彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

関東大震災から百年(前編)

2023年08月27日 | ふることふみ(DADAjournal)
 大正12年(1923)9月1日、関東地方は大きく揺れた。令和5年は「関東大震災」からちょうど100年となる。これを契機に近江をメインとして日本災害史を見直してみたいと思う。

 まずは関東大震災について考えたい。震源地神奈川県相模湾北西沖80キロメートル(小田原付近)、M(マグニチュード)7・9と記録されているが、阪神淡路大震災のような都市直下型地震でもなく、M9・0を記録した東日本大地震の規模でもない。しかし死者行方不明者10万5千人以上、建物全壊11万戸弱、焼失21万戸以上とされ関東大震災は日本自然災害史上最大の被害者を出した悲劇となった。
 もちろんM7・9という規模は単発でも大きいが、小田原付近での本震発生から十数秒後には三浦半島でもM7クラスの余震が発生。関東大震災は強く縦揺れに突き上げたあと激しい横揺れが続き、そののちも同クラスの余震が起こっている。この強い揺れを現在の渋谷区で経験した牧野富太郎は自然を学ぶ者として「驚くよりも心ゆくまで味わった」と後に回顧しているが、もし富太郎が若い頃に住んでいた飯田橋辺りに居たならばそのような能天気ではいられなかっただろう。

 本震が発生したのは9月1日午前11時58分32秒、多くの人が昼食のために竈や七輪などで火を使っていた。また一説によると工場や医療機関で使用される薬品の落下による発火もあったらしい。そしてこの日の朝は石川県沖に台風があり北東に進んでいたため関東地方は風速10メートルの強風にも晒されていたのである。正午前の気が緩む時間にいきなり強い縦揺れから始まる地震に襲われ横に何度も揺れる。浅草では十二層建物であった凌雲閣の八階部分が折れた、当時最新の建物ですら倒壊するならば庶民宅が無事で済むはずがなく次々と瓦礫と化したのである。
 瓦礫のあちらこちらで昼食と薬品が原因となる火事が起こり台風接近によってもたらされた強風によって大火となったのだった。

 さて、この頃の井伊家当主は直弼の孫井伊直忠である。能楽書収集家として知られていた直忠は東京市麹町区(東京都千代田区)一番町に約三千坪の屋敷を構えていた。明治時代後期に刊行されていた『新撰東京名所図会』には伯爵井伊直憲邸として「有名なる邸第にて、家屋の壮麗なるは区内稀に見る所なり」と紹介されている。直忠は井伊家に伝来する品々の中で自らの眼鏡に適う至宝の数々を彦根から東京に運ばせ屋敷に置いていたが、関東大震災が発生し多くの物が火事に巻き込まれてしまう。その中で必死になって守り抜いた物が国宝『紙本金地著色風俗図(彦根屏風)』などの数点だった。他の名家でも多少の差はあるものの東京には至宝が集まっていて震災と共に永遠に失われたと考えるならば、彦根屏風がこの世に残ったことは日本美術史における奇跡とも言えるかもしれない。


関東大震災などの霊堂・東京都慰霊堂(東京都墨田区)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする