彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:坂本龍馬が松平春嶽に面会する(閏8月中)

2012年08月31日 | 何の日?
文久2年(1862)の閏8月のいずれかの日に、坂本龍馬が福井藩前藩主松平春嶽に面会したとされています。

面会の目的は勝海舟と横井小楠に対する紹介状を請う物だったそうです。
しかし、既に土佐藩を脱藩して浪人だった龍馬が、隠居していたとはいえ福井藩主の父親に簡単に会えるものではありません。
ましてや、春嶽の記録には龍馬が「勝は開国論を主張し、横井は廃帝論を唱える可悪の人だ」と訴えたとされているのです。


しかし、勝海舟への紹介状は書かれています。
ただし、実は龍馬と春嶽の会見は福井藩では12月5日であったとされていて、この時には間崎哲馬・近藤長次郎・坂本龍馬の名前が残っています。
この四日後に、勝海舟の屋敷に三人の客があり、その20日後には龍馬が千葉重太郎と共に海舟を斬りに来たという逸話があります。
ただし、12月29日の重太郎と共に龍馬が訪れた記録には、坂本龍馬を"坂本氏"と記していて既に面識があった筈との話があり(『時代考証にみる新江戸意識』大石学編より)、閏8月の龍馬の面会はありえないとの説もあります。

150年前:猿の文吉殺害(閏8月30日)

2012年08月30日 | 何の日?
文久2年(1862)閏8月30日、目明しの文吉が殺害されました。

文吉は岡っ引き(目明し)という役職から、島田左近の元で多くの志士を捕えました。これらの志士たちが安政の大獄で処罰された為に志士の恨みを買っていたのです。
また高利貸しに手を貸していて、民衆から阿漕な取り立てを行ったり、御所の女官を強姦したこともある、俗に言う小悪党だったのです。

このために、文久2年から京都で流行し出した天誅の標的にされたのです。
文吉殺害については希望者が多く、籤引きで決まったと言われています。こうして岡田以蔵ら3名が暗殺者に選ばれたのですが、このような男に対して刀を使って斬ることは刀の穢れになるとして、紐で首を絞めて殺害したのです。殺害現場は三条河原でした。
絞殺された文吉は、裸にされて竹の棒を肛門から突刺し頭まで貫通させ、男根には釘が打たれたのです、これは女官強姦に対する見せしめでした。

こうして晒された遺体に、高利貸しの取り立てで苦しんだ民衆が石をぶつけたと言われています。


ここまで嫌われた小悪党だったために、生前は「猿(ましら)」と呼ばれ、殺された後の高札には「いぬ」と書かれていたために、権力者に尻尾を振る小悪党のことを「○○のいぬ」と呼ぶようになったとの説があります。

150年前:長野主膳斬首(8月27日)

2012年08月27日 | 何の日?
文久2年(1862)8月27日、長野主膳義言が彦根藩の牢屋敷で斬首されました。46歳

井伊直弼の国学の師であり、直弼によって彦根藩に登用されてからは彦根藩士として直弼を支えた長野主膳は、主に京での活動が多く、その活動内容から井伊直弼を動かした“影の大老”のような言われ方をします。

もしかしたらそのような面はあったのかもしれませんし、安政の大獄の大半は、直弼の指示と言うよりは長野主膳が京都の活動で知った情報による結果が多かったことも否めません。
ですので、直弼の闇の部分に関して多くの影響があった事は間違いないと思います。

しかし、主膳をかばう訳ではありませんが、井伊直弼という一人の男が惚れぬいた男であることも間違いのです。


そんな長野主膳は、桜田門外の変の後にすぐに失脚したイメージがありますが、実はそうではなく、和宮降嫁のアドバイスを幕府に行ったり彦根藩政にも参加していて、文久2年5月の段階で100石の加増(合計250石)も受けていました。

8月になり井伊政権を引き継いでいた安藤信正・久世広周政権を幕政改革の名の元に朝廷と結んだ島津久光が否定し、安藤・久世は失脚し、これを感じ取った彦根藩でも井伊直弼に近い存在だった長野主膳や宇津木六之丞などの処罰を考え始めました。

