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彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『べらぼう』の話(33)水野忠友

2025年08月10日 | その他

田沼時代に老中のひとりである水野忠友は興味深い人生を送った人物ですが、あまり注目されていないのも寂しいので当時が増えてきたタイミングで紹介したいと思います。


水野氏はもともと尾張国緒川城を中心とした地域を治めていた国衆で、徳川家康の生母である於大の方の兄弟を祖として何家かの譜代大名や旗本の家が繋がっています。



そのなかで、於大の方の弟である水野忠重から勝成に繋がる福山藩(維新時は結城藩)が本家となります。

水野忠友は、勝成の四弟・忠清が上野国小幡藩一万石で立藩したことに始まります。その後、信州松本藩七万石となり、六代忠恒まで松本藩を治めたのですが、忠恒は兄が若くして亡くなったために急に藩主に選ばれた人物であり、酒色や狩を好む難ある人物だったのです。

享保10年(1725)7月28日、7日前に大垣藩主・戸田氏長の養女と婚儀を行った忠恒は将軍徳川吉宗に祝いの御礼言上のために江戸城に登城し、吉宗への拝礼を終えた直後、松之廊下において長府藩世子・毛利師就に斬りかかったのです。

師就は鞘ごと脇差を抜き応戦、右手、左耳、のどに傷を負うものの深傷にはならず、戸田氏長の弟・氏房が忠恒を押さえて事件は終わったのです。


浅野内匠頭の刃傷から約四半世紀後の刃傷事件は世間の注目を集めますが、水野家の家柄から忠恒は乱心とされ蟄居。水野家は七千石の旗本として叔父水野忠穀が後を継いだのです。


この忠穀の嫡男が忠友です。

九代将軍となる徳川家重の小姓を務めこの時に一回り年上の田沼意次と同役であったことから繋がりができたと考えられます。

田沼意次は、家重と次代・家治の信頼が高く小姓番頭から側役となり側用人そして老中へと出世する当時としては変則的な方法で幕政に参政します。

これに対し水野忠友は、小姓番頭から若年寄となり三河大浜藩一万三千石として譜代大名に返り咲きやがて沼津藩三万石で勝手掛老中となるのです。

この出世には、田沼意次の四男意正を娘婿として水野忠徳と名乗らせ養子に迎えたことが大きいと言われています。

しかし、田沼意次失脚後に意正は水野忠友の娘との間にできた息子と共に田沼家に戻されます。

それでも、水野忠友と田沼意次の繋がりは問題視されて老中を罷免されるのですが、田沼意次を失脚に追いやった松平定信が老中の座を去ると忠友は西の丸老中に返り咲いたのです。

老中在任期間は累計34年となり、従兄弟の水野忠恒が落とした家格を戻すことに成功したのです。


そんな忠友の後を継いだのは、田沼意正と離縁した娘に新たに迎えた婿である忠成でした。

旗本岡野家から養子に入った忠成は、寺社奉行、若年寄を歴任し、側用人から勝手掛老中となり、徳川家治の後を継いだ徳川家斉(十一代将軍)の信任を受けて田沼意次の再来と呼ばれるようになるのです。

そして、この時に水野忠成を助けた若年寄が、田沼意次の死後、田沼家当主四代が次々と亡くなったために田沼家を継いでいた田沼意正だったのでした。

水野忠友の娘の前夫と継夫が若年寄と老中という形で幕政を担うようになるのです。


余談ですが、田沼意次と水野忠友の血を受けた田沼家当主は幕末に天狗党討伐を指揮した若年寄・田沼意尊に続くことになります。

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『べらぼう』の話(32)江戸生艶気樺焼

2025年08月03日 | その他
天明5年(1785)正月、耕書堂から発刊された『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』は黄表紙として空前の大ヒットを記録しました。初版発刊後に三度も再版されていて著者である山東京伝も人気作家としての名声を得ることとなるのです。

『江戸生艶気樺焼』は本文を山東京伝、挿絵を北尾政演が担当したと記されていますがどちらも山東京伝の名前ですので、京伝が絵も文章も書いた作品となるのです。同じようなことは恋川春町や十返舎一九も行っていますが多彩な才能であったことは間違いありません。

物語の内容としては…
金に困ることがない家に生まれたが見栄えが良くない仇気屋の「艶二郎」は19歳か20歳くらいの青年。
日がな一日浄瑠璃や物語などを見ては女性との色恋沙汰で世間の噂になることに憧れていたのですが、近所の悪友二人と一緒にこの憧れを果たそうと悪戦苦闘。
女性と愛を誓うと腕にその名前を彫り、別の女性ができるとお灸で焼いて新しい女性の名前を彫るのが粋と聞くと、20も30もの名前を入れて灸で焼いたり。
世間で若い女性が役者の家に押し掛けた事件があったと聞くと、芸者を50両で雇って家に駆けこませたり。その話を瓦版(読売)を雇って記事に書かせたりするが世間の目は「作り話に違いない」と冷たい反応。
そして吉原に行って浮名屋の浮名という遊女との仲を広めようとする。
その反面、せっかく吉原に行ったのだから帰宅したときにやきもちを焼く女性がいないと面白くないと200両で40歳くらいの女性を妾にして、やきもちを焼かせる芝居をさせてみる。
そして悪友の一人に金を与えて連日浮名のもとに通わせて、自分は浮名の妹分のところに通って浮名と密会するという場面を演出。

などなど金に物を言わせて滑稽なことばかりしているのですが…

それでも懲りずに人を雇って自分に殴り掛からせたり、自分が金持ちであることに嫌気がさして父親に勘当してもらうように頼んだり(母親からの仕送りで金には困らない)そんなことをしていると多少はうつけ者として評判になることもあるのですが、艶二郎の望むような大きな噂にはならないので、とうとう浮名と心中することを決意します。
とは言っても浮名にはそのつもりもないため、浮名を身請けして心中のお芝居をしてから浮名はどこに行っても自由という条件で認めさせるのです。
こうして、浮名を1500両で身請けして、それでも心中の為に足抜けするような演出で見世の二階まで梯子を掛けて駆け落ちのようにする(でもみんなに見送られている)。
心中する場所まで行ったところで追剥に遭い「もうこりごりだ」と思いながら艶二郎と浮名はほぼ裸の格好で仇気屋に戻ると、盗られたはずの着物が置いていて、父親から追剥は自分が番頭にやらせたことだと明かして心を入れ替えた艶二郎はその後に浮名を妻に迎えて悪友二人と縁を切って真面目に働いたのです。
そして自分のダメな行いを黄表紙にして世間に知ってもらうため山東京伝に語って聞かせたのでした。

という物。
艶二郎は、鼻が上向いたブ男に書かれていて、一説では山東京伝自身を描いたともされていますが、この愛嬌がある姿と縁二郎の滑稽さからしばらくは「艶二郎」は流行語となります。
黄表紙も文学であるため、のちの世にまで影響を与える言葉も生まれていて恋川春町の『金々先生栄花夢』では「類は友を呼ぶ」という言葉も生まれていますし、山東京伝がのちにヒットさせる『心学早染草』とそれに続くシリーズでは「善玉」「悪玉」という現在まで日常的に使われる言葉と、今のゆるキャラに繋がるような「善玉」「悪玉」のキャラクターも誕生しているのです。

黄表紙など当時の物語は正月に発刊されるため、物語の落ちはハッピーエンドで終わることが常識でありこの物語をはじめとして安心して読めることも大きな特徴です。
また、これらのいつの時代に読んでも滑稽な物語と、世の中を風刺した物語が混在しているのも面白い形だと思っていましたが、『べらぼう』28話では『江戸生艶気樺焼』の中に政治的な風刺が含まれているという視点が描かれていたのでその観点で改めて見ると面白いのかもしれませんね。
ちなみにタイトルは「ウナギのかば焼き」をもじったものなので、劇中に鰻屋が出てきたのかな?

余談ですが、『江戸生艶気樺焼』を読むのに簡単なのは、『サライ』2025年2月号のとじ込み付録です(今回の写真もそこから使用しました)

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べらぼうの時代(8)

2025年07月30日 | ふることふみ(DADAjournal)

 天明4年(1784)3月24日、江戸城中において田沼意次の嫡男で若年寄の田沼意知が佐野善左衛門に刃傷され4月2日に亡くなる。工藤平助の娘・只野真葛の記録によれば『赤蝦夷風説考』が田沼意次に読まれたのは天明3年であり、直後から蝦夷地についての調査準備が始まるが史料としてあまり表に出てこないため、この頃は意知が土山宗次郎に命じて内密に担当していたのではないかと考えられるが、意知が暗殺されたため意次自身が動かなければならなくなった。意知の死から1か月半が過ぎた5月16日、土山の上司である松本秀持(勘定奉行)から田沼意次・水野忠友(老中)に対して赤蝦夷に関しての申上げを行う書付が提出され、この時から幕府が正式に蝦夷地に関わってゆく。

