彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

出雲旅行記:松江城

2013年01月20日 | 国宝五城
出雲大社から、宍道湖を挟んだほぼ反対側に位置するのが松江城です。
戦国時代に尼子氏が拠点としていた月山富田城は、守るには堅固な城だったのですが山城だったために内政には不向きでした。
関ヶ原の戦いののち、24万石でこの地に入った堀尾吉晴は、港に近い亀田山に城を築くことを決めるのです。これが松江城でした。
浜松城普請の実績から「堀尾普請」と称された吉晴は松江城築城に心血を注いだのです。

慶長7年(1602)年から始まった築城は、慶長11年(1606)に完成します。
松江城築城にあたり、さまざまな出来事が堀尾家を襲います。
まずは、吉晴の次女が婦人病(子宮癌か?)に冒されて、その苦しみから入水自殺してしまったこと、そして藩主の座に就いていた息子忠氏が、松江城築城途中で27歳で急死したこと。この死は一説には築城の実地検分中にマムシに咬まれたとも言われています。
そして、吉晴が急いで忠氏の嫡男の三之介(6歳)に三代藩主を継がせようとすると、吉晴の長女が夫の堀尾河内守との間に産んだ掃部を三代藩主に立てようちしてお家騒動を起こしてしまうのです。
結局、河内守と掃部は流罪・切腹となりますが、松江藩はこの時点で幼い藩主とそれを後見する祖父によって何とか保たれた状態が続きました。

慶長16年(1611)6月17日に吉晴が亡くなりますが、その時にも三之介は13歳でしかなかったのです。三之介は急いで元服し忠晴と名乗り、藩主自らの藩政を行いましたが、福島正則が改易になった時に広島城を受け取りに行ったこと以外はあまり業績が残されていません。
そして寛永10年9月24日に亡くなってしまうのです。忠晴には実子がいなかったので、死を察した時点で従兄弟の堀尾宗十郎を養子にする願いを幕府に提出しますが、当時は死の直前の養子願を末期養子といってこれを認めませんでいたので、堀尾家は後継ぎがないままに断絶してしまいます。
こうして松江藩24万石は三代で改易となったのです。
ちなみに吉晴は松江城完成直前に亡くなっています。

こののち、京極氏を経て松平氏が入城し、明治維新を迎えます。
天守は江戸期のまま残されている現存天守の1基で、重要文化財です。


そんな松江城を訪れたのは雪の残る日でした。
お濠では屋形船が楽しめるのですが、時間の都合で行けませんでした。

高い石垣と豊臣政権下の影響が強い下見塀が城を重層に見せます。
 
復元された太鼓櫓では、太鼓が叩けます。

石落としもあり、

開けてみるとこんな感じ

見えてくる天守はなかなか美男子です。

二の丸にある松江神社

松江松平氏初代松平直政の手水石を囲う手水舎は結構貴重な文化財なんだそうです。


いよいよ天守へ

松江城は角のない鬼瓦にも注目

外は美男子でしたが、内装は柱が多く武骨です。
 
イメージ的には優男の剣豪という城でしょうか。
  
中には秀吉の書状や

後藤又兵衛の甲冑が展示されています。

また、松江城を築城した責任者の竹内有兵衛が創った雛形も残っています。

細かい仕事ですね。

天守から下を見ると雪景色

馬洗池も冷たそうです。

こうして松江城を堪能しました。

国宝四城「松本城」訪問記

2009年11月21日 | 国宝五城
国宝四城を巡る記事も、ついに最後となりました。
今回訪問したのは松本城です。

松本城は、管理人の人生で初めての訪問でした。
姫路城と同じ規模の城でありながら、姫路城に比べて影が薄いイメージが先行していたからです。
実際に松本に到着してもなかなか城の姿が見えず、「五重の天守の割には目立っていない?」との不安感すら持たずにはいられなかったのです。
実際に松本城は、大阪城や名古屋城などの様々な巨大天守を見慣れている人にとってはそんなに大きな城ではありませんでした。

