彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

企画展『賢治と清六』

2011年09月21日 | イベント
多賀町のあけぼのパーク多賀では『賢治と清六』という展示が平成23年10月23日まで行われています。

展示変替えの都合で変わる時もありますが、今は宮沢賢治が『雨ニモマケズ』を書き残した手帳も展示されていてしかも無料の展示でしたから、今日を待って観に行きました。
なぜなら9月21日は、宮沢賢治の命日だからです。

宮沢賢治が研究したさまざまな視点からの展示に加え、賢治自身の遺物や、賢治の弟である清六の展示もありなかなか興味深い内容で、宮沢賢治が童話と農業だけではなく多方面に渡って研究を続けた人物であることもしれました。

展示中は、花巻の宮沢賢治記念館で販売されている物が置いてあったようで、その中には、『雨ニモマケズ』が書かれた手帳の一部を複製した物も売られていました。

これは、なかなかいい物です。



さて、こんな時くらいしか書けないでしょうから、ここで宮沢賢治の代表作でもある『銀河鉄道の夜』のことを紹介します。

雨ニモマケズ」に代表される詩人でもあり、教師・農業研究者、または『注文の多い料理店』『風の又三郎』などの童話作家としての顔も持つ宮澤賢治は、1896年8月27日に岩手県で生まれました。
そんな賢治の未完の代表作で、初めて発表されてから80年以上過ぎた今でも、童話の金字塔として子どものみならず大人すら引き込まれるのが『銀河鉄道の夜』です。

宇宙の中を機関車が汽笛を鳴らしながら走ってゆき、様々な停車駅で色んな体験をするこの物語。
その舞台となるのが、ちょうど夏から今頃の夜空です。


主人公・ジョパンニは親友・カンパネルラと共に白鳥座から銀河鉄道に乗ります。
銀河鉄道は、天の川に沿って北から南へと進んでいくことが物語から読み取れますから、一緒に天の川を追いかけてみましょう。


夏に夜空を見上げると、砂糖やミルクのように白い帯が横断しているのをはっきりと見る事ができます、この白い帯こそが“天の川”です。
英語ではミルキーウェイとも呼ばれるくらいなので、その白さは万国共通といえるのかもしれません。
この白い帯を南に見ていくと、段々濃くなっている事に気付くと思います。実は、濃くなればなるほど銀河系の中心に向かっている事になります。

天の川は銀河系の星の集まりで、中心に近いほど多くの星が多いので、天の川はより濃く見えるという訳なんです。
冬になると夏とは反対側を見る事になるので、星の数も減ってしまい夏のような星の帯を見る事はありませんが、薄っすらと天の川ができているんですよ。


天の川の上、空の真上付近にとても目立つ星があれば、それは白鳥座のデネブです。このデネブから十字架を結ぶと白鳥座になりますが、それ以外にも、近くに見えている2つの目立つ星と結ぶ事で“夏の大三角形”を作る事ができ、琴座のベガ・わし座のアルタイルという星と重なり、夏の星座探しの目印となります。

ちなみに白鳥座は、ギリシャ神話の中で最高神・ゼウスが奥さんの眼を盗んで愛人に会いに行く時に白鳥に変身した姿を描いたものだそうです。
この浮気で生まれた子供が双子で、ふたご座の由来になります。


さて、『銀河鉄道の夜』で次に印象的な星座は蠍座でしょうか?
白鳥座から天の川沿いに南へ眼を向けると、わし座・いて座を過ぎてから、赤い星を中心に長細いSの字を結ぶのがさそり座です。
真ん中の赤い星はアンタレスと呼ばれている星で、太陽の230倍にもなる大きな星なんですよ。

『銀河鉄道の夜』では、いたちに食べられそうになって逃げたサソリが誤って井戸に落ちて溺れ死ぬ時に「自分も今まで多くの生き物の命を奪って生きてきた、こんな事になるんだったら、いたちにわが身を捧げればよかった、神様、今度はみんなの為に自分の体を使ってください」と言った途端に天に昇って闇を照らす赤い火となった。

と、いう自己犠牲の話が紹介されています。

『ギリシャ神話』では、巨人オリオンを退治するために地上の神々が使わした生き物がサソリで、オリオンを刺し殺し、その後を追って天に昇ったとされています。
このために、さそり座が天にある夏は、オリオン座は隠れていて、さそり座が出ない冬の星座になったそうです。


