彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

7月25日、五代藩主・井伊直通死去

2007年07月25日 | 何の日?
宝永7(1710)年7月25日、井伊直通が亡くなりました。


直通は四代藩主・井伊直興の八男になり 母は側室・小笠原氏。


井伊直興は子沢山で33人の子どもが居ましたがその殆どは早くに亡くなってしまいました。
直道はそんな直興の19番目の子どもになります。

直通を一言で表すなら“仁徳の君主”とでも言えば良いでしょうか?


多くの話が残っていますが、その人柄を一番語るエピソードは彦根城に初入城した時だと思います。

13歳で藩主の座を譲られた直通は、その殆どが江戸で過ごす事となりました。そして21歳の時に将軍の代替わりによる京都上使として江戸から京へ向かう途中で彦根城に立ち寄ったのです。
彦根城に入城した直通は家臣達の目も憚らずに大粒の涙を流して泣きはじめたのでした。
家臣の一人がその理由を請うと、直通は「先祖の武功によって、我が井伊家はこの城郭を賜ったのだ。
今、私は多くの領民に君主と仰がれているという幸わせを感じると、知らず知らずの内に涙が溢れ止める事が出来ない」と口にしたそうです。


他にも・・・
贅沢を禁じ質素を旨としていて、食事は自身を空腹にして粗食でも美味しく食べれるようにしていた。

家法の壷を割った家臣が罰を受けようとしているのを耳にしてその罰の執行を中止させました、そして「壊れた物の為に人が罰を受けるのは無意味である」と口にした。

土木工事は家禄が高い家臣にやらせ、家禄が低い家臣の不満を柔らかくした。

などの美談を多く残しているのです。


しかし、残念な事に京都上使としてのエピソードを残した翌年に彦根で病没しました。享年22歳
直通は、長生きをしたならば父・直興にも負けないくらいの名君として彦根藩史に名前が残ったとも言われているので、若くして亡くなった事が残念がられている人物です。

イベント『ひこにゃん氷像 』

2007年07月22日 | イベント
7月22日、彦根城博物館の前でひこにゃん氷像が作成されました。
題して『氷の彫刻だ!彦根城』

滋賀県内の有名ホテルの料理長3名が130キロの氷の塊を切って約2時間掛かりで完成しました。
高さは(新聞記事によると・・・)約1.8m。

とても涼しげな雰囲気を周りに与えていましたが、夏の暑い日でしたから段々溶けていく様子が儚さもありましたよ。


明日7月23日で400年祭は折り返し地点。
氷のひこにゃんに笑われない半期を過ごしたいですね。

7月21日、ハリス来日

2007年07月21日 | 何の日?
安政3(1856)年7月21日、初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが伊豆下田に到着しました。

ハリスはアメリカではニューヨーク市教育委員長として授業免除の大学の設立に貢献し(現・ニューヨーク大学)、下層階級者の高等教育の道を切り開いた人でした。

ハリスの理念は「教育に民族・宗教・貧富の差があってはならない」というモノで、日本に来日し、後進国と予想されていた国にアメリカの高等教育を広める事が一番の目的だったと言われています。


しかし実際に日本にくると、この当時で識字率80%を誇った日本に逆に驚かされる事になったのです(これはペリーも驚いている)。

以前、「寺子屋 力石」の項でも書きましたが、当時の世界的な識字率は、先進国と言われたイギリスやフランスで30~40%しかなく、しかも女性は字を読めないのが普通でした。これらの国の現在の識字率が80%と言われています。


日本では幕末時に現在のヨーロッパでの識字率を誇り当然女性や子どもでも読み書きをする事ができたのです。現在の日本の識字率は99.9%以上を誇っています。


これは、日本には寺子屋という制度があった為だと言われていますが、この事実はハリスを驚かせ、教育への介入を諦めさせました。
もしハリスの思う通りの教育に変わっていたら今の日本人は英語を話していたでしょうが、今では99.9%以上の人が字が読めるという日本人の識字率は下がっていたかもしれません。


でも、ハリスを派遣される自体がアメリカの日本への期待だったと考えてもいいんですよ。
やがて、ハリスの交渉と井伊直弼の英断によって日米修好通商条約が結ばれるのです。

彦根城周辺史跡スポット:「延命山地蔵尊」

2007年07月20日 | 史跡
彦根市の最南端の町・新海町の中に伝わっているお地蔵様。


ここには2体のお地蔵様が祀られているらしいです。
由来書によると。

一体は彦根城築城の時に石垣として徴収された石が村の中で足りなくなり、最後に1個をお地蔵様の身体を使ったのだとか・・・
そのため“施恩の地蔵”と呼ばれているそうです。
なお、無くなった身体の代わりに木を使って新しい身体を作られたそうです。


もう一体は、彦根城築城から100年ほど過ぎた頃に琵琶湖の浜に打ち上げられたお地蔵様の首を、この辺りの郷士だった木村源太郎重要と言う人物が京都の仏師に頼んで身体を作ってもらったのだとか・・・
このために“報恩の地蔵”と呼ばれているそうです。


同じ様に身体を無くしたお地蔵様が二体も新たな身体を得て安置されているという、不思議ですが信仰心の深さを感じる場所ですね。

7月14日、彦根藩最後の日

2007年07月14日 | 何の日?
明治4(1871)年7月14日、廃藩置県の詔書が出されました。これは地方分権国家が中央集権国家となった瞬間でもあり、各藩が消滅した日でもありました。

江戸時代の政治体制は完全な地方分権国家でした。支配地は幕府が決めて大名の支配を認めますが、その大名からの税収がある訳でもなく幕府の収入は自らの領地である天領からの収入だったのです。
収入がその様な形なら、支配体制も同じやり方でした。
基本的な法律というものは国家レベルであるのですが、細かい規定は藩によって違ったのです。


そんな藩と言う考え方は、この2年前(明治2年6月17日)に版籍奉還という形で土地と民衆が政府に属する形になりました。そして各藩の藩主が県知事となったのです。
これは、形は幕藩体制の廃止となったのですが実質は江戸時代のままでした。
彦根藩もこの時に彦根県が成立し、井伊直憲がそのまま彦根県知事に就任したのです。


そこで、藩主がそのまま県知事となる形を廃止してその土地とは全く関係が無い知事が派遣されるようになったのですこれが廃藩置県です。

しかしこの政策はそれまで藩の役人として働いていた藩士の大量解雇にも繋がりました。各地方ではそんな武士を救済する体制を考えたり、反乱が起こったりと様々な形で国が乱れていく事になったのです。
この国の乱れは明治10年の西南戦争まで続きます。


彦根では大きな反発は起きませんでしたが、武士たちを救う為に大きな製糸工場が作られる事となったのです(『彦根生糸』の記事参照)。


この廃藩置県を切っ掛けにお城の建物を取り壊す運動が盛んになります。

明治9年、彦根城では『彦根城博覧会』が行われ、この博覧会を最後に取り壊しが行われる事となりました。
明治11年には天守が800円で売られ、足場が組まれて取り壊す形ができていたのですが北陸行幸で彦根に立ち寄った明治天皇と共に彦根にやって来た大隈重信が彦根城の美しさを認め、残すように明治天皇に進言した為に保存が決定したのです。

こうして、彦根城はそのまま残される事となりました。
この後、彦根出身の政治家は大隈重信に従う事が多く登場するのです(『大東義徹』の記事参照)。

7月11日、佐久間象山暗殺される

2007年07月11日 | 何の日?
元治元(1864)年7月11日、佐久間象山が木屋町三条上ルの路上で河上彦斎らに暗殺される。享年53歳。

象山は、信州松代藩士で、登用されたのは彦根藩十代藩主・井伊直幸の息子・幸専が藩主だった時代ではなく、その養子で松平定信の息子・幸貫の時ですので直接彦根藩に関わる事は殆どありません。
あえて探すなら、井伊直弼が幕政に参加しはじめた頃に老中だった阿部正弘が何かと気にかけていた学者として直弼の耳にも入っていたと言うくらいでしょうか?

しかし、幕末を扱ったドラマなどで深く歴史を追求しているものでしたら象山の口から彦根城の言葉が出てきます。そしてこれが象山暗殺の原因となるのです。


前の年の八月十八日の政変や、この年の祇園祭に起った池田屋事件などで追い詰められていた尊王攘夷派の不満が京都の町の中で日に日に大きくなっていました。
そんな京都の街中を白馬に乗せた西洋鞍に跨って闊歩している一人の男は、あまりにも無用心だったと言うしかありませんね。

その男は佐久間象山。
この頃、長州藩士が朝廷を襲って天皇を拉致する計画があったと言う噂があり、象山は「天皇を守るために彦根城に行幸する事」を進言したと言われています。
象山が元々開国論者であった事・天皇を彦根に移す計画、そして堂々過ぎる京都での態度に怒りを覚えた刺客・河上彦斎らによって木屋町三条上ルの路上で襲われたのでした。
象山は、最初に斬りかかられた時に馬を走らせて逃げようとしたが、馬の前に彦斎が立ちはだかって落馬。
刀を抜いて振りかぶった処で彦斎に斬り下げられ後ろから彦斎の同志に刺し貫かれて絶命したのです。
彦斎はこの前から人斬りとして有名でしたが、この時「初めて人を斬ったと思った」と後述しています。


ちなみに、象山は開国論者でありながら黒船来航時には徹底抗戦論を幕府に提出しています。
この意見書は無視されますが、もしかしたらこの後に大きな戦略を秘めていたのかも知れませんね。

彦根城周辺史跡スポット:「天寧寺」

2007年07月06日 | 史跡
彦根市街から国道を越えて名神の彦根インターに向かう手前に五百らかんへの案内看板を目にします。
その道に入り、狭くて急な坂を登ると閑静なお寺に到着。
天寧寺と呼ばれるこのお寺には、井伊家に関わる悲しい恋の物語が残っています。