しかし、大手門方面から城の敷地に入ってすぐに目に映った城は、急に管理人の興味を惹くに相応しい風貌を魅せていました。

そこまでも重みがある漆黒の壁、そして四層目より広い五層目の造り、実は松本城が写真では大きく見えるのは、この五層目が広くなっているカラクリが目の錯覚を起こす為なのだそうです。
松本城は天正18年(1590)に、徳川家康の元を離れて豊臣秀吉に臣従した石川数正が、関東に移された家康の西上を食い止める東山道の拠点として築城された城だと言われています。
「ならば、この目の錯覚こそが城を大きく見せる為の造りだったのか?(今と違い当時は近くに建物の高さを比較する巨大建築が無い訳ですし、もっと遠くからも見えたでしょうから…)」と、目の前に見える筈もない徳川家康と石川数正(および豊臣秀吉)の知略を尽くした攻防に歴史ロマンを広げましたが、実際には元々の五層目は廻縁式だったも物が、雪国の強風と寒さが防げないために藩政時代に今の形になったのだそうです。
こんな思い違いも、歴史ロマンのなせる技なのでしょう。

ちなみに、右手に見える赤い廻縁が付いた「月見櫓」も石川時代には無かった建物で、藩政時代に造られた事が昭和の大改修で判明しています。

そんな天守を本丸側から見ると、天守のを挟むように月見櫓と辰巳付櫓が付く安定した建築となっています。

中に入ると武者走りや狭間などの様々な工夫が他の城に負けない位に凝らされていますが、御座所が最上階(6階)と4階にもあるという不思議な作りになっていました。
特に4階の御座所は建物の途中でありながらその空間には柱の邪魔が無かったのです。


訪問時期は紅葉の真っ最中で、月見櫓からは月が観れなくても紅葉を観る事が出来ました。松本藩主や藩士たちはここからどのような花鳥風月を楽しんだのでしょうかね?


松本城の特徴の一つには、まるで浮き城かのように天守のすぐ隣に内濠を残して居る事も挙げられます。
だからこそ、その水面に城を映す風流もある城なのです。

この濠にあるもう一つの名物が、赤い「埋橋」ですね、これは埋門から伸びる橋ですが、埋門は敵に悟られない為の緊急の橋ですから、まさかこんな赤い目立つ橋が付いていたとは思えないので、築城当時とは姿が違うでしょうが、今は松本城のシンボルの一つになっているのですから、日本一目立つ埋門になったのかもしれませんね。


その方向からの松本城も絵になる美しさです。


ちなみに今でこそまっすぐと建っている松本城ですが、明治の初めは西に傾いていました。
これには藩政に対して一揆をおこした加助という人物が、処刑される前に「天守に魂を宿らせ、減税を訴える。その証拠に天守を傾けよう」と言って首を斬られ、その後に傾いたという伝説が残っています。
しかし、調査で解った事は16本あるメインの柱の内の15本が腐っていた為に傾いていたのでした。
天守の解体復元調査は戦後にGHQの指示で動き出した、日本初の城郭の解体修理工事でした。
この為に慎重に慎重が重ねられ、その後の数多くの城郭解体修理工事や復元に役立てる資料をたくさん残したのです。

藩政時代は権力の象徴として不可思議な伝説を残しながらも、今は松本市民の誇りとなっていて、城下には面白い建物もあります。



管理人は彦根城を幼い頃から見て育ち、大概の城を見ても彦根城に勝る物は少ないと思っていました。
姫路城も、城と言うキーワードで見ると「プラモデルのように見える」と以前に書いたと思います。
そういった点で初めて「この城の方が凄い」と思ったのが松本城でした。

国宝四城「姫路城」訪問記

2009年10月01日 | 国宝五城
2009年10月より姫路城が5年間の改修工事に入ると聴き、姫路城を訪問しました。

世界遺産にも登録されている姫路城の壮大さや美しさは今更ながらに語る物でもありませんが、その評価は世界でも高く、とくにフランスからのお客さんが多いそうです。

さて、そんな姫路城を遠目で見ると、管理人が彦根城を見慣れている所為でしょうか?「プラモデルみたい」と思ってしまいます。
これは管理人が約23年前(当時10歳)の時にやはり同じ事を感じたのを思い出しました。それくらい外装は白いのです。


さて、姫路城の城郭に入ると戦に備えた様々な仕掛けがあります。
階段を上に行くほど狭くなり圧迫感がある通路

広い所から急に狭くなる門の前

この先にある門は高さが低くなっていて大人は身体をかがめないと潜れなくなっています。

姫路城は江戸時代に徳川家康の娘婿だった池田輝政によって築城された城ですが、その前には羽柴秀吉が城主だった時もあり、それに絡む遺構も一部残っています。
それは、羽柴時代の塀だったり、

秀吉が築城する時に領民の老婆が寄進した石臼だったりします。

特にこの石臼は、姫路城築城の為に秀吉が領民に石提供の協力を請うた時、老婆が自分の使っている臼を提供し、その事で他の領民も石を集めてきた。という伝説がある物なのですが、管理人の感覚ではこの老婆は秀吉が事前に用意したサクラだったのではないか?と思えてなりません。
その方が秀吉っぱくないでしょうか?

