彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

彦根城周辺史跡スポット:「長久寺」

2006年05月25日 | 史跡
源頼朝手植えといわれている長久寺の梅


『番町皿屋敷』というお話を皆さんはご存知ですか?

誤って主の家宝の皿を割ってしまった使用人のお菊は、怒った主に手討になってしまい、その亡骸は井戸に捨てられます。
それからと言うもの、丑三つ時になると、井戸からお菊の霊が現れて「い~ちまい、に~まい、さ~んまい」と数を数える声が聞こえて、9枚数え終わると、恨めしそうな声で「一枚足りない」と言いすすり泣く声が聞こえるようになったそうです。

この物語は、江戸の物語が一番有名ですが、姫路をはじめ、全国各地で似たお話が伝わっています。
その殆んどは、屋敷に不幸があって空家となり、やがて建物が取り壊されて更地になったのを更地と皿を掛けて面白おかしく流れた噂ではないかと歴史愛好家は話しています。

そんな中で、全国で唯一お菊が割った皿が残っている場所が彦根の長久寺です。
寛文4年(1664年)彦根藩士・孕石政之進は足軽の娘・菊に恋をしていました。
お菊は政之進の本心を確かめようと、孕石家の家宝であった皿を割って政之進に自分と皿とどっちが大切なのかを尋ねました。
しかし、この皿は、彦根藩二代藩主・井伊直孝が徳川家康から褒美として受けた物を当時の孕石家当主・備前守秦時に与えた物でした。
封建制度の強い当時としては何かの代償に出来るものではありませんね。
政之進はお菊に「なぜ割った!」と問い詰め、真実を知り「誤って割ったのなら許せるだろうが、自分の勝手で皿一枚と拙者を秤に掛けられたのでは武士としての面目が立たない、成敗するしかない」と、その場で残りの皿の全てを割り、お菊を刀で斬り捨てました。

その後、手討となったお菊の遺体と一緒に割れたお皿は実家に渡されました。お皿は継ぎ合わされて幾つかの移転を経て長久寺に移されました。
当初9枚あったお皿は、大正展示の際に3枚が紛失し、今は6枚が残っています。
死んでもなお諦め切れなかったお菊は孕石家の古井戸に寄生している蝶に乗り移って、政之進に女性が近付かないようにしたのです。
政之進はそんなお菊の霊を慰める為に稲荷祠を建てました。その後、政之進はお菊を殺した事を後悔して出家し、供養の旅を生涯続けますが、駿河で寂しく亡くなり孕石家は断絶したのです。

長久寺では、お皿の常設展示はされていませんが、事前に予約を入れると見せてもらえるとの事です。
ビビ割れた皿を目にしながら、女性なら誰でも試してみたくなる小さないたずら。それが招いた悲しい悲恋に終った二人の来世での幸せを願いませんか?

天守閣の人柱

2006年05月21日 | 井伊家関連
メチャクチャ個人的な話なのですが、管理人はこのたび第42回彦根市民文芸作品 小説部門で特選を受賞しました。
そこで、今回はこの小説のネタにした彦根城の人柱伝説について書いてみます。

彦根城は、西日本から東へ向かう抑えの城としてその築城を急がれていました。
このため、近江国内の城から多くの資材が運び込まれました、それは天守閣も例外ではなかったのです。
天守閣に使われた資材は大津城から運んだ物でした。

大津城は5層の天守でしたが彦根城は3層です、突貫工事を急いだ事もあってか、せっかく作った天守台に天守が据付られず、工事が大幅に遅れる事となりました。

ある日、視察に着た城主・井伊直継に普請奉行が人柱を立てる事を要求します。しかし直継は非人道的な人柱を認めませんでした。
大勢の工事関係者が見守る中、直継と奉行のやり取りは続きますが結局直継がそれを認める事はなかったのです。

その様子を見ていた工事に携わっていた者が帰宅してからその様子を妻に話していると、それを聞いていた娘・菊が「わたくしが人柱になります」と口にしたのです。
両親は説得しますが菊は思いを変えず、仕方がなく直継に申し出たのでした。
直継もその意志を無下にする訳にはいかず、菊を人柱として天守台に埋めることになったのです。
この時、直継は菊の父親に深々と頭を下げました。