さて、次の舞台は“サザンクロス”こと南十字です。
ここで、ジョパンニとカンパネルラは少し前に乗ってきた人々とお別れします。この人々は豪華客船に乗っていたのに氷山に激突してその船が沈み、そして神に召される為にここで降りなければならなかったのです。
この物語は1912年のタイタニック号沈没事故をモデルにしています、ここで銀河鉄道が死者の乗り物である事が暗示されます。
ちなみに、サザンクロスはもっと南へ行けないと見る事ができません。


『銀河鉄道の夜』の最後はサザンクロス近くの石炭袋と呼ばれる、天の川の中で星の見えない闇でジョパンニとカンパネルラが離れ離れになり、ジョパンニの銀河の旅は終わりを迎えます。
そして、二人は永遠に会う事ができなくなったのです。


宮澤賢治は、なぜ『銀河鉄道の夜』を書いたのか?
それは、1922年に亡くなった2歳年下の妹・トシのためでした。賢治最愛の妹だったトシを賢治は白鳥になぞらえていました。
白鳥から出発してサザンクロスに至る物語はトシに対する愛情だったのです。

賢治は、トシの死の半年後に樺太へ渡って、樺太鉄道を北に向かい“白鳥湖”に出向いています。湖の名前に、亡き妹との何かを求めて旅立ったのかもしれませんね。
しかし、賢治は樺太旅行だけでは妹の影を探せなかったらしく、『銀河鉄道の夜』は賢治が亡くなるまで4回の改稿を行い、未完のまま終わっているのです。

ちなみに、この樺太鉄道は、海沿いの路線が長く、川沿いを走る銀河鉄道に似た風景を感じる人がいる事も参考程度に書いておきましょう。

『銀河鉄道』と聞けば、松本零士さんの漫画でシリーズが今でもアニメ化されている『銀河鉄道999』を思い浮かべる人も多いと思います、あの作品も宮澤賢治の世界観があったからこそ誕生した宇宙へのロマンの一つなんでしょうね。

手を伸ばせば届きそうな夜空なのに、本当は遠い遠い存在。
その大きさは宇宙誕生から毎年1光年ずつ広がっているそうですから、最低でも百数十億光年の広がりがある事になりますが、考えただけでも気が遠くなる話です。

9月12日、比叡山焼き討ち

2011年09月12日 | 何の日?
元亀2年(1571)9月12日、比叡山延暦寺が織田信長によって焼かれました。今年は440年目になりますね。

前年に姉川の戦いで浅井長政・朝倉義景連合軍に勝利した織田信長は、浅井領をどんどんと切り崩して行きました。それは、浅井朝倉連合軍との新たな戦いの火種を増やすことにもなったのです。

姉川の戦いに敗れたために連合軍としての結束を固めた浅井朝倉は、姉川の戦いの3か月後には逆に信長に勝利し、琵琶湖の西岸で長期戦にもつれ込んだのです。歴史上“志賀の陣”といわれる戦いで、延暦寺は浅井朝倉に積極的に味方してしまったのです。
織田信長はこのことに激怒し、志賀の陣が終わり兵を引いた跡から延暦寺を攻める算段を始めたのです。

志賀の陣が終わった時点で、信長は東山道をメインに居城である岐阜城と京都を行き来していましたが、北近江の浅井は木下秀吉の調略によって少しずつ移動し易くなっていたのに対し南近江は滅ぼしたはずの六角氏が甲賀衆を使ってゲリラ戦を強いられていたのです。そして、そのゲリラ的な作戦で信長を殺そうとした杉谷善住坊を匿ったのも延暦寺でした。
信長は、延暦寺を討つことが南近江の安定にも繋がり、全国の反信長に対する見せしめにもなると考えたのです。


元亀2年9月11日、織田信長は三井寺に本陣を置いて坂本を中心に布陣します。その数は3万だったと言われています。この動きを観て延暦寺側も根本中堂に僧兵や僧侶を集めました。