さて、いよいよ天主の中に入ります。
外からは白い壁で映え「白鷺城」とも呼ばれる姫路城ですが、中は柱がむき出しの無骨な作りになっていてそこがまた魅力なのだそうです。
そんな姫路城に行って一番知りたかったのは柱の構造ですが、それを紹介した模型がありました。

柱だけで気が狂いそうになるくらいの精密さが必要ですね、しかし居住には適さないようです。
そして姫路城の面白さの一つは、天守にも籠城の用意があるこです。
それは厠や炊事場も設置された事でも証明されます。
炊事場はこんな感じです。

階を上がれば、攻撃用に作られたと思われる施設もありました。

こうして上からも下からも絶え間なく攻撃したのでしょう。

最上階には刑部神社があり、城を守っています。

ここは小説『宮本武蔵』で登場する姫路城の妖怪退治の場所ではないか?とも言われていますね。

天主から降りると西ノ丸へ…
同じ棟に千姫(徳川家康の孫)が過ごした化粧櫓がありました。

最初の夫である豊臣秀頼が大坂の陣で亡くなり、大坂とはあまり離れていない姫路の地で過ごす二番目の夫との生活がどんなものであったのかは想像もできませんが、ただ静かに過ごされた事を願うのみです。
そんな千姫が見たであろう化粧櫓からの天守はこんな形でした。


城郭を回ると、切腹郭という怪しい雰囲気の場所がありあたかも刑場のような雰囲気を醸し出していた場所もありますが、切腹が行われた事は無かったそうです

また、番町皿屋敷のモデルの一つと言われている、皿を数えるお菊の井戸がありました。




姫路城は内濠より内部の保存状態が良く残っています。
その事は世界遺産としての誇りでもあるようで、姫路城のガイドさんの話にたまたま耳を傾けましたら、他の国宝の城に比べていかに姫路が素晴らしいかを力説されていました。
しかし、城にはそれぞれに魅力がある物です。逆に言えば内濠より中しか残らなかった姫路に比べると中濠まで残している彦根城の良さもありますね。

また彦根城は、城郭に入られる前にいかに敵を殲滅するかの作戦が練られた様子が多く見られますが、姫路城の説明では城郭に入られてからいかに戦うか?が鍵となるように見えます。
戦い方も考えれば、城はそれぞれに違う顔を見せてくれることを新たに発見できる訪問ともなりました。


姫路城は2010年の桜の季節が終わってから天守を覆って改修工事に入るようですので、今から約半年が今の天守を観るチャンスかもしれません。



国宝四城「犬山城」訪問記

2009年09月20日 | 国宝五城
国宝四城として彦根城などともに語られる犬山城に行ってみました。


犬山城は2004年までは国宝の城として唯一個人所有の城としても知られていましたが、その割には他の三城ほどには有名でない感がありますね。
そこで、今回は犬山城とその城主・成瀬家(個人所有はこの子孫が行っていた)の歴史を少し書いてみます。


犬山城は天文6年(1537)に織田信長の叔父・織田信康が美濃(岐阜)と尾張(愛知)の国境の木曽川の畔に立つ天然の丘に注目して築城した城で、木曽川沿いの最も断崖になっている場所を後方の守りとして天守を置き(1番北側)、その反対側に人工の櫓や塀を建造する事で守りを固めた自然を利用した堅城でした。
兵法では“後堅固之城(うしろけんごのしろ)”と呼ばれる形式で、小高い丘に作る“平山城”という築城方法では最も理想的な城とされていた形式だったのです。

