彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

1月27日、鶴岡八幡宮暗殺事件

2010年01月27日 | 井伊家千年紀
承久元年(1219)1月27日、鎌倉幕府三代将軍・源実朝が甥の公暁に暗殺される。享年28歳。
公暁も北条義時に成敗される。享年20歳。


この日の鎌倉は、昼間は快晴だったのに夕方から雪が降り始めたといわれて居ます。
午後6時頃、鶴岡八幡宮で武士として初となる右大臣拝賀の儀式が行われる為、その準備を御所(幕府)で行っていた実朝の下に父・源頼朝以来の名臣である大江広元(72歳)がやって来て涙を流しながら「束帯の下に略式の鎧を着たほうがいいです」と訴えました。
広元は“生まれた時と頼朝が亡くなった時以外は涙を流した事が無い”と噂されるくらいの武将だったので、その様子に驚いた実朝は広元の訴えを聞く事としたのですが、側に居た文章博士(歴史の教授をする文官)の源仲章が「大臣大将に昇進する人が束帯の下に鎧を着たなどという前例はない」と反対した為に取りやめとなったのです。

準備が整った実朝は、自らの髪を一本抜いて御所内の庭で花を咲かせている梅を見ながら

“出でていなば 主なき宿と成りぬとも 軒端の梅よ 春をわするな”

「例え主が居なくなっても、梅よお前は春になったら忘れず咲けよ」という意味の不吉な和歌を読んだのです。

やがて出発の時刻となり実朝が御所の南門から出立する時に白鳩が鳴きました。これも不吉な証とされていたのです。
御所の南門から鶴岡八幡宮の楼門までは700m程しか離れていないのですが、実朝の行列は約1000人、夕方から降り出した雪は2尺(60センチ)ほど積もり行列も遅れ、先頭が鶴岡八幡宮の楼門に到着してもまだ御所から出れなかった人々も居たくらいでした。

そして楼門に到着した実朝は、剣を持つ役の北条義時(実朝の母・北条政子の弟)と共に楼門をくぐろうとすると突然義時が精神に異常をきたしたので、剣持ちを源仲章に変更したのです。
義時はそのまま屋敷へ戻りました。


鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の儀式を無事に終えた実朝が仲章を従えて雪の積もった石段を降りていると、実朝から向かって右側にある大銀杏の陰から若い山伏姿に頭巾を被った男が刀を持って飛び出してきて「親の敵はかく討つぞ」と叫び地面を引きずっている実朝の正装を踏みつけて駆け寄りそのまま斬り殺して首を刎ねたのです。
そして返す刀を仲章に向けてこれも殺しました。

「男は実朝の首を手に持って現場から逃走、楼門の外に居た公家や御家人は慌てふためいて蜘蛛の子を散らすように逃走し、鶴岡八幡宮の中には入れなかった殆どの随兵たちは事件の事も知らないままだった」と『愚管抄』は伝えて居ます。

ちなみに殺害現場も鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』では先ほど紹介した石段の途中で、『愚管抄』では石橋となっていたりして曖昧ですが一応俗説の『吾妻鏡』の記述を元にしました。


こうして実朝暗殺を果たした犯人は実朝の兄で前将軍だった源頼家の次男・公暁でした。
現場から逃走した公暁は、途中で食事を摂った時も実朝の首を離さなかったといわれて居ます、そしてそこから幕府の実力者の一人である三浦義村に使者を送って「実朝が死んで将軍職は空席になったのだから、次の将軍は源氏の正当な血筋である自分になるように図って欲しい」と主張したのです。

公暁の使者の口上を聞いた三浦義村は涙を流して声も出なかった。

義村は公暁に自分の屋敷に来るように使者を送って、同時に北条義時に伺いを立てると「公暁を殺せ」との返答が返ってきたのです。

この義村の返事を待ちきれなかった公暁は自ら三浦邸に行こうとした道中で公暁討伐の任を受けた長尾定景・雑賀次郎ら6名と出会ってしまい、雑賀次郎が公暁を取り押さえて長尾定景がその首を切り落としたのでした。


翌日、実朝は葬られますが公暁が持っていたはずの首が見つからず、首の代わりに梅の和歌と一緒に抜いた一本の髪を入棺したのでした。

結局、鎌倉幕府開幕の功労者だった源頼朝の血筋の男子は全て亡くなり頼家の娘が15歳年下の九条頼経(この時2歳)を将軍として向かえて正室になりますが、この娘が32歳の時に死産が元で亡くなってしまい源氏の正統な血は絶えたのです。


さて、この暗殺事件には黒幕がいる事は確かだといわれて居ます。
もっと言うならば実朝は御家人の総意で殺されたと言っても過言ではないそうです。2001年の大河ドラマ『北条時宗』の中で鎌倉の事を“武士の都”と言っていましたが、鎌倉幕府自体が武士政権の象徴なのです。
でも実朝は公家の娘を正室に迎え『金槐和歌集』のような歌集も綴っているくらいの貴族主義でついには右大臣にまでなってしまったのです。こうなると武士達が納得しません。
元々、源頼朝は自家兵を持たずに御家人達に神輿として担がれただけでしたので御家人を裏切ってはならなかった。それは実朝も同じなのです…

こう考えると実朝暗殺の黒幕が見えてきますね。鎌倉武士そのものが実朝を殺したのです。
だから、事前にこの事を知っていた大江広元は涙を流し、北条義時は精神異常という名目で現場から離れたのです。
実朝はこの事を予感していたようで由比ヶ浜に巨大な船を建造して宋への逃亡を計画していたとも言われて居ますが、この計画は船が大きすぎた為に海に浮かべる事ができませんでした。

承久3年(1221)5月14日、こんな鎌倉武士のやり方に怒った後鳥羽上皇が執権・北条義時追討の院宣を出して畿内や近国の兵を召集して承久の乱が起こります。
この危機を武士の団結で勝利に導いた北条氏が幕府執権として鎌倉時代を牛耳ったのです。

承久の乱では、井伊家は鎌倉幕府の軍に属し、東海道を京へ攻め上がる北条泰時の軍に加わったと言われています。
この時に何らかの功績があったのか?それとも泰時に気に入られたのか?詳細は不明ですが、井伊家の当主には泰時の“泰”の字を使った“泰直”という人物が居るので、たぶん字を与えられたのではないでしょうか?
この井伊泰直は寛元3年(1245)の鶴岡八幡宮での御弓始め儀式の三番手に名前が挙がっている“井伊介”ではないか?とも言われています。

また、井伊一族の貫名重忠は承久の乱の時に朝廷方に内通し、その罪で安房国に流されました。
その流配地で誕生したのが日蓮なのです。



余談ですが、源実朝は「鎌倉右大臣」という名前で、後鳥羽上皇は「後鳥羽院」という名前で『小倉百人一首』に選ばれていますので、TOPの写真は百人一首から拝借しました。

1月24日、村木砦の戦い

2010年01月24日 | 何の日?
先にお断りしておきますが、この話自体は、彦根にも井伊家にも全く関係がありません。
もし少しでも関連を求めるなら、村木砦が築城された当時の今川家家臣には井伊直盛という人物がいて、直盛も多少はこの砦に関する軍議を聞いたり、物資の援助をしたかも知れない程度です。

ただ、2010年に450年を迎える桶狭間の戦いに繋がる重要な攻城戦であり、その桶狭間では井伊直盛は戦死し井伊家の危機を迎える要因となり、また戦国史に必ず登場する織田信長がその陣営の全てを考え直し、この為に明智光秀や豊臣秀吉と言った戦国期の著名人が台頭できるきっかけともなった戦いでした。

戦国史を語る上で村木砦を語らないのは、木を語るのに根を無視するのと同じくらいの罪があると管理人は思います。
彦根では『井伊直弼と開国150年祭』が終わった後で『戦国』をテーマとしたイベントを行うと発表されていますので、必要な情報として村木砦の戦いを書きたいと思います。



【本編】

天文23年(1554)1月24日、織田信長が今川義元の最前線となっていた村木砦に攻撃を仕掛け、村木砦の戦いが行われました。

村木砦は、今川義元の家臣だった石川新左衛門康盛が義元の命を受けて改修工事を行った砦で、城主は松平甚太郎義春という人物が務めていました。
現在の地形を見ると信じられないのですが、当時は近くの刈谷城との間に海が広がっていてこの2城で制海権を抑える役割も持っていたのです。そして村木砦の近くには織田信長方の水野信元(徳川家康の伯父)の居城・緒川城があり織田方にとっては目障りな砦だったのです。

天文22年11月頃から石川康盛による大掛かりな改築工事を目の当たりにした水野信元は信長に援軍を請います。そして信長は舅である斎藤道三に応援を願ったのです。
この間に村木砦の改修は完成してしまいます。
記録によれば砦内には三千余りの兵が配置され、東は細い陸地を海が挟み・西は東西に百間(180mくらい)南北に百二十間(220mくらい)の巨大な空堀が掘られその外側には泥田が広がり・北は泥地の向うに海が続き・南も半分は海であと半分は瓶掘りに掘られた空堀の向うに大掛かりな壁が建っていました。
それぞれの空堀の底には杭も立って居たそうですよ。
特に南側の備えは堅固で、『信長公記』には“南は大堀霞むばかり、かめ腹にほり上げ、丈夫に構へ候”と書かれているそうです。


当時21歳だった信長は、村木砦攻略軍の主軍として一番堅固な南を攻める事とし、斎藤道三が派兵した援軍である安藤守就に西側・水野信元と信長の叔父である織田信光に東側の攻略を任せたのです。

午前7時に始まった戦いでは、織田軍は鉄砲で撃ち掛けながら近くの林で木を切って梯子を作り空堀に下りてまた梯子を掛けて砦側に登ろうとします。そこを今川軍が弓や鉄砲で攻撃し撃たれたり落ちた拍子に底の杭に刺さったりした織田軍の兵の死体で空堀は埋まっていったのです。
これでは被害が増えるばかりと悟った織田軍は、近所の住民にも召集をかけて木を切り丸太を堀に投げ入れてついに空堀を埋めてしまったのです。
そして、鉄砲の集中連射(たぶん、長篠の戦の前にここで三段撃ちが行われたであろうとの説も有力です)で今川軍の隙を作った信長軍は壁を破壊して砦内に雪崩込んだのです。

それより少し前に東側から攻めていた水野信元・織田信光連合軍が砦内に侵入。村木砦は織田軍優勢に転じました。
これを見た砦主・松平義春は降参の意を示そうとしますが石川康盛がこれに逆らい義春を殺して砦内の櫓(今の城で言う天守の様な役割の場所)に火を放って信長の目前で自害して果てたのでした。

こうして村木砦の戦いは午後5時頃に終わります。
戦の後に死傷者の確認を行うと、信長の側近の多くがここで戦死したのです。
『信長公記』の記述では“信長御小姓衆歴々、其数を知らず、手負死人目も当てられぬ有様なり”と書かれています。
若い信長にとっては初めて体験した消耗戦となり、将来活躍する筈だった近臣を多く失ってしまったのです。


世に“武田二十四将”“徳川十六将”“毛利元就座備図(二十将)”と戦国大名には一族・譜代・外様を含んだ20人近い重臣団が形成されます。
小和田哲男先生の話では大体どんな規模の大名でも重臣の数は20名前後で落ち着いていて極端に増減する例はないそうですが、信長にはこう言った家臣団が形成されていません。
信長が家臣とした人物は、筆頭家老の林通勝や柴田勝家などの中核は信長の弟・信行を当主にする為に信長に逆らった人物ですし、羽柴秀吉や明智光秀・滝川一益は余所者。
そして俗に“織田四天王”と称されているメンバー(柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀)も丹羽長秀以外は信頼おける譜代の家臣が含まれない状況だったのです。
これは、この村木砦の戦いで重臣予備軍が戦死してしまった影響なんですよ。

1月18日、応仁の乱勃発

2010年01月18日 | 何の日?
文正2年(1467)1月18日、応仁の乱のきっかけとなる御霊合戦が始まりました。

戦国時代の幕開けとも言われる応仁の乱ですが、その歴史背景はどんなものがあったのでしょうか?

足利将軍が支配する室町幕府は貧弱な権力の元に成り立っていました。
初代尊氏は武士の棟梁としてはあり得無いくらいの優しさ(=甘さ)を持っていたために、南北朝の動乱を生み、弟の直義や自らの子で直義の養子となった直冬、そして執政であった高師直らも争うこととなる観応の擾乱まで招く事となり国内を乱れさせたのです。
この争いは三代将軍・足利義満が南北朝合一を果たすまで続き、その余韻は幕府滅亡後まで続いたのです。

義満は大きな独裁政治を敷き、足利将軍家の黄金時代を築きましたが嫡男の義持よりも次男・義嗣を溺愛した為に、義満の死後に兄弟間で疑心暗鬼が起こり義嗣は義持に殺されてしまったのです。


尊氏は、関東にも足利幕府の権力を及ぼす為に三男・基氏を鎌倉に派遣して鎌倉公方と言う新しい関東支配機関を置きますが、この鎌倉公方(後の古河公方)は代を追うごとに都の幕府に反旗を翻すようにもなって行ったのでした。
そして義持の時にはそれが最高潮に達したのです。
結局この時は大きな争いもなく鎌倉公方の持氏(基氏のひ孫)が都に屈服する形になりますが関東に大きな火種を抱える結果となったのでした。

やがて義持は隠居して息子の義量に後を譲りますが2年足らずで死去。
仕方なく義持が空位の将軍の代理をするという異常事態が起こり、そのまま後継ぎを決めないままに亡くなってしまったのです。


義持の死後、困った幕閣は前代未聞の人事を行いました。
なんと、六代将軍を籤引きで選んだのです。
幕府の将軍はその程度で決められるモノだったとも、籤引きと言う神意で決めたとも言えるやり方ですが、とにもかくにも籤で決まったのは義持の弟である義教だったのです。
六代将軍に選ばれた義教は「籤引き将軍」と揶揄され、結果的に持氏が反乱を起こします(永享の乱)、義持は追い詰められて自害しますが、その遺児2人を匿った関東武士がまた大きな反乱を起こすのです(結城合戦)。

結城合戦を含め関東の反乱を鎮圧した義教。
あまりの反乱の多さから独裁政治とエコ贔屓が始まり、結果的に義教のやり方についていけなくなった赤松満祐に殺されてしまうのでした(嘉吉の乱)。
幕府は、細川持常・山名持豊(宗全)たちの軍を発して赤松家を滅ぼしますが、足利将軍家の威光は地に落ちたのです。
こうしてまた混乱の時代が始まったのでした。

義教の死後、嫡男・義勝が後を継ぎますがたった10歳でしかも8ヶ月で亡くなります(落馬説あり)、そして義勝の弟・義政が8歳で将軍となったのです(正式な就任は14歳に元服してから…)。
しかし、子どもの頃に将軍になった義政には理想が先行し、数々の政策を立てても全て失敗に終わりついには政治への関心すら失い、文化にしか興味を示さなくなったのでした。

そして後継ぎも生まれなかったために僧だった弟を還俗させ「義視」と名乗らせて養子としたのです。
ですが、その後に子ども(義尚)が生まれたのでした…

自分の子を将軍としたくなった義尚の生母で義政の正室の日野富子は嘉吉の乱で名を挙げた山名宗全に後見を依頼します。一方還俗までしたのに今更話を無しにされることに抵抗した義視は管領家の細川勝元に協力を依頼して幕府内は真っ二つに割れたのでした。
山名宗全と細川勝元も赤松家再興の協議で真っ向から対立していたのです。

同じ頃、細川氏と共に三管領と呼ばれる斯波氏と畠山氏でも家督争いによるお家騒動が起こっていたのです。

特に畠山氏では総領だった義就が、従兄弟の政長が細川勝元の後ろ盾を得て家を乗っ取られていたのです。
義就は山名宗全を便り、足利義政と対面させ将軍を取りこんでしまったのでした。

畠山氏の棟梁として管領職に就いていた畠山政長は怒って管領を辞任し、細川勝元の力で畠山義就の追討令を幕府に出させようとしますが、日野富子がこれを察知して山名宗全に知らせ計画は破断したのです。


文正元年(1466)12月、5000の兵を率いて京に入った畠山義就は千本地蔵院に布陣します。
翌年1月に入り万里小路の畠山政長邸を襲撃する構えを見せたのです。
追い詰められた政長は細川勝元に援軍を依頼します。
そして1月18日早朝、万里小路の自宅に火を放って上御霊神社境内の森の中に2000の兵と共に陣を張ったのです。

午後4時頃、みぞれ交じりの雪の降る寒い日だったそうです。
山名政豊(宗全の孫)が東、斯波義廉・朝倉孝景が北にと加勢を得て上御霊社を囲んだ畠山義就は南を担当し、まずは北から攻め込んだのです。
畠山政長は、細川勝元に援軍要請の使者を送りながらほぼ一晩持ちこたえましたが、東の山名勢に攻め込まれ遂に上御霊社に火を放って、政長自身は西の小さな小川沿いに境内を脱出し、畠山義就の兵の裏となる相国寺から細川勝元邸へと逃げ込んだのでした。

上御霊社は焼け落ち、焼死体の区別が付かず、義就は政長が死んだと思いこんで勝利宣言をしたのです。
このミスが、文明9年(1477)まで続く応仁の乱の大きな原因でもあり、結局は畠山義就は政長よりも先に亡くなってしまい、政長は細川勝元の息子の政元によって自害に追い込まれたんでした。


この事件が、将軍家をはじめとする多くの家を二つに分けて戦うきっかけとなり、その争いに乗じて下の身分の者が上の身分の者にとって代わる下剋上が横行し、戦国時代への入口とんるのです。


ちなみに、足利将軍家はこの後、
義尚が9代将軍となりますが、近江六角氏との戦の最中に鉤の陣中で亡くなります。
義政は、義視の息子・義材を後継ぎとし、義政の死後に義材が10代将軍となりますが、細川政元に都を追われ、政元は6代将軍義教の三男・政知(堀越公方)の子・義澄を迎えます(彼の兄が北条早雲に滅ぼされた足利茶々丸)。

義材は幽閉されていたのを抜けだし越前朝倉家を頼って上洛しようとしますが失敗、周防の大内義興を頼って上洛を果たします(この時、大内軍に毛利元就の兄の興元が居ました)。
ちょうど細川政元が暗殺された後だったので、政局は不安定であり都から逃れた義澄は軍を整える前に近江岡山城内で陣没しました。
義材は義稙と改名し再び将軍になります、長い歴史に中で2度将軍になったのは義材のみです。

このまま大内軍が京に留まれば良かったのですが、地元で尼子経久が軍を起こし撤退。
その隙をついて細川高国(政元の養子だが後継ぎではない人物)が、義澄の息子・義晴を擁立し義稙は追い出され阿波に逃れてそのまま客死します。
義晴は12代将軍に就任。
今度は細川高国と対立した細川晴元が、義晴の弟・義維を擁立。高国が敗れて義晴は朽木に逃れますが義維は堺を中心に活動したので将軍の代には数えず“堺公方”と呼ばれます。

細川高国は晴元に再び敗れ自害、義晴は六角定頼・義賢親子の仲介で細川晴元と和解して京に帰りますが、再び決裂、都落ち、そしてまた和解帰京を繰り返し、ついには近江国穴太で亡くなります。
義晴の後を継いだのは嫡男・義輝。
13代将軍義輝は塚原ト伝から免許皆伝を受けるほどの剣豪でしたが、松永久秀と三好三人衆の謀反で殺されます。

この松永久秀と三好三人衆が擁立したのが堺公方義維の長男・義栄。
しかし義栄は14代将軍になりながらも松永久秀と三好三人衆の仲互いから京に入れず、義輝の弟である義昭を擁立した織田信長に松永も三好も敗れたために将軍の座を追われてしまい亡くなった場所も定かではありません。

信長に擁立された義昭は、信長に反抗し京を追われ、備後鞆の浦で将軍として匿われましたが、豊臣政権下で槙島1万石を与えられ、将軍を辞したのです。

9代以降、足利将軍でまともな死に方ができた人物は誰も居らず、義昭の子孫の中には西南戦争で西郷軍として戦い戦死した人物もいるのです。

150年前:咸臨丸出港(1月13日)