とくに主膳は、安政の大獄の首謀者として尊王攘夷の志士たちに命を狙われていたので、彦根藩士がどこの馬の骨とも分からない浪人に殺される危険性を考慮して、彦根城下の屋敷に戻った時に捕縛したのです。
文久2年8月24日の事でした。



牢屋敷に入れられた主膳には何の取り調べもなく、苗字帯刀の剥奪、斬首、遺体は打ち捨て(埋葬禁止)が命じられ、武士の身分の証である切腹ではなく、斬首によってその生涯を終えたのでした。

辞世の句は

「飛鳥川 きのふの淵は けふの瀬と
      かはるならひを 我身にそ見る」

主膳の遺体は埋葬が許されず、墓も明治になって井伊直弼の汚名が雪がれるまで建立が許され無かったのです。
彦根藩は、2ヶ月後に宇津木六之丞も斬首にしますが、それでも10万石の減封となり、版の運命が大きく変わるのです。

150年前:参勤交代の緩和(8月22日)

2012年08月22日 | 何の日?
文久2年(1862)8月22日、江戸幕府は大名の妻子の帰国を許し、出府も3年に一度(100日)でよいとしました。参勤交代の緩和とされていますが、実質的な廃止となります。

参勤交代は、江戸と国許を一年に一度行き来する仕組みで、幕府に対する謀反の胤を事前に摘み取る思惑があったとされています。
しかし、もともとは大名の側が、出府するためにいちいち幕府にお伺いを立てることを面倒に思っていて、時期が来れば江戸に向かう制度を歓迎していたのです。
こうしてどちらかといえば大名主体で始まったのが参勤交代だったのですが、やがて大名の財政を逼迫するようになります。
そんななか、幕末になり諸外国の来日による社会情勢や経済の悪化が日本に混乱を招くようになり、それが幕府に大きな波紋を投げかけるようになります。その一つとして参勤交代を緩和することで江戸から無駄な地方武士を減らして、江戸市民の生活を立て直す計画にも繋がりました。
これは、理由の一つでしかありませんが、参勤交代すら緩和してしまうところに幕府の無計画ぶりが観て取れます。

この後、禁門の変を契機に再び元の状態に戻そうとしたのですが、従わない藩があり、その藩を罰するだけの力が幕府から無くなっていたために、幕府権力の失墜を世に示した形になったのです。

150年前:生麦事件(8月21日)

2012年08月21日 | 何の日?
文久2年(1862)8月21日、生麦事件が起こりました。

兄島津斉彬の意思を継いで、薩摩藩兵を率いて上洛し、勅使と共に江戸城に入ることによって幕府の人事に口出しをして一橋慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政事総裁職に就任させた島津久光は、上機嫌で鹿児島への帰路へ旅立ちました。

文久2年8月21日、東海道を下っていた一行は未の刻(午後2時頃)に生麦村に入ったのです。
西洋の暦では日曜日だったこの日、空も快晴だったことからイギリス人商人のマーシャル・クラーク・マーガレット(マーシャルの義妹)・リチャードソンは横浜の自宅から川崎大師まで乗馬を楽しんでいたのです。

生麦村に入った時、久光の行列に対して一人の外国人が下馬して膝を付いたのを目撃していた一行は、行列の前方からやってくる4人のイギリス人も当然そのようにするものだと思っていたのです。
しかし4人は馬を降りる気配が無かったため、薩摩藩士は身ぶり手ぶりで4人に脇に寄るように伝えたのです。その意味を解さなかった4人はそのまま行列の中を逆行する形で通ってしまい、久光の駕籠に近くなったために藩士たちが慌てたのです。
4人は周囲の殺気だった雰囲気に危険を感じ、乗馬したまま向きを変えて行列から出ようとしましたが、その動きが慌てていて無秩序になってしまったために複数の藩士が刀を抜いてしまったのです。

奈良原喜左衛門がリーチャードソンを斬り、逃れようしたところを久木村治休が斬ってリチャードソンは落馬、海江田信義(有村次左衛門の長兄)が止めを刺したのです。
マーシャルとクラークも斬られますが、マーガレットを先に逃がすことに努め、マーガレットが帽子に一撃を受けながらも無傷で走り去ったことを認めてから馬を駆けさせたのです。
マーガレットは横浜居留地へ逃れ、マーシャルとクラークは神奈川の本覚寺(アメリカ領事館)に入り、ここで治療を受けて一命を取り留めたのです。