井伊直清は、十一代藩主・直中の長男として誕生し生まれてすぐに後継として期待されていました。
しかし、直清は側室の子どもだったので、正室の子どもである弟(直中の三男)・直亮が生まれると廃嫡になったのです。
直清14歳の時でした。

しかし、直清は藩主の座に執着する事が無かったようで、早々と若隠居として藩からの捨扶持を受けていたのです。
直亮が十二代藩主に就任して父・直中が隠居してもその生活が代わることが無かったのです。

幼い弟(直中の十四男)鉄之助が遊びに来るようになった以外は・・・


文政2(1819)年、彦根城内で大きな事件が発覚しました。
男子禁制だった槻御殿の腰元・若竹が妊娠している事が発覚したのです。
 
当時の槻御殿の腰元は藩主の目に止まればそのまま側室への道が開ける立場だった為に特に取締りが厳しく、この話はすぐに隠居していた直中に届き、直中の指示の元に調査が行なわれました。

激しい拷問も行なわれた様子ですが、若竹は相手の男の事を話そうとはしませんでした。
 
その相手と言うのが、直清だったのです。
いくら槻御殿が男子禁制といっても、藩主一門の住いとは殆んど離れておらず、鉄之助が直清の元によく通っていた為に若竹が直清に出会うのも普通の成り行きだったのでしょう。

直清と若竹がどんな風に恋に落ち、それを育てていったのかは、今となっては想像の世界でしかありませんが、二人が真剣だったからこそ若竹は直清の名前を絶対に表に出す事はありませんでした。

こうして、直清が何も知らない内に若竹は不義の法度によりお手討ちとなったのです。


もともと病弱だった直清は、後日この報せを聞いてショックを受けて6年後に若くして亡くなりました。
その後、直中は若竹の相手が直清と知り、お腹の子は本来なら自分の初孫となる子だと知ったのです。
直中は、手討ちになった若竹と産まれてこなかった孫を不憫に思い、後悔の念を募らせてその菩提をともらう為に里根山のお城が見える絶景地に天寧寺を建立し、そこに五百らかんを安置しました。

五百らかんの中には必ず自分の探す顔があると言われています「亡き親・子供に会いたくば、五百らかんの堂に籠れ」と伝承されたくらいです。
また、天寧寺には子育て・水子地蔵尊も安置されていますが、このお地蔵様は日本最大の石造地蔵尊です。
また日本最大の木像布袋様も安置されています。
 

井伊直清と若竹は、ただ純粋に恋をしただけだったのですが立場のしがらみから若くして命を落とし、その死後にやっと認められて今は悲しい物語と共に現在に伝わっています。


ちなみに、直清のところによく遊びに行っていた鉄之助は成長して直弼と名乗ります。
管理人は個人的に直弼が幼い心の中に若竹を慕う気持ちがありそれが年上の女性への憧れとなって後に村山たか女との恋になるのだと思っています。

小説『姦婦にあらず』ではこの天寧寺が直弼とたか女との密会の場になっていますが、これもこんな直弼の思いが書かせたものではないでしょうか?
また、また境内には桜田門外の変で非業の死を遂げた直弼の供養搭や直弼の側近・長野主膳の墓・村山たかの碑があります。

7月1日、城築城始まる

2007年07月01日 | 何の日?
慶長9(1604)年7月1日、彦根城築城の第1歩となる鍬入れが行われました。

関ヶ原の戦いが終わって、佐和山城に入城した井伊直政は石田三成の色が強い佐和山城を廃城にして別の場所へ築城をする計画を立てていました。その候補地となったのは、現在の彦根城から松原内湖を越えた先にある磯山でした。

当時の直政は徳川家康の外交官兼代理人として主に西日本の大名が家康と交渉する時の窓口となっていたので、磯山に城を築いた後は城下に西国大名の屋敷を置いてここに人質を預かる計画を立てていたのです、実際に福島正則は松原内湖沿いに屋敷地が欲しい事を直政に依頼していたのです。

しかし、慶長7(1602)年2月1日に直政が関ヶ原の傷が元で亡くなりました。
後継ぎの直継はまだ13歳の弱齢だったために西国大名の人質を預かる計画は白紙になり磯山築城も一旦見直しになったのです。

井伊家の筆頭家老・木俣守勝は徳川家康に佐和山・磯山・彦根山の図面を見せて新たに新城築城の候補地を相談しました。
家康は彦根山への新城築城を指示したのです、慶長8年の事でした。

多くの準備があり、築城が開始したのが翌年7月1日になるのです。


彦根城築城開始は慶長8年説と9年説がありますが、今では8年に家康の命が下り9年に鍬入れが行われたという事で決着を見ています。ですのでどちらでも間違いではないのです。


・・・ダメ出しをする訳ではありませんが、こんな大切な日に何のイベントも無いのは400年祭として変ですよね(苦笑)