2010年01月13日 | 何の日?
【新カテゴリーのごあいさつ】

彦根にとって欠かせない人物は井伊直弼ですが、直弼の人生は開国・安政の大獄・桜田門外の変で語られ尽くされる感があります。
また『井伊直弼と開国150年祭』では茶華凡(ちゃかぽん)という文化人の面に重きが置かれました。

しかし、歴史的に井伊直弼を見るならば、生前の業績と共にその人生そのものが幕末という10年の動乱の時代を生んだという事は間違いありません。
ならば、幕末とはどんな時代でなにがあったのでしょうか?

出来うる限り、ちょうど150年前という瞬間を捉えて、その日の何かを追って行こうと思い、“150年前のその日”というカテゴリーを新たに設けました。

管理人の息が続く限り、幕末のその日を150年後に追って行きたいと思います。


【本編】
安政7年1月13日(19日説もあり)、咸臨丸がアメリカに向けて品川沖を出港しました。
オランダで造られた幕府所有の軍艦「咸臨丸」は、長崎の海軍伝習所で幕臣や諸藩の訓練生らの海軍養成の為の練習艦として使われていました。
咸臨丸の名前の由来は、咸は“みなと”臨は“のぞむ”という意味があり咸臨で“君臣互いに親しみ厚く、情があまねく”という思いが込められているのです『易経』という本の「咸臨貞吉」との言葉がその基となっているのだとか。
幕府にしては珍しく、君臣が助け合って港に臨もうとの熱い想いが籠っているのですね。

安政5年に締結された『日米修好通商条約』の批准書を交換する為に、井伊直弼の指示の下、アメリカに対する幕府遣米使節団を派遣することとなり、その使節迎艦ポーハタン号の護衛艦が咸臨丸だったのです。

幕府の使節は、正使・新見豊前守正興、副使・村垣淡路守範正、目付・小栗豊後守忠順(まだ上野介ではない)の三名。
そして咸臨丸は、軍艦奉行・木村摂津守喜毅、大御番艦長・勝麟太郎安芳、通訳・中浜万次郎、従者・福沢諭吉など100名以上が乗船したのです。

幕末の大蔵大臣と言われる小栗忠順に、江戸城無血開城の勝海舟、ジョン万次郎や慶応義塾の福沢諭吉など、その後の日本を動かした人々が多く記録されています。

咸臨丸艦長の勝海舟は、艦長でありながら船酔いが酷く指揮を全く出さないままに艦長室に籠っていた為に帰国後に出世街道から外される事となりました。
本来は訓練を受けた日本人の手だけで太平洋を横断する目的があったと言われていんすが、勝の状況からそれもままならず、結局は同乗したアメリカ人ジョブ・ブックルの指揮によって太平洋横断を成し遂げたのでした。
しかも、咸臨丸はポーハタン号よりも早くに、寄港予定のサンフランシスコ港に到着し日本人初の太平洋横断として、この功績は評価されました。

しかし、後になって江戸時代初期に仙台藩士・支倉常長が日本人初の太平洋横断を果たしている事が公になり、日本人初の冠は消えてしまいました。


咸臨丸が太平洋上を航海していた時の食に関する面白いエピソードがあります。
食事時になると、日本人は甲板に出て七輪に火を起こしている姿をアメリカ人たちが見かけ驚いて止めたのだとか。
甲板で火を起こして、火事が起これば逃げ場が無い為に当然の知識だと思われていた航海術だったのですが、日本人は米を炊く為の火を必要としたのです。

1月11日、国友鉄砲の生産

2010年01月11日 | 何の日?
慶長20年(1615)1月11日、江戸幕府が国友村に鉄砲生産の命を下しました。

えっ?国友村と言えば、江戸幕府より前に鉄砲生産をしていて織田信長の長篠の戦では3000梃(最近の説では1000梃)の火縄銃を準備したんじゃないの?
と思われる方は多いと思います。