 翌5年、幕府は勘定方から人材を選び蝦夷地の調査を開始した。松前藩士の湊源左衛門を相談役にして東西と遊軍の三隊に分かれた調査団は現地のアイヌ人とも会話を行いクナシリや樺太にも渡っている。浅間山噴火で世界中が小氷河期になっていた時期の調査は過酷を極め樺太まで渡った西蝦夷調査隊は越冬時に宗谷で全員凍死する。
 しかし蝦夷地調査の途中で十代将軍徳川家治が亡くなり田沼意次は失脚する。これにより蝦夷地探索は中止となる。探索隊の中で遊軍隊の責任者であった佐藤玄六郎行信は幕府の仕事として報告書『蝦夷拾遺』を提出する。この書は天明期のアイヌ民族の文化や言葉などをイラストも含めて紹介している貴重な地誌である。『蝦夷拾遺』貞の巻・物品の部に「太刀はすべて日本の衛府の太刀鞘巻や山刀の古物で、つばは付いていない。金具は江州彦根柳川製の古物であろう。これを蝦夷から買い取って、蝦夷後藤と称し、売り出すこともある」(原本現代訳『赤蝦夷風説考』井上隆明訳 教育社)との気になる一文を見つけた。松前藩と柳川湊を含む両浜組を中心とする近江商人との繋がりから言えば蝦夷地に江州柳川の地名が知られていることは理解できるが、柳川製の金具がわからない。この件について彦根市立図書館や滋賀県立安土城考古博物館でもお手を煩わせることになってしまったが結果的に江戸中期に古物となっている柳川製の刀剣や金具は見つけられなかった。調査過程で視野を広げ十世紀まで近江では製鉄技術があったことや、長曾根虎徹や甘呂俊長などの彦根に関わる鍛冶師を始めとする近江に残る鍛冶師たちの存在から、近江より運ばれた物を「江州柳川製」と一括で理解されていた可能性も否めないのである。前稿で記した通り田沼時代に蝦夷地で活躍していた商人は飛騨屋であったが、近江商人の活躍も各地に残っていたのだった。

 さて、田沼意次から政権を奪った松平定信は、佐藤玄六郎が提出した『蝦夷拾遺』を無視した、また蝦夷地調査の実質的な責任者であった土山宗次郎を吉原の花魁誰袖を身分にそぐわない大金で身請けしたことを理由に斬首に処す。他の関係者も田沼政権の失脚に連座することとなる。

『蝦夷拾遺』(宮内庁書陵部所蔵)出典: 国書データベース
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『べらぼう』の話(31)世直し大明神

2025年07月27日 | 史跡

天明4年(1784)3月24日、江戸城中で佐野善左衛門政言が田沼意知を刃傷


4月2日に意知が死去したため、翌日に政言は切腹の沙汰を受け伝馬町揚屋敷において腹を切りました

当時の切腹は、腹を切るとは形式だけのもので罪人が三方に乗せた扇に手を伸ばすのと同時に介錯人が首を撥ねました

記録によると政言は「刃物」と叫んで実際に腹を切ることを望んだが、介錯人は脇差を乗せた三方を遠めに置き、政言が手を伸ばした瞬間に介錯人が首を落としたのです。享年28歳


政言の遺体は浅草の徳本寺に運ばれて4月5日に葬儀が行われて埋葬されます





刃傷が3月24日で、『忠臣蔵』の松之廊下刃傷事件(3月14日)と近いこと、刃傷のあとすぐに江戸の米価が少し下がったことなどが原因となり政言は「世直し大明神」と崇められるようになったのです

こうして徳本寺には「佐野大明神」との紙が貼り付けられ墓参りの客が絶えず、門前に仏花や線香を売る店を出した者は大儲けします

墓所内は線香の煙で曇っていたとの話もあり、事態を重く見た寺社奉行が身内以外の墓参りを禁止すると外から境内に向かってる大量の銭が投げ込まれたとも言われています


政言に子が居なかったため、佐野家は断絶となりましたが財産は没収されず身内への連座はなかった

政言の父母は長姉のもとに移り、父政富は三年後に亡くなります

佐野家再興の話は何度か出ますが果たされないまま明治維新を迎えます


ちなみに、政言の妻の兄である村上義礼はのちに目付や江戸南町奉行を勤めるのです

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『べらぼう』の話(29)田沼意知刺殺事件

2025年07月13日 | 史跡

天明4年3月24日、田沼意知が佐野善左衛門に襲われました。


記事を書き直そうか?とも思ったのですが、ショックが強すぎで頭が回らず(28話の時はどうするんだ!)14年前に別ブログで書いた物をそのまま貼ります。


ちなみに、意知が亡くなったのは3月26日や27日ともされていますが、この頃は意知が亡くなった翌日に佐野善左衛門が切腹になったとされていたので4月2日説を採用しています。


