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彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

べらぼうの時代(9)

2025年08月24日 | ふることふみ(DADAjournal)

 蔦屋重三郎の人生において特に明るい時期とも言えるのが田沼時代であり、この後の寛政の改革では幕府と反発することとなる。江戸の町人である蔦重ですら人生が大きく変わってしまうほど歴史的転換期とも言える出来事が田沼意次の失脚である。今稿ではその流れを紹介したい。

 天明4年(1784)意次の嫡男で若年寄を務めいていた田沼意知が江戸城内で刃傷され亡くなる。すでに66歳という年齢で世代交代も念頭においていた意次にとっては優秀な補佐でもあった意知の死で受けたショックはどれ程のものであっただろうか? しかし政治を停滞させる訳には行かず意知横死から約半年後に井伊直幸を大老とする。大老は幕府に重大な問題が起こったときに一時的に設置される幕閣の最高職であり直幸の祖父・直該(直興)以来約70年ぶりの就任であったが、この時期には幕政に目立った重要案件は認められず、井伊家が意次の閨閥に含まれていたこと、そして井伊直幸自身が大老職就任を望んでいて大老就任後に、九尺(訳2.27m)四方の島台に一棟の小屋を作り屋根は金で吹き、壁や戸も金銀で飾る、庭は豆銀を巻き、小動物も金銀で作った秋の山家の情景を模した物を贈っている(『徳川太平記』)。これにより井伊直幸は大老能力もないのに賄賂で身分を買った田沼意次に利用された大老とも評価されている。

 これらの悪評を受けながらも、蝦夷地探索や、幕府が固定資産税を徴収してその資金から低金利の公的ローンを運営する『貸金会所令』などを進めて行く。この頃の田沼政策は着想が早すぎて技術的にも周囲の理解も追い付かなかった。また浅間山噴火による自然災害の積み重ねから印旛沼での開拓事業の失敗が追い打ちをかけた、これに対し意次が鋳造した寛永通宝の裏が波模様であったことが悪いとの言いがかりまで流布された。また、井伊直幸が大老に就任した一年後に反田沼派の急先鋒である松平定信が老中の諮問機関である溜間詰に任ぜられ幕府内に歪ができる。

 天明6年は丙午の年で元日も丙午から始まったため不吉な年との噂が広まっていたが8月になり将軍徳川家治が発病。25日に家治が亡くなるがその死は隠蔽され二日後に公文書偽造が行われ意次は老中を罷免され雁間詰め(閑職)を命ぜられる。しかし幕閣には直幸ら田沼派の実力者が残っていたために一気に反田沼派が政権を握ることはなかった。これは政権を巡る政治家同士の戦いであり政治の空白期間が起こる要因となった。天明の大飢饉による市場不安が落ち着かないままで政治的空白期間が生まれるとしわ寄せは民衆に向かい、米を始めとする物価の急上昇が起こり大坂で豪商や米問屋を狙った打ちこわしが勃発。東海道を伝播して江戸でも打ちこわしが起こり田沼派の重鎮たちが責任を負わされ失脚。その後、意次・直幸や田沼派の関係者たちが相次いで急死し田沼時代は多くの史料と共に歴史の闇に堕とされたのだ。


田沼時代に鋳造された寛永通宝(波銭)著者蔵
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べらぼうの時代(8)

2025年07月30日 | ふることふみ(DADAjournal)

 天明4年(1784)3月24日、江戸城中において田沼意次の嫡男で若年寄の田沼意知が佐野善左衛門に刃傷され4月2日に亡くなる。工藤平助の娘・只野真葛の記録によれば『赤蝦夷風説考』が田沼意次に読まれたのは天明3年であり、直後から蝦夷地についての調査準備が始まるが史料としてあまり表に出てこないため、この頃は意知が土山宗次郎に命じて内密に担当していたのではないかと考えられるが、意知が暗殺されたため意次自身が動かなければならなくなった。意知の死から1か月半が過ぎた5月16日、土山の上司である松本秀持(勘定奉行)から田沼意次・水野忠友(老中)に対して赤蝦夷に関しての申上げを行う書付が提出され、この時から幕府が正式に蝦夷地に関わってゆく。

