世祐先生の耳に届き、鑑定していただくと本物であると言われて和綴じにしていただき表紙に『佐和山落城記』という名前まで付けて下さいました。そういう訳で、佐和山や所縁の地を訪ねるようになりました。

『佐和山落城記』の話をしますと、私の先祖の山田上野介は太鼓丸を守っていて、位は番頭(ばんがしら)でした。番頭がどの程度の身分か調べると、中世ではなく近世では“10人がひと固まりで10集まると100人になる、それが「番」でその頭が「番頭」”になるそうです。近世ですから当時のはっきりした事は解りませんが、とにかく太鼓丸を守っていた。
 関ヶ原の戦いで三成が行方知れずになった情報は入っていたようで、その時に山田上野介が倅を呼んで「自分はここで城と共に自刃するからお前は逃げなさい」と言いました。一族がみんな死んでしまうと菩提を弔らう者が絶えてしまうので、子と泣く泣く別れる場面が落城記の話の中心になっています。
 倅の名前は山田隼人25歳、5歳の孫が居て幼名を宇吉郎といます。隼人と宇吉郎が城を脱出して廻り廻って流山に着いた経緯が書かれています。
 佐和山を脱出して最初に着いた場所の地名も記されています、そこは伊吹山の岐阜県側の麓の春日村池田です。佐和山から春日村までどういう風に行ったのかは分らないのですが、まっすぐ行けば関ヶ原を通らなければ行けませんし、あるいは船で回って米原の先から伊吹山を回って春日村に至る経路を辿ったのか。一度春日村に行ってみたら小西行長がそこで捕まっているようですね。そこで諸国巡礼の姿に身をやつして流山まで辿り着いて住み着きました。
 『佐和山落城記』が書かれたのは、孫の宇吉郎が20歳になった元和2年の家康が死んだ年にどういう訳だか書きました。宇吉郎は医者をやっていたのですが、父の隼人は大坂夏の陣で木村長門守の軍に入って大坂城の大手門で戦死したのです。宇吉郎が成長した喜庵は「自分は弓馬の道に疎かった」、諸国を放浪していたので武芸の道を習うどころでは無かったとは思うのですが、途中でお医者さんの勉強をして「医師として住す」と書かれています。
 しかしこの文書は千葉にあっても価値が薄い物で、滋賀県などの三成所縁の地にあってこそ価値を発する物なので、写真に撮りまして長浜・彦根・滋賀県庁・大阪城博物館に届けました。そこからルーツ探しを始め、佐和山の麓に山田という場所と山田神社があるので神社を訪ねましたが手掛かりは得られませんでした。
 そして調べて行くと『井伊年譜』に佐和山攻めの話が出てきて“山田上野が小谷の山田の出身”と書かれていました。そこで小谷の山田に行くと、山田さんという人がいっぱい居られました。色々訊ねてみましたがこれという物が出てきませんでしたが、「どうもあの辺りが出身だな」とおぼろげながら思います。
 

 田附さんのお話の中で『西明寺絵馬』の話が出てきましたが、実は20年くらい調べてみました。
 あの絵馬に描かれているのはどうも佐和山落城の様子ではなく、伏見城の合戦の絵馬ではないか?と考えた方が良いのではないかという結論が出ました。
 西明寺は信長が焼き打ちをして江戸時代に再興されたのですが、それが望月という家の人でした。その人の出身地が甲賀だったので、甲賀で研究発表をしました。
 簡単に内容をお話ししますと。
「西明寺の絵馬が佐和山ではないか?」と言いだしたのは、日本画家の上田道三さんでした。昭和40年くらいに彦根史談会の冊子に発表なさり、それ以来あの五層の天守は佐和山城に間違いないと独り歩きしたのです。
 私は、絵その物より後ろに16名の奉納者が記載されている事に注目しました。佐和山と言われている絵馬と源平合戦の絵馬と対になっている非常に大きな物ですが、奉納した16名を調べて行くと石田三成に関する人たちが全然出てきませんでした。そして西明寺の再建に関わった望月一族が2人出てきて、もう1人望月一族の人が居る事が後で判りました。
 ではなぜ源平合戦と五層の天守の絵馬だったのか?という事ですが、上田さんは「井伊家に憚る為に佐和山合戦の絵馬というのが解ると困るのでそのカモフラージュに源平合戦を傍らに置いた」との説ですが、西明寺再興に関わった望月友閑が出た望月氏は元を辿ると信濃源氏でした。絵馬の裏の寄付者の所には「○○村○兵衛金を○○寄付しましたよ」と書かれているのですが姓名が書かれていないのが“源朝臣望月氏”“望月朝臣”というのが出てきます。
 この望月氏が西明寺を再興した望月氏ではないか?その望月氏が関わった一番の合戦は伏見城落城の話です。この時に甲賀武士が伏見城に籠っていて、家康方に付いて頑張ったので伏見城がなかなか落城しませんでした。結構持ちこたえた事で「家康が関ヶ原に引き返すまでの時間稼ぎができた」と言う歴史家も居るほどです。伏見城は落されてしまうのですが、甲賀の人は「自分たちはこんなに頑張った」というアピールができたのです。
 甲賀望月一族は、伏見城落城に関わったのは確かですが、誰という人物特定はできていません。そういう事で西明寺が再興された後に最高功労者の望月一族が記念の為にあの絵馬を奉納したのではないか?と思います。五層の天守は佐和山と言うより伏見城と考えていいと思います。
 
今年の春に石田三成の文書が出てきてびっくりしました。その中に「年貢の取り立てについて3名の者に従いなさい」と書かれていてその中には島左近と並んで山田上野と書かれていて驚きました。
近江の文書の中から、私の先祖が出たのは初めてで、しかも佐和山落城以前に何をしていたのかがおぼろげながら解ってきました。

どうもありがとうございました。



《『どんつき瓦版』取材》
(管理人)
 いいお話を聞かさせていただきありがとうございました。
ここでフルネームをお訊ねしました。

(山田先生)
 『佐和山落城記』が発見された5年後に私が生まれたので、作者の喜庵の字を貰い“喜雄”です。私の姉は佐和子といいます。

(管理人)
 『佐和山落城記』は『石田三成のすべて』という本で拝見しました。そこで、一つ疑問に思っていたのが、山田隼人が木村長門守の部下として戦って亡くなりますね。木村長門守と言えば井伊直孝が討ち取った武将ですね。

