彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『石田三成の生涯―三成の夢・その立身と国家構想―』講演受講記録

2011年06月30日 | 講演
ひこね市民大学講座 歴史手習塾の セミナー8『関ヶ原!石田三成の志-夢と正義-』
1回目の講演として「石田三成の生涯―三成の夢・その立身と国家構想―」と題されたお話がありました。
講師は長浜城歴史博物館の太田浩司さん。


最初に、織豊政権は、戦国時代の構造改革というお話から、この構造改革を誰が考え主導を握ったのかを考えた時に、文書で探すのは難しいですが石田三成が中心になっていたと考えてもいいのでは? というお話がありました。

戦国時代は、平安時代から始まった封建制度が村の奥深くまで行ってしまった時代であり、極端な地方分権になっていたのを中央政権にする構造改革が行われたのが織豊政権であり、徳川政権がそれを引き継いだことになるとのことでした。

また刀狩は、兵農分離であったとのことです。
そして、三成が奥羽仕置の際に秀吉から渡された指示や、御前帳という江戸期の郷帳国絵図の前身とも考えられている物を徴収するためのし史料を基にして、三成の豊臣政権での役割の一端に触れるお話でした。


太田さんは、『江~姫たちの戦国~』では資料提供を担当されておられますので、そんな話も楽しみですね。

『時代考証にみる新江戸意識』が出版されました

2011年06月25日 | 書籍紹介
大石学先生ら四人の先生の共著による『時代考証にみる新江戸意識』が刊行されました。


この本は、ここでも何度か聴講記録として書いていますひこね歴史手習塾のセミナー1とセミナー3を再構成して書籍化されたものです。
管理人も、独自の質疑応答をさせていただいたり、それぞれに大河ドラマの裏側ともいえる時代考証の複雑さや面白さを味わえた講演でもありましたから、このような形になったことがとても嬉しく思います。

他の手習塾講演がこのような形になるかどうかは不明ですが、彦根ではこんな話が聞けるということも知って下さるとますます歴史都市彦根の魅力がアップしますよね。


6月23日、寛和の変

2011年06月23日 | 何の日?
今回は、滋賀にも井伊家にも全く関係ないお話です。
でも平安時代の政治史に大きな影響があり、摂政関白というこの先の歴史に大きな意味をなす官位のキーポイントですので、ご紹介します。


寛和2年(986)6月23日、花山天皇が突然退位し出家する政変・寛和の変が起こりました。

事件の発端は花山天皇が寵愛していた藤原忯子という女御が妊娠中に急死したため(寛和元年7月18日)、気落ちしたためと言われていますが、別説では右大臣藤原兼家(道長の父)が、孫である懐仁親王に早く皇位を継がせて天皇の外戚として権力を独占しようとしたための策略ともいわれています。

花山天皇はこの時まだ19歳でした。
当時の天皇は、多かれ少なかれ母親の実家に影響を与えていて、ほぼ常識的に外戚の権力者が大臣職を務めるのが不文律になっていたのです。
しかし花山天皇が即位した時には、外戚の実力者になりえた筈の藤原伊尹が亡くなっていて、その息子の義懐もまだ高い地位に就いていなかったために、図らずも天皇親政に近い状態が出来上がったのです。この時、花山天皇が考えたのが実力者藤原氏の権力縮小でした。

自らの乳兄弟である藤原惟成(結局藤原氏…)を協力者にして、権力者の力の根本である荘園を取り締まる荘園整理令の改正(荘園整理令は何度も発布されているが、効果がないままだった)などを行ったのです。

これに対して、反発したのが右大臣藤原兼家らでした。
多くの政治改革を志しながらも後ろ盾の少なさと、有力貴族たちの反発で思うような成果が上がらなかった花山天皇に近付いたのは、兼家の三男道兼でした。道兼は蔵人として天皇の近くにいて、三男という立場から父や兄(道隆)に反発しているような姿を見せていたのです。
愛妾を失って悲しんでいた花山天皇に対し、仏の教えを説いて心が弱くなっている花山天皇に出家を勧めたのです。
花山天皇はすっかりその気になります。そして道兼は「自分も一緒に出家するから」と言い花山天皇の信頼を得ました。


