彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

8月中旬、野良田の戦い

2010年08月31日 | 何の日?
永禄3年(1560)8月中旬、浅井賢政(後の長政)の初陣となる野良田の戦いが行われました。
この戦いは8月中旬と言われていますが、はっきりとした日付があまり出てきませんので、今日紹介します。

2010年は野良田の戦い450年の記念の年でもあるのです。


この前の年、賢政は六角義賢から命じられて娶った妻と離縁します。この妻は、六角家重臣の平井定武の娘でした。「北近江の君主の妻が南近江の君主の家臣の娘とは失礼だ!」と賢政(この賢の字も六角義賢から与えられた)が、六角氏からの独立を宣言した行為だったと言われています。

これに呼応して肥田城で高野瀬氏が六角氏に対して反旗を翻し、怒った六角義賢が肥田城水攻めを行ったことは、管理人の専門分野として何度も紹介していますね。


肥田城水攻めで敗北した義賢は、いったん居城の観音寺城に引き上げ、翌年にもう一度肥田城を攻める軍を起こしたのです。
水攻めの時は援軍も出せなかった浅井賢政でしたが、今回は早々と軍を肥田まで動かしました。
こうして肥田城の北を流れる宇曽川を挟んで両軍が対峙したのです。


南岸の六角軍は、2万2千の軍勢
先陣に、蒲生定秀・永原重興・進藤賢盛・池田景雄
二陣は、楢崎壱岐守・田中冶部大夫・木戸小太郎・和田玄蕃・吉田重政
後陣に、六角承禎(義賢)・後藤賢豊

北岸の浅井軍は、1万1千と言われていますが、そんなに軍が動かせたか謎です。
先陣に、百々内蔵助・磯野員昌・丁野若狭守
後陣は、浅井長政(賢政)・赤尾清綱・上坂正信・今村掃部助・安養寺氏秀・弓削家澄・本郷某


以前に講演を聞いた作家の羽生道英さんが『江濃記』からわかり易くお話して下さった状況で見ると…

“午前10時頃から百々内蔵助が宇曽川を渡って、六角方の蒲生定秀(氏郷の祖父)の手勢と衝突し2時間ばかり戦いましたが決着は着きませんでした。しかし六角方の田中冶部大夫・楢崎壱岐守が百々勢の横合いから攻め掛かり、百々勢は一時的に敗北をして軍勢を引きました(宇曽川を渡って引いたかは分かりません)。その時に百々内蔵助は大声を発して「これは近江南北分け目の合戦だ、予は先陣を承った。もし浅井家が六角に敗北すれば、後日如何にして人に顔向けできるか。我と思わん者は続けや」と取って返して、小高い丘に陣取りました。
小高い丘に陣取った百々内蔵助に、蒲生の家臣である結解十郎兵衛が個人戦を挑みますが内蔵助の方が取り押さえ、十郎兵衛の首を取ろうと思ったところで結解の郎党二人が飛び込んできて内蔵助の首を取りました(しかし、この後に百々内蔵助が佐和山城主として翌年に佐和山で切腹した話が『江濃記』に出てきます)。
野良田合戦は浅井長政が勝ちました。長政は近江南北の分け目の合戦だからという内蔵助と同じ言葉を口にして、六角義賢の本陣に突っ込んで行って勝利を収めたのです。この為に「江北に浅井長政という強い武将が誕生した」と近隣に響きます。
浅井長政が討ち取った首は九百二十級で、浅井方の討死は四百余り負傷者も三百余りあったという話です。この時、越前守護の朝倉義景の従弟の朝倉式部大輔が五百程の兵を引き連れて援軍に来ています。そして浅井が勝利したのを喜んで帰って行きました”