(山田先生)
 安藤長三郎だね。

(管理人)
 そうですね。
ふっと思ったのは、井伊家との事があるので佐和山での事を考えると運命の巡り合わせなのかと…
その辺りの事は読んだ本には書かれていなかったので、どうなっているのかな?と疑問に思いました。

(『佐和山落城記』を活字で書いたのを持って来てる。との事で一緒に拝見し、大坂の陣の記述を見せていただきました)

(管理人)
 今、見させて頂くと「元和二年五月に書く」と記されていましたが、家康が亡くなったのが四月で間もなくですから、やはり家康の死も関係あったのでしょうか?
 佐和山の落城と言えばもう一つ有名な『おあむ物語』がありますね。

(山田先生)
 あれも疑ってるの。

(管理人)
 あれも大垣が佐和山という話がありますね。

(山田先生)
 海津先生も疑問を呈していて、「お腹が大きくなっている女性を大垣城に連れて行くのがおかしい」と、『佐和山落城記』にも年寄り子ども足弱い者は佐和山に残すと書かれているので、大垣には精鋭部隊が行ってる筈。なのに大垣城から逃げる途中に子どもを産み落とすという話がある。そんな女性をなぜ連れて行くのか?
(『おあむ物語』には)田中吉政が攻めて来たとも書かれているけど、吉政は大垣を攻めてない、攻めたのは佐和山でしょ。「田兵、田兵」と皆がバカにしたともあるでしょ。あれもこの辺の出身だよ。

(管理人)
 そうですね、田中吉政は身分の余り高くない出でバカにされていたと聞きますね。
 そんな『おあむ物語』は山田去暦で、『佐和山落城記』は山田上野介と同じ山田姓なので関わりがあったのかな?と…

(山田先生)
 土佐に調べに行った事があるの。山内文庫に系図があるんです。

(管理人)
 そうですね、おあむは土佐に行って「彦根のおばば」と言われる人ですから…

(山田先生)
 (山田去暦は)近江の人には違いない、山内一豊は長浜を貰ってこの辺(湖北地域)が地盤の人だから、奥さんがこの辺りの人でした。
 掛川から土佐に移る時に、掛川では石高が少なかったのに急い増えたから、家臣をこの辺りから連れて行って行っちゃう。

(管理人)
 ではその時に一緒に?

(山田先生)
 山田去暦が近江の人間である事は系図にも書かれてる。

(管理人)
 では先生の一族と、去暦が関わりがあるかもしれない?

(山田先生)
 あるかもしれないけど、系図には出てこない。

(管理人)
 同じ山田姓の人が別々に佐和山落城について書くなんて面白いですね。

(山田先生)
 司馬遼太郎さんにも手紙を出した事があるんです。それは西明寺の絵馬に女性が描かれているんです。それを上田道三さんは“初芽局”だと分析されています。しかし初芽局は歴史上存在しない。
『佐和山と石田三成』という本に初芽局の話があり、そこで三成が行方不明になった時に初芽局が追いかけて探したという物だったのだけど、どうもそれを司馬遼太郎さんが『関ヶ原』に採用したのではないかと。
 「出典はどこですか?」と手紙を書いたら、亡くなる1年くらい前に直筆の返事が来て「昔の事なので、霞の彼方に消えました」と。

(管理人)
 ちゃんとお返事を下さるのですね。

(山田先生)
 びっくりしちゃった。
 それで今『天地人』で初音が出てくるけど、あれも司馬遼太郎さんからピックアップしたかも?
 もし絵馬に描かれてる女性が初芽局ならえらい事になる。

(管理人)
 そうですね、伏見城が本当なら。
 伏見城が「ある」と思ったのは、島原松平家にある伏見城の絵図に、攻め手と守り手の名前が書かれていて、あそこでは客人が来るとその絵図を見て、「お前は伏見攻めの時に敵だったから許さん。お前は味方だから仲良くしよう」という物があったそうで、伏見城に関わる家では残している事があるらしいので、さっきの絵馬の話もある話だとは思いました。

(山田先生)
 でも、特定ができない。望月一族はいっぱいいますからね。伏見城に入って何人か裏切りも出てるので。
 鳥居元忠という家康の三方ヶ原以来の家来で長刀が上手だった、絵馬の門前に居る武者も長刀を持っている。

(管理人)
 そうなんですか。
 鳥居元忠は、その孫が井伊家の直孝の前の彦根城を作った直継に嫁いでいるんです。

(山田先生)
 それは知らなかった。
 その絵馬にお爺さんが出ていて主人公。

(管理人)
 それならば、鳥居元忠かも。

(山田先生)
 可能性もある。
 絵師が誰か?という話もある。上田道三さんは海北友松だと言ってる。

(管理人)
 浅井家の…

(山田先生)
 よく知ってるね。
 海北友松を追いかけたら、子孫が京都にいるの。系図が残っていて調べたけど何も出てこない。でも面白かったのは友松には、友雪・友竹という子どもが居てしかも絵馬屋だった。
 だからびっくりした。でもこれと言った確証はない。ただ海北家は三成と交友がある。それで上田さんは海北友松ではないかと…
 子孫の方は滋賀にも居られて絵描きさんだったの。

(管理人)
 この辺りの方は結構、昔の豪族の子孫って居られますね。

(山田先生)
 彦根・長浜には上田さんが描かれた佐和山の絵が残っているんだけど、五層で描かれている。
 絵描きとしてのインスピレーションだから、資料の裏付けが無い。

(管理人)
 最近は天保年間の彦根城下の資料から、当時の鳥瞰図を描いた物が上田さんの作品としてよく知られていますが、それも彦根に残った街並みと資料を重ねたインスピレーションとも言われているらしいです。

(山田先生)
 画家としての名声はありましたね。

(管理人)
 面白いお話をありがとうございました。





(管理人私見)
 研究家には様々な意見があり、そして色んな運命の糸で手繰り寄せられて歴史と出会う運命があると改めて思い知りました。
 上田道三さんの画家として、また当時の歴史資料に想像を働かせながらの作品は、絵として観るという効果もあった為に、大きなイメージとして残ってしまうのでしょうね。

