彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『近江戦国史の魅力』

2018年10月28日 | 講演
彦根ではユネスコ会議が行われていましたが、基本的に平日昼間に行う市民参加は度外視されたものでした。
世界遺産登録には地域の協力が不可欠と聞いていたのですが、これで市民協力をユネスコにアピールできたのでしょうか?

そんななか、ほぼ唯一と言ってもよいであろう市民にも開かれたイベントが小和田哲男先生の講演『近江戦国史の魅力』でした。
『おんな城主直虎』の時代考証もされていた戦国史第一人者である小和田先生の講演が一時間なので、あまり中身が濃くならなかったのは残念でしたが、時代考証での話。野良田表の戦いから彦根城築城までの彦根周辺の歴史が主たるお話しになりました。

時代考証の話では
・長篠設楽原の戦いの時に明智光秀は坂本で島津家久の接待をしていた。
・戦国期に「鳩が豆鉄砲を食らう」(まだ鉄砲が少ない)、「メガネに叶う」(メガネ自体が珍しい)という言葉はつかわない。
・小谷城は燃えてないのに、『江』の時はチーフプロデューサーに「ちょっとだけ火を付けさせてください」と頼まれて渋々了承したら、けっこう燃えていた。
などの話も飛び出しました。

近江戦国史の話では
・肥田城水攻め
・浅井の裏切りは久政の主張だったのではないか?
・佐和山城主たちの話
・佐和山から彦根へ
などの話でした。

やっぱり一時間は短い!

関ケ原に…

2018年10月21日 | イベント
『関ケ原合戦祭り2018』に合わせて、関ケ原訪問。

何年かに一度は来るのですが、実は合戦絵巻が繰り広げられる日にはあまり来なかったりします。
だいたいが一日目の講演などを聴きに来るんですよね〜

ただ今回は、本来なら20日が仕事だったこと(結局休みましたが…)と、21日に関ケ原で約束があったので二日目に訪問です。

約束の時間よりちょっと早くに来たので、ぶらぶら見ていたら、ゆるキャラにも遭遇

写真撮ったら、うまい棒貰った。

で、花押を書いている方もおられ、花押の話を聞きながら書いて貰いました。

そして、井伊直政公の陣跡から始まり、

祭を観ながら三成の陣に移動。
で、その場の勢いといいますか、井伊隊の動きを追うために烏頭坂まで行ってきました。
途中で本多忠勝の陣跡に寄り、

烏頭坂へ



『ドリフターズ』の豊久さん居た、「首置いてけ〜」と言われる直政公

島津のベンチもあり

祭を観るのとは違う関ケ原を観る時間になりましたが、烏頭坂って遠いようで実は歩いてでも行ける距離ということが実感できた時間でした。

祭の会場で馬に遭遇したら、「うし」という名と言われました(笑)


知り合いの方にもお会いでき、良かったです。

ご当地キャラ博 2018

2018年10月20日 | イベント
彦根の秋の一大イベントになっている『ご当地キャラ博』を少し覗いてきました。
会いたいキャラを探しに行くもよし、ウロウロしながらお気に入りのキャラと出会うもよし。のイベントです。
いろんなキャラに出会いました。







なんと、ひこにゃんはビバッチェくんに先導させて山車に乗って登場していました。


今年は、名刺やカードを集めるイベントも行われています。
名刺


カード

複数の名刺を作るキャラも居ました。

午前中の段階でカードが無くなったり、貰い方がわからないキャラもいましたが、集めるためにいろんなキャラのブースに寄るのも楽しいでしょうね。

禁門の変の彦根藩を追いかける

2018年10月16日 | 史跡
明治維新150年で、彦根藩の動向を調べていますが、その流れて禁門の変での彦根藩を追いかけるために京都御所を訪問しました。

行ったのは台風21号の直後だったために傷跡もまだ残っている時期です。

元治元年、池田屋事件の前辺りから京都は不穏になり彦根藩も孝明天皇の勅により藩主井伊直憲自ら京都に入ります。
軍の一部は伏見や坂本に派遣し、本隊は御所に入り直憲は天皇に拝謁。
そのまま、御所北面の朔平門外の警備を命じられました。
その朔平門外


