彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

3月26日、足利義尚陣没

2011年03月26日 | 何の日?
長享3年(1489)3月26日、室町幕府九代将軍足利義尚が、近江国鈎の陣で病没しました。享年25歳。

応仁の乱は戦国時代を招いた内乱として有名ですが、その原因が何だったのかと言えば、義尚が誕生したことでした。
八代将軍足利義政は、正室の日野富子との間に子どもができず、弟の義視を次の将軍として指名し細川勝元がその後見となりました。しかしその後に誕生したのが義尚で、生母の日野富子は細川氏に対抗する勢力として山名宗全に後見を依頼したのです。
こうして細川・山名の両氏は将軍の跡目争いの代理戦争を行い、そこに多くの家が家庭内の事情を持ち込んで両者に分かれて全国で戦う構図となったのです。


その応仁の乱の原因はよく語られますが、結果として文明5年(1473)に、まだ混乱が終わらないうちに義政が政権を放棄する形で義尚に征夷大将軍の座を譲ってしまったのです。

義尚の評価は、文武両道、弓は一流で和歌や絵画も嗜む美青年(というか、将軍就任時は少年)だったそうです。しかし性格はけっこうきつかったようで、銀閣建造のために将軍から引退した後も一部の税収と明との貿易の利益を受ける権利を自分の手元に残していた父義政に対して己の髪を切って抗議する行動に出たり、義政と同じ女性を巡って争ったりもしています。


義尚が目指したのは荒廃した幕府権力の復興でした。
その大きな目標として、隣国近江守護の六角高頼を討伐する兵を挙げたのです。
長享・延徳の乱(六角征伐)と呼ばれる六角氏へ2度の討伐のうち、義尚が出陣したのは長享元年(1487)9月12日の1度目の討伐でした。
この戦いで、六角高頼は居城である観音寺城を放棄して甲賀に逃れ、甲賀53家が高頼の手足となって戦います。これが歴史書に甲賀忍者がはっきりと出てくる戦でもありました。
甲賀の入口付近での戦いがありますが、それ以上奥へ将軍家が入ることもできず、義尚自身は鈎の陣(滋賀県栗東市)に本陣を置いたままでした。

【鈎の陣跡・永正寺】






若い頃から病気の記録が見当たらないほど健康な将軍であった義尚ですが、酒と女には溺れていて、鈎の陣でも酒を手放さないまま長い滞在を続けました、長享2年秋、側近の二階堂政行が陰陽博士に相談すると「六十人の刀鍛冶に六十本の刀を打たせれば敵を滅ぼせる」との答えがあったので打たせて完成した翌日(らしい)、義尚発病(おいおい…)
一時は母の日野富子が看病に駆け付けるほど衰退し、回復。安心した富子が京に戻った後に重体。そして陣中で没っしたのです。
一説には甲賀衆に暗殺されたとも言われていますが、一時期は酒と水と女しか口にしないという生活を送っていたともいわれていますので、当然の死だったとも考えられます。



鈎の陣で義尚が亡くなった後、将軍の権限は義政が代行して政務を行いましたが、翌年に義政も亡くなり、将軍の座は義視の息子の義材(後の義稙)に引き継がれるのです。

賤ヶ岳に登る(『江~姫たちの戦国~』関連地)

2011年03月20日 | 史跡
そうだ賤ヶ岳、行こう…
と、急に思い立ったわけではなく、本来ならば先週の土日のどちらかで賤ヶ岳に登る予定でした。
しかし、東日本大震災の影響を微妙に受けていて、あまり遠出が出来ない様子が家の中にありましたので(でも安土までは行きましたが…)、一週ずらしての登頂としました。

先週と今週の大きな違いは、リフトの運転が開始される予定だったこと。
というわけで、さっそくリフト乗り場へ行くと、雪のために運休とのことでした。

まぁ、先週だったら登る予定だったのだし…
ということで、リフト乗り場から繋がる道を登頂甲開始。

写真で白く見えている場所がリフトのところに雪が積もっている様子です。
このリフトを確認しながら、雪道の登頂は1.5kmに及びました。


やがて動かないリフトの終点付近
ここから山頂までの間に賤ヶ岳戦没者の供養された場所があります。

山頂には、余呉湖をバックに石碑が建っていました。

賤ヶ岳の山頂は、羽柴秀吉が築いた陣城のひとつで、簡単にいえばここは賤ヶ岳砦という城跡なのです。
その本丸とも言える部分に上の写真のような石碑があります。ですからここに立てば、曲輪の形式がよくわかります。