 それぞれの時代で、そこにある資料を駆使しながら歴史を想像し、そこに資料という裏付けを付けて行く。
 その苦労も、新たに発見される資料によって一気に覆る事も、逆に大きな支えになる事もあるのかも知れません。
 佐和山研究は、1727年から始まったのかも知れませんが、まだまだどんな資料が登場するかも分らない期待感に満ちているように思います。
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『佐和山城と石田三成の城下町』

2009年10月18日 | 講演
2009年10月18日は、彦根市内ではさまざまなイベントが行われていました。
そんな中で鳥居本の『とりいもと宿場まつり』を見学しました。

写真は現地で限定販売された三成汁です。

このイベントだけで終わるのはもったいないので、佐和山や石田三成のイベントの時にはまた味わってみたいです。

ここでは午前中に、先日『三成伝説』という本を出版されたオンライン三成会の会員で佐和山城郭研究会代表の田附清子さんの講演がありました。

ちなみに、田附さんの講演の後には江戸時代に『佐和山落城記』を書いた山田喜庵の子孫である山田喜雄さんのお話も聞け、後ほど個別でお話もいただきましたので、その様子も後ほどお知らせいたします。



~~ここから講演内容をアップします~~

『佐和山城と石田三成の城下町』
佐和山城研究会代表:田附清子さん

 佐和山城の簡単な歴史からお話しさせていただきます。彦根城は2007年に築城400年祭が開かれましたが、佐和山城の歴史は鎌倉時代まで遡る事ができますので、彦根城の400年と比べますと800年近くという2倍の歴史を持っていると言えます。
 近江国は近江源氏の流れを引く佐々木氏が治めていました、佐々木氏十代目の定綱の六男・六郎時綱が佐和山に屋敷を構えた事が佐和山城の始まりだと『淡海温故録』や『近江小間攫』という資料に記載されています。
 この時に、時綱は“佐保六郎”と佐保氏を名乗っています。佐和山は元々“佐保山”と呼ばれていたのですが、いつしか訛っていって“佐和山”になっていったそうです。子どもの頃に、佐保山の由来は「奈良に佐保山という山があり、藤原不比等が国司として近江に来た時に、佐和山を見て奈良の佐保山に形が似ていたので佐保山と呼ぶようになった」と聞かされました。

 彦根城と比べる訳ではありませんが、彦根城は築城されてから廃藩置県でお城の役目が終わるまで一貫して大名の城というスタンスであり続けました。それに比べ佐和山城は鎌倉時代に在地豪氏の館として誕生して以来、時代背景によって使用目的が変わっています。
 佐々木氏の十二代目になると、近江国は“大原氏”“高島氏”“京極氏”“六角氏”という四人の息子たちによって分家されていく事になります。特に琵琶湖の東を南北に分けた南側(江南)の六角氏と、北側(江北)の京極氏によって激しい勢力争いが起こります。
 佐和山の位置が江北と江南の境目の位置にありましたので、京極氏と六角氏によって佐和山城の取り合いが始まります。少なくとも京極氏と六角氏が争った時代は、「佐和山を制する者が近江を制した」と言っても過言ではなかった時代背景がありました。
 京極氏はやがて浅井氏に取って代わられますが、浅井氏が台頭してきても六角氏との佐和山城を巡る争いは続きます。この争いに終止符を打つ形で現れるのが織田信長です。
 信長は、姉川の戦いで浅井氏を討つと、安土城が完成するまでの間、佐和山城を繋ぎの城という形で自分の居城代わりに使っていました。信長が亡くなった後に、豊臣秀吉が実権を握ると、豊臣政権が近江国を治める拠点の一つとして、秀吉の重臣たちが佐和山城を任されます。やがて関ヶ原の合戦が起こり、戦後は徳川四天王の一人である井伊直政が佐和山城に入り直政没後に彦根山に新城を築き、慶長10年(1605)に彦根山に鐘の丸が完成した時点で井伊家は佐和山から彦根城に移りました。そして翌慶長11年に彦根城天守が完成すると、佐和山城は破城となり城としての歴史を閉じる事になります。関ヶ原の合戦後、井伊家が彦根城を築城するまでの間はやはり佐和山城は繋ぎの城として存在した事になります。

「佐和山城、佐和山城」と言いますが、実情は「殆ど解っていない」と言った方が正しいと思います。
 皆さんよく「佐和山城の天守って五層だったの?三層だったの?」と訊かれるのですが、本当に五層だったのか三層だったのかは解っていません。
 また大手の向きが鳥居本(中山道側)を向いていたのか?古沢(琵琶湖側)を向いていたのか?さえもまだ解っておりません。
 太田浩司さんの『近江が生んだ知将 石田三成』という本があります。この中に佐和山城の大手の向きについて書かれた章があります。中井均さんは、大手付近で瓦が出土していない事を根拠に「西麓(琵琶湖側)に石田時代の大手が在った」と推察しておられます。用田政晴さんは古絵図を検討されて、「元々鳥居本側に向いていた大手を、文禄4年(1595)に移動させた」と論じておられます。太田さんは佐和山の地形や城郭の残り方を見ながら「最終段階まで鳥居本側に大手が置かれていたのではないか」と書かれていて、研究者の中でも意見が分かれています。
 大手の向きが悩まされている事の一つに、三成の屋敷がどこにあったのか?という問題が挙げられてきます。佐和山山頂の本丸跡の琵琶湖側にモチノキ谷があり、そこが三成の屋敷であったとの記述が『古城御山往昔咄聞集書』という資料に書かれています。
 中世山城の定義というものがあります、ここには「城主の屋敷は、山の麓にあり戦が起きた場合には山の上にある詰の城に籠って戦をするのですが、この城主の居館と詰の城の関係は、“城主の居館の背後の山の上に城を建てる”というのが定義だ」と言われてきたのです。それから考えると三成の屋敷は本来なら鳥居本側に屋敷があるのがしかるべきですが、それが佐和山を盾にする形で西側にある事がセオリーに反するので、この為に西側が大手ではないのか?という疑問が生じてしまう訳です。
先日県の方で発掘調査が行われたのですが、佐和山城の場合は城郭に関する発掘調査がまだまだなされていないので、お城周りや城郭の発掘調査がなされてその結果が出れば、お城の向きなどの解決が出るのではないかな?と、それを楽しみにしています。