当日、白無垢を着た菊は父と共に登城し、白木の箱に入って天守台に向かいました。
天守前の太鼓門櫓では直継が待っていて、ここで父親は立会人を直継に譲り門の外でなく崩れたのです。
父と言う立場からは娘が埋められる場面に立ち会う勇気がなかったのでしょう。

人の想いは不思議なモノでこれ以降の工事は順調に進み、しばらくして天守が無事に据え付けられました。
しかし、菊の両親はそんな天守を見る気にもなれません。

またしばらくして、直継から書状が届きますそこには「妻女と共に控屋敷の客をもてなして欲しい」という物でした。
城に行くよりかは…と思って妻と一緒に控屋敷に向かう途中、そういえば最近、江戸から殿の義姉がやってきたという噂を耳にしたから、その女性の世話なのか?
と思い、控屋敷の座敷に上がると失礼がないようにと平伏して客を待ったのです。
やがて現れた客は女性でした。
その女性は「面を上げて下さい」と言ったので顔をあげると、そこには埋められた筈の菊が居たのです。

菊は人柱に志願しましたが、やはりそんな非人道的な事は出来ないと考えた直継によって白木の箱は空箱にすり替えられていたのでした。

こうして菊は江戸から着た客として控屋敷で穏やかに過ごす事になったのです。

心優しい直継の一面を示したエピソードですね。 

彦根城周辺史跡スポット:「善利組組屋敷」

2006年05月18日 | 史跡
今も古い屋敷が残る町内


「彦根のどんつき」という言葉があります。
“どんつき”という言葉自体は京都でも使われますが、簡単に言うなら行き止まりくらいの意味にするとイメージが浮び易いかも知れませんね。

以前、日曜日の夜にTOKIOが出演している番組でも一度取り上げられた事がありますし、彦根に昔から住んでおられる方は耳馴染みの言葉かもしれません。
そのTOKIOの番組の中では市外の三ヶ所から車に乗って誰が早く彦根城に到着するか?といった内容だったと思います。
お城が見えているのにそのままでは進めない道や、急に狭くなる道、最後には急に行き止まりになってしまう場面もありました。
地元っ子の管理人にしてみると「どこに行ったん? もっと簡単な道あるやん」って思いましたが、それは市内の道をちゃんと知っているからなんですよね。

城下町・彦根は戦略上の防衛の為、できるだけ直線の道を避け、意図的に曲げたり不意に突き当たりになったりします。
こんな道の事を「どんつき」や「くいちがい」と言いました。

こういった道の細工には他に仏壇街として有名な七曲がりの様にカーブを沢山作る事も含まれ、多くの城下町で同じ様な光景を見る事が出来ます。

そんな「どんつき」や「くいちがい」をはじめ、江戸時代の町並みを感じる事ができるのが善利組組屋敷です。
少し前に紹介しました宗安寺の前の道・夢京橋キャッスルロードをお城から京都方面に真っ直ぐ進んで突き当たった所の正面が細い道となっていて、そこが善利組組屋敷です。
車で先に進む事はできますが、地理がわからなければ無謀と言っても過言ではないかもしれません。

彦根藩の足軽衆は、1年間で3人が食べていけるくらいの給料(三人扶持)を藩から支給されていて、城下町の一番外側に組ごとに固まって住み、その住まいが城下町を守る役目を果たしていました。
そして特に規模が大きかったのが善利組だったのです。
彦根藩の足軽組屋敷の特徴は、規模が小さくとも、武家屋敷の体裁を整えた構造だった事です。
それでいながらいざ戦になった時には、その本来の役目を果たせるように建物の角に窓を付けて敵の監視ができるようにもなっていました。

善利組組屋敷は今では僅かしか古い建物を残していませんが、街に中に入ってみると、車一台がやっと進む事ができる狭い道や、単純そうで迷路のようになっている場所もあり、足軽達がどれほど城下町の為に尽してくれたかを知る事ができます。
また、今も残っている古い建物を見つけるのも楽しいですよ。

あえて歴史の迷路で迷ってみてはいかがでしょうか?