 翌5年、幕府は勘定方から人材を選び蝦夷地の調査を開始した。松前藩士の湊源左衛門を相談役にして東西と遊軍の三隊に分かれた調査団は現地のアイヌ人とも会話を行いクナシリや樺太にも渡っている。浅間山噴火で世界中が小氷河期になっていた時期の調査は過酷を極め樺太まで渡った西蝦夷調査隊は越冬時に宗谷で全員凍死する。
 しかし蝦夷地調査の途中で十代将軍徳川家治が亡くなり田沼意次は失脚する。これにより蝦夷地探索は中止となる。探索隊の中で遊軍隊の責任者であった佐藤玄六郎行信は幕府の仕事として報告書『蝦夷拾遺』を提出する。この書は天明期のアイヌ民族の文化や言葉などをイラストも含めて紹介している貴重な地誌である。『蝦夷拾遺』貞の巻・物品の部に「太刀はすべて日本の衛府の太刀鞘巻や山刀の古物で、つばは付いていない。金具は江州彦根柳川製の古物であろう。これを蝦夷から買い取って、蝦夷後藤と称し、売り出すこともある」(原本現代訳『赤蝦夷風説考』井上隆明訳 教育社)との気になる一文を見つけた。松前藩と柳川湊を含む両浜組を中心とする近江商人との繋がりから言えば蝦夷地に江州柳川の地名が知られていることは理解できるが、柳川製の金具がわからない。この件について彦根市立図書館や滋賀県立安土城考古博物館でもお手を煩わせることになってしまったが結果的に江戸中期に古物となっている柳川製の刀剣や金具は見つけられなかった。調査過程で視野を広げ十世紀まで近江では製鉄技術があったことや、長曾根虎徹や甘呂俊長などの彦根に関わる鍛冶師を始めとする近江に残る鍛冶師たちの存在から、近江より運ばれた物を「江州柳川製」と一括で理解されていた可能性も否めないのである。前稿で記した通り田沼時代に蝦夷地で活躍していた商人は飛騨屋であったが、近江商人の活躍も各地に残っていたのだった。

 さて、田沼意次から政権を奪った松平定信は、佐藤玄六郎が提出した『蝦夷拾遺』を無視した、また蝦夷地調査の実質的な責任者であった土山宗次郎を吉原の花魁誰袖を身分にそぐわない大金で身請けしたことを理由に斬首に処す。他の関係者も田沼政権の失脚に連座することとなる。

『蝦夷拾遺』(宮内庁書陵部所蔵)出典: 国書データベース
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べらぼうの時代(7)

2025年06月27日 | ふることふみ(DADAjournal)

 豊臣秀吉から徳川家康へと政権が移りつつある時代は大名だけではなく文化人や商人も自らの先見の明を信じて人生を賭けなければならなかった。蠣崎慶広はこの大波を乗り越えて「松前」の名字と蝦夷地の支配権を手にいれた。松前藩立藩の陰には柳川村の建部七郎右衛門重元の助言があり、これが両浜組をメインとした近江商人の蝦夷地進出を勢いづけることとなる。

 さて、蝦夷地交易を度外視しても両浜は豊織期に湖東地域で最大規模を誇る繁栄を見せていた。
私は十年前(平成27年2月)に、慶長6年(1601)10月25日に前田慶次が堅田から沖島東の「弁財天嶋の世渡」を過ぎ「さつまといふ在所にふねをよせ、餉のために休らふ、里の名をさつま也といへバ、舟ハたゞのりにせよ」と書き記したことを紹介した。このときは慶次が薩摩という地名を平薩摩守忠度(ただのり)にかけた言葉遊びのみに注目したが、堅田より渡湖した舟がなぜ薩摩湊で休憩し昼食を食べたのか?を、考察しなければならなかった。湖西より沖島を目指した舟は次に荒神山を目印に薩摩湊へ移動しここから米原湊まで内湖を繋いだ運河である航路か琵琶湖上を進む航路が選択できるほどの発展を極めた場所。この答えこそが関ケ原の合戦直後の薩摩湊なのである。
しかし、江戸時代になると彦根藩により松原・米原・長浜の三湊が重視され、柳川と薩摩は衰退して行った。その反動で蝦夷地との交易はますます盛んになって行く。一時期は松前藩が取引をしていた商人の九割が近江商人であったとも言われるくらいだった。