 佐和山城を伝える資料としては、先程も出てきました『古城御山往昔咄聞集書』という物があります。佐和山城が機能していた時の資料は全く残っていません。この『聞集書』につきましては井伊家の七代藩主直惟が落城後に初めて佐和山とその周辺の事を調査させて書かせたものです。でもこれは享保2年(1727)という年代が記されていますので、落城後127年経ってようやく文字化された佐和山城についての資料ですので、全文を読んでいきますと“古老が言うには”というような書き方をされている物が多く、全て正しいのかと言われると疑問符が付く物が多いです。書かれている物も全てが三成時代の佐和山に付いてではなく、例えば“二の丸”という曲輪があるのですが、ここは三成の時代は三成の兄の正澄が常駐していましたが井伊直政が入った後は木俣土佐が入ったので“土佐殿丸”と呼ばれたという風に、三成の時代と直政の時代を併記して書かれています。そういう点も佐和山城が混同される点かな?と思います。しかし太田さんも著書の中で「地域の伝承をまとめた物だから、全てがすべて信用できない訳ではない」と仰っています。やはり『聞集書』を読み解いていくと言う事が、佐和山城とその周辺の城下町については一番知る手掛りになるかな?と思います。太田さんは城下町について、私は城郭について『聞集書』を読み込んでおりますので、また読んで頂けると嬉しいと思います。

 何度も『古城御山往昔咄聞集書』の事を言っていますが、ここに佐和山城がどのように書かれていたかをお話しします。
“本丸の上にはおよそ5mの石垣が積まれ、その上に五重の天守があった。曇った日は鯱が見え無かった”との事です。子ども向けに『彦根かるた』という物がありその中に“佐和山城 五層の天守と 人はいう”という寄り札があります。この五層の天守は『聞集書』の一文から来ているのではないか?と思います。
と言うのも、他に佐和山城が五層だったとはっきり書いている物はありません。その事から佐和山城天守が五層であったとの説が独り歩きしています。独り歩きというと否定しているように聞こえるかもしれませんが…
“本丸も天守も今より高く、井伊家が拝領の後に13mあるいは16m切り落としたと言うが、今は分からない”との一文もあります。今の233mの山の上にまだ13mあるいは16mの山の高さがあって、なおかつ5m近い石垣を積んでその上に五層の天守となると、彦根城が三層ですのであれよりも高い天守があるとなると、本当に凄いお城ですよね。「だから『三成に過ぎたる城』と言われるんじゃないの?」と言われたらそうなのかもしれませんが、物理的に考えて必要があったのか?との事です。今山の上に立つと、充分眺望が利きます。山城のメリットは周辺の眺望が利く事と、高いから攻め難いと言う事があるのですが、「そこまで高うせんでもええやろ」って話しています。あまり高いと“落城炎上”ではなく“落雷炎上”してしまうんじゃないか、雷が落ちて燃えるのが先なんじゃないか?という話もしていおりますので「本当の所は三層の天守だったんじゃないかな」と推測しておりますが解らない点です。

 三成が佐和山城主になる時期ですが、文禄4年(1595)に三成が正式に湖北四郡の周辺の領地を得て佐和山城主になります。1600年に関ヶ原の合戦が起こりますので、三成が城主であるのはわずか5年間の事なのです。その中でもほとんどは秀吉の傍に居ますので、三成が実際に佐和山城で寝起きしたのか?という事になりますと慶長3年(1598)8月に秀吉が亡くなり、翌年閏3月に前田利家が亡くなり、抑えが無くなったので三成に対する不満が爆発し、加藤清正ら七将襲撃事件が起こります。三成はそれを逃れるために家康の元に逃げ込むのですが、結果的に家康から引導を渡される形で佐和山に隠居します。それは慶長4年閏3月です、関ヶ原の合戦が慶長5年9月ですので、1年半ほど佐和山で三成が過ごした事になります。
 三成が佐和山城主になったのは天正19年(1591)という説もあります。これは『新修 彦根市史』で答えを出されました。天正18年に小田原の北条氏が滅び、その論功行賞で佐和山城主だった堀尾吉晴が浜松に移ります。翌年には佐和山は一旦秀吉と秀次の直轄地となり、その城代で三成が任命されますが、三成が城主に任命されるまでは佐和山城は手付かずであったとされています。
 文禄4年に三成が城主に任命されてからした事は何であったのか?と言いますと、総構え(城下町)の整備をしています。城郭を建てた訳ではなく、それよりも城下町やお城周りの土塁や堀の整備に力を入れます。
三成が城主になる以前、堀尾吉晴の時にそこそこのお城の整備があったと推察されます。これも『聞集書』に書かれている事ですが“佐和山は昔、浅井備前守の出城であり、城内に櫓などがあった”とあります。
『信長公記』にも永禄11年(1568)に足利義昭を上洛させる為に、六角義賢に道を開けて貰うように信長が依頼します。その為に摺針峠を越えて佐和山城に入り、佐和山城から六角氏に交渉しています。その交渉は決裂します。同じ事が『浅井三代記』には「浅井長政が摺針峠で信長を迎えて、小谷では遠いので佐和山で信長を接待した」と書かれています。
『浅井三代記』は信憑性が高くないとは言われますが、両方の資料に記述がある事から、浅井長政の時代には山頂にどんな物がったのかは解りませんが、少なくとも麓には信長一行を迎えるための広間を持った施設があったのではないか?と検証しました。そして小和田哲男先生に質問しましたら「何とも言えないが、考えられない事ではない」とのお返事をいただきました。浅井長政の時代は、磯野員昌が佐和山城主をしていたのですがその頃はもしかしたら佐和山城は小谷城の表御殿的な役割も持っていたのではないか?と考えています。


 先日、県の補助整備に伴う発掘調査が行われ、その成果が発表されました。“奥の谷”の発掘をされて武家屋敷の跡や、桐紋の金具飾りが出た事は新聞記事などで大きく紹介されました。
 