そして、彦根藩の主要な部隊である木俣土佐隊などが中立売門と蛤御門


宇津木兵庫、貫名筑後、新野左馬助隊などが堺町御門

と広い範囲の警備をしました。
蛤御門は、会津藩に譲られた頃、長州藩が攻撃、禁門の変が始まります。
今でも、蛤御門には弾の跡などが残っているとされていますが、違うとの説もあります。


この戦いでの彦根藩の評価はあまり良くないですが、中立売門から蛤御門の間のこの辺りも彦根藩兵が戦っていた可能性も高いと考えると感慨深いです。

10月8日敦賀行き、『清明神社』

2018年10月14日 | 史跡
敦賀の地図を見ながら自転車を走らせ、敦賀市立博物館で天狗党の展示を観た後に近くの史跡を確認すると、清明神社がありました。

京都は有名だけど?
と寄ってみると、安倍晴明が一時期敦賀に滞在していたことに由来する神社とのことでした。
お社には御神体として床下に大きな平たい石が置かれていて、ここにお賽銭が乗ると願いが叶うそうです。
いざ挑戦。
あっ一瞬乗ったけど、向こうに滑って行った…

「乗らなくても願いが叶ったとお礼を言いに来て来られる方は多いですよ」
と神社の方に言われました。
「困難あるほど、叶った時に嬉しいですから」
ともお返事しましたが、こういう言い伝えがあるところで願うことは、本気の願いですから、行動する決意でもあるわけですし、清明さまのお力の凄さは日本人周知のことなので、その願いは叶いますよね。

ちなみに、安倍晴明が敦賀に滞在した理由としては港町で様々な情報が入る土地だったからではないか?
とのことでした。

御朱印も受けてきました。

10月8日敦賀行き「気比神宮」

2018年10月11日 | 史跡
敦賀に行くと何度も前を通っていたのですが、なかなか参拝に行けなかった気比神宮に行きました。

越前国一ノ宮とも称されていますが、越前の西端の辺りになるんですね(若狭のイメージでした)。
仲哀天皇が国家安全を祈願し、神功皇后が武内宿禰らを従えて参拝したという由緒があり、仲哀天皇と神功皇后のご夫婦を合祀して文武天皇が本宮を修宮されたのだそうです。
古い歴史と由来がありますね。

敦賀の町は昭和20年の空襲で焼け、気比神宮もほとんどが焼失しますが、そのなかで奇跡的に残った江戸初期に作られた鳥居から入ります。
この鳥居は日本三大鳥居にも数えられていて、扁額は有栖川宮威仁親王の字になります。

ちなみに鳥居の前には敦賀近代史のなかではよく名前を見かける植山常太郎氏の名前が…
戦前戦中に敦賀で活躍した資産家で、その身内の方には(個人的に)面白い人もいます。

旗揚松という南北朝時代に関わる松があります。当時の宮司気比氏治が後醍醐天皇を奉じて神旗を掲げたそうです。すぐ近くには新田義貞が尊良親王、恒良親王と籠り両親王が亡くなった金ヶ崎城と金崎宮もありますので南朝勢力の強い地だったのですね。

江戸時代には松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅で訪れて
「名月や 北国日和 定めなき」
の句を残しています。

本殿参拝
戦火などの悲劇もあり、戦後から復興が続けられた歴史もあります。

御朱印を受け、

本殿前から脇を見ると、なかなか良い雲がでていました。

また、境内には寒い土地では珍しいユーカリの木があるのですが…
ちょっと悲しい姿なので、写真は遠慮しようかな?

10月8日、敦賀で松本零士作品に会う

2018年10月09日 | その他
敦賀に行った理由は昨日の日記に書いた通り天狗党を調べるためですが、駅の周辺には松本零士作品が色々楽しめるのも面白かったです。

そもそもが『銀河鉄道999』大好き少年だったので、未だに999には大きな憧れもあります。
ですから、駅前に止まっているバスのラッピングからワクワクしていました。


それから、駅前のアーケードに沿って、メーテルたち


999


ハーロック

エメラルダス

アルカディア号とクイーンエメラルダス号


などなどにワクワクしてしまいましたね。
敦賀は、旅の出発点にもなりうる地域ですから、999がなんて合うんだろう。

『水戸天狗党敦賀に散る』

2018年10月08日 | イベント
ネットニュースで、敦賀市立博物館において『水戸天狗党敦賀に散る』と題した特別展が行われていることを知り、観に行ってきました。