12日の朝、小雨が降っていたと言われています。日の出の頃に総攻撃の命が下され、織田勢は比叡山を駆け上がりました、この戦で比叡山の建物は悉く燃やされ、立て籠る人は非戦闘員の僧侶や女子供関係なく殺害されたと言われていて、その犠牲者は1500名から4000名とまちまちながら多く記されています。
その一方で、秀吉の部隊は寛大で、寺内に残された寺宝を持った人々は、秀吉勢に出会うと逃げることができ、多くの貴重な文化財が守られたともいわれています。
信長は翌朝に比叡山をでて京都に向かっていますので、戦は1日以内に終わってるのです。



凄惨な出来事が優先される比叡山焼き討ちですが、実際に発掘調査が行われた結果によると、発掘された形跡では、信長の時に焼かれたのは根本中堂と大講堂が確実なくらいで、あとはもっと前に焼かれていたり建物が無くなっていて信長が山内の塔500余りを焼き、その火が山を覆って9月15日まで織田勢の横暴が続いたという俗説は誇張されて伝わっている。ともされています。

比叡山延暦寺は、信長のみが焼いたのではなく、永享7年(1435)に室町幕府6代将軍足利義教に講義するために山徒24人が根本中堂に火を付けて焼いていますので、延暦寺を焼いた最初は延暦寺の関係者ですし、明応8年(1499)には細川政元が根本中堂を始めとする延暦寺の主要伽藍をほとんど焼きました。

焼き討ちと言う意味で言うならば、細川政元の方が規模も大きく不意打ちだったので、織田信長の焼き討ちが伝聞されているように大きな出来事であったのかは再検証が必要なのです。

『一命』のモデルのお話

2011年09月10日 | イベント
先日、映画『一命』の感想を書きましたが、この映画は滝口康彦さんの『異聞浪人記』が原作となっています。
では『異聞浪人記』は、何かモデルのなる話があるのかと言いますと、実はあるのです。

徳川幕府四代将軍徳川家綱の治世のこと、日本中が浪人で溢れ返っていて、当時は浪人を“牢人”とも書いたので「ウ冠の下に牛とは、我らは牛畜生の扱いである」と憤る者もいました。

そんなすさんだ浪人たちのなかで流行したのが、大名の屋敷を訪ねて「生計に窮し、最早生きることもままならぬので、お屋敷の庭先をお借りして切腹したいと思います。どうか介錯をお願いしたい」と申し出ることでした。
関ヶ原や大坂の陣の直後の武骨な武士が生きていた頃ならいざ知らず、この時期の武士は下手をすると刀を抜かないまま一生を終える者すら居るような時代だったのです。
「庭先といえども血で汚されたらたまらない」「そもそも一刀で介錯を成し遂げるほどの者が藩に居るのか?居なければ我が藩は世間の笑い者になる」などの事情から、多くの藩では金品を渡して、諭したという形で引き取らせるのが普通であり、それに味をしめた浪人たちが切る気もない腹を「切る」と言いたてる事件が横行したのです。

諸大名がこれらの浪人の対応に困っていた時、彦根藩井伊家の上屋敷にも切腹をしたいとの浪人が現れたのです。
この時の彦根藩主は三代藩主井伊直澄でした。
浪人の申し出を聞いた直澄は浪人を接待し、自ら浪人に面会し、「それはあっぱれな心意気である、見事に腹を切られよ」と言って、浪人に有無も言わさず腹を切らせたのです。

この話が広まると、切腹を申し出る浪人は居なくなり、井伊家は「さすがに武門の井伊家」と世の賞賛を浴びたのです。


この話は、直澄のエピソードとしてよく語られます。今回、『一命』が上映されるにあたって、出典を調べたのですが、有名な話の割りには出典を明確にできる物が見つからず、『異聞浪人記』やそれを映画化した『切腹』の影響で井伊直孝の話として語られる者も多く流布しています。

直孝の方が武勇の誉れがあるので物語にはし易いのですが、直孝の時代はまだ武骨な武士も残っていたので『異聞浪人記』『切腹』『一命』のように主人公の津雲半四郎が大殺陣を演じるならば似合う時代なのですが、ただ狂言切腹を演じるためだけの逸話なら、武士が形骸化した直澄の時代まで待たなければならなくなるのです。

映画『一命』

2011年09月07日 | イベント
10月15日に公開される市川海老蔵さん主演の映画『一命』を公開一カ月前にして観てきました。
この映画の紹介でよく言われるのが「『切腹』のリメイク」という話です。しかし、原作を滝口康彦さんの『異聞浪人記』にしたということが共通する別の映画になるそうです。