大手門橋

2006年05月14日 | 彦根城
以前紹介した表門が藩主や藩士が藩政を行う表御殿に通った橋なら、大手門は軍事的な要素が大きいかもしれません。

彦根城の南西は京都に向いていて、この方面に向かって内堀に架けられた橋が大手橋でした。この橋を渡るとここも表門と同じ様に石垣が積まれていますが、建物は残っていません。
ここにも表門と同じ様に櫓と門があったのです。
表門でも大手門でも橋を渡ると枡形の空間があります。江戸時代は四角の事を枡形と言ったので枡形と言えば四角形の同義語と考えて間違いありません。

軍学者はここに出撃する兵を入れることで人数を計ったそうです。
初期の枡形の大きさは40坪、ここに騎馬武者25~30騎、騎馬武者に1騎には4人の従者がつき従ったので、1回で125~150人と言う事になりますね。でも、関ヶ原の戦いの後はこの枡形はもう少し大きな物になります。

さて、殆んどの城の場合、橋を渡り枡形に入ると周りをぐるっと壁や櫓で囲まれて、向かって右側に門があります。
これは、敵に攻め込まれた時に狭くて周りが見えないという不安感を与える効果があります。
また右に曲がると言うのは人間は心理的に良い気分がしません、人は本来心臓を守ろうとする意識が勝手に働き、左側に曲がるのを心地良く感じるからです。
陸上競技で左側にカーブするのもその為なんです。
ちなみに、城の枡形が右曲がりなのは別の理由もあります。
弓を引く時には左向きに構えたので、左の方が狙いやすく、その結果敵を右回りに動かしたのです。
凄く考えてありますよね。

彦根城周辺史跡スポット:「宗安寺」

2006年05月12日 | 史跡
彦根城外堀(旧中掘)に架かる橋“京橋(京都に向かって架かっている橋なのでこの名前が付いています)”から城下に出ると夢京橋キャッスルロードという城下町の街並みを再現したストリートがあります。
そんな夢京橋キャッスルロードの中に赤い門のお寺が建っています。そのお寺が“宗安寺”です。
お城のすぐ近くに目立つ門構えで建っているこのお寺はどんな由来があるのでしょうか?

まずは、宗安寺を語る時に絶対欠かせない人物が居ますので、最初にその人物の話からしてみましょう。
木村長門守重成、おそらく彦根には一度も足を踏み入れた事が無い人物ですが、彦根を少し詳しく紹介している本では彦根に関わった人物となっています。

では、木村重成は、なぜ彦根に関わる人物なのか? と言えば、その首塚がある場所が宗安寺だからなのです。
戦国時代を実質的に終らせた戦いは徳川家康が豊臣秀吉の息子・秀頼の居城・大坂城を攻めた1514年の「大坂冬の陣」と翌年の「大坂夏の陣」です。
この時の彦根藩主は今の歴史上では藩主として数えない事になっている井伊直継でした、直継は生まれながら病弱だった為に大坂の冬の陣では、安全な上野国安中(当時、井伊家の飛び地があった)守備を命じられ、大坂には直継の同い年の弟・直孝が井伊家家臣団の指揮をしました。
結局これが原因で冬の陣の後に直孝に彦根藩を譲る事になるのですが、その話はまた後日…

さて、大坂冬の陣は家康が秀頼に嘘の講和を持ち掛けて、大坂城のお堀を埋め立てさせる形で終わりを迎えますが、この講和調印に秀頼の代理で家康の陣に赴いたのが木村重成でした。
この時、まだ20代前半(20歳と23歳の2説あります)だった重成は、節度があり、行動も礼儀にのっとったモノでした、これを見た井伊直孝を始めとする徳川家の武将達は感嘆したと伝えられています。
また当時の武士の誓約書は脇差で左手の親指の腹に切り込みを入れて、流れた血を右手の親指に付けて押印の代わりとする血判状が主流でしたが、大坂冬の陣の時はすでに高齢となっていた家康の血判の血が薄く鮮明には映りませんでした。これを見た重成は家康をとがめて、再び鮮明な血判を求めた逸話があります、並みいる徳川武将の中での重成の度胸は後々まで語り継がれました。
重成は、この日を境に歴史に名を残す名将となったのでした。

