蔦屋重三郎の耕書堂が活動拠点(本店)を吉原大門から日本橋通油町に移転したのは天明3年(1783)9月でした。
日本橋界隈は、多くの商家が集まる商業地であり通油町の「通」は当時のメインストリートである本町通りに面した場所という意味です。
「油町」はこの辺りが以前は油屋が多かったために付いたと言われています。


今訪れると狭い裏道でしかありませんが、当時は重要な道であり、江戸時代初期から中期にかけてこの地域に彫師が住むようになりました。
その彫師に仕事を依頼すり版元が、利便性を考えて店を開くようになり、通油町界隈は版元が集まる場所となったのです。
江戸時代の城下町を考えると同じ商売で固まって町を作っていますが、これは同業者同士が同じ町に集まっていても販売店を別に作ったり(支店のようなもの)、行商を行ったり、特定の顧客が付いているなどの理由があり困ることはなかったのです。
むしろ、同じ地域内にいることでの情報収集の利点などがあったのかもしれません。
吉原の小さな版元だった蔦屋重三郎は、通油町の丸屋小兵衛から地本問屋株と店舗を購入していっきに江戸出版界の上層部へと駆け上がりました。
今で言うならば、ベンチャー企業が一部上場企業となった感覚に近いかもしれません。
これも田沼時代だからこそできたことなのかもしれませんが、店が大きくなると周囲との付き合いも大変にはなってゆくのも世の常かもしれないのです。