 佐和山城郭研究会で、桐紋の入った鬼瓦を佐和山城本丸の南斜面から採取しています(TOP写真)。大きさはタテ16cmヨコ11.5cm厚さ3.5cmで女性の手のひらほどの大きさです。桐紋は下の葉っぱの真ん中の部分が出ました。ここしか出ていないので五三の桐か五七かは解りません。しかし瓦で桐紋の瓦が出る事が重要だったのです。
 瓦に紋を入れるのを最初にしたのは信長だったのですが、桐や菊の紋は天皇家の家紋でこの使用許可を最初に得るのも信長でした。信長は桐紋や金箔の瓦を葺きますが、それは自分の権威を見せつけるための手段でした。この使用範囲は自分の城と息子たちの城に限定しました。
 桐紋の瓦が秀吉の時代になると、秀吉が決めた城や、認めた家臣に桐紋の瓦の使用を許します。
 佐和山城で桐紋の瓦が出た時に「誰が城主だったのか?」という疑問が浮かびます。城郭談話会から『近江佐和山城・彦根城』という本が出ていてその本の中で私も桐紋の瓦についてもう少し詳しく書いていますが、その時は「この桐紋の瓦を葺いたのは石田三成だった」と断言して書きました。それから4年5年経つ中で「三成は総構えを整備しただけでお城を建てた訳ではないのだから、もしかしたら堀尾吉晴の時代に桐紋の瓦が葺かれた可能性がある」という思いが出てきました。『近江佐和山城・彦根城』をお持ちの方には申し訳ないですが、あの時断言しましたが保留し、いろいろ勉強して答えを出したいと思います。
 ただ桐紋の瓦が佐和山城で出たのが重要なポイントで、今まで解らなかった佐和山城のお城の格が「豊臣政権にとって佐和山城は重要な城だったんだ」という物的証拠になりうる物だと思います。


また、佐和山城を伝える資料の話に戻ります。
『古城御山往昔咄聞集書』や井伊家に伝わる古地図以外に、『西明寺絵馬』『多賀大社・社頭絵図』『多賀・大滝のかんこ踊り歌』があります。
『西明寺絵馬』に描かれているのが佐和山城との説があります。
『多賀大社・社頭絵図』に三層のお城が描かれていて、そこに“澤山城”との注記がなされています。これが佐和山城じゃないか?と言われています。
『多賀・大滝のかんこ踊り歌』は歌詞の中にはっきり“近江佐和山見物しょ”と書かれています、ここには“大手のかかりを眺むれば 金の御門に八重の堀”という凄いお城と連想されます。
しかし、実際にこの3つに描かれているのが佐和山城だったのか?というのは大きな疑問符が付いています。
『西明寺絵馬』は元禄時代に描かれた物で、これは元禄時代の絵師が元禄時代のお城を見て模写した物なので、それをそのまま三成の時代の佐和山城というのは危険です。
『多賀大社・社頭絵図』は描かれている位置から彦根城ではないか?と思われます。
『かんこ踊り歌』も最後に“裏の御門まず出でて北を眺むれば 裾は湖やや見事”という歌詞があるのですが、裏門を出て北側に湖がそこまで来てるのは、佐和山の裏門はどっちを向いていたかは解りませんが、彦根城の裏門を出てすぐ北には松原内湖が広がっていましたので、“近江佐和山見物しょ”というのは彦根城を見物しようという歌ではないか?との私の勝手な推論です。
 実は彦根城は、佐和山城と呼ばれていた時代がありました。彦根城築城は慶長7年に井伊直政が亡くなった後に始まります。今は慶長8年からか9年からかで揉めていますが、藩主が亡くなると1年は喪に服すそうですので9年ではないかと思います。慶長11年には天守が完成し佐和山城は廃城となります。その時点では彦根城は“彦根城”と呼ばれていません。1640年の年号が入った姉川の上流と下流で水争いが起こった時の資料に、村の人たちが「佐和山奉行に持って行こう」と言った物があるのですが、この佐和山奉行が井伊家の事なのです。
 この時にまだ井伊家は彦根藩ではなく佐和山藩、佐和山奉行として通っていたという事が考えられます。彦根博物館で中山道を企画した展示があったのですが、その時に江戸期の中山道を描いた屏風絵があり、彦根城の位置に“佐和山城”と注記されていて、佐和山には“古城山”と注記されていました。これは明らかに彦根城が佐和山城と呼ばれていたと示す物だと思われます。
 また彦根市立図書館が保管する佐和山城に関する記録を見せていただいた時に、『佐和山御城古実(?)』という資料があり「何や、彦根は何にも無い無い言いながら、佐和山城の資料があるんやないか」と思いまして資料を見ましたら、彦根城の築城に際して細かく書いた物だったのです、これも明らかに彦根城が“佐和山城”と呼ばれていた証拠だと思います。
 三成の佐和山城は、彦根城ができた事で破城されてしまいますが、佐和山城という名前に関してはしばらく使われていたという事です。彦根城が佐和山城と呼ばれていた事によってますます謎は深まります。資料が混同しているのでますます解らなくなる理由になります。
『古城御山往昔咄聞集書』の最後に“井伊家が彦根の地に移ってきた時に、(石田一族の事を)善くも悪くも口に出して話す事はご法度だった”と書かれています。ご法度が解かれるのが『聞集書』が書かれる1727年になるのですが、関ヶ原の合戦から127年は佐和山城に関して喋る事も領民は許されず、佐和山の登城口は門番が立ち入山も許されませんでした。そんな中で領民の中ではどんどん佐和山の記憶も薄れて行ったのだと考えられます。
 井伊家にとっては石田家に対する思いを封じ込めるために取らなければならない行動だったのだと思います。

『三成伝説』を書くにあたりまして、彦根市内のお寺について書いている章があります。それは石田三成や佐和山城に関わるお寺を書かしていただいたのですが、鳥居本に専宗寺という聖徳太子所縁のお寺があり、そこには三成と足軽北助のエピソードが残っていました。佐和山城が落城する最中、足軽の北助は「何か三成を明かす物を持ち帰りたい」と佐和山城の城門の扉を持ち出しました。その扉が専宗寺の太鼓門の天井板に使われています。