結局、生麦事件は
1名死亡
2名重症
という惨劇となりました。

この報告を駕籠の中で聞いた久光は、何事もなかったかのように駕籠を進めました。

こののち、報復としてイギリスが薩摩を攻める薩英戦争が起こるきっかけとなったのです。

8月20日、藤原定家死去

2012年08月20日 | 何の日?
仁治2年(1241)8月20日、藤原定家が亡くなりました。享年80歳。

藤原定家といえば『小倉百人一首』の選者として有名です。これは鎌倉幕府の御家人である宇都宮頼綱が、京都嵯峨野の別荘小倉山荘の襖の色紙を歌人である定家に依頼し、その依頼に応じた形で選んだ歌だと言われています。

しかしその内容を見ると古代の歌人たちならばよいにしても、幕府に逆らって承久の乱を起こした後鳥羽院や順徳院、日本一の怨霊となった崇徳院もあれば、暗殺された三代将軍源実朝も入っているという藤義な人選でした。
この人選でよく北条氏に罰せられなかったものだと感心します。


でも、そんな謎は今日の話ではなく、今回は長寿だった定家についてです。

80歳という長寿を全うした定家ですが、子どもの頃におこり(マラリア三日熱)で苦しみ38歳で再発、14歳で麻疹などに苦しみます。特におこりは酷くその後遺症と生涯付き合うことになり呼吸器と精神はボロボロだったのです。頭痛・悪寒・嘔吐は日常茶飯事だったと推測されています。

ここに40歳で尿管結石、50代で腰痛、60代で左関節症を患いました(篠田達明著『日本史有名人の臨終図鑑』より)。
まぁ、よく生きていたものです。
定家は『明月記』という日記を残していて、この記録のおかげでこのような病状が細かくわかるのです。

最後は書字困難とのことで同書ではパーキンソン病の疑いを示されていますが、80歳までここまで苦しみながら生きてきた歌人ですので、多少の認知が酷くなっても仕方ないのかもしれません。

小倉百人一首の裏には病に苦しみ、常に生きた証を残そうとした魂の叫びを持つ歌人が居たのです。

ひこね万灯流し

2012年08月06日 | イベント
彦根で毎年8月6日に行われる万灯流しに参加しました。
管理人が今喪中である為に、故人をしのんでの参加です。
万灯流しは、あちらこちらで灯籠流しと呼ばれているイベントですね。

故人の名前を記入して、火を入れていただきました。

明るいうちに川沿いに並ぶ分もあります。



暗くなって光が灯ると綺麗ですね。

お坊様たちの供養が行われて、芹川に流されていきます。





幻想的でありながら、その一つ一つに思いが込められている様子は、故人を想う人の優しさでもあるんですね。

卑弥呼の鏡?見学

2012年08月05日 | 史跡
卑弥呼の時代に魏から贈られた画紋帯神獣鏡が、奈良県で発見されたとのニュースが飛び交いました。

しかも発見された場所は、古墳が集中するはずの3世紀後期の古墳が見つからないいわゆる古墳の空白地域だったので、ますます大きな話題となりました。
惜しいことに、発掘調査ではそのような成果があるとは考えられていなかったためめか、発掘の機械で鏡が割れてしまうという不幸はあったそうですが、それでも大きな発見になったのです。

これは邪馬台国大和説に一歩近付くか? とも期待される発見なのかも知れませんが、まずは三国志の英雄が活躍していた後漢末期の中国で造られ、海を渡って1800年後の日本で綺麗に見つかることが素晴らしいではありませんか。

それが今回発見された画文帯環状乳神獣です。

直径14.2センチの鏡には6ミリ四方の中に文字が刻まれていて、それははっきり読めます。また模様も細かいです。まさに匠の仕事です。

この当時は、型を作ってそこに青銅を流し込んで作っていた訳ですから、作る工程でだんだん模様がボケてくるはずなので、これだけはっきりしていることは型を作って早い段階で作った物だと考えられます。
ということは、当日しても価値が高かった筈ですので、やはり貴人への贈り物になるレベルの者だったのだと考えられますね。
卑弥呼の貰った鏡という説、信じて観みくなります。


ここからは当時らしい出土品も見つかっているようです。



150年前:京都守護職任命(8月1日)