ご指摘通り、国友村では浅井氏が北近江を治めていた頃、一説には天文13年(1544)に鉄砲の生産が始まったとされています。天文13年説は国友の人々が江戸時代に書いた『国友鉄炮記』にある記述ですので信憑性には疑問視もあります。
しかし、年数はどうあれ浅井氏支配の間に生産が始まったことは間違いなく、その後は織田信長・羽柴秀吉・石田三成そして徳川幕府へと権力者を変えながらも鉄砲生産の村としての歴史は歩んでいたのです。

ですので、江戸幕府が命じる前に鉄砲生産は盛んに行われていたのですが、慶長20年は5月に大坂夏の陣を控えた年であり、この命は大坂攻めの準備であると同時に江戸幕府が鉄砲生産地を限定する意味も込められていたのです。

こうして江戸期を通して鉄砲生産地となった国友ですが、平和な時代に幕府に警戒されるような武器の需要はそれほど多くはなく、国友は高い技術を要しながらも宝の持ち腐れとなっていったのです。
そこで、軍事的利用から文化的貢献へと一大改革が行われました。


鉄砲技術が使える文化…
それは科学だったのです。
火縄銃伝来時に種子島であった有名なエピソードとして、種子島の鍛冶屋の娘をポルトガル人に差し出す代わりにネジの技術を手に入れたという話があります。
しかし国友まではネジの技術は伝わらず、同じように悩んだ国友の鍛冶たちは独自の力でこれを見つけ出しました。
『国友鉄炮記』には小刀で大根をくりぬいた時に内側に刃の跡が残ったことが発見のきっかけとありますが、それが嘘か誠かは別にしても独自の発見は快挙でした。他にも銃身の巻き方や銃底の柔軟性などの工夫を加えたのです。
そして機関部分に必要な細かいカラクリやバネの技術は「国友」というブランドにまで昇格させたのでした。

こうして出来上がる一級品の技術こそが科学であった為、文化的科学への移行も進んだのです。
代表的なところでは空気銃や反射望遠鏡(細かい話や彦根藩との絡みはここ参照)、顕微鏡、油を自動供給する火灯具(ランプの原型)、測量具、筆ペン、明治期に至っては自転車まで作ったのでした。

鉄砲の村・国友は時代に翻弄されながらも科学の最先端を歩む技術者の集まりでもあったのです。

井伊家千年記(?)

2010年01月01日 | 井伊家千年紀
一つ前の記事でも書きました通り、2010年1月1日は井伊家誕生1000年の記念の日でした。
管理人はこれを勝手に『井伊家千年記』と呼び、なにがしかのイベントが出来ないものか?と考えましたが、実る事は無く当日を迎えました。

しかし、井伊神社では毎月1日の朝に神職の方がお越しになられてお参りをされる事が、以前に彦根の広報に載っていましたので、井伊神社に参拝して1000年の思いを込める事としたのです。


今朝の彦根は雪が降り、井伊神社も雪景色に覆われていました。

井伊神社は、井伊家始祖・井伊共保の750回忌に彦根藩十二代藩主の井伊直亮(直弼の兄)が建立した物で、祭神は井伊共保・井伊直政・井伊直孝の三柱として、その他歴代の井伊家当主を祀っています。
日光東照宮の建築を踏襲した為に“彦根日光”とも呼ばれているのです。


午前9時ごろ、井伊家当主を含め10名ほど集まった境内で元旦の神事が始まりました。

元旦の神事で、特に井伊家1000年と関わる事を行った訳ではありませんが、貴重な区切りの日にそこに関わる場所での行事に立ち会わせていただいた事に感謝しています。

帰りにお神酒をいただきました(家で撮影の為背景が似つかわしくないのをお許しください)



井伊神社は、建立当時から改修・改築を行った跡は見られません。
ですので、古く朽ち果てた印象をも受けますので、貴重な文化財保護の為に改修を早急に考えていただきたいと思う限りです。



【追記】
井伊家千年記と書きましたが、
“千年記”にするのか?
“千年紀”にするのか?
という大きな疑問が残ります。

根本的に“記”は記録や記述などある一点の時間軸に使われ、“紀”は年代として期間を有する時間軸に使われるので、今回のようにある一日にしぼって書いている時は“千年記”と表し、これをきっかけに井伊家の今までの1000年の歴史を流れとして書き進めて行く時は“千年紀”を使います。