 元和偃武で日本国内に平和が訪れ物流が盛んになる。寛文年間(1661~73)に川村瑞賢が日本を回る航路を開くと、西廻り航路のメインである北前船の主導権が近江商人から船主たちに移るようになる。こうして蝦夷地の秩序も分散化してしまった。この流れに乗ってアイヌ民族に対して一番影響を及ぼしていたのは近江商人ではなく飛騨国(岐阜県北部)の材木商・飛騨屋久兵衛家であり、田沼時代は三代目久兵衛が当主だったが支配人の不正と反発で材木商の仕事を失い四代目は場所請負人に転身するが飛騨屋の横暴に対してアイヌ民族が「クナシリ・メナシの戦い」を起こしたのだった。田沼時代の蝦夷地と言えば松前藩がアイヌ民族を圧政で苦しめていて近江商人も加担していたとのイメージがある、この考えが完全に誤解であるとまでは言えない。しかし松前藩はアイヌ民族との交易を場所請負人に委任し請負人たちの秩序は保たれず飛騨屋のような儲け方を他でも真似をするようになってしまうのである。

 さて、松前藩の保護を受けていた田付新助景豊は柳川湊の整備を行うが、のちに作られた水上交通安全を祈願した常夜灯が微かに名残を残すのみになってしまった。

柳川湊の常夜灯




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べらぼうの時代(6)

2025年05月25日 | ふることふみ(DADAjournal)

 話は田沼時代から二百年遡る。織田信長が近江国内で浅井家や六角家と戦った「元亀騒乱」で国人領主たちの多くが野に降ることとなる。天正元年(1573)、小谷城で浅井長政が自害。六角家家臣であった建部重武(建部城主か?)と田付景澄(南三ツ屋城主)は柳川村に隠棲した。

 本能寺の変が起こり、豊臣秀吉が天下統一を目指すと、戦は遠方に広がるが中央は安定し商人たちが活躍するようになる。建部重武の息子・七郎右衛門重元は武士として家を再興することから商人としての道を目指すようになり野菜の種子などを仕入れて北方を目指し蝦夷地の福山(松前)に到着する。ここで重元が訪ねた場所で蠣崎慶広と出会うことになる。
 蠣崎家は室町時代中期に若狭国(福井県西部)で権力争いに敗れた武田信広が東北を経て蝦夷地まで逃れ、この地を治めていた蠣崎季繁の養子となった家で、慶広は信広を始祖とする蠣崎家の五代目だった。近江と若狭は古い時代から交流があった(このために明治時代初期は近江国と若狭国を合わせて滋賀県だった時期もある)親近感と、室町幕府の重鎮でもあった六角家に城主として従っていた建部家の教養を重視した慶広は重元を相談役のように遇したのだった。余談ではあるが若狭武田家は本能寺の変ののちに武田元明が明智光秀に味方し山崎の戦のあとに元明が自害するまで若狭守護の家柄であり元明の正室・京極竜子(京極高次の妹)は淀の方と寵愛を争う秀吉の側室となる。

 蠣崎慶広の信頼を得た建部重元は柳川村に大宮神社を勧進し、同じように柳川村に隠棲していた田付景澄の子で重元より先に蝦夷地を目指した田付新助景豊を支援する。景豊は柳川湊と薩摩湊の商人たちを「両浜組」として組織し、のちに八幡商人もここに加わるようになる。田付景澄は三名人と呼ばれた砲術家でもあり、田付流砲術は景豊の兄・景治(四郎兵衛家)の家系が幕末まで続くがそれは別の話になる。