翌年、再び大坂城に攻め込んだ徳川家康を苦しめた豊臣方の武将の一人が重成でした。
その重成軍と戦ったのが直孝軍だったのです。両軍は一進一退の激戦を繰り返しましたが、重成軍は総崩れとなりました。
重成自身も井伊家家臣・庵原助左衛門と戦い水田に沈められてしまいました、ここで同じく井伊家家臣・安藤長三郎が現れて、助左衛門の許しを得て重成の首を切って自分の手柄としました。
当時、戦の時に斬った首は大将の所に持っていかれて、首実験と言う首と手柄を確認する作業が行われました。長三郎によって斬られた重成の首も家康の所に持っていかれて首実検が行なわれます、家康や徳川家の武将達が感慨深く首を見ていると、何処からとも無く素晴らしい香りが漂ってきました。
家康がその香りの元を確かめさせると、何と重成の髪の毛から発せられていたのでした。これは、夫の死を覚悟した重成の妻が、重成出陣の直前まで兜にお香を炊き込めて送り出したモノだったのです。
こうして重成は3度目の賞賛を受け、その首は安藤長三郎によって彦根に持ち帰って安藤家の菩提寺・宗安寺の祖先の墓と並べて五輪の塔を建てて祀ったのでした。

しかし、江戸時代は敵方の将・木村重成の墓とは公にできず、安藤家の祖先の墓とし、明治維新以降にこの事を公表したそうです。
こういう伝説がある木村重成ですから、今では特に女性に人気が高く、毎年多くの参拝客が訪れるそうです。

では宗安寺は木村重成の首塚だけが有名なのかと言えばそうではありません。
例えば、ベルドーロ添いに建っている入り口は、“赤門”と呼ばれる立派な門が建っていますが、これは佐和山城の正門から移築しています。
本堂は、江戸時代中期に長浜城付属御殿を移築した物で、赤門と並んで彦根近郊の歴史的な建物を上手に生かした価値のある建築物と言えます。
他にも、豊臣秀頼の母親・淀の方が持念仏としていた“本尊阿弥陀如来立像”もあり、これは鎌倉時代に作られた物である事が解かっていますし、ここが朝鮮通信使の正使達の宿だったことが関係すると予測される「李朝高官肖像画」が残っています。

朝鮮通信使は、朝鮮から日本にやってくる使者で、総勢500人ぐらいの大人数が九州の対馬から江戸まで旅をしました。
市内では、巡礼街道を別称で朝鮮人街道と呼ぶくらいに私達の身近に残ってるお話なので、何度も通信使一行が通っていたようなイメージがありますが、実は江戸時代264年の内で13回(内1回は京都まで)しか行なわれないモノだったのです。
その為、珍しさからでしょうか? 街道は見物客で一杯だったという話も伝わっています。良くも悪くも日本人は好奇心旺盛なんですね。

明治4年、政府はそれまで行なわれていた地方分権型の“藩”という制度を廃止して、中央集権制度を目的とした“県”を設置する「廃藩置県」が行なわれ、彦根藩は“彦根県”に改称し、すぐに“長浜県”に吸収され、やがて長浜県が“犬上県”に改名されました。
この犬上県の県庁が設置されたのが宗安寺だったそうですが、半年ほどで現在の滋賀県の形となり県庁は大津へ移る事となります。

宗安寺は1338年に室町幕府初代将軍・足利尊氏が上野国(群馬県)で「安国寺」という寺名を与えた寺が始まりとされ、桃山時代に領主だった井伊直政の正室の保護を受け、井伊家が佐和山に移った時に今の位置に移転してきました、以来、犬上県庁としての機能を終えるまで、江戸時代から明治初頭にかけての彦根の歴史に関わる多くの出来事を見てきたお寺と言えるのではないでしょうか。