奥に向かって本丸とも言える曲輪がありますね。

このはずれに、賤ヶ岳ではよく見かけるうなだれた鎧武者の像があります。

羽柴秀吉や柴田勝家の像を置くのではなく、あえてこの姿の名も伝わらないような武者像を置いた方のセンスは素晴らしいです。
この像を見るだけで、賤ヶ岳の戦いの苛烈さを伝えている気がします。
そんな武者像とは対照的な絶景も、この武者像をより感慨深いものにさせています。

余呉湖はまさに古戦場の辺り

反対には琵琶湖も見えます


さて、賤ヶ岳の戦いは賤ヶ岳砦を奪い合った戦争ではありません。その戦いは2つの組み合わせです。
ひとつは、余呉湖を中心に陣城を作って相手を囲もうとする囲碁のような戦い。
もうひとつは、持久戦。
この持久戦の緊張の糸が切れた時、戦いは始まり、そして切った方が負けることがほぼ決まっていました。

そんな持久戦を破る第一歩が、柴田勝家の甥である佐久間盛政が中川清秀の守る大岩山砦を攻めることだったのです。
その大岩山砦は、賤ヶ岳砦から尾根沿いに2kmほど北上した場所にあります。
尾根道は雪で滑りやすく



くぼみの中は雪溶け水でした。


中川清秀は、佐久間盛政の奇襲によって討ち死にします。江戸時代に子孫によって墓が建立され、現在に伝わっています。

近くには、清秀の首を洗った池がありますが、雪で近付けませんでした。
大岩山砦が落ちた報せを受けて、秀吉は岐阜から急いで戻って、大岩山砦のそばに布陣。
それが猿ヶ馬場です。

この地名から、秀吉を揶揄したものかと思っていたのですが、倶利伽羅峠の戦いのときに木曽義仲が布陣した場所も同じ地名なので、陣に対してこう呼ぶ何かがあるのでしょうか?なぞです…
秀吉はここに最初の陣を置き、佐久間盛政を襲い、その後に賤ヶ岳砦に陣を移しています。


さて、ここまで来てこの先どう行くのかを迷いました。
賤ヶ岳に戻って来た道を降りるには遠すぎですしまた尾根道を登らねばなりません、余呉湖に降りるのは反対…
そういえば途中で木之本に降りる案内板があった!と思い、そこまで引き返して降りました。

どう見ても自然にできたとは思えない切り通しの中を通り

途中で倒木に道を塞がれ、最後には下山口が柵で覆われて出られなかったために地元の方に助けていただいておりました。
「道が無茶苦茶だっただろうによく降りて来たな」と言われましたが、案内板があったので…(笑)
そして降りた地域が“黒田”です。

黒田官兵衛で有名な黒田一族発祥の地・黒田観音寺がある地域でした。

ここに、黒田官兵衛の墓があると誤解されていますが、あるのは官兵衛の祖先の墓です。

残念ながら官兵衛が賤ヶ岳で戦った様子はありませんが、自分自身の本貫地の頭上で天下分け目の戦いが行われたことをどう感じていたのでしょうね?

しかし、管理人にとってはここからまたリフト乗り場まで歩いて戻るという最後の山がありました。
美しい湧き水を途中で見たりと歩く発見もあります。

無事にたどり着くと、愛知県からお越しになられていた中年風のご夫婦が古戦場をお探しの様子。
声をかけ、山頂から余呉湖の方であることを伝えると残念そうなご様子でした。ここで帰しては近江人としての誇りが廃る。
管理人が使ったもので申しわけないですが…と、長浜で発行されている『よりーな』の賤ヶ岳特集の雑誌をお渡ししました。何かのお役にたてればいいのですがね。