 『三成伝説』の本が出来て専宗寺さんに持って行くと「この話は本当なんでしょうか」と仰られました。私は落城して400年も経てばその様な逸話の一つ一つが本当か?嘘か?というのはどうでもいい気がします。それよりもその様な話が残った背景の方が興味を惹かれます。
 他にも古橋の七つの言い伝えについて書いています。古橋(木ノ本町)は三成が関ヶ原の合戦に敗れた後に落ち延びた場所で、三成の母親の生まれた場所だとの説もあります。そこで三成はしばらく匿われますが結局は東軍の田中吉政に捕まります。
 その古橋に七つの言い伝えがあります。
1.養子を他の村から迎えるな
2.苗代の種まきは午前中にしない
3.朝霧はなかなか晴れない
4.腹痛には韮粥
5.金谷橋の語源は金やる橋
6.味噌汁に沈む澱
7.自生の茶の木が多い
例えば、“1.養子を他の村から迎えるな”というのは、三成を匿っている事を告げ口したのが、唯一養子で入っていた男だったそうです。ですから古橋では養子を入れない事で結束を固めました。
 この言い伝えの出典がどの本に載っているのかを古橋の方に訊ねると、「これは何にも書かれていない事で、ずっと口伝えで言い伝えてきた事だ」と仰られました。養子を迎えないのは昭和24年までの約350年間、三成を匿い切れなかった念を言い伝えてきた背景が、専宗寺の北助のエピソードではないですが、江戸時代を通じて悪く書かれてきた石田三成を「そんな人ではないのだよ」と地元の人に慕われてきた想いが籠っているのだと思います。
 私が『三成伝説』で担当したのは、史実だけではなくそういうエピソードが多いのですが、逆に地元に残るエピソードを拾う事で三成が地元では凄く慕われていたという事を、私の立場から発信していけたらと思いました。


先月、東京の代官山で佐和山城の話をしてきました。その時に話の締めで言わさせていただいたのは「西軍にとって関ヶ原は決戦の場所だったのですが、佐和山は決戦を決断した場所です、三成が決断した事が天下分け目と言われてこの国の歴史を大きく動かした事になるのです」と。
 佐和山は決戦の地である関ヶ原に負けない、大きな決断をした場所です。ですから関ヶ原に負けないだけのアピールをしていきたいと思います。
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『高野瀬氏について』

2009年10月11日 | 講演
肥田城の城主は高野瀬という一族ですが、その本貫地である高野瀬の地名を残した場所が近くにあります。
そんな高野瀬地区の公民館から、高野瀬氏の簡単なお話を頼まれた『どんつき瓦版』編集長。

元々は公民館のお祭りの一環としての〆のお話ですので、短い時間でまとめ1ヶ月後に彦根市文化財課の方がお話をされる前哨戦とも言える内容ですから、本当にさわりだけのお話でした。

そんな編集長の話を紹介します。

~~以下、本文~~

この間、肥田城水攻め450年のシンポジウムでお話させていただきました。
肥田城の城主・高野瀬氏は元々この近くの高野瀬城の出身ですが、有名になったのは肥田城なので、高野瀬地区ではあまり語られません。でも高野瀬は凄い大名です。
当時は観音寺城の佐々木六角氏が近江守護職を勤めていて、近江守護なので合戦では1万2万の兵を集める大大名でした。それに対し高野瀬氏は一つの地域でしかない訳で千人くらいしか人を集められません。
その代り佐々木六角に対し城を守ったという事で、相当強い武将だったのではないか?と考えられます。

よく調べてみると、肥田城には明銭という中国のお金が明治になって発見されました、話を聞くと高野瀬地区でも「お金が眠っている」という言い伝えがあったと聴きます。それを聞くと明銭の話も納得できます。
実は、明銭が出てくると言うのはそれだけ価値があるものです、それは、高野瀬氏は高野瀬地区から出た豪族ですが肥田に移った。
高野瀬氏は高野瀬地区を通る東山道(中山道)に関所を設けて通行料を徴収し、肥田で下街道(巡礼街道)の通行料を徴収したのも高野瀬氏だと考えられます。
高野瀬氏は帝に対して瓜を献上していました。瓜は中国から入って来た物ですので、中国から輸入して高野瀬地区で熟した瓜を帝に献上するという事は、琵琶湖の勢力図も高野瀬が握っていた(絡んでいた)かも知れない。
と言いうことは、高野瀬は相当お金を持っている。財力があるという事はそれだけ人を動かす事も出来るのです。
佐々木六角は、ひとつの豪族が浅井に付いただけでなぜ何万もの軍勢で攻めてくるのか? しかも攻めた事に対して高野瀬氏は受けて立つのか?

肥田城のシンポジウムで中井均先生が、「当時の戦いは、攻めて来れば火を付けて逃げるのが常識なのに高野瀬は城に籠った」と言われました。浅井長政が救援に来るといいますが、当時の浅井長政は16歳です、高校一年生です。
高校一年生が来るのを待つというのは、相当変な話ですので、当時の高野瀬氏は強い大名ではなかったのではないか?と思うのです。

その後の高野瀬氏は、浅井長政・織田信長と主を変え、柴田勝家と一緒に越前に行って自刃した事になっています。高野瀬氏はそこで終わったと思われていますが、桜田門外の変の時に江戸の上屋敷から彦根に対して井伊直弼の危急を報せる役目をした方の一人は高野瀬喜助という高野瀬氏なんです。もしかしたら幕末まで残った家は分家かもしれませんが地域の方がもっともっと調べてくれれば、面白い話が出て来るのではないか?と思います。

今までは彦根市は彦根市だけ、豊郷町は豊郷町だけだったかもしれませんが、彦根市が定住自立圏構想を打ち立て、先日調印がありましたが、ハードだけではなく、文化面などのソフトの交流もしていく、高野瀬の人も学ぶことが大切ですし、彦根に行けば博物館も文化財課もありますそこには古文書が読める方もたくさん居ます。そんな方々を利用して地域で眠っている歴史を掘り起こしていただければ嬉しいと思います。
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日本100名城「岡崎城」訪問記

2009年10月10日 | 日本100名城と続100名城
2009年、再建50周年を迎えた岡崎城に行ってきました。
再建50年ということは、伊勢湾台風が上陸した年に出来た事になりますね。昭和34年3月30日に設立となっていますので、たった半年で大きな試練を受けた城なのです。