豊島区勝林寺の田沼一族の墓、意知は上段真ん中あたりの「仁良院殿光嶽元忠大居士」





〜以外、過去のブログ記事より〜

天明4年(1784)4月2日、田沼意知が死去。享年36歳。 


田沼時代は、田沼意次によって多くの人材が登用されます。蝦夷地開拓を推進した土山宗次郎とその部下の青島俊蔵や最上徳内、通貨の統一を実行した勘定奉行・松本秀持、江戸の治安を守った火付盗賊改方・長谷川平蔵(鬼平)などです(長谷川平蔵は松平定信に重用されているイメージがありますが、意次に重用された為に火付盗賊改方から出世する事ができなかった悲劇の人物なのです・・・)。 
他にも在野の平賀源内には常に百両(約一千万円)の現金を持たせて文化人に回るようにもしていたのでした。特に蘭方医への援助は大きくかったと言われています。 

これらの人材は田沼時代が継続すれば必ず歴史の教科書に登場するような活躍をするのですが、その前に浅間山の大噴火という自然災害によって田沼政権が崩壊を始めてしまったのです。 
浅間山の噴火の影響は、その噴煙で世界の大気が曇ってしまい世界的な冷害となりパリのセーム川が凍りついた程で、この冷害の影響で飢えた民衆の怒りが絶対王制向けられてフランス革命が勃発します。 
地球の裏側のフランスがそうだったのだから、日本での冷害はもっと酷く、米の値は天井知らずに上がり“天明の大飢饉”が起ってしまうのでした。 


そんな自然に見放された田沼政権を支える為に若年寄に就任したのが意知でした。この時の意知の登用を親子で幕閣を牛耳る為の職権乱用と見られる事が多いのですが、意次は無能な人物を重要ポストに置く事は無く、意知に対しても息子という面以上にその才能を買ったからこその重用だったのです。 
しかし、名門大名や御三家・御三卿の面々はこの就任を不服に思い、天明の大飢饉で乱れた世の中の責任を全て田沼政権に押し付ける形で意次失脚の裏工作を次々と始めたのです。 
商人と手を組んで米の値を上げさせた人物もいたと言われています。 

そんな中、意次の嫡男で若年寄だった意知は領国から米を江戸に運び込む手配を行ったのでした。 
でもその直前に佐野善左衛門政言という幕臣に江戸城内で斬り付けられたのです。天明4年3月24日の事でした。 


佐野家は、名家として知られた家でした。 
その由来は、鎌倉時代の事。 
六代執権・北条時経(元寇時の執権・北条時宗の父)は、早くに執権職を引退して出家し諸国を巡る旅をしていたのです。 
同じ頃、上野国佐野での事。一人の旅の僧が雪の中で往生していた… 
近くに一軒の家があったので泊めてもらう事になったのですが、そこには貧しい夫婦しか住んでいなかったのです…。 
外の雪が激しくなる一方、だが囲炉裏の火は消えかかっていたのです。主人は秘蔵の鉢の梅・松・桜の木を囲炉裏にくべて僧を凍えさせないように精一杯もてなしたのでした。 
やがて貧しい主人は自分の事を語り始めます。主人の名は佐野源左衛門常世。 
「叔父に所領を奪われ貧乏暮らしをしているが、合戦が起こりいざ鎌倉という時には一番にはせ参じる」と僧に語ったのです。 
やがて、鎌倉から召集が来た時佐野常世は一番に駆けつけました。そこで雪の日の僧が北条時頼だった事を知たのです、そして時頼から鉢の木の礼に梅田・桜井・松井田の領地を与えられたのでした。 
この話は創作なのですが謡曲『鉢木』や『いざ鎌倉』と言う話を生んで武士道の見本となったのです。 

佐野善左衛門は、佐野源左衛門の子孫と称していてこれが名門の所以となったのです。 
ちなみに田沼家も佐野家の親類の子孫で、江戸期以前は佐野家の家来だったのでした。 
昔は家来筋だった田沼家に身分を追い抜かれた怒りがこの刃傷の原因の一端になっていると言われています。 