3月19日、大津宮遷都

2011年03月19日 | 何の日?
667年3月19日、中大兄皇子が都を大津に移しました。

現在では大津宮と呼ばれている近江の都は、本来は『水海大津宮(おうみのおおつみや)』であったとの説もありますが、ここでは従来通りの大津宮で書きます。

歴史の教科書にも登場する大津宮ですが、なぜここに都が置かれたのか正確なことはわかっていません。従来言われている説は、663年に白村江の戦いで百済と連合し、唐・新羅連合軍と戦って敗戦に陥ったために、唐や新羅が日本に攻め込んでくることを想定したうえでの備えとされています。
ですから、条理制を備えた都ではなく、山と湖に挟まれた要害の地に都を作り、場合によっては船で琵琶湖を渡って、対岸から東山道(中山道)や北国街道から東国へ逃げることができるルートであったとも考えられてます。
逆説的にみれば、東国や北陸からの荷物はすべて大津の近くを通るわけですから、ここに都があれば西日本と東日本を通過するほとんどの物資・人材の流れを監視することもできるわけです。

しかし、もし海外の脅威による遷都ならば、その成立からすでに後ろ向きなものであったと考えられます。そのためか、民衆からの反対が多く、都の施設が何度も放火された、と大津宮を紹介する情報にはよく書かれています。


ちなみに中大兄皇子は、大津宮遷都の翌年に即位し後に天智天皇と呼ばれますが、この時にはすでに天皇としての公務をこなして7年目になっていましたので、年表では、
・天智天皇6年(667)3月19日、大津宮遷都
・天智天皇7年(668)1月3日、天智天皇即位
という、不思議な書き方がされています。

【大津宮址の一部に建つ近江神宮】







こののち、大津宮は672年の壬申の乱で天智天皇の息子の大友皇子(弘文天皇)が自害したことで都としての役割を終え、勝者の天武天皇が飛鳥浄御原宮に都を置いたために、近江にはたった5年しか都がなかったことになるのです。
【飛鳥浄御原宮跡地とも言われている伝飛鳥板蓋宮跡】



『「彦根屏風」を読み解く』講演聴講報告

2011年03月18日 | 講演
ひこね市民大学講座 歴史手習塾の セミナー6『屏風・絵図で識る彦根戦国・江戸史!』
3回目の講演として『「彦根屏風」を読み解く』と題されたお話がありました。
講師は彦根城博物館学芸員の高木文恵さん。


『彦根屏風』は、井伊家に伝わった江戸初期の京都の遊里を描いた風俗図として有名で、国宝にも指定されています。
その内容を細かく見て行くと、髪の描写や着物の柄などの細部にも精密に描かれた様子や、時代を反映したような顔は笑っていても目は笑っていない表情の表しかた、そして「琴棋書画」などの見立てなどが巧みに組み込まれているそうです。
現代人では分らない見立てもあるかもしれないとのことですから、まだまだ研究途中の謎を秘めた物なのですね。

斎藤工さんのトークショー

2011年03月13日 | イベント
このような時ですが、彦根で大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』で京極高次を演じられる斎藤工さんのトークショーが行われました。

まずは、今回の東北関東大震災のことに触れられて、自分が何ができるのかを考えたいというお話をされていました。
エンターテーメントを作る一人として伝えて行きたいとのことでした。

そして『江~姫たちの戦国~』についてのお話があり、撮影現場が女子高のようなイメージになっていたり、上野樹里さんが江の気持ちがわかっているということや、水川あさみさんとの対面シーンのお話などをされました。

今回は、衣装も色合いが豊かで、淡い色が使われているのも嬉しいそうです。

そして京極高次は、強い戦国武将ではなく、情けないというか周りに支えられて主を何度も変えながら生き抜いた、人間的な武将であることが、共感できて自分に似ているとのお話でした。

京極高次の登場は5月頃になるそうですが、このようなお話が聞けると登場が楽しみです。

『江~姫たちの戦国~』関連地・ロケ地巡り2

2011年03月12日 | ロケ地
『江~姫たちの戦国~』ロケ地を訪ねて、六所神社へ向かいました。

中山道を彦根から観音正寺へ向かう直前に、石馬寺という聖徳太子ゆかりのお寺があるのですが、その境内の一部にあるのが六所神社です。
本来ならば、石馬寺が目的地であり、六所神社はその途中で見る人が稀にいる程度の場所と言っても過言ではない場所ですね。

