令和4年の大河ドラマは鎌倉時代初期に武家政権を確立した北条義時を主人公とする『鎌倉殿の13人』である。物語としては義時の姉・北条政子とその夫である源頼朝らが台頭する治承・寿永の乱(源平合戦)から始まり承久の乱が最大の見せ場になるのではないかと推測する。
この時代の井伊家では、保元の乱に参加した井八郎、近江佐々木庄で起こった日吉社宮仕法師刃傷事件で罰せられた井伊直綱、源頼朝の東大寺供養の上洛に加わった伊井介らが名前を残しているが、実は承久の乱にも参戦しているのだ。
承久の乱は、鎌倉幕府三代将軍源実朝が暗殺されたのちに、後鳥羽上皇が北条義時追討を命じたことから始まった公家と武家の戦いである(異説等省略)。鎌倉幕府ではなく義時が個人的に朝敵とされてしまったこともあり武士たちは忠誠心よりも利益を優先とした参戦を考えるようになっていた。このため、近江の有力な御家人である佐々木氏が兄弟で対立、源頼朝を支えた官僚である大江広元ですら京都守護だった嫡男・親広が上皇方について親子で戦うことになる。京に近い武士たちが上皇方に加わるため、義時は軍を編成し京に向かって素早く行軍することで行軍地域の武士たちを鎌倉方に付けるしかなかった。こうして義時自身は鎌倉に腰を据えて、長男・北条泰時と弟・時房を東海道、武田信光を東山道、次男・朝時を北陸道の大将として軍を進めて行く。井伊家は新野家らと共に東海道を行軍する泰時に従ったとされているのだ。
しかし、佐々木家や大江家の例に漏れず井伊家の分家である貫名重忠が上皇方に内通した(三日平氏の乱のときという説もある)ために安房に配流となっているため井伊家も一枚岩ではなかったのかもしれないが、泰時の軍に加わって承久の乱を戦ったのならば、美濃国摩免戸(各務原市)で戦い、近江国野路(南草津駅付近)から宇治橋で激戦を経験し伏見から京に進軍したと考えることができる。
このときの井伊家当主の名は伝わっていないが、井伊家系図の中に九代井伊泰直という人物を見つけることができる。もしかすると戦いの中で手柄があり泰時から「泰」の字を与えられたのかもしれない。
日本史で中世に区分される時代の始まりは公家から武家への政権交代である。治承・寿永の乱において源頼朝が他の源氏や平家・奥州藤原氏を討ち武家の頭領として公家に並ぶ地位を得た。そして承久の乱で北条義時が後鳥羽上皇に勝利し罰を与えたことによって、武家が公家から主権を奪ったのである。
井伊家は藤原氏の血を受け継ぐ公家としての希少性で遠江西部を中心に勢力を広げながら承久の乱で鎌倉方として参戦することにより武家の名家とに転身する。これより先に様々な困難を経験しながらも、井伊家が持つ不思議な先見の明により千年の歴史を刻み続けているのだ。
承久の乱合戦供養塔(各務原市前渡東町 仏眼院・前渡不動尊)