 天正18年(1580)秀吉は小田原攻めによって天下統一を実現する。同年9月、東北地方平定のために津軽に来ていた前田利家に慶広が面会。徳川家康にも仲介を願い12月29日には京・聚楽第において秀吉に拝謁した。最愛の側室の一人である竜子の遠縁とはいえ長い間蝦夷地から離れたことがなかった蠣崎家中に作法を指導したのが重元であり、これをきっかけに蠣崎家は他の大名家と同様の組織化もされた。2年後(文禄元年)には豊臣秀吉から蠣崎慶広に対し蝦夷地支配を認める朱印が与えられ、江戸幕府が開幕すると徳川家康から黒印も与えられた。そして蠣崎家は前田と松平(徳川家康)から一字ずつ貰い「松前」に改姓。松前慶広は松前藩領での近江商人を優遇し、建部七郎右衛門重元の後に続こうと蝦夷地を目指した者も多く出たのだった。

大宮神社(彦根市柳川町)
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べらぼうの時代(5)

2025年04月27日 | ふることふみ(DADAjournal)

 
 仙藩医の工藤平助が記した『赤蝦夷風説考』により、田沼意次は蝦夷地に目を向けるようになった。意次の意を受けた勘定奉行・松本秀持は蝦夷地に繋がりがある土山宗次郎を仲介として東秩東作(平賀源内の友)に蝦夷地を調べさせ平助の著作が正しいことが判明し前稿でも紹介した北方探索が本格的に始ますことになる。

 さて、その頃の蝦夷地は米が収穫できない地との認識があり、江戸時代初期に松前慶広が幕府から一万石格の大名として蝦夷地全域を松前藩領にすることを認められるという不思議な支配体制になっていたのである。このため、松前藩の収入は蝦夷地に住むアイヌ民族との交易とされていて、松前藩士たちは封地に変わって「商場(場所」と呼ばれるアイヌ民族との交易地を与えられていたのである。これを「場所請負制」と呼ぶ。ただしこれは日本側の勝手な解釈でありアイヌ民族からは他国の支配者が我が物顔でやってきて無法を行っているようにしか見えない。松前氏は室町時代中期に蝦夷地に渡った武田(蠣崎)信広の代からアイヌ民族と交易・支配・アイヌ民族の反乱・弾圧を繰り返してきた。結果的にアイヌ文化のなかに日本の文化や物資が入り込むことになる。アイヌ民族は自らの物資よりも優れた物が入ってくるとその物資の生産を止めてしまう。これが松前藩にも有利に作用することとなる。米を食べ、喫煙や飲酒の習慣も日本から持ち込まれたアイヌ民族は、積極的に交易を進めるようになった。江戸時代に入ってすぐの頃は、蝦夷地で生産された物の珍しさもあり松前藩を潤していたがやがて飽きられてしまい、遠方である蝦夷地からの品にかかる運送料で高価であったことも原因となり松前藩は財政危機を迎え、アイヌ民族との交易で補填させる押し付けが起こり、アイヌ民族はシャクシャインを中心に大規模な反乱を起こした。松前藩はこれを制したものの藩士が商場を運営する難しさも実感する。

 そもそも封建制度の社会では武士がお金を扱うことは不浄とされていて(実際に貨幣を触らないまま一生を終える武士もいた)、松前藩士たちはシャクシャインの乱をきっかけに徐々に商場の権利を商人たちに貸して運上金(賃料)を納めさせる方法が常態化していたのである。
 武士にとっては不毛とも言える地は、商人たちにとっては一定の賃料さえ払えば自由に交易できる場になったのである。そこで活躍するなかに近江商人たちの姿もあったのだった。