井伊家始祖・井伊共保誕生

2010年01月01日 | 井伊家千年紀
寛弘7年(1010)元旦、2010年の元日からちょうど1000年前。
冬の冷たい空気の中、特に厳しい寒さが襲ったであろう井戸の傍らに一人の赤子が居ました。
場所は遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市)の八幡宮御手洗の井戸で、近くの自浄院(今の龍潭寺)の住職(一説では八幡宮の神主)に拾われた赤子は、橘紋の入った産着を着せられ保護されたのです。この子が千年の歴史を今も伝える井伊家始祖・井伊共保です。

今から1000年前といえば、記憶に新しい話では、2008年に『源氏物語千年紀』が世の話題となっていました。
『源氏物語』の作者である紫式部が記した『紫式部日記』や後に関白太政大臣に就任する藤原道長の『御堂関白記』など京都を中心とする政治家たちの情勢を記した記録には恵まれている時期ですが、地方の情勢がいまいち不鮮明な時代でもある平安時代の一番象徴的な時期だったのです。
私たちがよくイメージするような、煌びやかで華やいで恋や和歌が謳歌した文化の時代は都に住む一部の豊かな貴族たちだけが楽しんでいた事で、宮廷から一歩外に出れば“平安”とはかけ離れた貧しい時代でもあったのです。

権力者や有力な寺院は荘園という私有地を全国に置き、その運営や監視・警護を地元の長に私警団を組織させ武装して守らせていました。これが武士の始まりとなり、天慶2年(939)に関東で起きた“平将門の乱”や永承6年(1051)から12年間東北地方を騒がした“前九年の役”などの朝廷を揺るがす武士の反乱も起こるようになっていったのです。

つまり、1000年前は貴族から武士へと政治の主体が変わりつつある、

“貴族主権の終焉と武士主権の黎明期”

でもあったのでした。

この先、明治維新までの約860年を武門の家として生き抜く井伊家の始祖・共保の出生は、武士の台頭とほぼ同時期になり、井伊家はその誕生の瞬間から武士として運命付けられた家であり、歴史の中に時々ひょこっと顔を出す重要な一族でもあるのです。



では井伊家始祖・井伊共保とはどのような人生を送ったのでしょうか?

井伊谷八幡宮の井戸で拾われた共保は、そのまま住職(神主か?)に育てられる事となりました。
7歳の頃に井中化現(出生)の男子の話は噂となり、都より遠江国司として下向し浜名湖の中の志津館に住居を構えていた藤原共資の耳にも入るようになったのです。この噂に興味を持った共資の娘婿として共保を志津館に迎えます。
井伊家は藤原房前の子孫と称していますが、これは共資の家系を引き継いだ物なのです。
長元5年(1032)に家督を継いだ共保は、生誕地の近くである井伊谷に城を築き、この地に居城を移して“井伊”姓を名乗るようになったと云われています。そして寛治元年(1093)に84歳で亡くなりました。

現在の地図を開くと、浜名湖のある辺りと井伊谷では同じ浜松市内とは言っても、すぐ近くという印象を受けるのは難しいと思います。
浜名湖の中に位置し、湖から太平洋に抜ける水運も持っていたとも予測される志津館から井伊谷川で浜名湖に繋がっているとはいえ山に近い井伊谷に拠点を移し姓を変える時に、家臣たちの反対は無かったのか?
妻である藤原共資の娘の意志はどうであったのか?
という疑問は残る所です、もしこれらが大きな反対も無く順調に進んだのなら、出自のはっきりしない自身の誕生や婿養子に入る立場から、共保は慎み深い人物であるように心掛けながら生きた人物だったのかもしれませんね。


“龍潭寺にある井伊共保の墓(左) 右は桶狭間で戦死した井伊直盛の墓”


後の話ですが、始祖が拾われた時に着せられた産着に入っていた橘紋が井伊家の家紋となり、井戸出生にちなんで井桁を旗印とするのです。