これが『浅井三代記』になると
“浅井長政は、肥田城攻めに間に合わず肥田城は六角義賢に降伏する。翌日長政は宇曽川より二里北に陣取って、六角勢も肥田城から出て宇曽川を挟んで対峙する。正午を過ぎた頃に六角勢の和田和泉守が、正面の磯野丹波守の陣に攻めるべく2500の軍勢を連れて宇曽川に一文字に討ち入る。磯野は「川を越えて来た軍を迎え討つ方が有利」と思って待ち構えるが、「敵に矢が届く距離まで矢を放つな」と命令したので1000人ほどが川を渡って北岸に上がってきた。これを見て磯野は攻撃を命じて攻めかかる。
これの状況を見ていた義賢は、「和田を討たせるな!」と進藤・平井・後藤らに渡川を命じ、長政も本陣の旗本を突撃させる。
半時ほど激戦が続いた後、磯野丹波守らが横槍を突いて六角勢が崩れ、宇曽川の南岸に逃げる。長政は勢いに乗って自ら川を越えて肥田城を奪還した”
となっています。


細かい部分では違いがありますが、宇曽川を挟んで対陣し、川の岸で戦があり、そして浅井長政はこの戦いに勝利するのです。16歳の時でした。
野良田の戦いは、近江の桶狭間とも言われますが、同じ年に織田信長も桶狭間で勝利し、戦国大名への道を進んでいったのでした。

ちなみに、野良田合戦は、野良田で行われたという説もありますが、ここではどうも宇曽川から遠い気もするので、“宇曽川の戦い”や“肥田の戦い”と呼ばれることもあります。

『「プリンセス・トヨトミ」を語る!』聴講報告

2010年08月29日 | 講演
関西復権プロジェクトが主催で、ひこね燦パレスでは万城目学さんの講演が行われました。
『「プリンセス・トヨトミ」を語る!』と題されて、万城目さんのお話が対談形式で行われました。

万城目学さんの作品と言えば、『鴨川ホルモ―』『鹿男あをによし』『プリンセス・トヨトミ』『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』などがありますね。

今回は『プリンセス・トヨトミ』のお話が中心で、その作品の書き方は、最初に新幹線ののぞみのように新大阪・京都・名古屋・東京という大まかな流れがあり、だんだんこだまのように各駅に停まるような形なんだそうです。
そしてストーリーをキャラクターがバケツリレーするかのようにキャラを作っていくのだそうです。
京都や奈良では観光地を舞台にしたのに対し、大阪は地元であることもあり観光地はほとんど入れず、阪神や道頓堀などもコテコテもない大阪を書いというところに、物を書く方の譲れない信念も感じられました。
色々と勉強になりました。

『プリンセス・トヨトミ』は今、撮影が行われていて2011年のGW頃に上映になるそうです。
撮影は彦根城でも行われました。上映も楽しみですし、原作も読んで下さいね。

150年前:徳川斉昭死去(8月15日)

2010年08月15日 | 何の日?
萬延元年(1860)8月15日、水戸城内で徳川斉昭が亡くなりした。享年61歳

『徳川斉昭死去』
↑その内容や、彦根藩関係者が殺害したかもしれないという記事は、以前に書きましたね。

さて、この時の記事にも書いた通り斉昭の死は心筋梗塞と言われています。実は42歳の時に心筋梗塞の発作があってからこの病は斉昭の持病となっていて、いうなれば斉昭が亡くなったとなれば心筋梗塞と発表すれば誰もが納得したのです。
安政の大獄で永蟄居の罰を受けた斉昭は、桜田門がの変で井伊直弼が横死すれば自分の罪も無くなると思っていたはずです。しかし約半年近く過ぎても井伊政権は安藤信正政権が引き継ぎ、直弼の政治が終わる事が無かったのです。
そんな時に、気晴らしのように行った宴がこの日の月見でした。

宴が終わり厠で用を終え、手水鉢で手を洗おうとした時に突然倒れたと言われている斉昭。そのまま午後11時頃に息を引き取ったと言われています。

これから水戸藩は幕末を通じて御家騒動の渦中にあり、その人材のほとんどを明治維新までに失ってしまうのです。

8月13日、徳川吉宗八代将軍就任

2010年08月13日 | 何の日?
享保元年(1716)8月13日、徳川吉宗が江戸幕府8代将軍となりました。



徳川御三家のひとつ紀州藩の二代藩主徳川光貞の四男として誕生した吉宗でしたが、母の身分が低かったために幼いころから家臣の家で育てられ、光貞に引き取られたあとも兄たちから白い目で見られたとも言われています。