では、刃傷の現場を覗いてみましょう・・・ 
夕刻、職務を終えて帰宅しようとする意知が三人尾同行者を伴って江戸城内の桔梗の間に入ります。 
桔梗の間で目の前に通る意知を脇に控えて見つけた善左衛門は、まるで『忠臣蔵』の浅野内匠頭にでもなったように「山城守(意知の官職)覚えがあろう!」と叫ぶと、意知を後ろから斬り付け左肩骨を割りました。ここで意知の同行者は逃げ出して部屋の隅で震えていたのです。 
身の危険から逃げて次の間に入った意知の長袴を踏みつけて転がした善左衛門は、とどめを刺す為に倒れた意知に対して突きを入れようとします。 
しかし、ここで意知は冷静に判断し殿中での抜刀が御家断絶の危機を招く恐れを回避する為に鞘ぐるみで脇差を抜いて善左衛門の突きを防いだのです。 
ここで大きく滑った刀は意知の両太腿を斬ったのでした。 

この時になって、次の間に居た大目付の松平忠郷が善左衛門を押さえつけ、柳生主膳が刀を奪いこの事件は終わったのです。 

意知の傷は深かったのですが、急所では無かった為に助かる筈でしたが、4月2日に急死したのでした。 
この為に、治療中に毒を盛られた説や、そもそも医者が間に合わない様に裏工作がされていた説などが今でも語られていますし、おそらく故意に意知が亡くなる様に仕向けられたのは間違いなかったと僕も思います。 
善左衛門は、意知が亡くなった翌日の4月3日に切腹となっています。 


意知殺害後、意知の手配した米が江戸に運ばれたお陰で米価が安くなり民衆は救われるのでした。 
田沼政権が苦しみの根本だと思い込んでいた民衆は意知を斬りその直後に米価が下がる奇蹟を起こした(と思われた)善左衛門を“世直し大明神”として崇め、反田沼の動きは益々活発になったのですが、将軍・家治の信頼が厚かったためにまだ政権に揺るぎはなかったのでした。この頃から、反田沼派の旗頭に松平定信が立つようになり民衆も定信に期待したのです。 
そして、田沼政権の力が弱くなった後に米が再び江戸に送られる事は無く、民衆の期待した定信には救民への想いなどまったく無かったのです。 

田沼意次は、最大の右腕だった意知を失った代わりとして、次女の婿である与板藩主・井伊直朗からの縁を伝って彦根藩主・井伊直幸を大老に据えて政治を行うようになったのです。 

つまり、田沼意知は意次にとって大老に匹敵するくらいの人材であったのでした。もし意知が暗殺されなければ日本の開国は彼の手によって行われた可能性が高いと考えられていて、意知暗殺の報せを聞いた長崎出島のオランダ商館長イサーク・チチングは意知を酷評する川柳を紹介しながらも「様々な事情から推察するに、幕府のもっとも高い位にある高官数名がこの事件に関係しており、この事件を使嗾しているように思われる。元々この暗殺計画は、田沼意次・意知親子の改革政治を妨げるために、意次の方を殺すものだったといわれる。しかし父親の方はもう歳を取っているので間もなく死ぬだろうし、死ねば当然その改革計画も止むであろう。しかし息子の方はまだ若い働き盛りなので、彼らがこれまで考えてきた様々な改革政治を実行するだけの十分な時間がある。また、大事な息子を奪ってしまえば父親にとっては痛烈な打撃となるはずで、改革の動きも鈍るだろう。こう考えて、息子の方を殺すことに決定したのである(訳他所より拝借)」と世界に紹介しているのです。

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『べらぼう』の話(28)つよ

2025年07月06日 | 史跡

蔦屋重三郎は、7歳の時に両親が離婚して蔦屋を営む喜多川家に養子として迎えられました。

これは、養子にすることによって給金がいらない働き手ができた程度の意味だったと思います。


『べらぼう』でも蔦屋重三郎の「親なし」が何度も語られましたが、今で考えるならば小学1年生で両親が居なくなって働かなくてはいけなくなったような感じです。

この様に子どもの頃から苦労した蔦屋重三郎なのですが、耕書堂を日本橋に移してすぐに両親と同居をはじめています。


蔦屋重三郎の父は、尾張国から江戸に出てきた「丸山重助」という人物ですがどんな仕事をしていたのか?などの詳細はわかっていません。

ある研究では、当時の吉原には尾張国(特に知多半島)出身者が多く、重助もこの縁で吉原に来たのではないか?とも考えられています。

そして、二代目蔦屋重三郎の名前でもある「重助」が実父の名前にも出てくることを不思議に思っています。 


そして蔦屋重三郎の母は「広瀬津与」という人物でした。江戸出身の女性でどのような縁があって吉原で働く丸山重助と出会ったのかもわかりませんが、夫婦として吉原に縁がありそして蔦屋重三郎が生まれながらも離婚することになったのです。

