彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

馬屋

2006年04月26日 | 彦根城
「鉢巻腰巻石垣」が見える表門橋の近くにある二ノ丸駐車場。
そこに建っている長屋風の建物も、普段気にされる方は少ないのではないでしょうか?

この建物は、昔はどこのお城にもあった筈なのに、城内に現存しているのは日本でたった一ヶ所。この彦根城だけとなっている建物「馬屋」なのです。

お城は何のためにあるかと言えば、当然イザと言う時の軍事拠点です。
江戸時代はとても平和でした。264年8ヶ月の間に起こった犯罪は今の東京の1年分よりも少なく、一部の歴史学者は「政治を幕藩体制時代に戻す方が良いのではないか?」という意見も出すほどです。
勿論、本当にそういう事をする訳にはいきませんし、江戸時代が平和だったのは4代将軍・徳川家綱を補佐した“寛永の遺臣”達が努力した結果でした。
『ひこにゃん』の項目で書きましたが、彦根藩2代藩主・井伊直孝も寛永の遺臣の一人に挙げられますから、彦根人も江戸時代の平和を創った重要なキーマンだったんですね。

さて、そんな平和で武士も普通のサラリーマン化しつつあった時代でも、戦いに備える心構えは常に必要で、その軍備の一つが馬だったのです。
馬は便利な乗り物として使われますが、生き物ですからいつまでも走れるものではなく、1日に2時間くらい働くと休ませなければならなかったと聴いた事もあります。
ですから、一人で何頭もの馬が必要となったのです。

(やっと本題)
彦根城の馬屋は藩主の馬を飼っていた場所ですが、中には十数頭を繋ぐ場所があります。それは、藩主は一人でも使う馬は結構沢山必要だったからなのです。
建物は元禄年間(5代将軍・綱吉の頃)に建てられた物で、木造平屋建、佐和口多門櫓から表門橋に向かう道沿いにL字形になっています。
普段は公開されていませんが、ゴールデンウィークなど特別な時に一般公開されますので情報をキャッチして観に行ってくださいね。
平成18年4月29日~5月7日も公開されます。

4月23日、井伊直弼が大老に就任。

2006年04月23日 | 何の日?
やっぱり、書かないといけませんよね~

安政5(1858)年、彦根藩主・井伊直弼が大老に就任します。

そもそも“大老”とはどんな役職だったのでしょうか?
幕政は将軍の下に複数の“老中”を据えて合議制で行う形を執っていました。
そんな老中の中にも首座や次席、そして民政と財政を管理する勝手掛老中など色々なポストがあります。
しかし、どんな身分にあろうと老中である事には間違いなく、老中首座でも決して独断の政治はできませんでした。
(例えば賄賂政治で有名な田沼意次でも老中首座というトップの地位には就いていませんでしたが、人柄と将軍の信頼である程度の舵取りをしていただけなんです)

世の中が安泰している時は合議をしながら進めていく方法が好ましいのですが、どうしてもそれでは困る時があります。
そんな時に老中首座とは違った意味で老中のボスともなる存在として臨時職である“大老”が置かれました。
その仕事は将軍補佐で、264年半の江戸期を通じて12人(井伊直該が2度就任)と大老格1人が就任したのみだったのです(ただし、井伊直孝が大老に就任していたという説もあり、そうなると大老は13人になります)。
大老は土井・酒井(雅楽頭流)・堀田・井伊の四家しか就任する事ができず、その他の家で十万石以上の場合は「将軍補佐」「後見」「政治総裁」と言いました、これには保科正之や松平慶永などが就任しています。
そして十万石以下の大名なら老中に就任できました。

大老の権勢は相当なもので出勤すると老中が揃って頭を下げて、あたかも将軍に対するもののようであったそうです。また、大老の決裁は将軍でも覆せなかったのでした。
でも、もちろん幕府の最高権力者は将軍でしたから、将軍に対してちゃんと礼儀をわきまえていました。

さて、井伊直弼が大老に就任した時は、1853年の黒船来航から世の中が混乱した時でもあり、そして13代将軍・徳川家定が病弱で後見が必要だった事もあって、難しい局面に舵取りを行える人物が必要な時期でした。
実際の話、大老就任の2ヶ月後にはそれまで老中首座だった堀田正睦が『日米修好通商条約』調印の責任をとって罷免されるなど、ちょっとの事でも責任問題となったのでした。
そして、どんな政策を行っても敵を作る時でもあったのです。