しかし、14歳の時に父が将軍綱吉に拝謁した時に、将軍の目の届かないふすまの向こうに控えさせられた吉宗に対して、大久保忠朝(「善人の良将」と称される老中)が「光貞殿にはもう一人お子が居られる筈」と綱吉の前で述べたことで、綱吉と吉宗の拝謁の機会を与えたのです。



この時に、吉宗を気に入った綱吉が、後に自らの名の一字を与えて“吉宗”と名乗らせ(それまでは頼方)、越前国葛野藩3万石を与えました。

ここから吉宗の出世が始まり、この後に次々と亡くなる兄の後を継いで紀州藩主となりました(この時に正式に吉宗と改名)。




紀州藩の藩政改革を成功させた吉宗に、将軍就任の依頼が下ったのは、2代将軍から続く徳川本家の血が途絶えた7代将軍家継の死去を受けてだといわれています。

しかし、実際には家継死去の時には徳川本家の血は絶えていませんでした。家継の叔父であり、6代将軍家宣の弟でもある松平清武という人物が存命だったからです。実際に、家宣の正室である天英院は清武を次の将軍に推していました。

ですが、清武は一度家臣の家に養子に入った事があり、しかもこの時には54歳でありながら実子が居なかった(先に亡くなった)からでした。また清武が認められるなら、既に家臣として会津藩を治めていた保科正之の系統すらも将軍継嗣に関われる前例を作ることになりかねなかったのです。



それらの理由で、松平清武を諦めた天英院が、次に推したのが吉宗でした。

吉宗には、家柄でいえば紀州の兄にあたる尾張の藩主と継嗣問題で争う筈だったのですが、都合よく尾張藩では藩主が次々に亡くなり(暗殺説が強い)将軍の座を得たのです。

そんな吉宗は、将軍就任後に天英院のライバルだった月光院と関係を持ったり、綱吉の養女だった竹姫を側室に望んだりしました(この時12歳・汗)。

結局、竹姫との事は天英院の反対に遭って(それぞれ養子でも、形の上では竹姫は吉宗の大叔母になるので)諦めますが、それでもなかなか自分の手から離そうとせず、13年間一緒に過ごした後でやっと薩摩藩主島津継豊の元に嫁がせますが、ここでの竹姫はしあわせな生活は送れませんでした。


ちなみに、長々と書いたこの記事の最後の締め。
竹姫(継豊死去後は浄岸院)は、吉宗から薩摩藩に押し付けた形の姫でしたので、この後の幕府は薩摩藩や竹姫の無理難題を聞くようになります。
竹姫は薩摩藩と将軍家との婚姻による繋がりを前例として活かし、薩摩藩主の正室に尾張藩や一橋家から姫を迎えるのです。その繋がりが今度は薩摩藩から将軍家に姫を嫁がせるようになり、篤姫の家定への輿入れまで関わってくるのです。

8月7日、雄略天皇崩御

2010年08月07日 | 何の日?
479年8月7日、第21代天皇の雄略天皇が崩御しました。享年62歳。

この時代、日本では独特の記録はほとんど残っておらず、その歴史の記録は中国の歴史書に残された物に頼るしかありません。
そんな中、『宋書』『梁書』という本に“倭の五王”として記録されている五人の天皇(讃・珍・済・興・武)の中の最後の一人である“武”がこの雄略天皇だといわれています。


武は周辺の地域をどんどんと侵略して行った様子が描かれていて、南斉からは“鎮東代将軍”、梁からは“征東大将軍”に進号されていることから、東の一大勢力と見られていた感があります。

その征服行為の中では人々の恨みをたくさん受けたのかもしれませんが、雄略天皇には残忍性を秘めたエピソードが伝えられていて、悪徳天皇とも称されます。
妊娠している女性の腹を裂いて、胎児を確認したという残忍さを表すためによく使われるエピソードを、日本で最初に語られたのは雄略天皇なのです。
その反面、有徳天皇と称される時もあります。



また、面白い話も残っています。

特に『古事記』の赤猪子のエピソードが人柄を表わしていると思います。

ある日、雄略天皇が出掛けると、三輪川のほとりで美しい乙女に出会います。天皇は「あなたのお名前は?」と訊ねると乙女は「私は引田部の赤猪子と申します」と本名を告げました。