 近江商人たちは、琵琶湖の港から湖上で塩津港を経由し敦賀まで峠越えを行ったあと日本海を北上して蝦夷地まで行った(今津から小浜にでる道もある)。彦根藩領の近くでは両浜(柳川、薩摩、近江八幡)の港から蝦夷地まで往復している。これを「両浜商人」と呼び松前藩と深く結びついて行くのだが、その流れについては次稿に譲ることとする。

薩摩湊の一部だった神上沼
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べらぼうの時代(4)

2025年03月23日 | ふることふみ(DADAjournal)

 田沼意次が失脚直前に力を入れていた政策に蝦夷地開拓がある。蝦夷地と呼ばれた当時の北海道は松前藩が全土を監視していたが松前藩は開墾などを許さずアイヌの人々に無理を強いて非人道的な支配が行われていたとも言われている。仙台藩医・工藤平助はそんな蝦夷地の現状とその北にいるロシア人のことを『赤蝦夷風説考』という書物に記して田沼家用人・三浦庄司を通じて意次に進言した。意次はこれを読み勘定奉行・松本秀持に銘じて蝦夷地に向けて調査隊を派遣する。この調査隊は意次の失脚でその任を全うすることができなかったが、メンバーのなかでは一番身分が低かった最上徳内がのちに北方探索の最重要人物となる。徳内の活動は伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』作図や間宮林蔵による間宮海峡発見に繋がり幕末から現代にまで流れる北方問題の始まりが田沼時代なのである。

 さて、そんな蝦夷地調査のきっかけとなった工藤平助には綾子という娘がいた。綾子は16歳で仙台藩に仕え、21歳のときに仙台藩の詮子姫が井伊直幸の嫡男・直富へ輿入れしたことに付き従って彦根藩邸に出仕した。田沼意次は伊達家とも井伊家とも縁があったためこの婚姻にも政治的な背景を強く感じ次世代への布石であったとも考えられる。
 井伊直富は直幸と入れ違うように国許と江戸を行き来していて有能さを認められた人物でもある。直幸が大老となり江戸に留まると国許で藩政を取り仕切っていたが彦根で病に倒れてしまう。病はだんだん重篤化するため重臣たちが京から名医を呼ぼうとするが直富は「それでは彦根に良い医者がいないと誤解されることとなる」として許さなかった。江戸に移された直富は藩邸でも治癒することはなく、綾子の縁で工藤平助が呼ばれた。しかし平助が診察と調薬を行ってすぐに直富が亡くなってしまう。オランダ史料を研究している秦新二さんと竹之下誠一さんは「一橋治済が政敵やその関係者を暗殺していったのではないか?」との考えを示している。私もその意見に賛成していて犠牲者の中に井伊直富も含まれていたのではないだろうか? 直富は幻の彦根藩主とも言われその死は惜しまれている。

 直富の命を救えなかった医者の娘である責任から彦根藩を辞して26歳で実家に戻った綾子は35歳で仙台藩士只野行義の継室となり仙台へ移住した。のちに「只野真葛」と名乗ることとなり、江戸に住んでいた妹(萩尼・福井藩邸で老女格を務めた人物)を仲介として曲亭馬琴の門人となり文通を行っていた。馬琴より「古の紫清(紫式部と清少納言)二女に勝る才女」「男魂を持った老女(真葛は馬琴より4歳上)」とも称され江戸後期の女流文化人として名前を残すことになるのであるがその作品の多くは関東大震災で失われてしまった。抄録の写しが残る『独考』は儒教を疑問視した現代的な思考であり、焼失が残念である。

工藤平助の墓(江東区深川2丁目 心行寺)
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べらぼうの時代(2)

2025年01月26日 | ふることふみ(DADAjournal)