かんたんなあらすじを書きますと。

彦根藩主が井伊直孝だった頃。
彦根藩江戸上屋敷に、元福島正則家臣・津雲半四郎(市川海老蔵さん)と名乗る浪人が現れて、「玄関先で切腹させて欲しい」と申し出たのです。彦根藩家老・斎藤勘解由(役所広司さん)は、2ヶ月前にも同じく元福島家家臣と称する千々岩求女(瑛太さん)という浪人が現れて、切腹した顛末を話しました。
この頃江戸では、大名屋敷に切腹したいと申し出て仕官や金品を受ける浪人が流行し“狂言切腹”と言われていました。彦根藩では狂言切腹が来た時には本当に腹を斬らせることにしていて、求女は丁重にもてなされたあとで、自身が持っていた竹光で無残な切腹を遂げたのです。

この話を聞いても半四郎の考えは変わらず、勘解由は庭先に切腹場を設けて半四郎はその場に就きました。ここで半四郎は最後の願いとして「介錯人を沢潟彦九郎、松崎隼人正、川辺右馬助にして欲しい」と言います。
勘解由がこの三人を呼ばせに行くと、三人とも前夜から行方知れずとなっていたのです。そしてこの三人は求女の切腹に深く関わった彦根藩士でした。
この事に気が付いた勘解由が、藩士たちに半四郎を囲ませた時、半四郎は自らがこの場にやって来た理由を話し始めるのです…



昔は『切腹』という映画が作られ、今回は『一命』と題されたように、武士の命に関わる物語です。その生き様が武士の守る誇りとは何なのか? お家とは? 家族とは? 義・情・そして名誉。
日本人が武士という生き物から引き継いだ武士道という物から、現代人が抱える問題すらも浮き彫りにしたような作品でした。

また、『切腹』・『一命』の対比のように、この作品には対比する何かが多く登場します。
・江戸時代最大のエリートともいえる彦根藩の家老と一介の浪人
・斎藤勘解由が飼っている白猫(ひこにゃんの絡みかな?)と千々岩求女の白猫
・刀を手放した夫と刀を持ち続けた父
・取り潰された福島家と譜代大名筆頭井伊家
などなど…
役所広司さんと市川海老蔵さんすらも対比の構図でした。

現代的な解釈をするなら、エリートコースを進んだ一流企業の社員や政治家が、就職難の時代に働いていた会社が倒産して職を失った人や就職すら見込めない若者に対して見せる視線を沢潟、松崎、川辺らは顕著に著しています(似たようなことが原作本のあとがきにも書いていたような気もします…)

日本人が、日本人たる由縁とも言える武士道。
国民総武士化された現代において、武士の生き方って何? を強く問いかけています。
この作品には、本当の悪人も本当の善人も登場しません。自分の役割を自分の信念で生きて死んだ、そんな男たちの物語でした。


映画で使われた井伊直孝の甲冑は、彦根各地で随時展示されています。

『戦国怪談話』その11 墓穴

2011年09月04日 | 『戦国怪談話』
このお話は、『戦国怪談話』の時に話す予定でしたが、時間の関係でカットした『今昔物語集』に載せられたお話のひとつです。


ある日のこと、一人の男が美濃(岐阜)に向かって旅をしていました。篠原辺りで夕方も近付いた頃に、急に大雨が降りだして、男は慌てて雨宿りができる場所を探したのです。
すると近くに洞穴のような入口があったので、そこに入りました。
男がそこに入ってびっくり、そこは死者を埋葬するために掘られた墓穴(横穴)だったのです。
「墓穴とは気味が悪い、しかし幸いにもまだ死体が入る前のようだし、今夜はここで雨が止むのを待とう」と思った男は、墓穴の奥へと進み入口からは見えない陰の方で横になりました。

陽もすっかり沈み、男がウトウトと眠っていると、外からこちらに向かって走ってくる音が聞こえます。不気味に思って身を縮めていると、蓑を着た男が走り込んできてやはり雨の災難に遭った様子でした。
しばらくして、その穴が墓穴だと気が付き、急に怖がり、奥に向かって「雨が止むまでお世話になります。これはつまらない物ですがお納めください」と飯を供えたのです。
先に入った男は、ちょうど小腹も空いていたのでその飯をさっと取って食べてしまいました。すると入口の男がヒーと悲鳴をあげて「お供え物が消えた!物の怪に違いない!!」と叫び、持ってきた荷物も、落ち着くために脱いだ蓑や笠も置いたままで雨の中を走り一目散に逃げて行ったのです。