こうして赤猪子は天皇の迎えを待ちましたが、数十年が過ぎても迎えが来ず、老いてしまった赤猪子は結納の品を持って雄略天皇に拝謁しました。

赤猪子の話を聞くまで、その事を忘れていた天皇は不憫に思い
「引田の 若来栖原 若くへに 率寝てましもの 老いけるにかも」(若いうちに一緒に寝たかったけど、今の老いた姿じゃあかんなぁ)と詠いました。

赤猪子は涙を流しながら
「日下江の 入江の蓮 花蓮 身の盛り人 羨しきかも」(日下江の入江の蓮のように若い若日下部王(雄略の妃)が羨ましです)と返したのです。
この後、雄略天皇はたくさんの褒美を与えて赤猪子を帰しました(おいおい)


どうも雄略天皇はこういった事が好きだったようで、『万葉集』の最初の歌にも
「籠もよ み籠もち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児 家告らせ 名告らせね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ 我こそば 告らめ 家をも名をも」
という雄略天皇の歌が紹介されています。

この歌の意味は、「良い駕籠を持って、土を削るヘラを持ってこの岡で菜を摘んでいるお嬢さん。身分を教えて、名前も教えて。この国は全部ワシの物、ワシが治めてている国だ。だからワシは身分も名前も告げる」くらいの内容です。

まるで赤猪子にしたような、今風に言えばナンパをしていたんですね。

ちなみに当時は男性が女性に名前を聞いて、女性がそれを告げるのはそのまま結婚の了承を意味していました。
だから赤猪子も名前を告げただけで雄略天皇の迎えを待ったのです。

でも『万葉集』の最初に歌が掲載されるくらいですから、雄略天皇は歌の才能もあったのですね。


雄略天皇はエピソードに困らない人物ですので、死後にもエピソードを残しています。

天皇即位の時、先代で兄にあたる安康天皇が暗殺された為に即位するという事件がありました。この報復の為に兄を殺した事に関わったであろう人物を殺害したのです。
その中の一人に市辺押磐皇子という人物がいました。皇子には二人の子どもがいて、播磨まで逃亡したのです。
そこで二人は下働きをしながら生活しましたが、ある時、その主人の屋敷に来客があり、主人から舞を舞うように命令されました。

兄は無難に舞い、弟が「自分は市辺押磐皇子の子である」という歌を入れた舞を舞ったのです。この時すでに雄略天皇は亡くなっていて二人は宮中に戻り、後に先に名乗り出た弟が即位して顕宗天皇(23代)となりました。

この時に兄弟間で皇位の譲り合いがあったため、代理として10か月ほど女兄弟である飯豊青皇女が摂政としての業務を行いました。最近ではこの女性を推古天皇の前に即位した日本最初の女帝とする考えもあります。

顕宗天皇は父を殺した雄略天皇への復讐の為に、その御陵を破壊することにして兄に相談すると、兄は二つ返事でこれを受けて御陵に自ら赴いて、古墳の上の土を少し削ったのです。
それを聞いて兄を責めた顕宗天皇でしたが、兄は「仇といえども、雄略天皇はこの国を治めた帝でありその御陵を破壊することは、あなたの名に傷が付きます。雄略天皇の墓を削ることで辱める事は致しましたのでそれで良いではございませんか」と言ったのです。

これで顕宗天皇はその怒りを静めました。顕宗天皇はわずか3年で崩御した為に、この後に兄が即位して仁賢天皇となるのです。


仁賢天皇には雄略天皇の娘が皇后として嫁ぎました。
今回、この話を紹介したのは何度も書いている七夕伝悦に絡む人物が登場しているからです
七夕伝説
雄略天皇の皇子と、仁賢天皇の皇女との恋
二人にはこういった周りの事情があるのですね。


さて、即位の時から死後まで多くの話に飾られた雄略天皇ですが、日本史的にはとても大事な一面も持っています。

埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘に「獲加多支鹵大王(ワカタケルオオキミ)」と書かれていたのです。雄略天皇は大長谷若建命(おおはつせわかたけるのみこと)という和名がある事から、考古学として実在が証明された最古の天皇でもあるのです。