彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

8月29日、高宮城炎上

2007年08月29日 | 史跡
天正元(1573)年8月29日、前日に小谷城が落城し高宮城に落ち延びていた高宮宗久が城に火を放ち高宮城が落城しました。


高宮は古くから町としての形が出来上がっていた所で、古代は犬上郡高宮郷として東山道(中山道の原形)が通る町として栄えて市が立つ事もあったのです。鎌倉時代後期には紀州(和歌山県)から櫟宗忠が地頭としてこの地に入り“高宮氏”を称しました。これを「北殿の高宮氏」と呼びます。

高宮宗忠は弘安2年(1279)に天台宗の寺院だった高宮寺に一遍を招き時宗に改めさせ高宮氏の菩提寺としたのです。


室町時代中期、高宮氏は四代・高義が当主だった時に六角氏頼の三男・信高が将軍・足利義持から高宮・大堀・東沼波・西沼波・竹鼻の五ヶ村を恩賞として与えられ二羽の雁の道案内で高宮に誘われて後に高宮城となる館に落ち着き“丸に二つ遠雁”の家紋と“高宮氏”を名乗ったのでした。これを「南殿の高宮氏」と呼びます。


高宮に二つの高宮氏が並び、やがて両家は戦うようになり北殿が弱体化して南殿・高宮信高の孫・清宗が北殿を継ぐ事によって高宮氏は南殿一族で統一されたのでした。
この南殿高宮氏が居城とした平城が高宮城でした。


戦国時代には湖東地域を中心に北の京極氏と南の六角氏が何度も戦い、高宮氏はその出身の義理から六角氏に味方していましたが、やがて京極氏に寝返り京極氏から浅井氏に支配が移ってからもそのまま浅井氏に仕えたのです。

浅井長政と織田信長が同盟関係にあった頃は信長の宿所として何度か高宮城が利用されていますが、長政と信長の関係が悪化すると信長に攻められて多くの高宮一族が戦死しています。


天正元年(1573)8月28日、小谷城でこの時の当主・高宮宗光と一族の郷光・勝義が戦死。宗光の子・宗久は高宮城に帰城。翌29日、城に火を放ち高宮城と高宮寺は炎上したのです。宗久を始めとする高宮一族は各地へ離散し城跡も江戸期を通して藪に覆われていたそうです。


現在、高宮城跡の上には高宮小学校や高宮幼稚園が建っていて、高宮小学校のグランドの橋に建立された“高宮城跡”の石碑と案内看板が無ければここにお城があったなどとは殆どの方に気が付かれなかった事でしょう。

以前は高宮小学校グランド敷地内には高宮城ゆかりの井戸があったのですが、現在は土砂で埋められてしまいその姿は写真でしか見る事ができなくなっています。


唯一の遺構は、高宮小学校の北側を流れる化粧川で、高宮城外堀の役目があったと考えられているのです。
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8月26日、森川許六亡くなる

2007年08月26日 | 何の日?
正徳5(1715)年8月26日、彦根藩士・森川百仲(300石)が病没しました。享年60歳。


森川百仲は、松尾芭蕉の晩年の弟子でありながら蕉門十哲の一人にも挙げられ、芭蕉から「許六」と言う名前も与えられたくらいに芭蕉に愛された人物でした。
この奇妙な名前の由来は槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の六つの芸に百仲が通じていたためで、芭蕉は許六から絵画を習っていました。


許六は、芭蕉に弟子入りする事を望んでいて、彦根にやってくる時を待っていたのですが芭蕉が弟子・李由を訪ねて平田町の明照寺に立ち寄った時には許六が江戸詰めだった為に会う事が出来ず後に江戸の芭蕉の庵に許六が訪ねて二人の交流が始まったのです。


芭蕉と許六にはこんな逸話が残っています。
芭蕉は許六に「なぜ俳諧をするのか?」と訊ねると「絵画の為に」と答えました。
では「なぜ絵画をするのか?」と芭蕉が訊ねると「俳諧の為に」と許六は答えました。


芭蕉亡き後は、芭蕉二世と称して自分が蕉門を継いでいると豪語しますが、そんな性格から門人が続かずこの結果が蕉門衰退に繋がったとも言われています。
しかし、芭蕉の教えを記した許六の多くの書物によって芭蕉の教えは現代にまで伝わったのです。


晩年、許六はハンセン病に犯された為に屏風越しにしか来客とも会えなかったそうですが亡くなる直前まで筆を手放す事が無かったのです。


そんな許六の作品は彦根市に多く残り、遺構もあちらこちらで目にする事が出来るのです。
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彦根城周辺史跡スポット:「新海城」

2007年08月24日 | 史跡
彦根市最南端の町・新海町には2つの城がありました。

一つは新開館。
そしてもう一つはこの写真の地・新海城(大浦城)です。


新開館の当主は山崎氏の支流・新開氏が住んだ場所でした。
戦国時代中期の天文~永禄年間(1532~70)には新開源兵衛尉家郷とその息子・源内が六角義賢に仕えて新海町(新開村)の地頭となっていました。


一方、新海城は比叡山延暦寺の山徒・岡田千甚坊が新開家郷と同じ時期に城を築城したのです。
新海城は大きな堀と高い土塁で囲み、門前には石壁もあったと言われています。


この2城の城主はお互いの所領権を巡って争いを続けたのです。

永禄元(1558)年正月、岡田千甚坊は村人と共に新開館を襲って新開家郷・源内を殺害しました。しかしこれに怒った六角義賢が兵を挙げて岡田千甚坊を討ち取ったのです。

新開家は源内の息子・源右衛門が山崎賢家に仕えたと言われています。


なお、古い彦根の記録には新開村屋敷主新開源之丞という名前が残っています。
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彦根城周辺史跡スポット:「国府君神社」

2007年08月19日 | 史跡
彦根市犬方町には国府君神社(こうのき・じんじゃ)という興味深い名前の神社があります。

この様な名前はどうやって付いたのでしょうか?