…というのも、幕末維新の彦根藩を調べているなかで天狗党も彦根藩に関わってくるからです。
そもそも、桜田門外の変で井伊直弼を襲った水戸浪士は天狗党の中の過激派だったわけですので、その四年後に起こった天狗党の乱に対して彦根藩が過剰反応してしまうのも無理はありません。
ましてや天狗党が挙兵した年は京都で禁門の変も起こっていて、彦根藩のみならず中山道の諸藩にとっては東西に兵乱を抱えている状態でもあったのです。
水戸藩は、徳川光圀が勤王の志を示して以来、藩内で佐幕派と勤王派が存在し、互いに政権争いと粛清を繰り返していました。
幕末になると、勤王派のなかにも過激派と穏健派が現れ、過激派をとくに「天狗党」と呼んだのです。
元治元年、田丸稲之衛門を大将に立て、藤田東湖の息子小四郎のカリスマも武器に天狗党は筑波山で攘夷を訴えて挙兵しました。それは佐幕派との内乱となり水戸支藩の宍戸藩主松平頼徳などは自らの意思に反して佐幕派と戦い騙されて捕らえられ切腹させられる悲劇も生みます。
やがて、幕府は若年寄田沼意尊(意次の子孫)に討伐を命じました。
この段階で武田耕雲斎が天狗党の大将になり、耕雲斎の発案で京都に居る一橋慶喜に訴えることが決定し、中山道を西に進むことになったのです。
途中和田山峠で高崎藩、松本藩と戦う他は、間道を進むことで戦闘を回避していましたが、大垣藩領に入る目前で、大垣、彦根、桑名藩に阻まれ北陸に出て加賀藩に降伏。
加賀藩から天狗党の身柄を預かった田沼意尊は、敦賀の狭い鰊蔵に閉じ込めて裁判らしい裁判もないままに天狗党のほとんどを処刑したのです。
この時に、一番処刑に積極的だったのが直弼の敵討ちと張り切った彦根藩だったのです。

そんな救いが無い人々の資料ですが、敦賀では積極的に天狗党資料を集めていた感もあり、しっかりと見せてくれる展示でした。
天狗党の評価は難しいところで、水戸藩内の長い粛清の歴史のなかでは佐幕派に対しての攻撃もやむないところもあるとしながらも栃木町で行った田中愿蔵の横暴も天狗党の一部であることも事実として受け止めねばなりません。
そもそも、水戸藩はこれらの争いが常に粛清になったことで、明治を迎えたときにほとんど人材が残らなかったという問題も抱えてしまいます。

そんな歴史の裏を垣間見た気もします。
図録の他に天狗党資料を集めた物もあり、訪問した価値はありました。

この後に松原神社によって、武田耕雲斎ら天狗党の墓参り。



境内にある天狗党が閉じ込められた蔵の一棟を移築した資料館も見学しました。


彦根市民であり、井伊家の研究者としては重い空気が漂っている場合のひとつです。

(追記)
この記事を書いた時は彦根藩の復讐について仕方ないと思っていましたが、この場で購入した史料を調べると『第貮號』(水戸天狗党一件日記)には処刑が決まり三藩に斬人を出すように命じても「諸士之内斬人望無之哉」と斬る役を希望した者がいなかったと記していて、彦根藩は私怨ではなく公務として処刑を執行しただけであったことがわかりました。

『京のかたな』

2018年10月07日 | イベント
京都国立博物館では初となる大規模な刀をテーマにした展示が行われていますので観てきました。

…とは言っても日本刀はよく判らん(笑)
ただ、最近はゲームの影響で日本刀がブームであるらしいことは知っていましたが、朝一時間半前に現地に着いたのにすでに凄い行列、そして女性が多いのが印象的でした。

展示としては、ある程度時代順、派閥毎に分かれていて、しかも重要な物は四方から観ることができる展示になっていました。
僕は、日本刀はその物語と共に楽しむ物としてみますので、
・三日月宗近
・へし切り長谷部
・陸奥守吉行
・菊一
・左文字
が、ゆっくり観れた(だからこそ早く行った)のは、特に重要な経験でした。

日本刀は江戸時代に入ってからは細身にするように幕府から命じられるようになりますから、それまでの迫力ある美しい刀身がメインで観れるのも注目です。
その加減か、刀より太刀が多いのも骨太な展示でした。
オススメの鑑賞の仕方は、まずは早く入り上で紹介したようなメインを多方向からじっくり鑑賞しそれ以外の刀を観てお気に入りを探すでしょうかね。
開催一週間にして、図録は完売。
1か月後くらいに発送になるそうですが、それでも手に入れたい価値がある内容だと思います。