当時の江戸は男女比がめちゃくちゃで、女性不足の影響から夫婦は簡単に離婚して女性は何度も嫁ぎ先を変えていたので離婚自体は珍しくもありませんが、幼い子どもを両親がどちらも養育できなかったことや、後に蔦屋重三郎が両親を迎え入れることからも両親の離婚は情の問題ではなく、例えば金銭的問題などであったのかも知れません。


さて、こうして日本橋にて暮らすようになった親子ですがその後のことも余りわかっていません。

ただ、寛政4年10月26日に亡くなり蔦屋重三郎の菩提寺でもある正法寺に葬られたこと、その墓石には大田南畝が津与を顕彰する碑文が刻まれました。

ここでは、上記しました蔦屋重三郎の両親の事から母に再会して一緒に過ごせた喜び、その存在を何かの形で残したいと考えた蔦屋重三郎の想いを南畝が碑文で答えたことがわかります。


正法寺の蔦屋重三郎家の墓にある石川雅望(宿屋飯盛)による蔦屋重三郎の碑文とならんで津与の顕彰碑文再現されていて、現在でも津与の存在を知ることができることこそが、蔦屋重三郎の母親に対する孝行なのかもしれませんね。

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『べらぼう』の話(27)田沼意次側用人就任

2025年07月01日 | 何の日?
明和4年(1767)7月1日、10代将軍徳川家治が田沼意次を側用人に任命します。 

賄賂政治で有名な田沼意次ですが、その政治を見ると表位通貨制度や蝦夷地探索等、江戸幕府の他の政策の中では見る事の出来ない事項を多く行った形跡があります。 
細かい内容は、また田沼意次を取り上げる時に行いますので、今回は意次が出世するまでの話。 

意次だけが他の幕閣とは異なった事が出来たのかといえば、田沼家の家柄に関係します。 
8代将軍吉宗がまだ子供だった頃、田沼意次の父親の意行(もとゆき)は紀州藩の下級藩士の身分でした。吉宗は紀州藩主の子どもではあったのですが、母親の身分が低く四男だった事もあり、厄介者扱いを受けていたのです。 
ある時、吉宗はその時の将軍だった綱吉と対面し、気に入られて領地を貰う事になりました。 
そこで吉宗直属の藩士が必要となるのです。でも、厄介者の家臣になる者は上級藩士には居なかったために下級藩士の中から選ばれて、その中に田沼意行も含まれていたのです。 
やがて運命のイタズラで吉宗は紀州藩主となり、請われて将軍にまでなってしまうのですが、将軍に就任する時に紀州藩士を幕臣として採用していて、そこには吉宗にずっと付き従っていた意行も含まれていたのでした。

意行は紀州藩の下級藩士から運と才覚で幕臣にまで出世し吉宗の側近として活躍しました。 

さて、その意行の正妻・辰は美女の誉れが高く田沼意次は母に似て美男子だったといわれています。 
田沼家の近所に住んでいた若妻が、偶然意次と目が合った時に腰から下が力が入らなくなって座り込んでしまった話や、意次を見たいために、江戸城大奥の女性が用もないのに大奥の入り口から表御殿を眺めていた記録が残されているくらいなんですよ。

そんな意次を吉宗も気に入って側に置いたのですが、その代りに意行が早死にしてしまい田沼家の出世はそれで終ったかの様に見られていたのでした。 
ちなみに、意次の出生には一つの逸話があります。 
吉宗が将軍になって少し経った頃、大奥の女性の人員整理を行った事があるのです。 
この時に側近に吉宗お手付きの女中達を下げ渡した事があったのですが、その一人に田沼意行が含まれていて、しかもその女中は懐妊していたと言われているのです。 
その女中の産んだ子こそが意次であり、意次は吉宗の実子だったとか… 
これは一つの説として語られているが真実は分かっていないんですよ。 

とにかく、田沼家の家督を継いだ意次は吉宗の小姓として身の回りの世話を行い、吉宗の育ての親だった加納久通に認められて次の将軍・家重の小姓も勤めるようになったのです。 
家重は言語障害の難病があり、その言葉を理解できるのは大岡忠光という人物だけで、そのために忠光は大出世を遂げるのですが、驕りが出て家重の言葉の全てを理解できなくなっていたのでした。 
その時、家重の言葉を全て理解出来るようになっていたのが意次でした。家重は美男子でもあった意次を重宝し、吉宗が家重に付けた帝王学を一緒に学ぶまでになっていたのです。