「お前が供えておきながら、驚くとはどういうことだろうね」と、残った男は苦笑しながら夜を過ごしました。

朝になり、雨もすっかり止みました。
逃げて行った男が置いていった物を持って、男は旅を続けたのですが、荷物が妙に重かったので開けてみるとそこには高価な反物が何反も入っていたのです。

男は、「さてはあの男は商人だったのか」と納得し、そのまま旅を続けました。
そして、偶には墓穴に泊まるのもいいものだ、今夜も泊ってみるか…と思いながら旅を続けたのです。


このお話には、本当の意味での怖い存在は出てきません。
しかし墓穴という普通ではない舞台ができることで二人の男は違った方向へと進んでしまうのです。
怪談話を幾つか話しましたが、もしかしたら址から入って来た男のように、怖いと思ったために何でもない物が怖い存在に見えた可能性もあるのです。

怪談話は、とっても面白いお話ですが、怖がるのもほどほどがいいかもしれませんね。
では、長く続きました『戦国怪談話』もこれにて一旦閉幕

『「学校をつくろう」とその時代』講演聴講記録

2011年09月03日 | 講演
先週に引き続き、今日も『学校をつくろう』の上映会が行われ、同時に井伊家現当主の井伊直岳さんによる『「学校をつくろう」とその時代』と題した講演が行われました。

『学校をつくろう』は明治前期を舞台としていますので、その頃の日本の情勢や、若者たちがどのよううに育成さrて行ったかというお話をしてくださいました。
明治という時代はわかりにくいこともたくさんあるので、「なるほど」っと考えさせられながらの聴講でした。


さてさて、今回の講演会場は岡村本家さんでした。
ドラマや映画の撮影にもよく使われる酒蔵にある雰囲気のあるホールです。
台風にも関わらず、会場にはたくさん来ていただきましたよ。

『戦国怪談話』その10 近江の妖怪その2

2011年09月02日 | 『戦国怪談話』
近江の妖怪で特徴的なのは、やはり延暦寺や琵琶湖を舞台にした妖怪たちです。


○蓑火(鬼火・油坊・油盗人)
彦根市大薮町では、雨の日の夜に蓑を着ながら琵琶湖に船で出ると、蓑に青っぽい火が付き、慌てて消そうと払っても取れず数が増えて行くのですが熱くはない。という伝承があり琵琶湖で亡くなった人の人魂といわれています。
もしかしたら、雨に濡れた蓑に付いた水滴が月の光を浴びて光ったのを、他の船からは火が付いているように見えたのかもしれませんね。

鬼火や油坊・油盗人は延暦寺に関わるお話。油坊は延暦寺で油を盗んで罰せられ欲賀村(守山市)で亡くなった僧侶が成仏できずに欲賀から延暦寺まで火の玉となって飛んでいく妖怪。
油盗人は松尾寺(愛荘町)の男が延暦寺の油を独占して寺に納めて大金持ちになったのですが、やがて放蕩が過ぎて没落し哀れな死を迎え、その後には、人魂が延暦寺まで行って油の周りをうろうろ飛び回っていたということです。どちらも火に関係していて、近くで見た者の証言では坊主頭の生首が火を吐いた姿だったといわれています。

これ以外にも、河童と同じような意味で使われる水虎の伝説があるのも琵琶湖ですし、比良八荒は琵琶湖の水難事故で亡くなった霊が起こしているともいわれました。


また有名な伝説では俵藤太の三上山の大ムカデ退治の話や、全国的に広がる舌切雀伝説は湖西にもあります。
そして、有名な怪談話である番町皿屋敷も近江に残る伝説の一つです。


○皿かぞへ
有名なのは、江戸の番町や姫路城内にはお菊の井戸があり番町は播州がなまった物ではないかともいわれていますが、彦根にも伝説があります。
寛文4年(1664)彦根藩の500石取の重臣に孕石政之進という美男子がいました。政之進は、自分の屋敷に下働きに来ている足軽の娘お菊と恋仲になっていたのですが、身分の差があり正式な結婚が認められませんでした。こうして政之進は身分に合った女性との婚約が決まりますが、お菊に対して「俺はお前しか見ていない」みたいなことを言います。
お菊はその言葉が信じられずに、自分への愛を確認するために孕石家の家宝の皿を1枚割ってしまいます。