別館では、骨喰藤四郎の写しが展示されていました(これは撮影可)。



そして、ゲームのパネル展示もあり、さまざまな方が楽しめる内容でした。


井伊直亮死去

2018年10月01日 | 井伊家関連
嘉永3年(1850)10月1日、彦根藩12代藩主井伊直亮が亡くなりました。

直亮は井伊直中の三男で母は正室南部氏。
筋目正しい嫡男となります。

今まで井伊家の数多くの藩主やその世子たちを見てきて感じる事は、「なんていい人たちばかりなんだろう」という事。
じゃあ、井伊家には暴君は居なかったの?という質問になると思います。

そんな方に「お待たせしました」と言いたいのがこの直亮です。
直亮は彦根藩主の中で唯一の暴君(暗君)とされている人物です。


直亮には直清という兄が居たのですが、直清が側室腹であったために世子の座を追われ正室腹の直亮が世子となり父直中の存命中に彦根藩主の座を継いだので大きな苦労をせずに藩主の生活を送りました。

やがて、外国船が日本近郊に多く来航すると言う時代の流れから大老に就任した直亮は、フェートン号事件やモリソン号事件の対応に追われます。
そしてモリソン号事件の対応(日本人漂流者を連れてきてくれたのに砲撃した)が国内の知識人の批判を受け大老辞任に追い込まれるのです。
ちょうどこの頃、水野忠邦が前幕閣を追い落とす画策をしていてその前幕閣のトップとなる直亮が追い落とされたのではないかとも考えられます。

こうして大老から彦根藩主としての政事が中心となった直亮は、西洋の文化を取り入れるために多くの資料を取り寄せますがこれが高価だったために藩費の使いすぎとなりました。

また文化人としても大きな意欲を示します。
少し前に湖東焼を興した絹屋半兵衛をしばらく援助した後で、藩窯として半兵衛から取り上げます。
また、時報鐘の鐘の鋳造でより良い音を出す為に多くの黄金を混ぜ込んだのです。
こうして藩費を使いすぎる事は、民衆の反発を生みました。
ただし、ただの文化狂いではなく、のちに『彦根屏風と呼ばれる国宝級の作品を手に入れる時はそれに相応しい値を提示するなど、独自の着眼点を持つ一流の文化人でもありました。

また、西洋船の来航による脅威から相模国の沿岸警備を幕府から命じられますが、これは井伊家の家格ではやる事ではなく(もっと身分が下の大名がする事だった)、尚且つ警備の兵たちは上役が見ていないところではだらけていて他藩の失笑を買ったのです。

直亮はこうして井伊家の中で暗君として名を残す事になります。
そして後継ぎに恵まれず、弟直元を養子としますが直元が若くして亡くなってしまったので仕方なく残っていた弟直弼を養子に指名しました。

しかし、直亮は直弼が嫌いだったらしく、陰険なイジメをしています。
まずは、養子として江戸に入った直弼が「男だけでは不心得もあるので妾を彦根から呼びたい」と申ししれます。
これに対して直亮の返事がなかなか来ず、しばらくして直弼が欲しても与えられなかった“笙(雅楽で使用する楽器)”が送られました。
これは“妾(しょう)”と“笙(しょう)”をかけた直亮の皮肉だったと言われています。

また、直弼が養子として最初に仕事となったのは弘化4(1847)年1月26日の徳川家斉七回忌法要でした。
井伊家世子としての初仕事であると同時に初めての大舞台となったのです。
直弼は前年から官服の準備を彦根に依頼しますが新調が許されませんでした。
仕方なく亡くなった直元の衣装を取り寄せ、直亮はこの服の使用を許可したのです。
しかし、法要の数日前、もうどう頑張っても服の新調ができない時期になって「直元の衣装を使うのは外聞が良くないので使用を認めない」との報せがきたのです。
困った直弼は、病と称して法要出席を断念し江戸城に登城もできなかったのです・・・

こうした陰険なイジメも日常茶飯事だったらしく、周囲から「200年来ない、人情なし」と陰口を叩かれる事となったのです。
そして、藩主在任のまま57歳で亡くなります。
黒船来航の3年前の事でした。