【岡崎城大手門】


さて、岡崎城は徳川家康の生誕地として知られ、城内には家康の産湯に使った井戸もあります。


最近、管理人が城郭資料となっている『主図合結記』では、岡崎は江戸時代に本多家や水野家といった有力譜代大名が5万石で治めていた場所だったようで、その城郭は典型的な平山城だったそうです。
ですので、本多忠勝の像がありました。

しかし家康の像は写真の代表的な物を含め3体も見る事が出来るのです。


岡崎城が最初に築城されたのは康正元年(1455)に西郷頼嗣(青海入道)という人物だったそうで、この人物の名を残した青海堀という深い空堀も見ごたえだありますので、訪問される時は必ず見て欲しいと思います。


天守の前には、家康の人生訓とも言える「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず、不自由を常とおもえば不足なしこころに望おこらば困窮したる時を思いだすべし」で始まる『東照君遺訓碑』があります。
家康の教訓を胸に刻みながら岡崎城天守に登るといいかもしれませんね。


天守を見学した後に、上から麓の建物を見ると瓦が割れている部分があったのですが、先日の台風18号の被害なのでしょうか?

大手門近くには、東隅櫓再建工事も行われていました。完成が楽しみですね。




そして岡崎城に行ったならば、行かなければいけないのは“大樹寺”だそうです。ここには徳川将軍家代々の位牌が安置されています。
その位牌は将軍の亡くなった時の身長に合わせているそうで、増上寺の徳川将軍家菩提所の遺骨を調査した時に1cm程度の誤差しかなかったそうです。
この位牌を見ると、幼くして亡くなった7代将軍家継の身長が135cmと低かった事は解るのですが、なんと5代将軍綱吉はそれよりも低い124cmしかありませんわ…

そんな大樹寺の正面からは遠くに岡崎城が見えるようになっていますが、写真では写りませんでしたので、皆さんの目でお確かめ下さい。
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台風18号の爪痕

2009年10月08日 | 彦根城
2009年10月7日から8日にかけて日本列島を襲った台風18号で、彦根城にも被害がありました。

城内では天秤櫓の西側の石垣が高さ2m幅6m渡って崩れ、太鼓門櫓の壁も高さ30cm幅2m剥がれ落ちたそうです。
また旧開国記念館の隣の旧木俣屋敷では、木塀が40m以上倒れました。

管理人が確認に行ったのは夜になってからですので彦根城内には入れませんでしたが、旧木俣屋敷の塀を見てきました。
偶々犬の散歩をしていた方が「無くなってる!」とびっくりされて居ました。

《塀があった時の旧木俣屋敷正面》


この写真の向かって左側が最初に紹介した写真の部分です。
無くなってしまった塀の長さが台風の力を物語っていますね。


ちなみに天秤櫓近辺の石垣は修復予定があったそうですし、太鼓門櫓の壁は至急修繕申請をするそうです。
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10月7日、橋本左内斬首

2009年10月07日 | 何の日?
安政6年(1859)10月7日、橋本左内が斬首となります享年26歳。
150年後の今日、彦根から井伊家当主をはじめとする人々が左内の出身地である福井市に訪問して、左内の墓参りをされました。

【福井市の墓所近くにある橋本左内の像】


左内の主君である松平慶永の記録を元にその人生を紐解くと、
橋本左内は天保5年(1834)3月11日に福井城下に生まれ、父親は医術をもって福井藩に仕えた人物だそうです。
左内は幼い頃から学問を好んで成長してからは大志を抱くようになったのだとか。性格は温和で純粋・謙虚、人と争った事も無かったそうです。
16歳で大坂に出て緒方洪庵に学び3年後に父の死で家督を相続して福井藩医に加えられ、22歳で藩医を免ぜられ御書番院となり、福井藩校の教育改革も行ったそうです。
24歳で主君近くに仕える内用掛となり、慶永は重要な任務に参画させました。
この事から、当時の幕府内の勢力争いでもあった将軍継嗣問題で一橋慶喜を推していた慶永の代わりにあちらこちらで政治活動を行うようになり、安政5年10月23日に江戸町奉行所に呼び出され福井藩邸で禁固となり、翌年10月2日に小伝馬町牢屋敷に入れられて7日に斬首となったのです。享年26歳。


吉田松陰は死の直前に残した『留魂録』の中で橋本左内について述べた一章を残しています(第十四章)。全文を紹介しますと、
《一、越前の橋本左内、二十六歳にして誅せらる、実に十月七日なり。左内東奥に坐する五六日のみ。勝保(勝野保三郎)同居せり。後、勝保西奥に来り予(松陰)と同居す。予、勝保の談を聞きて益々左内と半面なきを嘆ず。左内幽囚邸居中、資治通鑑を読み、註を作り漢紀を終える。又獄中数学工作等の事を論ぜし由、勝保予が為めに是を語る。獄の論大いに吾が意を得たり。予益々左内を起して一議を発せんことを思う。嗟夫(ああ)》

左内が5.6日牢に居ただけで処刑され、その間に左内と同室だった勝野保三郎が松陰と同室になり、左内が数日間で勝野に語った事を聴いただけでもその有能さが伺え、一度も面識がないままに左内がこの世から居なくなったことを松陰が嘆いています。
その中で左内が幽閉中に『資治通鑑』を読んで注釈を付けた事や『漢紀』全30巻を読破した事にも感動をしています。

賢者は賢者を知ると言う事でしょうか。そんな吉田松陰も20日後(10月27日)に30歳で斬首となるのです。

明治に入り松平慶永は「慶喜を推したのは誤りであった」と述べていますが、そうなると左内は誤りの中で一生懸命に働き命を落とした事になります。
しかしその原因はやはり安政の大獄にある事も間違いではありません。安政の大獄は「当時としては当り前の判決であった」との意見もあります。それが正しいのか否かを述べるのは今回のテーマではありませんが、惜しい人材を失った事は間違いないようです。

ただし、ちょっとだけ井伊直弼(というか長野主膳でしょうか?)の肩を持つならば、橋本左内は吉田松陰や他の刑死者とは違って、福井藩の保護要請があれば幕府もそれを認めざるを得ない立場でもありました。歴史にもしはありませんが松平慶永が藩の威信にかけて左内の助命運動をしていたならば、明治政府は有能な人材をもう一人確保していたかもしれないのです。
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麻のふんどし