孕石家の家宝の皿は、とても大切な意味がありました。井伊直孝に仕えた孕石家の祖先の孕石泰時は大坂の陣に出陣しここで戦死しますが、その武功によって直孝から孕石家に与えられた10枚の皿でした。そしてこの皿は、徳川家康から井伊家に与えられた物だったのです。
普通に考えてもお殿様のお殿様から伝わった物ですから大切なのですが、孕石家には別の意味もありました。
徳川家康がまだ幼い頃、人質として駿河今川家に連れて行かれました、この時に家康の隣に住んでいたのが孕石泰時の父親の元泰でした。元泰は家康を虐めて虐めて虐め続けます。ですので後で家康が大大名として今川家を滅ぼし、その後に孕石家は武田家に仕え武田家の城のひとつの高天神城に入ります。
高天神城は天正9年3月に家康によって落とされ、その時に武田の家臣のほとんどを家康の配下として迎えるのですが、孕石元泰には切腹を申しつけたのです。ですから孕石家は家康に恨まれた存在だったのです。
そんな家康が井伊家に与えた皿を孕石家が貰うのは、徳川に許されたという意味があったのです。

その皿を割ったというのは大変なことなのです。それも手違いでは仕方がないが愛を確かめるために割ったという事情が許されるものではなく、お菊は政之進に斬られました。そして残りの皿をすべて割ってお菊の遺体と共に実家に還されたのです。
こののち、お菊の霊は孕石家の屋敷の井戸に、これから孵化しようとする蛾の幼虫がいたのでそれに乗り移り、蛾になって政之進に女性が近付こうとするとその邪魔をしました。
政之進はお菊の愛の深さを知って屋敷にお稲荷様を作り、政之進は出家してお菊の霊を弔うために全国を行脚し駿河で亡くなります。駿河には政之進が残した刀があるとも言われています。

お菊さんのお墓は今、彦根の長久寺にあり、ここには割れた皿のうち6枚が残っています。

余談ですが、この話を数年前に地元の中学生にしたことがあります。すると番町皿屋敷の話を知らなかったようです。そして皿屋敷の話をしました「一枚二枚…と数えて九枚まで数えたらいなくなるんだよ」って。
すると「それだけですか?」と言われました。そして「貞子の方が怖いですよね」って言われました。
今の子の方が怖いですよね。

『戦国怪談話』その9 近江の妖怪その1

2011年09月01日 | 『戦国怪談話』
近江商人が20年間居なくなったお話をしましたが、これらの不思議な出来事は神隠しといわれたりして、妖怪などの仕業だと考えられていました。
そんな妖怪たちの中で、湖東地域で知られている妖怪を少しご紹介しましょう。

○人魚
近江の人魚は『日本書紀』にも記されていて、東近江市を中心に伝説が分布りています。観音正寺は聖徳太子が人魚の為に建立したお寺だと言われていて、平成の初め頃までは人魚のミイラも残っていました。

○大蛇
人魚伝説がある観音正寺の寺域にあったお城が、観音寺城です。この城跡にはお茶子地蔵があります。伝説では大蛇に見染められたお茶子という娘が、大蛇の求婚を断ったために絞殺されたという話ですが、実際は観音寺城主六角氏に側室に上がるように言われて、拒んだために殺された娘を祀った物だと言われています。

○口裂け女
現代の都市伝説のようなお話で、その発祥は岐阜県から始まったと言われていますが、モデルになったのは信楽に住んでいた“おつや”という明治時代の女性です。
おつやは、三日月の形をした人参を咥えながら丑の刻参りをしていて、その姿があまりにも恐ろしくて、口裂け女へと繋がって行ったそうです。またおつたが走るスピードが早かったために、100キロばばぁの伝説も生まれたという噂もあります。

○釣瓶火(釣瓶落とし)
全国的に、少しさびしい場所で出没する妖怪だと言われています。湖東地域では東円堂城跡の外堀の南東隅に出没したといわれています。
多くの場合は木に隠れた人のいたずらか、通行人を襲った盗賊の類ではないかといわれているのです。