彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:京都見廻組編成(4月26日)

2014年04月26日 | 何の日?
元治元年(1864)4月26日、江戸幕府は京都見廻組を編成しました。

既に京都では新撰組が組織されていて、京都市中の巡回や治安維持に努めていましたが、十四代将軍徳川家茂の上洛にあたって、将軍警護と、情勢が乱れつつある京都での新たな治安維持組織として京都見廻組が作られたのです。
新撰組の時は、浪人を集めて組織を作る計画を実行し、発案者の清河八郎によって幕府の考えとは正反対の方向に行きかけたものを、何とか新撰組という小さな治安維持組織が誕生したのでした。

この失敗を教訓に、見廻組は最初から京都守護職の配下で京都市中警護の仕事を任され、浅尾藩主蒔田相模守広孝の配下となる相模守組200名、旗本松平出雲守康正の配下となる出雲守組200名が、幕臣や幕臣に近い部屋住などから選ばれました。そして両組には旗本出身の見廻組与頭と御家人出身の見廻組与頭勤方が二名ずつ選出され、勤方に任命されると御家人から旗本に身分が上がったのでした。
この制度で、御家人から見廻組与頭勤方に抜擢されたのが佐々木只三郎です。

ちなみに、ほとんど自藩の藩士で組織した相模守組は5月に上京し、6月5日の池田屋事件にも関わってきますが、幕臣から組織した出雲守組はなかなか人が集まらずに、新撰組隊士を組み込もうとして拒否されています。
禁門の変の後にやっと出雲守組が上京して、8月1日から京都市中見廻が始まったのです。


新撰組を題材にしたドラマなどでは、同じように市中見廻りをしていた新撰組と見廻組がはち合わせて、旗本出身の見廻組が浪人集団の新撰組を見下すエピソードが登場しますが、基本的には見廻組の巡回領域は二条城や御所周辺などの武士や公家が住む今でいう官庁街がメインであり、新撰組は祇園などの歓楽地や町人の住居エリアがメインだったために関わることも少なかったのです。

そんな中で、佐々木只三郎は組内で重要視されるようになり、いつの間にか見廻組の実質的な責任者になっていました。組内の事件で松平康正が離れ二つの隊が混ざり、蒔田広孝も辞任すると、その後継者たちでは見廻組が抑えきれなくなったので、実質的に只三郎が責任者となるのです。
そして、坂本龍馬暗殺の実行犯として歴史に縄残すのです。