大老就任後は、安政の将軍継嗣問題で南紀派(徳川慶福)と一橋派(一橋慶喜)との争いで南紀派の筆頭として一橋派の排斥。
『日米和親条約』調印後の攘夷派への弾圧などを行います。

“尊王攘夷”と言う言葉は反直弼勢力のスローガンとなった程でした。

でも、本当の攘夷派は、下手な志士達よりも直弼の方が強かったんですよ。
勝海舟や吉田松陰が「日本を守る為に先進国の文化を取り入れ、発展し、やがて諸外国と対等になったところで日本の独立を行う」という考えを示していますが、直弼もその考えだったんです、結局、排他的だった志士の作った明治政府もその道を進む事になりますしね。
そして、いずれここで書きますが、彦根城主はどの城の主よりも天皇を尊ぶ立場にあり、尊王思想も下手な人物より厚かったのですよ。

そんな自分の想いとは違ったレッテルを貼られ、時代の渦に飲まれた直弼も時代の被害者なのかも知れませんね。

余談:『ひこにゃん』

2006年04月20日 | 博物館展示
国宝彦根城築城400年蔡のマスコットキャラの名前が「ひこにゃん」に決定しました。
関連HPを訪れるとご覧になる事が出来ると思いますが、キャラクターのデザインとしてはシロネコが井伊の赤備えの兜を被っています。

流石に勝手に拝借する訳にはいきませんので、ここでその絵を載せる事は控えさせて頂きますが(後日撮影したイベント用ひこにゃんアップしました)、ここで一つ疑問になるのは、なぜ彦根でネコなんでしょうか?

実はこのネコは「招き猫」なんです。
彦根と招き猫がどんな関係があるのか? 今回はそんなお話を書いてみます。

招き猫のルーツを調べるとその発祥の地は豪徳寺(ごうとくじ)というお寺だという説が有力視されています、では、この豪徳寺が彦根のお寺なのか? と期待してみると、残念ながらこれは東京世田谷のお寺でした…
何だぁ、じゃあ招き猫って彦根とは何の関係も無かったのかな? って少し諦めながらもう少し詳しく調べてみると、何と豪徳寺が井伊家の江戸での菩提所だというのです。
 
“1615年と言いますから、ちょうど大坂夏の陣の年のこと、貧しいお寺だった弘徳庵(こうとくあん)の和尚は、とても大切にしている猫がいたそうです。
和尚は自分の食事を削ってまで猫に与えていましたが、ある日その猫に「お前、恩を感じているなら何か福を招いてくれないか?」と言って聞かせました。
多分、貧しさによる冗談だった筈です、しかし夏の日のこと、急に門前が騒がしくなり和尚が不審に思って表に出ると狩の中途と思える立派な武士が居ました。
その武士は「何やらこの猫がしきりに手招きするので尋ねてみた、休憩させてもらう」と言いました。
和尚が武士を茶でもてなしていると突然雷が鳴り響き、辺りは豪雨となったのです、和尚はその中でも整然と仏の教えについて説きました、これを見た武士は「我は、近江彦根城主・井伊直孝だ、猫に招かれ雷雨を逃れ、その上、ありがたい話まで聞けた、これからもよろしく頼む」と言ったそうです。
井伊直孝は、この後、4代将軍・家綱の頃まで幕府の重鎮として活躍し、江戸前期の幕府を築き上げた「寛永の遺臣」の一人にも挙げられていますし、井伊家は江戸時代を通して七人の大老を輩出するほどの名門でしたから弘徳庵は、江戸における井伊家の菩提所として多くの田畑を寄進され、大きなお寺へとなったのでした。
そして、後に直孝の戒名を取って『豪徳寺』と改名したのです。
和尚は、猫の恩返しに感謝し、その後も大切にし、亡くなった後は墓を作って「まねきねこ」と称して家内安全、営業繁盛、心願成就のご利益があると公伝しました。
こうして招き猫が誕生し、彦根も招き猫をシンボルにするようになったのです。”