石馬寺の入口の池から




門の址の礎石を見ると、石馬寺には以前は立派な山門があったようにうかがえます。

石段を登り、左右に古い石垣を楽しみながら登ります

すると、道にずれて六所神社が現れます

この場所で、浅井長政とお市が向かい合って話す、場面が撮影されました。
第一話の真ん中辺りで、長政が信長と戦うことを市に告げた場面ですね


結構な石段を登って撮影されていますね。
そして石馬寺にも立ち寄りました。





…とせっかくここまで来たのだから、他も寄らないともったいない。
そんな理由から安土駅近くまで行き、沙沙貴神社に寄り道しました。

前はよく通るのに、入るのは初めてです。

ここは佐々木氏発祥の地とされているそうです、ですから佐々木氏を描いた絵馬もあります。


それからは浄厳院にも向かいました

ここの本堂は、織田信長が浄土宗と日蓮宗の宗論を行わせた場所として有名です。

梅の季節はまだまだ続いていますね。
日本の建物と梅は、とても相性がいいように感じます。


『「御城下惣絵図」を読み解く』

2011年03月11日 | 講演
ひこね市民大学講座 歴史手習塾の セミナー6『屏風・絵図で識る彦根戦国・江戸史!』
2回目の講演として『「御城下惣絵図」を読み解く』と題されたお話がありました。
講師は彦根城博物館学芸員の渡辺恒一さん。


彦根城の史料として必ずと言っていいほど登場するのがこの『御城下惣絵図』ですが、細かい部分を見て行くと、さまざまな彦根城下の情報が見えてくるそうです。
それと同時に、城下の広がりも見えてくるのだとか…

この絵図を見ながら今の彦根城下を歩くのも面白いそうですよ。

さて、そんな彦根城下の絵図の話から二つの質問をしました。
(管理人)
「彦根城下の絵図は、天保7年に完成したこの絵しかないのか?」
(渡辺氏)
「元禄年間の1枚物が写しである」
(管理人)
「田沼時代に山県大弐が『主図結合記』という本の中で彦根城の詳細が書かれているのですが、一介の軍学者にそんな情報が得られるのか」
(渡辺氏)
「幕府には絵図が提出されているので、幕府につながりああればあるいは可能かも」

とのことでした。
普段聞けない絵図の話が深く聞けて面白かったですね。

3月8日、大坂天保山が築かれる

2011年03月08日 | 何の日?
天保2年(1831)3月8日、大坂に天保山が築かれました。

日本で一番低い山とされてる天保山は標高4.53mしかありません。これは江戸時代に大坂に大型の船が入るために海岸線や安部川河口の工事が行われ、その時に出た土砂を積み上げてできた人口の山だったのです。


崩れないように桜や松が植えららることで護岸の堤防の意味も果たし、灯台を置くことで船からの目印にもなったので、当初は目印山とも呼ばれていたとも言われています。

この地は、明治になって旧彦根藩士族である西村捨三によって港湾として整備され、現在では大阪の主要な施設としての活躍しています。


『安土のほんまもんツアー』1日目参加報告

2011年03月06日 | イベント
『安土のほんまもんツアー』は、安土ならではの本物の魅力を体験してもらうツアーとして企画されたものだそうです。
第一弾として安土城と観音正寺のツアーが2日にわたって行われることとなり、時間の都合で両方は行けませんでしたので、安土城のツアーに参加しました。

小和田哲男先生の案内で回る安土城址のツアーです。
それも、インカム無線機を使うことで、少し離れていても先生の説明が聞けるという参加者に嬉しい内容でした。

まずは安土駅すぐの安土城郭資料館に集合します。

ここには、内藤先生が描かれた物に基づいた1/20スケールの安土城天主が再現されています。

中も見れるのですが、管理人がい行くときはだいたい閉じていました(もちろん言えば開けてくれるのですが…)

それが今回は説明のために開いていました。

すごく細部までこだわって作られています。











映画『火天の城』でこだわっていた吹き抜けもあります。

瓦は金拍がされていたであろう為に、この金が栄えるように壁が下見黒板であったのではないかとのことでした。
確かに、この模型の瓦が金で壁が黒だった時の美しさはもっとすごいものだったでしょうね。

これから、安土城まで徒歩で向かいました。
途中の城下では、朝鮮人街道を通り

セミナリオ址も通ります。

セミナリオがこの位置だとされているのは、この付近の字名が「大臼」で、これが「デウス」が変化したものだろうと考えられたからなのだそうです。

こうして、百々橋から安土城の麓を進み



大手道まで到着しました。

ここからが登城になります。

先ほども書きました通り、参加者はインカムで先生のお話を聞くので、先生は常にマイクを口の近くに持ってこられている状態です。


では登城
石段には石仏も含まれています。

これらは、たとえば葬儀の時に棺を持った人の草鞋を使ったような、呪術的な意味がこめられていて、信長が石集めのために石仏まで持ってこさせたというのとは少し違うのではないか?とのことでした。