寛和2年6月23日時刻は丑の刻(午前3時前後)、道兼は花山天皇をこっそりと内裏から連れ出しました。よくよく考えれば、この時点で天皇が簡単に内裏から出られること自体が既に権力者の手が回っていたとしか思えません。
山科の元慶寺(花山寺)に着いた花山天皇は、そのまま剃髪してしまいます。この時点で退位との扱いになったのです。花山天皇に続いて藤原道兼が剃髪すると思われたのですが、道兼は「このまま父に挨拶もしないまま出家すれば不幸となります。まずは父に挨拶をしてまいります」と言って、寺を出てしまったのです。
この間に兼家は清涼殿に入って、天皇の証である三種の神器を押さえ、懐仁親王に届け親王は7歳にして即位し一条天皇と呼ばれる人物となります。

ここまできて騙されたと知った花山法皇(出家したので法皇となる)ですが、どうすることもできず、天皇不在を知って慌てた藤原惟成でしたが、すでに出家していたことを知り、同じく出家するのです。
一条天皇即位に伴って、花山天皇の側近は職を追われる形となり、藤原兼家は右大臣を辞して摂政に就任しました。

大臣を兼務しない摂政・関白は兼家が初めてとなり、本来ならば令外の官である臨時職の摂政が実務的に権力の証となった瞬間となったのです。
こののち、摂政や関白の意味合いが大きく変わる意味で、寛和の変は歴史的意味が深い事件だったのです。

6月14日、新島八重死去

2011年06月14日 | 何の日?
昭和7年(1932)6月14日、新島八重が病没しました。享年86歳
二日前に偶然にも、2013年の大河ドラマの主人公が新島八重と発表されました。


新島八重とは何者か?

聞いただけで「あー、同志社の…」という人は結構明治史か教育史のマニアですね。
そして「あー、会津の…」という人は幕末マニア」です。
これ以外にも、西洋式結婚式や看護活動などのイメージもあるかもしれませんが、基本的に前半生は会津戦争、後半生は同志社と赤十字で表現される女性ですね。


八重は会津藩士の家に生まれました。
兄には会津戦争で砲術を駆使して戦った山本覚馬がいます。
会津戦争の悲劇の一つに白虎隊と並んで、女性たちが戦って殺されたり捕えられて官軍に弄ばれた話が最近になってやっと出てくるようになりましたが、これらの例でもあるように女性も武器を手にして戦ったのです。
そんな中で男装して戦場を駆けまわったのが八重でした。そのことから後年には“幕末のジャンヌダルク”と呼ばれるようになります。


戦後、新島襄と出会います。
そして日本人同士のキリスト式結婚式という今では当たり前のようなイベントを行った人物でもありました。
新島襄は、アメリカに密航したほどの人物でもあり西洋の文化に精通していて、その影響を受けた八重も西洋の文化を重んじました。
そのなかでレディーファーストという風習が、日本人には奇異に見え、夫よりも先に席に座ったり人力車に乗る姿が会津戦争での活躍と重なって、夫を下僕のように扱う悪女と評されたのです。
また同志社大学の前身となる同志社英学校を開校した後に、会津人のどうしようもない想いから薩長出身の学生にキツク当ってしまうところがあり、学生だった徳富蘇峰に「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺のような女性がいる」と批判されました。


明治23年(1890)1月23日、新島襄死去。この時に八重と徳富蘇峰は和解したといわれています。
こののち、同志社とは距離を置き茶道に没頭した八重は、宗竹との号で裏千家に貢献しました。また明治24年に日本赤十字社の正社員となり日清日露戦争では看護師としても活躍するのです。

そして昭和7年、急性肺炎で亡くなりました。



余談ですが、大河ドラマ50周年で『花の生涯』リメイクを推進していた管理人としては残念でもありますが、『天地人』が新潟中越地震の復興支援だったように、福島県の復興支援であると考えると納得できる抜擢ですね。

新島八重の人生に関わる大きなキーワード
・会津戦争
・同志社英学校(同志社大学)
・日本赤十字社
ただ戦っただけの人物ではなく、教え助けた人が福島県出身だった。
こう考えると、この時に納得のいく人選かも知れませんね。