 田沼時代に彦根藩主であった井伊直幸は直弼の祖父となる人物であるが彦根藩主になるまでに大きな障害があった。
直幸の父・直惟は江戸時代を通して唯一二度の大老職を務めた井伊直興(直該)の子として生まれるが兄弟が多く彦根藩主に就く可能性は少なかった。しかし直興隠居後に彦根藩主を継いだ直通と直恒が次々と亡くなり直惟が彦根藩主になったのです。徳川家重の加冠役を務めますが病弱を理由に弟・直定に家督を譲って隠居しすぐに病没、直定は直惟の子である直禔が成長するまで待ち藩主の座を譲るが直禔は在任60日で亡くなってしまい直定が再び彦根藩主の責務を負うこととなった。

 井伊直幸は直惟の子であり直禔の弟でるため再任した直定の次に彦根藩主を任されるのは自分であると自負するようになっていたはずである。しかし直定は宇和島藩伊達家から伊達伊織を養子に迎えて井伊家を継がそうとした。直幸はこれに反発、そして幕府からも直幸に家督を継がせるように命が下り直幸は彦根藩主となった。直幸が彦根藩主になったのは宝暦5年(1755)であり、直幸と深い関わりを持つこととなる田沼意次が台頭するのは3年後である。こののち両者は与板藩井伊家を仲介として閨閥関係を築いてゆき、与板藩主であり意次の次女を正室に迎えていた井伊直朗は若年寄にまで出世している。歴史に「もし」は禁句であるが、もし田沼意次が失脚していなければ与板藩は加増され、直朗は老中になっていた可能性は高い。
 早い段階で田沼派に組み込まれていた直幸だったが、意次は早くから井伊家の権力を利用しようとはせず、直幸自身も彦根藩領での治政を行っていた。特に井伊家一門への教育に対して力を入れていて、世継ぎ以外の子弟たちにも教育が行き渡るように控屋敷の役割を改善している。この成果が井伊直弼を育てる一翼にもなったのだ。また直幸の嫡男であった直富は直幸が江戸に参勤しているときに国許をよく治めていた。直富の話はのちに譲りたいと思うが田沼時代の彦根藩では井伊直幸と直富父子による藩政改革が確実に進んでいた。それは幕府内において田沼意次と意知父子が幕政改革を進めていた形とよく似ている。

 田沼時代のキーパーソンは田沼意知である。意次の嫡男として期待され若年寄に就任したが、反田沼派の陰謀により江戸城内で暗殺された。その死から半年後に井伊直幸は大老になる。大老の意見は将軍すら変えることができないという絶対権力でありながら井伊直該から70年近く大老に就く者はいなかった。田沼政権もこの権力は欲していなかったが、意知という政治の担い手が暗殺されたため意次は井伊家の大老としての権力に縋ったのである。この結果、直幸は意次の傀儡と目されのちの歴史家から「江戸時代に唯一必要がなかった大老」や「田沼意次に利用された大老」との評価を受けることとなる。

井伊直幸の墓(世田谷区豪徳寺 2007年撮影)

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べらぼうの時代(1)

