彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

彦根城総構え400年(11)

2022年10月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 彦根藩領の町医者について前稿で紹介したが、彦根藩領出身の医者たちは日本医学史にも功績を残している。

まず挙げられるのは産科医の賀川玄悦である。日本史において大きな問題とも言える事項の一つに出産についての理解が低かったことである。資料などを読み込むと出産に対して用意される産室や産所の環境や衛生面について疑問を持たざるを得ない場面は多くある。そもそも日本では妻が出産したあとに「産褥の穢れ」として夫が数日間仕事を休むという習慣もあったのである。そんな中でも、江戸時代に入って妊娠を医療の対象と考えて研究される動きも盛んになってくる。賀川玄悦は元禄13年(1700)彦根藩士三浦長富の庶子として生まれたため家禄を継ぐ可能性は低く母の実家に所縁のある賀川姓を名乗る。鍼や按摩を学び医学を修めるために京に上る、玄悦は産科を志したわけではないが近所の女性の出産を助けたことから評判をうみ、独学で産科を研究するようになる。この頃は日本だけではなく世界でも子どもは母胎の中で頭を上にして育ち出産直前に頭を下にすると考えられていたが玄悦が母胎内の胎児の頭が下向きであることを明らかにする。産科器具も研究し産科鉗子を発明している。玄悦は徳島藩医として登用され賀川流産科の祖となり、この功績から大正8年(1919)従五位を追贈されている。

 注目すべき彦根藩領出身の医者として岡崎仲達・文徳兄弟も紹介したい。岡崎兄弟は平田山において行われた腑分け(人体解剖)に参加してその記録を残した人物である。腑分けは江戸後期辺りからよく行われるようになる。宝暦4年(1754)京都所司代の許可が下りたため山脇東洋が幕府に仕える医者として初めて腑分けを行い5年後にその記録を『臓志』という本にまとめる。この本はそれまで信じられていた人体の構造を否定するものであり大きなうねりを医学界に持ち込み、東洋が初めて腑分けを行った20年後には杉田玄白らによる『解体新書』発刊まで発展し続けることとなる。余談ではあるが山脇東洋の山脇家は近江国浅井郡山脇村(長浜市湖北町山脇)から出た家である。

 東洋や玄白が立ち会った腑分けは、処刑された罪人の体を切り開いたものであった、罪人の首は晒されるため首が無い状態での記録だった。『解体新書』は基となる洋書があったため頭部の記録もしっかりと掲載されているが、この本に触発されて各地で行われた腑分けの記録にも頭部の記載は稀である。しかし寛政8年(1796)6月24日に彦根藩で処刑され、平田山で腑分けされた様子を岡崎兄弟が記した解剖図『解體記并圖』では、頭部までの腑分け記録が残されていると『日本医学史』第62巻第2号(2016)で佐藤利英氏と樋口輝雄氏が記している。私は未見であるが彦根藩での腑分け記録に大いに興味が湧いている。


腑分けが行われた平田山(現・雨壺山)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする