彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『コレクター大名 井伊直亮』

2016年10月29日 | 博物館展示
彦根城博物館で10月28日〜11月27日の期間で行われる特別展『コレクター大名井伊直亮-知られざる大コレクションの全貌-』を観て来ました。

井伊直亮は、直弼の兄で先代藩主でもあります。
彦根藩主随一の数寄者と言ってもよい人物で、たくさんの美術品を収集しました。
その中の最高傑作が今日「彦根屏風」と呼ばれる、京都三条柳町の色街を描いた風俗画です。

(↑この写真は、別の時に展示されたものです、今回の展示では撮影できません)
多くの貯蔵品は、関東大震災や東京の空襲で失われましたが、その不幸すら乗り越えて残った物の数々なのです。
そして、直亮だけではなく同じようにコレクター大名だった松浦静山、松平不昧、細川斉茲、徳川治宝の集めた物もあり、芸術品のオンパレードです。
彦根屏風と並び称される風俗画の傑作「松浦屏風」も観ることができます。

そして、別の展示として、大坂夏の陣に関わる物も展示されていて、
井伊直孝の甲冑



若江合戦の絵

彦根藩士八田金十郎の備前長船の脇差

といった『真田丸』を彷彿させる物も観れます。
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井伊家千年の歴史(12)

2016年10月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 三岳城を追われ伊平で逼塞していた井伊直平は今川家の内紛によって再び井伊谷に戻ることとなる。
 今川氏親が没した後、息子氏輝が母の寿桂尼の後見で政治を行っていた。これが女戦国大名と呼ばれる人物であり今川家には女性でも政治を行う前例があったために井伊直虎も女地頭として容認される地盤があったのではないかとの説がある。それは後年のことだが氏輝は急死し、弟たちが家督を巡って戦う花倉の乱が勃発、一説ではこの時に勝者となった今川義元に味方し直平に井伊旧領が戻されたとも考えられている。この頃、直平は娘を義元へ人質として送った。その娘は義元の側室となったのちに関口義広(今川了俊の子孫)に下賜され一人の女の子が誕生する、この娘が徳川家康の正室となる築山御前であり、数奇な運命がのちの井伊直政の人生にも大きな意味を成してくるのだ。
 さて、話は直平の時代に戻る。井伊谷に返り咲いた直平だったがその立場は今川家の外様という立場であった。しかし義元が今川家を継いだ翌年には北条氏綱が今川家から独立し河東一乱が勃発、氏綱は奥平定勝(奥三河の国人)に対して井伊家と協力して兵を起こすように促していて、井伊家が今川家に臣従していた訳ではなかったようだ。
 この頃の義元は三河国侵略を目標としていて、国境に近く新参者の外様豪族である井伊家は義元に先鋒を命じられ三河へ出兵した。この戦いで直平の嫡男直宗が討死。家督はその子直盛に引き継がれる。直盛は今川一族で重臣でもあった新野左馬助親矩の妹を正室に迎える、この間に生まれた唯一の娘が直虎になる。
 のちに直虎と名乗る井伊家嫡流の女性の幼名や本名は現在に伝わっていない(今後は、一部の期間を除き直虎との表記で統一する)、正確な生年月日も記録には見当たらずすべては想像の領域を出ることはないが、一般的には許嫁となる井伊直親とそれほど年齢が離れてはいないのではないかとされていて、直親の誕生した天文4年(1535)頃ではないかとも考えられている。もしそうならば直虎は物心がついたあとで祖父直宗討死の報せを聞いたことになり幼心に大きな傷ができたのではないだろうか?ただそれはこれから直虎と井伊家が受ける沢山の悲しみの序章でしかなかったが、そんなことは夢にも思わない井伊家では直盛に娘しか生まれなかったことを心配して、従弟の亀乃丞(井伊直親)を婿養子に迎えて井伊家を相続させる話があがり、直虎の将来は希望に満ちていた。しかし、天文13年(1544)直宗の弟の直満(亀乃丞の父)と直義が今川義元の呼び出しを受けて駿府で殺害され、井伊家に対しては亀乃丞殺害が命じられた。直平や直盛、直平の養子の南渓和尚(龍潭寺二世)は、秘密裏に亀乃丞を信州の松源寺に逃がしたのだった。

浜松市北区・井殿ノ塚(井伊直満・直義の墓)
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10月13日、一言坂の戦い

2016年10月13日 | 何の日?
元亀3年(1572)10月13日、遠江国一言坂で徳川軍の本多忠勝と、武田軍の山県昌景が戦いました。
三方ヶ原の戦いの前哨戦の一つでもある戦いで、二俣城での戦いに敗れた徳川家康が天竜川の東である一言坂に本多忠勝ら3000の兵を抑えとして派兵します。
しかし坂の上にはすでに山県昌景5000が陣取っていて、忠勝は家康が逃げるまでの間に坂の下で上からの敵を防ぐという難しい戦いを強いられるのです。
しかも、本多軍の後方に小杉左近を進ませて鉄砲を撃たせ挟み撃ちにするという武田軍必勝の策が実行されました。

陣も安定せず、地形や人数も不利だった忠勝でしたが後方の小杉隊に突っ込むことで死地を脱したのです。
このときに小杉は道を開けさせて、忠勝は感謝の言葉を述べて去っていったのでした。

この戦いの後、小杉左近は
「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」
との落首を書き、本多忠勝の武勇を賞したのです。


現在は国道一号線が通り道が整備されていますが、それでも浜松市から磐田市への移動で一言坂の落差がよくわかります。
磐田警察署の少し西に古戦場跡があり、ここに立つと落差が顕著です。




一言坂から1キロほど西へ向かうと、徳川家康が提灯の光で武田軍をだまして打ち取ったという伝承がある挑燈野という場所があります。



三方ヶ原の後の犀ヶ崖でも同じような伝承がありますが、これらは家康がただ負けただけではないとの神君伝説の一つなのかもしれませんね。


・所在地 静岡県磐田市(国道一号線沿い)
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