彦根駅から彦根城に入るとき、佐和口多聞櫓の手前、お堀沿いに多くの松が植えられています。
昔、ここは「松の下」と呼ばれていましたが、松の木が47本あった事から“いろはにほへと…”の仮名手本47文字になぞらえて『いろは松』と呼ばれるようになりました。
ちなみにここは、藩主が城外に出かける時に利用した道でした。
その藩主の送り迎えのために彦根藩士が並んでいた場所だったのです。今で言うなら、社長の外出前に社員が玄関で見送るようなイメージでしょうか? 今も昔も人のやってる事って変わりませんよね。
さて、彦根城は防衛上の作戦で築城前から育っている樹木を最大限に利用して城内が敵から見えないようにしていたのですが、それと同時に城を囲まれた時に使える様に資材・薬・食糧になる植物を移植したのです。
いろは松はそんな移植された植物の1つでした。
いろは松には土佐松という種類の松が使われています。これは根が地上にはり出さない事から人や馬の往来の妨げにならないので、二代目藩主・井伊直孝の時代にわざわざ土佐(高知県)から取り寄せて植えられたものなのです。
この時、土佐藩主は『功名が辻』の主人公・山内一豊の養子・忠義でした。
一豊が土佐に入国した時、昔から土佐に住んで居た武士たちが反抗したので、井伊家が山内家の為に土佐まで遠征して武士たちの反抗を抑えたのです。
井伊家に恩を感じた山内家が遠征のお礼として快く土佐松を提供したのです。
ところが、せっかく移植した土佐松ですが、枯れる松が多かったために、その時の家老が、松の木の1本ずつに藩士の名札をつけ、それぞれに自分の木の世話を命じたのです。
う~ん、藩士にしたら名誉な事なのか、迷惑なのか…
とにかく、責任を背負わされた藩士たちの努力で松はよく育ったといわれています。
今は土佐松以外の松も植えられていますが、数は34本にまで減っているんですよ。
『彦根かるた』には
いろは松 土佐の産湯を あびてくる
と、書かれています。
昔、ここは「松の下」と呼ばれていましたが、松の木が47本あった事から“いろはにほへと…”の仮名手本47文字になぞらえて『いろは松』と呼ばれるようになりました。
ちなみにここは、藩主が城外に出かける時に利用した道でした。
その藩主の送り迎えのために彦根藩士が並んでいた場所だったのです。今で言うなら、社長の外出前に社員が玄関で見送るようなイメージでしょうか? 今も昔も人のやってる事って変わりませんよね。
さて、彦根城は防衛上の作戦で築城前から育っている樹木を最大限に利用して城内が敵から見えないようにしていたのですが、それと同時に城を囲まれた時に使える様に資材・薬・食糧になる植物を移植したのです。
いろは松はそんな移植された植物の1つでした。
いろは松には土佐松という種類の松が使われています。これは根が地上にはり出さない事から人や馬の往来の妨げにならないので、二代目藩主・井伊直孝の時代にわざわざ土佐(高知県)から取り寄せて植えられたものなのです。
この時、土佐藩主は『功名が辻』の主人公・山内一豊の養子・忠義でした。
一豊が土佐に入国した時、昔から土佐に住んで居た武士たちが反抗したので、井伊家が山内家の為に土佐まで遠征して武士たちの反抗を抑えたのです。
井伊家に恩を感じた山内家が遠征のお礼として快く土佐松を提供したのです。
ところが、せっかく移植した土佐松ですが、枯れる松が多かったために、その時の家老が、松の木の1本ずつに藩士の名札をつけ、それぞれに自分の木の世話を命じたのです。
う~ん、藩士にしたら名誉な事なのか、迷惑なのか…
とにかく、責任を背負わされた藩士たちの努力で松はよく育ったといわれています。
今は土佐松以外の松も植えられていますが、数は34本にまで減っているんですよ。
『彦根かるた』には
いろは松 土佐の産湯を あびてくる
と、書かれています。