6月9日、井伊直滋死去

2011年06月09日 | 何の日?
寛文元年(1661)6月9日、井伊直滋が亡くなりました。享年50歳
ですから、今日でちょうど350年になりますね。

井伊直滋は、井伊直孝の後継ぎとして若い頃から二代将軍・秀忠や三代将軍・家光に仕えていました。
早くから将軍家と親しい関係を保っていたためか、実直な強い意見を口にする事が多く、その言葉は家臣だけではなく父・直孝すらも論破するほどだったと言われています。
特に家光には気に入られていたようで、旧加藤忠広江戸屋敷を貰い受けたり(後の井伊家中屋敷)、直滋が藩主になった時には石高の大幅な加増が約束されていたとも伝わっています(家光はお気に入りに対するこう言った約束をよくしていて、柳生家ではこの事による混乱を恐れた柳生宗矩が家光のお気に入りだった息子・友矩を殺害したという伝説も残っています)。
ちなみに、直滋の正室は、いとこに当たる井伊直継の娘です。

直孝が元老として江戸詰めになると、家光から離される様に国許・彦根を任され藩政を行う事となりました。
この藩政時代に、彦根城鐘ノ丸にあった鐘楼の鐘の音が岩肌に響いて割れる事に気が付き、現在、時報鐘が置かれている場所に移転させると鐘の音が城下に綺麗に響くようになったと言う逸話が残っています。
この時報鐘の音色は『日本の音風景百選』に選ばれていますので、直滋はとても繊細な耳を持っていたのかも知れませんね。

そんな繊細な一面を持ちながらも、父を言い負かすような実直な性格が災いしたのかも知れません、いつまでも家督を譲られる事も無く世子のまま中年の域に達してしまいます。
直孝にすれば、将軍となった家光が直滋に対して優遇を行う事によって井伊家に災いが起こるのを避けようとしていたとも考えられます。

やがて直滋の家督相続を切望した家光も亡くなってしまいます。

ある年、正室が亡くなった事が理由で江戸で出家しようとした直滋は家臣に呼び戻されます。
その頃から、直滋に出家の想いが強くなったのかも知れません。
四代将軍・家綱の名代で家光三回忌法会のために日光へ代参したりしますが、万治元(1658)年の年末も押し迫った閏12月20日、近江国領内の百済寺で出家します47歳の時でした。

翌年6月28日、父・直孝死去。
三代藩主となる直澄に託された遺言には、
「もし彦根で事が起こって、直滋が援助に来ても兵を貸し与えるな」
「直滋が援助している扶持について何か言ってきても今の形を変えるな」
と言った直滋に対する厳しいやり方も記されていました。

そんな直孝の死から2年後の寛文元年(1661)6月9日、直滋は50歳の生涯を閉じたのです。

辞世の句は
“いるならく 奈落の底に沈むとも 又もこの世に我がへらめや”

直孝・直滋親子は実はとても似た性格でした。
だからこそ合わないものがあったのかもしれません、そして世は直孝のような武断派大名から文治派大名を求める時代になっていました、家光に愛された人物は武断派の人物が多かった事を考えると、直滋は最初から直孝の求める世継ぎでは無かったとも考えられますね。

直滋の血統はこの先、彦根藩主に就く事は一度もなかったのです。
余談ですが、管理人は、直滋の死を直孝の三回忌を前にした自害と考えています。

曽根城訪問記

2011年06月08日 | 史跡
曽根城を訪問しました。
『江~姫たちの戦国~』で、後半に活躍するであろう春日局の生誕地です。

春日局の父である斎藤利三は、明智光秀に仕える前は稲葉一鉄の家老でした。
その屋敷で春日局は生まれたと言われているのです。


つまり、曽根城は稲葉一鉄の居城だったということですね。

美濃三人衆の一人であり、「頑固一徹」の語源になったと言われている稲葉一鉄が治めた頃が、一番安定した時期ともいわれていて、織田信長が立ち寄った記録もあります。
稲葉時代の城の遺構は、跡地に建つ華渓寺の塀の下の石垣です。

この塀よりの内側の華渓寺境内が、曽根城本丸跡といわれています。
 
 
境内には、梁川星巌記念館もありました。

安政の大獄で、捕まる前に病死したために「死(詩)に上手」と揶揄された詩人ですが、それだけではない一級の尊王家でもあったのです。
  
思いがけず、安政の大獄の関係者ともであうとは、世の中は意外性に満ちていますね。

6月3日、宇野内閣発足

2011年06月03日 | 何の日?
昨日の菅内閣不信任騒動など、昨今の政治情勢が乱れていますので、ちょっと内閣に関わるような日付ネタ…


平成元年(1989)6月3日、宇野宗佑が第75代内閣総理大臣に任命され、宇野内閣が発足しました。
先代の竹下登は、消費税を導入しリクルート事件に関わっていたことから総辞職に追い込まれ、その後を引き継いで首相に選ばれたのが宇野宗佑だったのです。