吉宗の死後、大岡忠光はその権力を欲しい侭にしましたが、政治的欲望の少ない人物で失、意次がそれに変わる事になったのでした。 
とくに郡上一揆での意次の調査能力は家重から大きく評価されたのです。
意次は天才ではないのですが努力家であり、人当たりが良かったために、幕閣や大奥で多くの支持を受けて出世してゆくのです。 
9代将軍・家重は意次を重用しましたが、自分の側から離そうとせず、幕閣での活躍はまだ見られませんでした。 
しかし、家重が隠居し、その直後に嫡子・家治に「主殿(意次の官職)はまたうと(全う人)の者なり行々心を添えて召使はるべし」と遺言を残して病没。 

“意次は使える人物だから働き場所を考えてやれ”くらいの意味で良いと思うのですが、とにかく将軍が次の将軍に向かって家臣の事を遺言に残す事は異例であり、意次はそれだけ認められていたことになるのです。 
10代将軍に就任した家治はその遺言通りに意次を幕閣内の要職に就けたのでした。 

こうして、田沼意次は歴史の表舞台に登場するのです。
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『べらぼう』の話(26)浅間山噴火

2025年06月29日 | その他

天明3年(1783)7月8日、浅間山が噴火しました。


この年は、年明けの頃は南風が吹いて東北でも雪が降らない暖冬になり、津軽で鯨が迷い込んできました。

春になると一転して雨が続く寒い日々が続いたのです。


そして4月9日から、目に見える形で活動を始めていた浅間山は、6月27日からほぼ毎日のように噴火を繰り返すようになりますが、ここまでの間は民衆も降灰による作物の不作が懸念される程度であり、浅間山麓の村でも避難という行動はありませんでした。

7月6日から8日にかけて、ついに大規模な噴火となります。これは京大坂でも噴火の音が聞こえたとも言われています。最初の大噴火で火砕流が発生して北側に流れ出すのですが、火口から北12キロにある鎌原村よりも手前で止まります。それよりも北にある草津温泉では火山見物で湯治客が増えるくらいにのんびりしていました。

鎌原村でも、火砕流が来なかった上に風は西に吹くために火山灰も少なかったために危機感はありませんでした。

しかし、火砕流が止まった次の日の午前10時頃、新しい火砕流が発生し村を飲み込んだのです。

村人597人のうち466人が亡くなる大惨事でした。

生き残った人は村から外出していた人か、50段ほどの石段を登る観音堂の上まで逃げ切れた人でした。

後年の発掘調査によって、この石段の下で重なり合っている女性の遺骨が見つかりました。若い女性が老女を背負い逃げてきたのですがここで飲み込まれたと考えてられているのです。

やがて、これらの火砕流や降灰が周辺の河川を堰き止めます。逃げ道のない自然のダム湖となりますが、水を溜め切れなくなった場所から決壊し、下流では大水害を起こします。この時に水と一緒に被害地域の瓦礫や遺体が川を流れて行き、江戸でもこれらが流れ付きました。

 

噴火は落ち着きましたが、この後も2か月近く続いたために、関東を中心とする多くの地域で被害が発生し、一説では死者2万人ともされているのです。


この時に上空に達した火山灰は成層圏にまで達したと言われていて、この大量の火山灰が世界を覆ったのです。浅間山噴火より半月ほど前アイスランドのラカギガルも大噴火をしていて、両方の火山の火山灰が世界を短期的な小氷河期へといざなったのです。


この影響で、日本では天明の大飢饉が起こり、約10万人が亡くなります。また、ヨーロッパでは小麦の不作からパンの値段が高騰します。

ヨーロッパの民衆は、普段から収入の半分をパン代(野菜や肉は別)に消費していたとされていて、これが高騰することは死活問題となったのです。

同じ頃、ヨーロッパ各地では宗教問題も絡んだ民衆の蜂起も増えてきました。小麦問題については特にフランスの行動が遅くなり、やがてフランスは国外から高い小麦を輸入して販売することになりますますパンは高騰、フランス革命へと突き進んで行くのです。


浅間山噴火

立公文書館デジタルアーカイブ(www.digital.archives.go.jp)より


イザーク・ティチングによる浅間山噴火の挿絵


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べらぼうの時代(7)

2025年06月27日 | ふることふみ(DADAjournal)