“後堅固之城”は「敵が後ろから攻められない」という考えの元に出来ている城で、実際に犬山城の場合も攻め落とすには南側からの攻撃しかないと想定されていた。
永禄8年(1565)、城主が織田信康の子・信清だった時の事。信清は信長と敵対する道を選び犬山城は信長に攻められる事となるのです。
この時、信長軍が城の南側に陣を構えると思っていた信清の予想を裏切り、信長は犬山城天守と木曽川を挟んで対岸になる伊木山に仮城を築城して川と断崖に阻まれた北側から攻め込んだのでした。後堅固が逆に油断となってしまう実例だったのです、その例は(史実性は疑われますが)一ノ谷の戦いでも教訓として挙げられますね。
信長の支配下に置かれた犬山城は、信長の重臣だった丹羽長秀の所領に加えられ池田恒興・織田勝長(信長の子)などが城主を務めました。

本能寺の変で信長が没した時、犬山城主だった織田勝長も明智軍と戦って二条城で戦死します。
こうして主を失った織田家は幾つかの分裂をし、犬山城は信長の次男・信雄の支配下に置かれる事となったのです。
本能寺の変から2年後、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍が戦った“小牧・長久手の戦い”では重要拠点として注目され、羽柴軍の池田恒興が以前に城主を務めていた強みで犬山城攻略に成功し、秀吉の本陣として戦の全てを見届けたのです。
小牧・長久手の戦いが終わった後に織田家に返された犬山城は何人かの城主を迎えた後関ヶ原の戦いまで無事に残ります。でも関ヶ原の戦いの時に城主だった石川貞清が西軍に味方した為に追放されたのです。
その後、家康の子・松平忠吉(四男・井伊直政の娘婿)の付家老・小笠原吉次が3万5千石で入城し犬山藩が誕生するのです。

慶長12年(1607)、家康の九男・徳川義直が名古屋城主に指名され尾張藩を誕生させると、その傅役(後見人)だった平岩親吉が12万石で犬山城主となり犬山藩の全盛期を迎えるのですが親吉が没してしまうと犬山藩は取り潰しとなってしまうのです。
藩は無くなっても城そのものは残っていて、幕府は義直の付家老・成瀬正成を犬山城主に任命。
まだ幕府の力が安定していない関ヶ原の戦い直後では、付家老でも藩の設立は認められたのですが、幕府の力がが落ち着き始めていたこの時は成瀬家が犬山藩を作る事は認められず正成は犬山藩としての尾張藩からの独立を夢見るようになるのです。
その後、9代城主・成瀬正肥の時まで藩としての独立は叶えられなかったのですが(尾張藩からの邪魔が度々入ったらしい)、慶応4年(1868)に幕末動乱のゴタゴタの中でやっと藩として認められる事となったでした。
幕府は前年の10月に“大政奉還”で政権を朝廷に返上していたので実権はありませんでしたが、明治新政府からの公認も得られ犬山藩の体制を整える事が出来たのです。
4年後の明治4年7月、廃藩置県。
犬山藩は解体され、犬山県となりますが11月には名古屋県と合併し旧・尾張藩に戻される事となったのでした。
廃藩置県の時、多くの城は明治政府の管轄となり、その維持費の大変さから取り壊される運命が待っていました。
しかし、犬山城はそのまま保存される事となり犬山県(後に愛知県)かその管理を行なっていたのです。

明治24年(1891)10月28日、日本内陸部で起こった最大規模の地震・濃尾地震(M8.0)が中部地方を襲い犬山城も損壊、その修理にかかる経費に頭を痛めた愛知県は4年後の明治28年に損壊部分の修理及び保存管理を条件として犬山城天守とその周囲の土地を成瀬正肥に譲渡したのです。
この時から犬山城は4代に渡って個人所有の城として知られる事になるのです。
正肥の後を継いだ10代目当主・正雄は奇妙な運命に流された旧犬山藩士達の親睦に力を尽した事で知られています。
11代・正勝は舟橋聖一・堀辰雄・井伏鱒二らと『新興芸術派倶楽部』を結成した文人なのです。


犬山城の面白い所はいろいろあります。やはり古い天守であるという趣は感じられますし、内装の武骨さも戦国期から拠点となった城ならではかもしれません。
最上階では廻縁に出て外を眺める事もできますが、江戸期に禁止されたり多くの城が飾りの効果しか無かった廻縁の上を、犬山城では実用化されていて実際に歩けるのはびっくりでした。