2009年10月04日 | その他
毎日新聞のサイトを見ていたら
【<ふんどし>地元職人と青年団がタッグ  滋賀・彦根の地区】
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20091003k0000e040035000c.html
との記事がありました。


ニュースのページが消えた時の為に簡単に記事を紹介しますと…
《彦根市稲枝地区の青年団が地元伝統の麻織物「近江上布」の職人と協力して、「ふんどしで地域を、そして日本中の人を元気にしたい!」との夢を持って、麻のふんどしの製造・販売を始めました。

ふんどし作りに至る経緯は、2007年春に馬場昭さんが「音楽祭を地元で」と思い立って公民館にかけ合ったがその年はOKがでず、逆にこれがきっかけとなって休眠状態だった「稲枝青楽団(青年団のような物)」を再活動させる。

活動の一環として講演会の講師に招いた近江上布の伝統工芸士・大西實さんの「妥協しない、嘘をつかない、プライドを持って仕事をする」という姿勢に惹かれ一方で心を込めた正直なモノ作りが必ずしも経済的に報われない現実も知る。
「大西さんの布をもっと売り出せないか」と思いついたのがふんどしだった。

馬場さんはかつて海外を旅した時、同宿の日本人男性がふんどしを下着や浴用タオルに活用する姿に感心し、以来、自身も下着として愛用してきた。大西さんも「若い人の考えることやから、きっと楽しいやろう」と麻布の提供を快諾した。

青楽団メンバーらが自宅で縫製や包装を手がけ、今年1月からイベントなどで販売を始め、既に100枚以上売れた。「夫や息子に」と手に取る女性が多く、「私もはいちゃおうかな」との声も。収益は来年夏に計画中の音楽祭の資金になる。馬場さんは、ふんどしの向こうに地域の人たちの笑顔を思い描く。

ふんどしは麻100%のほか、綿やシルク混もあり、1枚2300円。》

との事でした。記事の内容を若干手を入れましたが、後半の管理人の知らない部分はそのまま紹介させていただきました。


↓大西さんの講演はこのブログでも2009年1月11日に紹介しています。
『稲枝の麻と麻織物』
http://blog.goo.ne.jp/hikonejou400/e/af54b6edeb77e1856ba83e94da7f8092



この活動の中心となっている馬場昭さんは、管理人が所属する『どんつき瓦版』編集部の立ち上げ当時からのメンバーで、創刊号ではTOPページの記事を書いてくれた人です。
その後は、新聞記事にもあったイベントを開催する夢を大きくされる為に、記事中心の『どんつき瓦版』に籍を置きながらも、無くなっていた稲枝青楽団を復活され青楽団の活動を通じて稲枝発掘に貢献されている好青年です。

先日の“肥田城水攻め450年”のイベントでも青楽団は後援として大きな活躍をされていました。
ここまでの努力をされたのは、馬場さんの地元を愛する力があってそれに共感した仲間が居てこその事だと思います。
この記事を読んで改めて、『どんつき瓦版』としてこれからも連携プレーで楽しんで地元発展を目指したいと思いました


一部ネット上の話題では、このふんどし「2300円は高い」との意見もあるようですが、近江上布は麻を使った物で、今は麻がなかなか手に入らず記事に出てくる大西さんも、苧麻を探したりして苦労されています。
また麻は布にするのも様々な工夫がいる物で、近江上布に近付ける為に行われる工程には大変な手間が掛っています。
生産者が少ない分、どうしても供給が少なく高価になってしまいますがそれでも安くされているくらいなんですよ。
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『井伊直弼の茶の湯―好みの道具―』

2009年10月03日 | 博物館展示
彦根城博物館では、2009年10月1日から26日まで『井伊直弼の茶の湯―好みの道具―』という展示が行われています。
10月3日はそのギャラリートークがありましたので、聴講に行きました。

井伊直弼と茶の湯をテーマにした展示は今までに何度も行われていますので、その度々に直弼の茶の湯感に触れる機会がありますし、管理人の手許には直弼が著した『茶湯一会集』の陰影を纏めた本もありますから、学ぼうと思えばいつでも学べる物の筈なのですが、茶の精神は一言では表せないだけに難しいもですね。


「そもそも各流派の違いはなんやねん!」とそこから頭を抱えています。今回一つ分かった事は石州流は一派を立ち上げるのには結構寛大に許可をしていた。との事でした(大名茶ですから、お殿様のレベルに合わせたのかもしれませんが…)。
そう考えると、井伊直弼の宗観流は思った以上に簡単にできた物だったのか、ならば直弼の茶の湯の腕はどのくらい?との疑問も浮かんできました。


さて、そんな?がたくさん飛ぶ茶道具の展示は、井伊直弼が自らの手で作った道具や、作らせた道具、自分の和歌や思想と合わせた道具、そして見立ての道具など多分野に渡って展示されていました。
この展示の中で、「直弼の茶の湯の腕」の疑問に答えが出せるような展示が『月次茶器』と言われる12の棗でした。これは藤原定家の鳥と花を歌った12か月の和歌を各月ごとにデザインされた物なのですが、それを直弼が注文して作ったのが8代目中村宗哲という名工なのだそうです。
デザインは一般的によく使われた物で直弼のオリジナリティは無いそうなのですが、塗や色・形などの細かい注文を直弼が行っていて、「名工にそこまでの注文をして作らせるだけの見識を直弼が持っていた証拠となる」そうで、特に塗りは注目すると違いが分かる物が数点あります。

また、日光の栗山桶を使った見立て道具をたくさん作って所縁の人に渡していたそうです。多くの人に配ることで、受け取った人との美意識が共有し、それは流派の美意識を広げ伝える結果にも繋がるのだとか…


自ら作成する事で茶人に思いを馳せるのも大切な茶人の心得であり、道具を組み合わせる事でもまた想いを伝える事になる。
たかが茶道具、されど茶道具…
茶道の長い歴史を知るスタートが始まったのかもしれません。
その最初は、自ら手を加えた茶道具を手にとって眺める直弼を想像することであり、展示の中から直弼と想いが重ねられるような見学者好みの道具を見つける事のようです。


写真は『月次茶器』から10月の物をアップしました。
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