田沼時代に老中のひとりである水野忠友は興味深い人生を送った人物ですが、あまり注目されていないのも寂しいので当時が増えてきたタイミングで紹介したいと思います。
水野氏はもともと尾張国緒川城を中心とした地域を治めていた国衆で、徳川家康の生母である於大の方の兄弟を祖として何家かの譜代大名や旗本の家が繋がっています。


そのなかで、於大の方の弟である水野忠重から勝成に繋がる福山藩(維新時は結城藩)が本家となります。
水野忠友は、勝成の四弟・忠清が上野国小幡藩一万石で立藩したことに始まります。その後、信州松本藩七万石となり、六代忠恒まで松本藩を治めたのですが、忠恒は兄が若くして亡くなったために急に藩主に選ばれた人物であり、酒色や狩を好む難ある人物だったのです。
享保10年(1725)7月28日、7日前に大垣藩主・戸田氏長の養女と婚儀を行った忠恒は将軍徳川吉宗に祝いの御礼言上のために江戸城に登城し、吉宗への拝礼を終えた直後、松之廊下において長府藩世子・毛利師就に斬りかかったのです。
師就は鞘ごと脇差を抜き応戦、右手、左耳、のどに傷を負うものの深傷にはならず、戸田氏長の弟・氏房が忠恒を押さえて事件は終わったのです。

この忠穀の嫡男が忠友です。
九代将軍となる徳川家重の小姓を務めこの時に一回り年上の田沼意次と同役であったことから繋がりができたと考えられます。
田沼意次は、家重と次代・家治の信頼が高く小姓番頭から側役となり側用人そして老中へと出世する当時としては変則的な方法で幕政に参政します。
これに対し水野忠友は、小姓番頭から若年寄となり三河大浜藩一万三千石として譜代大名に返り咲きやがて沼津藩三万石で勝手掛老中となるのです。
この出世には、田沼意次の四男意正を娘婿として水野忠徳と名乗らせ養子に迎えたことが大きいと言われています。
しかし、田沼意次失脚後に意正は水野忠友の娘との間にできた息子と共に田沼家に戻されます。
それでも、水野忠友と田沼意次の繋がりは問題視されて老中を罷免されるのですが、田沼意次を失脚に追いやった松平定信が老中の座を去ると忠友は西の丸老中に返り咲いたのです。
老中在任期間は累計34年となり、従兄弟の水野忠恒が落とした家格を戻すことに成功したのです。
そんな忠友の後を継いだのは、田沼意正と離縁した娘に新たに迎えた婿である忠成でした。
旗本岡野家から養子に入った忠成は、寺社奉行、若年寄を歴任し、側用人から勝手掛老中となり、徳川家治の後を継いだ徳川家斉(十一代将軍)の信任を受けて田沼意次の再来と呼ばれるようになるのです。
そして、この時に水野忠成を助けた若年寄が、田沼意次の死後、田沼家当主四代が次々と亡くなったために田沼家を継いでいた田沼意正だったのでした。
水野忠友の娘の前夫と継夫が若年寄と老中という形で幕政を担うようになるのです。
余談ですが、田沼意次と水野忠友の血を受けた田沼家当主は幕末に天狗党討伐を指揮した若年寄・田沼意尊に続くことになります。