ここでは、彦根城近くの招き猫専門店「招福本舗」さんで教えていただいた招き猫のこだわりをご紹介しましょう。

まず、「手の高さ」
手が高く上がっていれば居るほど、大きな福、遠くの人を招くそうです。逆に低い時は小さな福や近くの人の福を招くと言われています。

次に「挙がっている手について」
右手が挙がっている時はお金を招きます、昼の商売に向いているという説もあります。
左手が挙がっている時は人を招きます、夜の商売に向いているという説もあります。
そして、欲張りにも両手が挙がっている時は、願い事は何でもござれだそうです。
う~ん、じゃあ、井伊直孝を招いた猫は左手か両手を挙げていたことになりますね、でも、流石に両手を挙げた本物の猫には寄りたくないから、左手説に勝手に決めちゃいましょう(ちなみに歴史的根拠はありません)。

最後に「色」
白色のネコは幸運や開運
黒色は、厄除け
赤色は、無病息災
金色は、金運上昇
青色は、安全
緑色は、合格
黄色は、縁結び

これを見ると一番凄いのは白色で両手を高々と挙げている招き猫のような感じがしますが、用途に応じてピンポイントを決める方が効果が大きいかもしれませんし…
どれが良いのか、皆さんの判断にお任せしましょう。


捕捉:「この話をどこかで聞いて事があるなぁ」と思った彦根市近辺の方がおられましたら、それは平成17年11月に管理人が書いた某ラジオ局での放送原稿から必要部分を抜粋したからです。
この先もこういう使用済み原稿からアップする話もあるかもしれませんからその辺りは気にしないで下さいね(^^)

鉢巻腰巻石垣

2006年04月17日 | 彦根城
地元の彦根市民にとっては当たり前の光景過ぎて、その珍しさが伝わっておらず、観光客の方にとっても知らないうちに通り過ぎてしまうという、彦根城に来てもある意味では勿体無いまま終ってしまうのがこの石垣です。

「城」という漢字は“土で成る”と書きますが、土を掘って土塁を作れば城として機能したのでした。
その掘ったところが“堀”となり、盛った土が“土塁”となるのでとても機能的だったのです。

江戸時代の書物に書かれた話では、東国は“土塁”西国は“石垣”が主流であった事が記されています。
つまり、西国に分類される彦根城では石垣が主流のエリアになる訳です。
土塁と石垣では土塁の方が防御力に劣りそうに見えますが、高さを稼げる分、石垣に勝るとも劣らない防御体制が保てます。

しかし、彦根城の表門橋から大手門橋までに見える内堀の石垣は、石垣の上に土塁を積み、その上にまた石垣を積むという三段構造になっています。

土塁の上の石垣を“鉢巻(はちまき)石垣”
土塁の下の石垣を“腰巻(こしまき)石垣”
と呼びますが、この様に土塁と石垣を併用する事で、石垣だけの時よりも高さを稼ぐ事ができて、より防御力に優れた城となるのです。

でも、土塁・石垣併用の城は、江戸城の鉢巻石垣(土塁の上のみに石垣がある)など数例しかない珍しい造りで、彦根城のような鉢巻腰巻石垣は殆んど例を見ないとも言われているんですよ。

彦根城に来ると、表門橋から見える本丸御殿を再現した彦根城博物館と山の上に見える天守閣に目を奪われがちですが、ちょっと目をお堀の方に向けて、鉢巻腰巻石垣を見て下さいね。

彦根城の一番きれいな光景

2006年04月16日 | 彦根城
彦根城を一番キレイに撮影する場所はこのスポットだと言われていて、絵葉書や写真の構図としても良く使われます。

手前の濠は「外堀」
右手に「いろは松」
外堀の向こうは「佐和口多門櫓」
その奥に「天守閣」
本当なら天守の左に天秤櫓が望めるのですが、今回は盛りの桜を入れる事で春を感じてもらいました。

彦根城の桜は、昭和8年に彦根町会議員(当時はまだ市ではありませんでした)・吉田繁治郎(よしだ・しげじろう)さんが「皇太子(今上天皇)誕生を機に彦根を桜の城にしよう」と思って地域に呼びかけ、多くの募金を受け、翌年2月から城やその周辺に1000本の桜の苗を植えたのでした。
害虫に弱い桜を守る為に繁治郎さんの日課はその見廻りから始まったそうです。
そして、倒れた苗を直したり害虫を取り除いたりして、大切に育った桜達が今の桜なのです。
そんな桜も既に寿命が近付きつつあり、今では毎年地域の協力で栄養を与えているんです。

1本1本に市民の力で植え、育て、守って行った人の温もりがあるんですよ。