彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

いろは松

2006年06月28日 | 彦根城
彦根駅から彦根城に入るとき、佐和口多聞櫓の手前、お堀沿いに多くの松が植えられています。
昔、ここは「松の下」と呼ばれていましたが、松の木が47本あった事から“いろはにほへと…”の仮名手本47文字になぞらえて『いろは松』と呼ばれるようになりました。

ちなみにここは、藩主が城外に出かける時に利用した道でした。
その藩主の送り迎えのために彦根藩士が並んでいた場所だったのです。今で言うなら、社長の外出前に社員が玄関で見送るようなイメージでしょうか? 今も昔も人のやってる事って変わりませんよね。

さて、彦根城は防衛上の作戦で築城前から育っている樹木を最大限に利用して城内が敵から見えないようにしていたのですが、それと同時に城を囲まれた時に使える様に資材・薬・食糧になる植物を移植したのです。
いろは松はそんな移植された植物の1つでした。

いろは松には土佐松という種類の松が使われています。これは根が地上にはり出さない事から人や馬の往来の妨げにならないので、二代目藩主・井伊直孝の時代にわざわざ土佐(高知県)から取り寄せて植えられたものなのです。
この時、土佐藩主は『功名が辻』の主人公・山内一豊の養子・忠義でした。
一豊が土佐に入国した時、昔から土佐に住んで居た武士たちが反抗したので、井伊家が山内家の為に土佐まで遠征して武士たちの反抗を抑えたのです。
井伊家に恩を感じた山内家が遠征のお礼として快く土佐松を提供したのです。

ところが、せっかく移植した土佐松ですが、枯れる松が多かったために、その時の家老が、松の木の1本ずつに藩士の名札をつけ、それぞれに自分の木の世話を命じたのです。
う~ん、藩士にしたら名誉な事なのか、迷惑なのか…
とにかく、責任を背負わされた藩士たちの努力で松はよく育ったといわれています。

今は土佐松以外の松も植えられていますが、数は34本にまで減っているんですよ。


『彦根かるた』には
 いろは松 土佐の産湯を あびてくる
と、書かれています。

彦根城周辺史跡スポット:「北野寺」

2006年06月23日 | 史跡
毎年10日恵比寿が行なわれる北野神社の隣りに建っているのが北野寺です。
その起源は古く、720年に元明天皇の勅願によって、近江国の国司・藤原房前の手で建立されました。
守護仏として祀られているのは5センチ半程の大きさの金の亀に乗った聖観世音菩薩像。
そして、建立された場所は今、彦根城が建っている彦根山でした。そしてこの時の寺の名前は“彦根寺”でした。

この観音様は、とてもご利益があったそうで、史書の中には失明した僧が寺に籠もって三日で目が見えるようになったとか、耳が聞こえなくなった貴族が祈祷によって治ったと言う話も残っています。
そのため、全国から多くの参拝者がやってきました。
特に、都からやってくる貴族が多く、そんな貴族が使った道が今も“巡礼街道”という名前を残しています。

江戸時代、彦根城築城の為に現在の位置に移されましたが、寺の管理は彦根藩が責任を持って行なっていました。
現在でも、檀家も墓地もない珍しいお寺で、近江西国観音霊場・第十四番札所として信仰の対象になっています。

訪れてみると、小さな小さなお寺ですが、彦根で昔から育った方なら聴き慣れている“巡礼街道”の語源まで作ったお寺に興味が沸きませんか?
訪れてみたら観音様のご利益に救われるかもしれませんよ。

井伊家の食事

2006年06月18日 | 井伊家関連
2005年11月5日に再現して振舞われた『大名の日常食』。

文久3(1863)年10月7日の朝に、彦根藩14代藩主・井伊直憲(直弼の子ども)が食べた物だそうです。
文久3年といえば、新撰組がやっと京で活動をし始めた頃で、彦根藩では前の年に政変が起って、直弼の懐刀だった長野主膳と宇津木六之丞が斬首され、家老で勤皇派の岡本半介の指揮の元で生まれ変わろうとしている時期でした。
桜田門外の変の影響で石高も減らされて、藩としても窮乏していたと考えられます。

そんな時期の藩主の朝食は

今出川豆腐・漉し薩摩芋かけ
汁は白玉と牛蒡の味噌汁
そして、醒ヶ井餅

だったようです(写真参照)