2024年12月22日 | ふることふみ(DADAjournal)
 2025年大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の主人公は蔦屋重三郎である。この名前を聞いてどんな人物であるのかをすぐに答えられる方は少ないのではないだろうか? しかし名前は知らなくても彼が日本史に残したものは私たちの記憶に刻みつけられている。それは私たちが想像する江戸文化にぴったり符号するからである。  蔦屋重三郎をひと言で表すならば版元。江戸時代の出版社であるが、当時の版元は文化人の発掘からプロデュース、印刷、販売の全てを行なっていた。重三郎も「耕書堂」という屋号でこの全てを行なっており、重三郎が育てた文化人は浮世絵師では喜多川歌麿・東洲斎写楽・葛飾北斎など、作家では山東京伝・十返舎一九・曲亭馬琴などが挙げられる。この名前を見るだけでもその活躍が描かれるドラマには期待が膨らむのではないだろうか。  これほどの前置きを書きながら、湖東湖北の歴史をメインに紹介している本稿では直接蔦屋重三郎に関わることができない。窮余の策として重三郎が活躍した「田沼時代」から「寛政の改革」の頃を記して行きたいと考えている。身勝手な発言であるが、私(古楽)が長年興味を持ち続けた分野が田沼時代であるため話が飛躍してしまう可能性が否めないのはお許しいただきたい。  さて、歴史上でも珍しい個人名に「時代」が付く「田沼時代」とはどのように考えれば良いのであろうか? 簡単に言えば「田沼意次が実権を握っていた時代」となるが意次自身は江戸幕府の組織に組み込まれた老中のひとりであり、しかも老中首座に登ってはいない。つまり独裁者として幕府を動かしたのではないのだ。では田沼意次はどのようにして幕政を動かしていたのかと言えば、将軍の信頼と有力大名との閨閥関係の構築である。 前者について、意次の父・田沼意行が下級藩士でありながら徳川吉宗に認められ吉宗が紀州藩主から江戸幕府八代将軍へと立場を変えたときに紀州藩から連れて行った家臣であり、のちに吉宗自ら意次を九代将軍となる家重の小姓に抜擢した。意次自身も家重によく仕え家重が亡くなるときに十代将軍家治に対して「主殿(主殿頭・意次の官位)は、またうどの者(全との人・有能な者の意)なり、行々こころを添えて召仕はるべし」と遺言したとの逸話が残っている。家治はこの遺言を守り、意次を重用し続け老中職を任せることになったのだ。 後者について、身分の低い家から立身出世を遂げた者に周囲が冷たいため、意次は自分の子ども達を有力大名と縁付かせてゆく。嫡男田沼意知の正室は田沼時代を通して老中首座であった松平康福の娘を迎えている。また他の息子たちも大名家へ養子に出した。そして意次の次女(宝池院)は与板藩主井伊直朗に嫁ぎ、直朗は彦根藩主井伊直幸の八男・直広を婿養子に迎えていたため、田沼意次と井伊家にも閨閥として繋がりが出来ていたのだ。
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揺れる近江(9)

2024年11月24日 | ふることふみ(DADAjournal)

 日本史において、政治的に大きな転換期は鎌倉幕府成立、明治維新、終戦であると考えている。その理由は主権の身分が変わることである。神話から始まった日本は大王、天皇、公家との流れを経て平安時代に到った。平清盛も武士でありながら自らの一族を公家にすることで政権を維持している。しかし治承・寿永の乱(源平合戦)で勝利した源頼朝が鎌倉幕府を開幕することで公家から武家へと主権が動いた。

 元暦2年3月24日(1185年4月25日)、壇ノ浦の戦いで平家滅亡。三か月半後の7月9日午刻(8月13日正午)に京都を大地震が襲った。震源地は琵琶湖西岸断層と推測されM7クラスの揺れだった。京都では法勝寺の九重塔崩壊(日本史上で寺社の木塔が地震で倒れた例は二件しかない)などの被害が記録されている。8月14日に地震対策のために「文治」と改元され「文治京都地震」と呼ばれることとなるが、余震は九月末まで連日続く。
 鴨長明は『方丈記』で文治京都地震のことを「山はくづれて、河を埋み、海は傾きて、陸地をひたせり(中略)都のほとりには、在在所所、堂舎塔廟、一つとして全からず」と書きそして「驚くほどの地震、二三十度震らぬ日はなし。十日廿日すぎしかば、やうやう間遠になりて」と残している。『平家物語』には被害が記されたあとに「たゞかなしかりけるは大地震也。鳥にあらざれば、空をもかけりがたく、竜にあらざれば、雲にも又のぼりがたし」と鳥や竜ではないので空に逃げることができないために恐怖から逃れられないとの比喩を記されている。また地震前の7月3日に壇ノ浦で亡くなった安徳天皇や平家を慰霊するための一堂が長門国(山口県)に建立されることが決定していた矢先の大地震であったため平家の怨霊が原因であるとも思われるようになった。

