
蔦屋重三郎の人生において特に明るい時期とも言えるのが田沼時代であり、この後の寛政の改革では幕府と反発することとなる。江戸の町人である蔦重ですら人生が大きく変わってしまうほど歴史的転換期とも言える出来事が田沼意次の失脚である。今稿ではその流れを紹介したい。
天明4年(1784)意次の嫡男で若年寄を務めいていた田沼意知が江戸城内で刃傷され亡くなる。すでに66歳という年齢で世代交代も念頭においていた意次にとっては優秀な補佐でもあった意知の死で受けたショックはどれ程のものであっただろうか? しかし政治を停滞させる訳には行かず意知横死から約半年後に井伊直幸を大老とする。大老は幕府に重大な問題が起こったときに一時的に設置される幕閣の最高職であり直幸の祖父・直該(直興)以来約70年ぶりの就任であったが、この時期には幕政に目立った重要案件は認められず、井伊家が意次の閨閥に含まれていたこと、そして井伊直幸自身が大老職就任を望んでいて大老就任後に、九尺(訳2.27m)四方の島台に一棟の小屋を作り屋根は金で吹き、壁や戸も金銀で飾る、庭は豆銀を巻き、小動物も金銀で作った秋の山家の情景を模した物を贈っている(『徳川太平記』)。これにより井伊直幸は大老能力もないのに賄賂で身分を買った田沼意次に利用された大老とも評価されている。
これらの悪評を受けながらも、蝦夷地探索や、幕府が固定資産税を徴収してその資金から低金利の公的ローンを運営する『貸金会所令』などを進めて行く。この頃の田沼政策は着想が早すぎて技術的にも周囲の理解も追い付かなかった。また浅間山噴火による自然災害の積み重ねから印旛沼での開拓事業の失敗が追い打ちをかけた、これに対し意次が鋳造した寛永通宝の裏が波模様であったことが悪いとの言いがかりまで流布された。また、井伊直幸が大老に就任した一年後に反田沼派の急先鋒である松平定信が老中の諮問機関である溜間詰に任ぜられ幕府内に歪ができる。
天明6年は丙午の年で元日も丙午から始まったため不吉な年との噂が広まっていたが8月になり将軍徳川家治が発病。25日に家治が亡くなるがその死は隠蔽され二日後に公文書偽造が行われ意次は老中を罷免され雁間詰め(閑職)を命ぜられる。しかし幕閣には直幸ら田沼派の実力者が残っていたために一気に反田沼派が政権を握ることはなかった。これは政権を巡る政治家同士の戦いであり政治の空白期間が起こる要因となった。天明の大飢饉による市場不安が落ち着かないままで政治的空白期間が生まれるとしわ寄せは民衆に向かい、米を始めとする物価の急上昇が起こり大坂で豪商や米問屋を狙った打ちこわしが勃発。東海道を伝播して江戸でも打ちこわしが起こり田沼派の重鎮たちが責任を負わされ失脚。その後、意次・直幸や田沼派の関係者たちが相次いで急死し田沼時代は多くの史料と共に歴史の闇に堕とされたのだ。
田沼時代に鋳造された寛永通宝(波銭)著者蔵
