彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

揺れる近江(4)

2024年01月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
 令和6年(2024)元日の夕方に石川県を襲った令和6年能登半島地震は、滋賀県にも強い揺れをもたらす衝撃的な出来事となった。本震だけではなく余震も油断ならず被災地から伝えられてくる惨状に心が痛くなる。一日でも早い終息と復興を願う。
 日本史の中で特に地震被害が酷かったのは九世紀後半と言われているが、その頃と同じ程度の巨大地震が発生しているのが現在の日本である。このことから専門家のなかには「千年に一度の地震活動期に入ったのではないか?」との推測も出始めている。本来ならば近江に関わる地震を中心に記しているが、この時期の地震は全国規模で俯瞰したいと思う。
 延暦13年(794)平安京遷都。約四百年続く平安時代の始まりである。この四半世紀後の弘仁2年(818)夏、関東に被害を及ぼした大地震が発生。ここから日本列島は特筆すべき災害期へと突入する。このとき帝位についていた嵯峨天皇は諸国に使者を派遣して被害状況を把握するとともに被災者に援助物資を配ることを命じている。これと同時に「朕は才能もないのに帝位に即いた。このため民をいつくしむ心は忘れたことがないが、徳が及ばずにこのような大災害を招いてしまった」と自らの不徳を嘆き「現地の役人が被害を調査し住居や仕事を失った者には今年の租調(税)を免除し建物再建を助け、飢えや野宿暮らしを強いられることがないようにせよ。また死者は速やかに埋葬し民には朕の想いに沿うように慈しみを与えよ」との詔を交付している。嵯峨天皇はこののちも地震についての詔を交付しているがそのなかでは前稿で紹介した紫香楽宮で聖武天皇が被災した地震にも触れ「過去の異変を忘れてはならず、教訓として活かせないほど昔の話でもない(75年前)」とも記している。

 このように嵯峨天皇は関東での大地震を自らの不徳として深く悩み、その分だけ被災者に慈しみを与え災害復興に尽力した、そして5年後に弟・淳和天皇に皇位を譲って上皇となるが、こののちは京都での地震が頻繁に発生するようになり天長4年7月12日(828年8月11日)京都でM7クラスとも推測される大地震が発生し多くの建物が倒壊するとともに長い余震(7月は毎日、翌年6月まで続く)に苦しむこととなってしまう。淳和天皇は兄と同じ悩みを抱えることとなるが震源地が畿内であったためにその苦しさはもっと深かったのではないだろうか? 2年後には追討ちをかけるように出羽国(山形県)でも大地震が発生、兄と同じように「出羽の地震は天の咎であり朕の不徳である」と自らを責める詔を交付して税の免除や民衆救済、災害復興を命じた。この年末には京都の内裏に記録に残る最初の「モノノケ」が現れ、天長9年(832)三宅島噴火。淳和天皇は失意のうちに甥・仁明天皇に皇位を譲り、崩御の際には自らの意思で火葬と歴代天皇で唯一の散骨による薄葬を命じている。


淳和天皇火葬塚(京都府向日市)
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