 豊臣秀吉から徳川家康へと政権が移りつつある時代は大名だけではなく文化人や商人も自らの先見の明を信じて人生を賭けなければならなかった。蠣崎慶広はこの大波を乗り越えて「松前」の名字と蝦夷地の支配権を手にいれた。松前藩立藩の陰には柳川村の建部七郎右衛門重元の助言があり、これが両浜組をメインとした近江商人の蝦夷地進出を勢いづけることとなる。

 さて、蝦夷地交易を度外視しても両浜は豊織期に湖東地域で最大規模を誇る繁栄を見せていた。
私は十年前(平成27年2月)に、慶長6年(1601)10月25日に前田慶次が堅田から沖島東の「弁財天嶋の世渡」を過ぎ「さつまといふ在所にふねをよせ、餉のために休らふ、里の名をさつま也といへバ、舟ハたゞのりにせよ」と書き記したことを紹介した。このときは慶次が薩摩という地名を平薩摩守忠度(ただのり)にかけた言葉遊びのみに注目したが、堅田より渡湖した舟がなぜ薩摩湊で休憩し昼食を食べたのか?を、考察しなければならなかった。湖西より沖島を目指した舟は次に荒神山を目印に薩摩湊へ移動しここから米原湊まで内湖を繋いだ運河である航路か琵琶湖上を進む航路が選択できるほどの発展を極めた場所。この答えこそが関ケ原の合戦直後の薩摩湊なのである。
しかし、江戸時代になると彦根藩により松原・米原・長浜の三湊が重視され、柳川と薩摩は衰退して行った。その反動で蝦夷地との交易はますます盛んになって行く。一時期は松前藩が取引をしていた商人の九割が近江商人であったとも言われるくらいだった。

 元和偃武で日本国内に平和が訪れ物流が盛んになる。寛文年間(1661~73)に川村瑞賢が日本を回る航路を開くと、西廻り航路のメインである北前船の主導権が近江商人から船主たちに移るようになる。こうして蝦夷地の秩序も分散化してしまった。この流れに乗ってアイヌ民族に対して一番影響を及ぼしていたのは近江商人ではなく飛騨国(岐阜県北部)の材木商・飛騨屋久兵衛家であり、田沼時代は三代目久兵衛が当主だったが支配人の不正と反発で材木商の仕事を失い四代目は場所請負人に転身するが飛騨屋の横暴に対してアイヌ民族が「クナシリ・メナシの戦い」を起こしたのだった。田沼時代の蝦夷地と言えば松前藩がアイヌ民族を圧政で苦しめていて近江商人も加担していたとのイメージがある、この考えが完全に誤解であるとまでは言えない。しかし松前藩はアイヌ民族との交易を場所請負人に委任し請負人たちの秩序は保たれず飛騨屋のような儲け方を他でも真似をするようになってしまうのである。

 さて、松前藩の保護を受けていた田付新助景豊は柳川湊の整備を行うが、のちに作られた水上交通安全を祈願した常夜灯が微かに名残を残すのみになってしまった。

柳川湊の常夜灯




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『べらぼう』の話(25)日本橋に移転

2025年06月22日 | 史跡

蔦屋重三郎の耕書堂が活動拠点(本店)を吉原大門から日本橋通油町に移転したのは天明3年(1783)9月でした。

日本橋界隈は、多くの商家が集まる商業地であり通油町の「通」は当時のメインストリートである本町通りに面した場所という意味です。

「油町」はこの辺りが以前は油屋が多かったために付いたと言われています。



今訪れると狭い裏道でしかありませんが、当時は重要な道であり、江戸時代初期から中期にかけてこの地域に彫師が住むようになりました。

その彫師に仕事を依頼すり版元が、利便性を考えて店を開くようになり、通油町界隈は版元が集まる場所となったのです。


江戸時代の城下町を考えると同じ商売で固まって町を作っていますが、これは同業者同士が同じ町に集まっていても販売店を別に作ったり(支店のようなもの)、行商を行ったり、特定の顧客が付いているなどの理由があり困ることはなかったのです。

むしろ、同じ地域内にいることでの情報収集の利点などがあったのかもしれません。


吉原の小さな版元だった蔦屋重三郎は、通油町の丸屋小兵衛から地本問屋株と店舗を購入していっきに江戸出版界の上層部へと駆け上がりました。

今で言うならば、ベンチャー企業が一部上場企業となった感覚に近いかもしれません。


これも田沼時代だからこそできたことなのかもしれませんが、店が大きくなると周囲との付き合いも大変にはなってゆくのも世の常かもしれないのです。

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