宇野は、当時としては珍しい派閥を持たない人物で、そのうえで党三役になったこともないほど知名度の低い人物でしたが、その分リクルート事件などの汚名を持っておらず、福田赳夫内閣では科学技術庁長官として日米原子力交渉を行い、アメリカ側から「はっきり物を言う初めての日本人」との評価も受けるような人物でした。
また、竹下登内閣では外務大臣を務め、まだ確定されていなかった北朝鮮の拉致問題について、仮定としながらも「強い憤り」を公式に国会で答弁したのです。

こうして、知名度は低いながらも自民党の汚名返上の期待を背負った宇野内閣でしたが、就任3日後に糸山英太郎(こののちにJALの筆頭株主やエグゼクティブアドバイザーまで務めますが、経営が悪化した平成21年にエグゼクティブアドバイザーを辞任)の一言で女性スキャンダルが発覚し、7月23日の参議院議員選挙で歴史的な敗退。翌日に退陣を発表します。この時「鏡明止水の心境であります」との言葉を残しました。
8月8日に海部俊樹内閣が発足し、任期69日の短期政権は終わったのです。
宇野内閣からは、閣僚の資産公開を妻子まで含むようにしますが、これはリクルート事件が多いに関係しているのです。


滋賀県での宇野宗佑は文化振興などで評価が高く、若い頃にシベリアで抑留された時の体験を書いた『ダイモ・トウキョウ』は『私はシベリアの捕虜だった』という映画になったり(僕は観たことはありませんが…)、近江天保一揆で名が出てくる土川平兵衛を描いた『庄屋平兵衛獄門記』という著書を著したり、近江の歴史で独自の説を展開したり、多くの句碑建立に尽力したりもしているのです。
管理人も幼い頃に参加していたスポ少の大会で、何度かお姿を見かけたことがありますが、ああいう場ではとくににこやかな人だった記憶がありますね。

6月1日、写真の日

2011年06月01日 | 何の日?
天保12年(1841)6月1日、蘭学者の上野俊之丞(としのじょう)が、日本人で最初の写真撮影を行ったとして、6月1日は写真の日になっています。
ですから今日(2011年6月1日)で、日本人の写真撮影は170年を迎えることになります。


最初に撮影されたのは、蘭癖大名とし有名な島津斉彬でした。

(この写真、ネット上に氾濫している物からいただきました)


俊之丞は、もともと長崎奉行所で時計などの細工を作成や修繕を行っていた御用時計師でした。また上野家は肖像画を手掛ける絵師も排出する家だったともいわれています(今回ネットを見ていて知りました)。
細工を得意とし、肖像画を手掛けるとなれば、カメラという文明最先端の道具に俊之丞が興味を持ったのは自然の流れだったのかもしれません。


フランスで発明されていたカメラに興味を持った俊之丞は、これを取り寄せたのです。
長崎奉行所でよほど信頼をされていたのでしょうね、そうでなければフランスからの輸入品が個人に手に入るなんて信じられないです。
とにもかくにも、カメラを手に入れ、蘭癖大名の島津斉彬はその興味から俊之丞に撮影させたのです。こののち、斉彬自身が写真に興味を持って、自らの手で居城を撮影したりもしています。
これによって、井伊直弼のライバルともいえる島津斉彬の姿が、現代にも残ることになったのですね。


ここまで書いて、水を差すようなことを自分自身で行うのも心苦しいのですが、近年の研究では斉彬の撮影はもう少し後、もしかしたら翌年だったのではないか?との説もありますし、そもそも日本人の手で写真が撮影されたこと自体、60年ほど前に亡くなった平賀源内が自分で作ったカメラで撮影したのが最初という話もあります。
天保12年6月1日の話は、俊之丞の次男である彦馬が記したことですが、彦馬が成人する前に俊之丞が亡くなっているので詳しいことが伝わっていない可能性もあるのです。

ちなみに、今登場した上野彦馬は、高杉晋作や坂本龍馬の写真など幕末の志士たちを多く撮影した日本人最初のカメラマンと言われています(龍馬の写真は弟子が撮影したとの話もありますが…)。
その流れから考えると、俊之丞から直接カメラの指導を受けたように思われがちですが、俊之丞は彦馬に何も教えてはおらず、彦馬自身が医学伝習所で化学を学び「フォトガラフィー」という言葉に興味を持ったことから、親の道を図らずも追った形になったと言われています。