 当時の公家が「琵琶湖の水が北に流れてしまい、しばらくしてから元に戻った」との噂があったと記録されていて、2011年に塩津港遺跡の発掘調査から琵琶湖北岸に津波が襲った跡が発見される。同年は東日本大地震発災の年でもあり大地震と津波が注目され大きな話題となった。この発掘では塩津神社が現在の位置より西に約500メートルの湖添いに建っていたことがわかり、津波に飲み込まれたと考えられる神像も出土している。現在の塩津神社は明治時代の記録を見ると湖から舟に乗ったまま参拝できたようなので平安時代も同じ形式であったかもしれない。そうであるならば文治京都地震前に塩津神社を参拝した紫式部の参拝方法にも興味が沸いてくる。
話は横道に逸れてしまったが、文治京都地震は琵琶湖でも大津波が発生する史実を私たちへの警告として伝えてくれている。鴨長明は「月日かさなり、年経にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし」と、月日が経つと大地震があったことを誰も言わなくなったことを嘆いているのである。今の私たちは長明に笑われないであろうか?

現在の塩津神社
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揺れる近江(8)

2024年10月27日 | ふることふみ(DADAjournal)

 平安時代といえば、貴族や女御たちが優雅に文化を謳歌した平和な時代という印象がある。もちろんそれは間違いではないが、9世紀から12世紀まで約四400年間を同じ生活スタイルで過ごした訳でもない。応徳3年(1086)、藤原道長が望月の歌を詠み藤原北家の繁栄の頂点を極めてから68年が過ぎた頃、東北地方では後三年の役で武士たちが戦うことで土地を支配する社会を構築しつつあり、朝廷では白河上皇が堀河天皇を後見する「院政」を行うことで、藤原北家を中心とした貴族の政治に翳りが見え始める。

 そして、地震活動も活発になる。寛治6年(1092)に越後で大津波を伴う地震発生(余談ではあるがこの年に井伊家初代・井伊共保が亡くなっている)。4年後の嘉保3年11月24日辰刻(1096年12月17日午前8時頃)東海地方を中心に畿内も揺れた。揺れは大きなもので六回、一時間以上続く。地震発生後、伊勢国から駿河国に渡る太平洋沿岸で大津波が発生し伊勢国湾岸を大津波が襲う。駿河国でも寺社、官庁、民家などの建物が400余流されたと記録されている。京都では内裏の大極殿の柱がずれ、応天門の西楼傾いた。他にも東寺、奈良の東大寺や薬師寺・興福寺などに被害が出た。また交通の要所である瀬田の唐橋が両岸の一部を残して倒壊した。被害者は一万人を越えたと伝わっていて被災地の範囲から南海トラフではないか?と考えられている。 
 堀河天皇は地震の一か月後に「永長」と改元したため「永長地震」呼ばれているが、改元だけでは天変地異は抑えられないようで、こののちには「永長」から約百年後の「建久」まで36回の改元が行われることとなる。改元原因のすべてが天変地異によるのではないが、施政者たちが世の乱れを元号へ責任転嫁した結果である。 

 さて永長地震から2年後の承徳3年1月24日卯刻(1099年2月22日午前6時頃)畿内は再び激しく揺れた。地震と疫病により「康和」と改元され後世に「康和地震」と呼ばれる揺れは、大和国で興福寺の大門・回廊が倒壊し、京都でも大地震であった記録が残っているが永長地震のような強い揺れが長い時間複数回起った様子は見られない。
 一説として康和地震は永長地震の余震として発生した大和国が震源の内陸地震と考えられていた。しかし近年になって被害の日付が約一年ずれている古文書(康和二年一月□四日)が発見され土佐国を大津波が襲ったことが記されていた。これが真実とするならば近畿地方を震源とした内陸地震で土佐国を津波が襲う可能性はなく、康和地震はマグニチュード八クラスの南海トラフ地震であった可能性も出てくる。こう考えるならば、南海トラフ地震は一度発生したあとでも同規模の余震や本震が数年単位で続けて起る可能性も示しているのである。


瀬田の唐橋
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