672年、天智天皇の跡目を争いとして天智天皇の弟・大海人皇子と天智天皇の息子・大友皇子が戦いました。
世に壬申の乱と呼ばれる戦いです。


美濃国の関ヶ原で挙兵した大海人皇子は近江国南部の大津京を目指して琵琶湖の東部で戦いを繰り返します。
そして、大友軍の蘇我果安が陣を張っていた犬上川まで進軍し、川を渡る事になったのです。

しかし、犬上川は増水していて進むのが困難でした。

大海人皇子は犬上川北岸の都恵神社(つえ・じんじゃ)に祈願してから川に入ったのでした。
でも、大海人は馬ごと流されてしまいます(おいおい・汗)、その時、都恵神社から黒雲が立ち大海人を救って鎮守の森まで運んだのです。

これに喜んだ大海人は都恵神社の神官に上野の姓を与えたのでした。


そのまま都恵神社に陣を張った大海人でしたが、大友軍に拉致されてしまいます。
これを阿自岐六人衆が救い出したのです(なんだか、この一連の逸話では大海人は頼りない人物ですね)。


救い出された大海人の為に都恵神社に近い犬上川の南岸に宝殿を建立し、ここに匿いました。


壬申の乱が大海人皇子の勝利で終わり天武天皇として即位します。
その天武天皇の皇后は天武の没後に持統天皇として即位します。そして持統天皇が夫を匿った宝殿に「国府君大明神」という名前を与えたのです。


以前も書きましたが、壬申の乱の時代の犬上川周辺を舞台にしたマンガに『火の鳥 太陽編』があります。

国府君神社はこの舞台批准地の筆頭候補ではないでしょうか?
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彦根城周辺史跡スポット:「川手主水の墓」

2007年08月15日 | 史跡
大坂夏の陣で井伊家先鋒として木村重成軍と戦い討死した川手良列の養父・川手主水良則の墓が最近彦根市南川瀬町で発見されました。


川手主水は、三河国武節城と河手城の2つの城の城主・河手主水助景隆の嫡男として誕生。武節貫治とも名乗っています。
当初は武田信玄の家臣・山県昌景に仕えて多くの手柄を立てて信玄からも「若手ながら覚えの者」と賞賛されました。


武田家滅亡後に他の武田家臣と共に徳川家康に仕えています。
徳川家康は、木俣守勝に武田家臣団を統括させて井伊直政に託します、この時に主水も直政の家臣になったのでしょう。

そんな主水の正室は直政の姉・高瀬姫です。


関ヶ原の戦いの時は、直政の代わりに直政の居城・高崎城を守りました。
このような活躍から、彦根藩では4000石の家老となりました。


しかし、養子・川手良列が大坂夏の陣で井伊直孝と木村重成が激突した若江の戦いで討死。
良列の息子の代で断絶してしまいます。


幕末の大老・井伊直弼は藩祖・直政の姉の家系が滅んだ事を惜しみ、自らの甥に川手家を再興させましたのです。
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8月8日、戊午の密勅

2007年08月09日 | 何の日?
安政5(1858)年8月8日、孝明天皇が水戸藩に対して正式な手続きを踏まない勅書(密勅)を下賜しました。

安政5年の干支にちなんで「戊午の密勅」と呼ばれています。


この年の6月19日、井伊直弼は朝廷の許可が出ないままに日米修好通商条約を結んでいてこれに憤りを感じた朝廷が行った政治工作でした。

その内容は
・無許可で日米修好通商条約を締結した事への責めと、説明を求める。
・御三家と諸藩が幕府に協力して公武合体を成して、攘夷を中心とした幕政改革を求める。
・この2つの内容を諸藩に伝えるべし。
という物だったのです。


これが、朝廷の意見として幕府に提出されたのならそれほど大きな事件にはならなかったのですが、万里小路正房から水戸藩京都留守居役・鵜飼吉左衛門に渡され吉左衛門の子・幸吉によって国許に運ばれて水戸藩家老・安島帯刀に渡り、水戸藩主・徳川慶篤の手に渡ったのです。
そして幕府には禁裏役・大久保一翁を通じて伝わった形になったのでした。


幕府を無視してその家臣である水戸藩に勅書が伝わった事は幕府の威信が落ちる事にも繋がる為、大老・井伊直弼は水戸藩に勅書の提出を求めるとこれを拒否しますが後に幕府に提出されます。
(彦根藩にはこの写しが残っています・写真)


この事件が安政の大獄の引き金となります。
安政の大獄によって
・万里小路正房…謹慎30日
・徳川慶篤…江戸登城停止
・安島帯刀、鵜飼吉左衛門、鵜飼幸吉…死罪
となったのです。
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特別展『レゴで作った世界遺産』

2007年08月05日 | イベント
夏休み期間中、天秤櫓ではレゴで作った世界遺産店が行われています。

全部で16作、日本の世界遺産は“法隆寺の五重塔”“金閣”“厳島神社”“合掌造の家”が作られています。

そして、彦根城天守もレゴで作られたのですが「これは世界遺産ではないから・・・」との指摘があったそうで旧開国記念館で行われている『井伊家十四代物語』の入り口で見る事ができますよ。

彦根城のレゴは写真撮影もできますので忘れずにみて下さいね。
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