家臣の屋敷跡もありますが、「伝○○邸」という推測でしかなく、史料があまりないそうです。






二の丸には信長墓所

安土城には蛇石の伝説があり、なかなか登らなかったのが、信長が指揮をとると簡単に山を登るようになったと『信長公記』には書かれているのですが、ルイス・フロイスの記録では事故があり150人くらいが亡くなったと記されていて、ここはやはり信長に遠慮がいらないフロイスの記録が正しく、それくらいの死亡事故があったのではないか? とのことでした。

ここから本丸を経て天主へ登ります。

本丸には御所の清涼殿と全く正反対で同じつくりの建物があり、これが安土行幸を目的としたものか、安土遷都を目指したものかの説がわかれるところだといわれているそうです。
このことについては、ツアーの後半に、小和田先生と安土の観光ガイドさんと管理人でいろいろ意見を出し合ってみましたが、その中でも面白かったのが、安土城大手道から、今は新幹線のために崩されてしまった中山道に通じる峠道がまっすぐに繋がるとのガイドさんのお話で、もし遷都ならここが都大路のようになったのではないか。とのことでした。
管理人は、信長は石山本願寺跡地の大坂に拠点を移す予定があった(と、小和田先生がこのツアーの前半で言っておられた)ので、大坂遷都ではなく安土遷都は可能性が低いのではないかとも思いますが、史料がないからこそ夢が語れますね。

と、少し話がそれましたが、ここから天主へ…

天主や天守に「閣」を付けるのは明治以降のことなので、先生の著書は「閣」を消すようにしているとのことです。

このように赤くなっているのは石が燃えた様子ではないかとガイドさんが教えてくれました。

また天主の礎石が、真ん中の部分に無いことから、ここに宗教的なものが置かれていたのではないかと小和田先生のお話でした。

すでに建物がない天主だけでもいろんな見方ができるのですね。

今回登ると、天主の周りの木が切られていて周りがよく見えるようになっていました。

山の麓まで湖が迫ってきていたはずですが、これが信長が天主から見た風景です。

見寺まで行くと、今度は西の湖の絶景が見れました。

三重塔は昨日の雪が残っています。


こうして、安土城を巡り、続いて県立安土考古博物館で昼食。

内容は安土の食『安土献立』



近江米・ワカサギと地場野菜の揚げ物・老蘇産玉子の出し巻・豊浦ねぎと地鶏の串焼き・赤こんにゃく・常楽寺産黒豆煮・丁字麩などなど、近江とくに安土の産物がたくさんでした。

この日、県立考古博物館では、『女性のための近江戦国山城マップ』完成の歴女さんによる座談会が行われていました。

『女性のための近江戦国山城マップ』はここでダウンロードできます。
次の集合時間まで少し見学して…

考古博物館内の展示も見学。
ここから安土城郭資料館に戻りました。この道中で先ほどの安土城本丸の建物についてお話していました。

そしてツアー終了。
小和田先生とコーヒーをご一緒させていただき、先生が信長の西洋甲冑を着られる姿を見学しました。

バックはもちろん安土城の模型

先生にブログに載せていいですか?と、お訊ねし了承を頂きましたので掲載しますね。


2日目は、観音正寺での安土らしい本物の体験ができたとのことです。興味あるのに行けなくて残念。。。

『「関ヶ原合戦図」を読み解く』講演受講報告

2011年03月05日 | 講演
ひこね市民大学講座 歴史手習塾
セミナー6『屏風・絵図で識る彦根戦国・江戸史!』
1回目の講演として『「関ヶ原合戦図」を読み解く』と題されたお話がありました。

講師は彦根城博物館学芸員の野田浩子さん。

現在残っている関ヶ原合戦図の数点を例に挙げながら、それらの比較や絵図が表している井伊家の家臣の争いの話などが話されました。
また、関ヶ原合戦図に描かれた細かい場面から、大谷吉継最後の瞬間や、平塚為広・蒲生郷舎・可児才蔵のエピソードも紹介されていました。

合戦図を大きな物として観るだけではなく、その中に描かれた細かい描写にもそれぞれの物語があることを、再確認した内容でした。