彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

治部蛍計画

2017年05月14日 | イベント
石田三成の居城だった佐和山城。
関ヶ原の戦いの後に落城し、石田一族の墓標ともなったお城です。

その佐和山城の大手口付近に残る内濠跡とされる小川には、蛍が出現します。
数は少なく儚い光を発する蛍たちですが、それはまるで夢の途中で亡くなった三成公にも重なります。

という訳で、佐和山城址の蛍を「治部蛍」と名付け、守りはぐくんで行こうと思い、花しょうぶ通り商店街で行われた「おおたににゃんぶ誕生祭」で来場された皆様の前で協力を依頼しました。

佐和山城の蛍が「治部蛍」と周知され守って行けるように、よろしくお願いします。



関連地 彦根市 佐和山城址

5月1日、大津~長浜の鉄道連絡路が開港

2017年05月01日 | 何の日?
明治15年(1882)5月1日、東海道本線を結ぶ手段として大津~長浜の鉄道連絡路が開港しました。

イメージとしては青函連絡船と同じような役割です。もっともこの区間は湖の上ですし時代も古いので、鉄道を運ぶわけではありません。
この年に、敦賀から長浜までの鉄道が通ったために、長浜から大津を結ぶ道としてできた日本最初の鉄道連絡船が琵琶湖上で運用されたのです。

もともと明治2年に大聖寺藩が贋金で設けた資本を元手に琵琶湖上に一番丸を就航させたことから琵琶湖上の運輸は盛んになっていたのですが、バラバラでまとまった組織がない状態だったのです。それを藤田組(現・DOWAホールディングス)が頭となって太湖汽船を立ち上げたのです。明治15年時点で18隻を太湖汽船が管理し、大切な水上交通を担っていました。
明治16年には東海道線が長浜まで繋がり、東海道を結ぶ重要な施設になります。

しかし明治22年に長浜から膳所駅までが東海道線で繋がると鉄道連絡船の用途は終わりを迎えたのです。