これにご飯とお漬物が付くのが普通の食事でした。
大名といえども、一汁一菜を基本とした質素な物だったんですね。

手元の資料(彦根城博物館発行)によれば、魚や豆腐は毎日食膳に上がり、季節ごとの風習は大切にしていたそうです。
また、各地からの贈答品も食卓を飾ったそうですよ。

ちなみに、白玉と牛蒡の味噌汁は彦根の伝統なんだそうですが、管理人はこの時初めて知りました。

山崎曲輪

2006年06月14日 | 彦根城
前回紹介しました屏風折れ石垣が使用されているのは、山崎曲輪といわれる一角です。

ここは城山の中で一番天守から離れた場所でもありました。
井伊家の記録では、築城当時、この場所は家老の木俣土佐守守勝の屋敷があったといわれています。
木俣守勝は関ヶ原の戦いで井伊直政が佐和山城に入る前に居城としていた高崎城で城代家老も勤めていた人物でした。
元々は、徳川家康の直臣で、直政と同じ立場だったのですが、本能寺の変のあとで信長の領地だった甲斐を占領した家康は、信長によって滅ぼされた武田家の家臣団を集めて井伊家に託します。
この時、守勝を武田家臣団の大将とするように命じた家康が、守勝を直政に与力として預けたのです。

この武田家臣団の中心が武田軍の先鋒を務めた山県昌景(長篠の戦で戦死)の好んだ赤備えだったのです。
つまり、「井伊の赤備え」は元々「井伊軍の木俣の赤備え」だったのです。
もちろん、すぐに井伊家全体の色となったので「井伊の赤備え」で間違いではないのですがね。

関ヶ原の戦いで鉄砲傷を受けた直政に代わって、家康との交渉役となったのが守勝です。

直政の没後、伏見城で家康から彦根城築城の命を受けたのも守勝だったのです。

こういう人物だからこそ、城内に屋敷が構えられたんですね(後に内堀の外に屋敷を構えます)。
山崎曲輪は、現在、琵琶湖側にあった山崎口門の門扉が残っています。
他の建造物が無く、天守からも離れているので訪れる人は稀ですが(管理人も行った事がありません…)、隠れた名所とも聞いた事があります。


(写真の左側が屏風折れ石垣)

屏風折れの石垣

2006年06月04日 | 彦根城
黒門橋の時に、この橋が内堀と松原内湖との区切りとなっているという事を書きました。

その松原内湖に面した部分に作られていたのが屏風のように屈折を沢山付けた石垣です。

湖に面しているという事は攻め手にとっては身を隠す場所がなく、守り手にとっては敵の姿をいち早く発見できて防御に適した場所だったんですが、万が一攻め手が湖を渡りきった時には石垣を登ってくる攻め手を防がなければいけません。

その時、守り手に見え難い死角があれば攻め手はその部分を狙う事になります。

そんな最悪の事態を避けるためには特に注意が必要となったのです。
こうして作られたのが、屈折を繰り返す事によって死角を無くす石垣だったのです。

写真手前に植木と道が見えますが、現在松原内湖は埋めたてられて公園になっているからです。
以前はこの辺りが湖だった為、この公園近辺は水に浸かり易くなっています。

黒門橋

2006年06月01日 | 彦根城
黒門橋は、城山から槻御殿や玄宮園に向かう一番近い橋で、現在、内堀に架かる3つの橋の中で唯一土橋になっています。

橋というのは、川などを渡るために開発された物(と態々書くほどの物ではないですが…)です。

しかし、城では少し意味合いが変わってきます。
城は、その防御力を高める為に幾つものエリア(曲輪)に分かれていて、その間は堀や壁で区切られていました。

堀を渡る時は当然、その間を繋ぐ橋が必要になったのです。

城に架ける橋は主に2種類に分けられます。
木橋と土橋

木橋は、敵に攻め込まれた時に簡単に落とす事ができますが、逆に敵からも簡単に落とされてしまい、兵糧攻めの様な物資運搬を止められる攻撃をを受け易くなります。
また、一度に運べる物資の量も少なくなってしまうので、不便な所もあったのです。

ちなみに、臨時の時に移動させられる引き橋(橋の下の部分がそろばんの様になっていて手動で橋を架けたり引いたりできる)や西洋の城門に見られるような釣り上げ形の橋も木橋が主流で、工夫をし易い橋でもあったのです。

逆に、物資の輸送力を高める為には堀を埋める土橋が用いられました。
土橋には、掘りに張ってある水の水位を変えたり、水堀と空堀を区切ったりするのにも使われたのでした。

余談ですが、今の黒門橋は土橋ですが、以前は木橋でした。
江戸期の彦根城は黒門橋が内堀と(琵琶湖から繋がっている)松原内湖の区切りの役割を果たしていて、内堀の水は松原内湖から引いていたのでここを土橋にする必要性が無かったのです。