その中には、徳川家康の位牌を祀った小さな祠もあり、庭園も詫び寂びの心を感じられる趣があります。
大坂の名将の面影と共に歴史の名残を感じてみて下さいね。

表門橋

2006年05月07日 | 彦根城
彦根城の内堀には多い時で5本の橋が架けてあったと推測されます。
表門橋
大手門橋
東門橋
黒門橋
山崎門橋
この内、東門橋と山崎門橋については、現在、橋としての機能を果たしていません。
表門橋と大手門橋はちゃんと橋として架かっていますが、黒門橋はその部分だけお堀を埋めていますので、お城に架かる橋として見るならば表門橋と大手門橋をオススメします。

今、架かっているどの橋を渡ってもお城に入るための券売所がありますのでどこからお城に入るかは皆さんの好みにお任せしたいと思います。

今回はそんな中から表門橋について少し書いてみましょう。

表門橋は、文字通りお城の表に架かる橋で、今はこの橋を渡っても石垣しか積まれていませんが、昔はその石垣の上に表門櫓があり、橋を渡って枡形の空間を通り抜けた次に表門櫓と表門口を抜けたのでした。
その先には藩庁と藩主の邸宅を兼ね備えた表御殿が建っていたのです。
この事から表門口など“表”という認識がされていたのではないでしょうか?
ちなみに今架かっている表門橋は平成14年から16年までの間をかけて老朽化による架け替え作業が行われた後の比較的新しい物です。
老朽化していた橋は幕末に架けられた物でしたので、再現は結構難しかったそうですよ。

再現といえば、表御殿は現在「彦根城博物館」として復元されていますが、その話はまた後日。

さて、表門橋を渡る手前、内堀の外側に“琵琶湖八景 月明 彦根の古城”と掘られた大きな石碑が目には入ります。
近江八景という言葉はよく耳にしますが、琵琶湖八景とは別物なのでしょうか?

実は別物なんです。
近江八景は室町時代中期の明応9(1500)年8月13日に近江守護・六角高頼が近江に居た関白・近衛政家を招き、政家が中国の瀟湘八景に重ね合わせて近江八景の和歌八首を詠んだことが始まりです。
この為、その全てが湖南地域にかたまっています。
これに対し、琵琶湖八景は昭和25(1950)年に琵琶湖が国定公園に指定される事を機に前年の4月に琵琶湖全体から8ヶ所選らばれたモノなんですよ。

天下普請の理由

2006年05月01日 | 彦根城
彦根城築城が開始されたのは1603年の事、この年に徳川家康は征夷大将軍に任命されています。
天下分け目と言われている関ヶ原の戦いが1600年ですから、後で歴史を見るなら「戦国」と分類される時代でこの先に起こった戦いは2回の大坂の陣しかない事になります。

西から東に進む時、彦根は不破の関(関ヶ原)の直前にあり、交通の要所であった事は理解できると思いますが、それならば以前からあった佐和山城を直した方が経費も安く済みますし、防衛拠点としても佐和山城が劣っていたとは思えません。

しかし、なぜかこの様な時に彦根城築城が行われました。
正確に言うならば、彦根城だけではなく名古屋城を始めとする天下普請が始まったのもこの時期だったのです。

実は、ここには徳川家康の脅えも含まれていました。

関ヶ原の戦いの時、江戸城ってどのような状態だったと思いますか?
今の皇居に天守閣があった立派なお城?
いえいえ、とんでもない!

この時の江戸城は廃墟になっていた砦を何とか人が住めるようにしただけの物でした。
つまり、もし大軍が攻め込んできたら篭もる為の城もなかった状態なのです。
そんな事態は回避しなければなりません。
その為には、大名に金を使わせて自分を守ってくれる城が出来れば一石二鳥と言う訳だったのです。

彦根城もそんな政策の一つでした。
彦根城築城には幕府から三名の普請奉行が派遣され、総指揮は徳川四天王の一人・本多忠勝が担当、縄張り(設計)は築城の天才・山本勘助の流れを汲む甲州流の築城の第一人者・早川幸豊が行ったのです。

江戸を守る為に要所に堅城を作るって発想が凄いですよね。
そして、この事でお金が動き、戦需景気から公共工事による好景気に継続していった経済感覚も相当のものですよ。