天正元(1573)年8月29日、前日に小谷城が落城し高宮城に落ち延びていた高宮宗久が城に火を放ち高宮城が落城しました。
高宮は古くから町としての形が出来上がっていた所で、古代は犬上郡高宮郷として東山道(中山道の原形)が通る町として栄えて市が立つ事もあったのです。鎌倉時代後期には紀州(和歌山県)から櫟宗忠が地頭としてこの地に入り“高宮氏”を称しました。これを「北殿の高宮氏」と呼びます。
高宮宗忠は弘安2年(1279)に天台宗の寺院だった高宮寺に一遍を招き時宗に改めさせ高宮氏の菩提寺としたのです。
室町時代中期、高宮氏は四代・高義が当主だった時に六角氏頼の三男・信高が将軍・足利義持から高宮・大堀・東沼波・西沼波・竹鼻の五ヶ村を恩賞として与えられ二羽の雁の道案内で高宮に誘われて後に高宮城となる館に落ち着き“丸に二つ遠雁”の家紋と“高宮氏”を名乗ったのでした。これを「南殿の高宮氏」と呼びます。
高宮に二つの高宮氏が並び、やがて両家は戦うようになり北殿が弱体化して南殿・高宮信高の孫・清宗が北殿を継ぐ事によって高宮氏は南殿一族で統一されたのでした。
この南殿高宮氏が居城とした平城が高宮城でした。
戦国時代には湖東地域を中心に北の京極氏と南の六角氏が何度も戦い、高宮氏はその出身の義理から六角氏に味方していましたが、やがて京極氏に寝返り京極氏から浅井氏に支配が移ってからもそのまま浅井氏に仕えたのです。
浅井長政と織田信長が同盟関係にあった頃は信長の宿所として何度か高宮城が利用されていますが、長政と信長の関係が悪化すると信長に攻められて多くの高宮一族が戦死しています。
天正元年(1573)8月28日、小谷城でこの時の当主・高宮宗光と一族の郷光・勝義が戦死。宗光の子・宗久は高宮城に帰城。翌29日、城に火を放ち高宮城と高宮寺は炎上したのです。宗久を始めとする高宮一族は各地へ離散し城跡も江戸期を通して藪に覆われていたそうです。
現在、高宮城跡の上には高宮小学校や高宮幼稚園が建っていて、高宮小学校のグランドの橋に建立された“高宮城跡”の石碑と案内看板が無ければここにお城があったなどとは殆どの方に気が付かれなかった事でしょう。
以前は高宮小学校グランド敷地内には高宮城ゆかりの井戸があったのですが、現在は土砂で埋められてしまいその姿は写真でしか見る事ができなくなっています。
唯一の遺構は、高宮小学校の北側を流れる化粧川で、高宮城外堀の役目があったと考えられているのです。
高宮は古くから町としての形が出来上がっていた所で、古代は犬上郡高宮郷として東山道(中山道の原形)が通る町として栄えて市が立つ事もあったのです。鎌倉時代後期には紀州(和歌山県)から櫟宗忠が地頭としてこの地に入り“高宮氏”を称しました。これを「北殿の高宮氏」と呼びます。
高宮宗忠は弘安2年(1279)に天台宗の寺院だった高宮寺に一遍を招き時宗に改めさせ高宮氏の菩提寺としたのです。
室町時代中期、高宮氏は四代・高義が当主だった時に六角氏頼の三男・信高が将軍・足利義持から高宮・大堀・東沼波・西沼波・竹鼻の五ヶ村を恩賞として与えられ二羽の雁の道案内で高宮に誘われて後に高宮城となる館に落ち着き“丸に二つ遠雁”の家紋と“高宮氏”を名乗ったのでした。これを「南殿の高宮氏」と呼びます。
高宮に二つの高宮氏が並び、やがて両家は戦うようになり北殿が弱体化して南殿・高宮信高の孫・清宗が北殿を継ぐ事によって高宮氏は南殿一族で統一されたのでした。
この南殿高宮氏が居城とした平城が高宮城でした。
戦国時代には湖東地域を中心に北の京極氏と南の六角氏が何度も戦い、高宮氏はその出身の義理から六角氏に味方していましたが、やがて京極氏に寝返り京極氏から浅井氏に支配が移ってからもそのまま浅井氏に仕えたのです。
浅井長政と織田信長が同盟関係にあった頃は信長の宿所として何度か高宮城が利用されていますが、長政と信長の関係が悪化すると信長に攻められて多くの高宮一族が戦死しています。
天正元年(1573)8月28日、小谷城でこの時の当主・高宮宗光と一族の郷光・勝義が戦死。宗光の子・宗久は高宮城に帰城。翌29日、城に火を放ち高宮城と高宮寺は炎上したのです。宗久を始めとする高宮一族は各地へ離散し城跡も江戸期を通して藪に覆われていたそうです。
現在、高宮城跡の上には高宮小学校や高宮幼稚園が建っていて、高宮小学校のグランドの橋に建立された“高宮城跡”の石碑と案内看板が無ければここにお城があったなどとは殆どの方に気が付かれなかった事でしょう。
以前は高宮小学校グランド敷地内には高宮城ゆかりの井戸があったのですが、現在は土砂で埋められてしまいその姿は写真でしか見る事ができなくなっています。
唯一の遺構は、高宮小学校の北側を流れる化粧川で、高宮城外堀の役目があったと考えられているのです。