2012年08月01日 | 何の日?
文久2年(1862)8月1日、会津藩主松平容保が新たに設置された京都守護職に任命されました。

彦根の話を中心に書くことが多い僕の話では時々登場しますが、井伊直弼が桜田門外で暗殺されるまでは京都守護は代々井伊家の仕事となっていました。
彦根城が京都で騒動が起こった時に天皇を匿う城であった事も最近では良く知られるようになっています。

しかし、桜田門外の変が井伊家の歯車を狂わせました。
井伊家は京都守護の役職を解かれる事となったのです。

でも井伊家が行っていた京都守護の仕事は誰かが行わねばなりません。
彦根城は京都に近い為に大軍を京都に駐屯させる必要はありませんが、京都より1日以上の行程が掛かる藩に任命されたら、京都へ藩士を駐屯させねばならず、その費用も莫大な物となる可能性もありました。

そんな時、最初に京都守護の候補に挙がったのは御三家として江戸を守っていた実績もある水戸藩でした。
しかし、彦根藩から取り上げた役職を水戸藩に与えてしまえば、彦根藩士の感情を逆なでし、場合によっては江戸市中で彦根藩士と水戸藩士やその関係者・浪人たちが所構わずに殺し合いをする可能性もあり、そうなれば江戸の治安は一気に悪化するのが目に見えていました。


そこで、次に候補に挙がったのは福井藩だったのです。
前福井藩主の松平慶永(春嶽)は知識人として知られていて、直弼の安政の大獄で蟄居謹慎となっていたものの、直弼横死後は幕政に復帰していたのでした。
この時は大老と並ぶ権力を持つ臨時職である“政事総裁職”に就任していたのです。
京に近い福井の前藩主で聡明と名高い松平慶永以上の候補者は居ませんでしたが、幕政の中心から京都の守護になる事は実質的な格下げ人事でもあったので幕閣も言い出し辛かったのでしょう・・・
(とはいっても、“政事総裁職”“将軍後見職”“京都守護職”は三役として同じ身分だったはずですが・・・)
幕府は慶永に意見を求めました。
そして松平容保の名前が慶永から挙ったのです。


井伊家は譜代大名筆頭として代々溜間詰めの重役を担っていましたが、同じ様に代々溜間に詰められる“常溜”と呼ばれる藩が他に二藩ありました。
一つが水戸家からの分家となる高松藩
そしてもう一つが三代将軍家光の義母弟・保科正之を祖とする会津藩でした。
会津藩では容保の後見役を井伊直弼が務め、高松藩では直弼の娘を正室に迎える。という形で両藩とも井伊直弼と大きな結びつきがあったのです。

こう考えると、京都にも近く水戸家とも遠戚の高松藩に京都守護職の話が行っても良さそうなのですが、直弼の娘が正室でかつ桜田門外の変で、直弼の後に駕籠を襲われて何も出来なかった士道不覚悟が大きく響いたのではないかと思われます。
また、本来は後ろ盾になる筈の水戸藩と高松藩はお互いに監視しあう仲でもあったのでした。


こういった事情から会津藩に白羽の矢が立ち慶永自らが会津藩邸に足を運び、手紙を書き、重臣を説得して容保の京都守護職就任を望んだのです。
こういった働きに最初は断っていた容保もついに折れて京都守護職就任を了承したのでした。


容保の京都守護職就任を聞いた会津藩家老の西郷頼母と田中土佐はこの役職には膨大な予算が懸かる上に貧乏くじだと言い「薪を背負って火を消しに行くようなものだ」と諌めたのです。
しかし容保は自らの決意を語り、感激した家老は「都を死に場所にしよう」と誓い京都に出向いたのでした。
京の人々は会津藩を知らない人が多く「かいづ?」と読み方も解らなかったくらいでした。

やがて、幕末の悲劇を生む会津の運命はこうして決まっていったのです。


余談ですが、政事総裁職に就いていて京都守護職を断った松平慶永ですが、元治元年(1864)に容保が“陸軍総裁職”に就任したために、慶永が京都守護職に就いていた時期もあったのでした。

もう一つ余談ですが、京都守護職の政庁は現在の京都府庁になります。
歴史の皮肉とは面白いもので、京を守る志はその跡地に今も脈々と繋がるものなのです。